35 MATURI
灯籠に火が灯された。
境内には提灯の灯りがずらりと下げられた。いつきたちが出かけてから設営され、田中や陽介も少し手伝った舞台のぐるりも、美しい灯明で飾られている。
どこからやって来たのか、たくさんの客が参拝に訪れた。
この山にこれほどの人間が住んでいるとは思わなかった。
もっとも、おそらく、祭だから故郷の山に戻ってきた、という人々もいるのだろう。普段は山の梺だとか、月島のようにドームに住んだりだとかで。
手伝いにきてくれていたおばさんが、きれいに化粧して、参拝客一人一人にお菓子を配っている。客はみなうやうやしくおしいただいた。子供のような、無邪気な笑がこぼれることもあった。
江面や坂下の兄弟が、雅びやかな格好で、不思議な和音の古い楽器を奏でている。
これまたどこから呼んだのか、いろいろな小さな店も並んで開店していた。テキヤさんてこんな山奥までくるのかと少々驚いて、日が暮れるまえに田中に尋ねると、「あれはもっとワールドワイドにいろんなフィールドのお祭りをキャラバンで渡り歩いている専門職の人たちなんだよ。こんな山奥でなければ、もっと遊具とか、大規模な装置も持って来てくれるんだけど。観覧車とかね。世界中をまわっているんだ。フェスティバルキャラバンていうんだよ。一応少しだけど、神社に地代をいれていってくれるんだ。」と教えてくれた。
参拝客の多くは、お参りのあと、店のものを買ったり、飲食したりで時間を待っているようだ。
「…で。なんで俺は化粧してこんな格好させられてこんなところに飾られてるんだ。」
「しーっ。喋っちゃ駄目って言ったでしょ。男だってバレたらさらわれるわよ。」
陽介は藍の手できれいに化粧され、長い髪のカツラと、舞いの衣装を着つけられて、ひな壇に座らされていた。
いつきの代理である。
「…恨むならいつきを恨むのね。あのこが帰ってこないんだもの、仕方ないでしょ。カレシなら責任とりなさいよ。」
「俺カレシじゃないから。」
「でも似合うわよ。きれいじゃない。いつきより美人よ。」
「…そうかな?」
「…あたしが男だったらホレるわね。もうすぐ直人叔父も来るわよ。きっと直人叔父もホレなおすわよ。」
きれいと言われて陽介はちょっと黙った。藍はにこにこして、そっと帯に挟んであった鏡を出して、みせてくれた。
「ほうら見てごらん、かわいいでしょ。」
「…かわいいかな。」
「かわいいわよ~。はい、これ貸してあげる。いくら見てもいいけど、みんなにばれないように見てね。」
丁度良いタイミングで、ひな壇の前を通り過ぎた浴衣の客が「ほー、今年はよそのもんが手伝いで舞うときいたが、なんとも、きれいなむすめさんだのーーううう」「ユウちゃんがエリアからつれてきたのかのおおお…やっぱりエリアもんはきれいだのーーー」などと言ったのが聞こえた。
陽介は袖に鏡を半ばかくすようにして、そっと盗み見た。
(そんなにきれいか?)
…我ながら美しい気がした。
(たしかにいつきよりきれいかもしれん…!)
いや、むしろ、夢のようにきれいといっていいくらいだ。
藍はくすっと笑うと、
「じゃ、わたしはもう下りるわね。じきにユウが来るから。…おとなしくしててね。喋っちゃ駄目よ。けんかになるから。無視してね。」
「おい待て、俺はいつまでここに座ってりゃいいんだ。」
「童子舞いが終わったらユウが退場するから、そのとき一緒に。…安心なさい。娘舞は明日よ。」
藍がそういってひな壇をおりていった。陽介がふと目をあげると、ちょうど向うのほうにいた田中と目が合った。田中はこらえきれずにプッと笑って、「キレイ、キレイ」と指をさして、口だけ動かした。陽介は内心クッソ-と思ったが、すましがおで黙っていた。
しばらくすると、ユウが同じ格好の色違いの衣装をつけてやってきた。誰もいないと思っていたのだろう、陽介の姿をみて吃驚した様子だった。
…しかもだれなのかわからないようだった。
陽介は藍のアドバイス通り、無視で通すことに決めた。
痛いほどユウの視線を感じたが、陽介は目を合わせないように明後日の方向を向いて、つんとすまして座っていた。
境内は日が暮れてすっかり暗くなり、舞台にはかがり火が焚かれた。
藍が向うのほうで子供達の衣装をなおしてやっている。
子供達は白塗りして、かわいい牛若丸みたいな衣装をつけていた。
扇子を持っている子、大きな鈴を持っている子…。
陽介は何かを思い出しかけた…そうだ、あの鈴、意外と物凄い音で、耳もとで鳴ると、下手すると気を失う…
と、そこへ、暗闇から月島がふっと現れた。
藍が、あら、などといっているらしいのが見えた。
何か励ましの挨拶などを交わしているようすだった。
ぼんやり見ていると、藍が笑いながら月島に、おじさん、あっち、などと言っている。月島がこっちを向いた。
(…あっ…見てる。)
月島は眉をひそめて、藍に何か言った。
藍はホホホと笑っている。
(…あいつ…多分今、『あーら、でもようちゃんはキレイって言ったら喜んでたわよ』かなんか言ったな…クッソ-…)
とは思いつつも、月島があまり喜んでくれなかったので、少し寂しかった。
ちょっとがっかりしていると、どこをどう通ったのか、月島が背後に現れた。
「…ユウちゃん、大丈夫か。気絶してたってきいたぞ。」
段の裏から小声で尋ねる。
ユウが言った。
「…ああ、それは大丈夫。…ただ、…おかしいの。」
「何が。」
「…なんていえばいいのか…ドアのむこうに長い廊下ができたみたいな…。遠いのよ。」
「…とりあえず、退場するまで倒れるなよ。」
「それは大丈夫。」
月島は陽介のほうを向いた。
「…帯とか、きつくないか?」
陽介はゆっくり振り向いて(カツラがずれると困るので)、ちょっとだけうなづいた。
「なにもこんなかっこさせなくてもいいだろうになあ。」
陽介はまたこくりとうなづいた。
「…まあ、でも、いいか。…きれいだし。」
あっ、キレイだって、うれしー、と陽介はにっこりした。
「…君もたおれないでくれよ。着物を着慣れていても、その衣装はけっこうきついから。じゃ頼むよ。」
陽介はこくこくうなづいた。
「…直人さん、この子、誰なの?」
ユウは不服そうに聞いた。
立ち去りかけていた月島は立ち止まり、少し軽蔑したような顔でユウを見た。
「ユウちゃん、いい加減にしなさい。いくつになったんだ。」
それだけ言うと、また立ち去ろうとした。ユウは言い募った。
「ごまかさないでよ。」
すると、月島は嫌そうな顏で言った。
「その子はようちゃんだよ。知ってるだろ。」
…爆弾発言を平気でする人物だ、と陽介は思った。
月島は言い逃げで、不機嫌そうに立ち去った。
ひな壇のユウと陽介の間には、もやもやした空気が流れた。
「…くそじじい…」
ユウが目をそらして呟いたので、陽介も目をそらして、また向こうを向いた。
+++
音楽が一度途切れると、周囲の灯りがおちて、舞台だけが薄明るくなった。客はのどかにざわめきながら舞台を囲んだ。
やがて、舞台にきれいに衣装をつけた子供が3人でてきて、並んで立った。
静かに音楽がはじまった。
陽介は驚いたのだが、音楽には拍子が一切ない。慎二の兄が、太鼓の代わりに簫を演奏しているのだ。
けれども子供達はあたりまえのように、拍子をうって練習したときのとおり、揃って丁寧に舞った。
ただでさえ緊張で表情が乏しくなっているのだが、白塗りしているせいか、まったく人形のように無表情だ。
簫の独特の和音が、脳の裏をひっかくかのように感じられた。
なにやら現実感覚が遠ざかって行く。
隣にいるユウの、子供達の舞いを検分するまなざしの鋭さが、金属音を伴っているのように感じられた。
少しの間陽介はぼんやりしていた。
そして拍手がおこって唐突に気がついた。
子供達の舞が終わっていた。
ユウが隣でほーっとため息をもらした。
多分、上手くいったのだろう。
ユウがこちらを向いた。
「…子供たちが下りたら、わたしたちもおりるのよ。」
陽介はうなづいた。
「…大丈夫?帯がきついんじゃない?…目が虚ろになってるわよ。階段から落ちないでよね。」
ユウは冷たく言って、つんと向こうを向いた。
子供達が舞台からおりると、再びあかりが戻った。
ユウは立ち上がり、裏側の階段を下りた。
陽介も立ち上がり、後を追おうとした。
そのとき、唐突に閃光がひらめいた。
「え、何?」
ユウが言い終わらないうちに、大気を裂いて豪音が鳴り響いた。
子供の悲鳴が聞こえた。
何がなんだかわからなかったが、ユウが駆け出そうとして、階段から落ちた。陽介は驚いて言った。
「おい! 大丈夫か!?」
ぼたぼたと何か落ちて来たかと思うと、たちまち滝のような大雨となった。
階段の下で、ユウが呻いている。
陽介は注意してたちあがったが、雨でみるみる衣装やかつらが重くなってゆく。バランスがまったくとれない。このまま階段へ行ったら、まちがいなくユウの上に落ちる。陽介はくるっと方向転換して、舞台のほうへ向きなおった。
「おい! だれか! …ユウが落ちた!!」
雨を逃れようとする大騒ぎの中で田中だけが気付いて、走って来た。
「田中さん、ユウが裏に落ちた!」
「わかった! 君は動くんじゃない、今、月島さんも来るから。」
田中は裏にまわって、ユウを助け起こした。
「ユウさん、大丈夫ですか。」
「…いたたた…足が…」
「ひねったの?」
「ひねったところにぐしゃっとこけてのっかっちゃって…それよりきぃこは?!」
「子供は大丈夫。雷に驚いただけだよ。…足、みせて。」
陽介が見下ろす下で、田中はユウのあしをのばしてやり、少し袴をめくった。そしてくるぶしをとんとんと指でかるく叩いた。
「痛いッ!!!」
ユウが濁った声を立てた。
「…折れたな。ごきって音してたでしょ。」
「…」
ユウは答えなかった。
陽介は見ないように、数歩さがった。
…絶対に泣けてくるはずだと思った。気が強ければ強いほど、今は泣くはずだと思った。
気の強い女の子の悔し泣きは、陽介にとってはひどくいたたまれないものの一つなのだった。
「おい、大丈夫か?!」
月島が駆け付けた。
田中がふりあおいだ。
「…足やっちゃったみたいです。…月島さん、…上、おろしてやってください。あの衣装があの重さになったら、間違いなく階段から転げ落ちますから。」
月島が陽介を見上げた。
口を結んで、ただ黙っている。
つぎつぎとうちかかってくる大粒の雨に、少しだけ目を細める。
陽介は月島のそんな顔を見下ろして、うなづいた。
(…どっちも俺の女じゃないけどな。)
(でもいいよ)
(俺が助けてやるのは、あんたなんだからな。)
(覚えとけよな)
そう思って、少し月島に笑いかけた。
月島は手をのばした。陽介はその手を頼りに、ひな壇から下りた。陽介を抱きかかえるように支えながら、月島は耳もとに、小声で言った。
「…すまない。ありがとう。」
陽介は返事のかわりに、ちょっと額を、月島の腕に押し付けた。
+++
「アホんだら!!」
おばちゃんに怒鳴り付けられて、バスタオルにくるまったユウはぎゃあぎゃあ泣きながら、畳の床をどかどかと殴りつけた。
たまたま祭に医者もきていて、「おれてますねー」の一言だった。
田中の助けを借りて、医者はユウの足に木をしばりつけて、固定した。
「はいはい、泣かない、泣かない! …雨が上がり次第、ドームに運んだほうがいいね。ドームで治療受けられる医療保険入ってるよね?」
「入っております…。」
「じゃ、治療ビザがおりますよ。うちの病院でみてあげますからね、安心して下さい、おばあちゃん。」
「ぎゃーーーーー!!!」
「泣くな!!」
「…僕も駅伝の本番の前日に、疲労骨折したことがある。…少し、そっとしておいてあげましょう。」
田中が言うと、大人達は同意して、泣き叫んで暴れるユウを部屋に独り残し、部屋を出た。
医者が言った。
「…しかし、はじめてだねえ、こんなこと…。縁起がわるいよ、水守さん。…水の御加護が急になくなったみたいだ。この山では有り得ないことだよ。まああんたは2代目だからしらんかもしれないけどねえ。」
「…」
田中は話を変えた。
「藍さん大丈夫ですかね…おなか。冷えるといけないんじゃ。」
「藍は母親がきておりますから、ぬかりないでしょう。ええ、あの子に限ってそれはございません。…それよりぼっちゃんはどうなさいましたか。」
「ああ、月島さんが着替えさせてるとおもいます。…衣装も干さないと。」
「…さようですな。月島さんに任せましょう。…実は氏子さんたちを奥の部屋に緊急避難させましたら、何人も怪我をしておりましての。」
「怪我?どうして。雨が降っただけでしょうに。」
「それがみなおかしなことを申されておりましての。」
「なんて…?」
「…流木が当たったというのです。」
「…流木?」
田中も医者も眉をひそめた。
「この山中で、流木?」
医者が言った。
「とりあえず、傷をみましょう。」
「さようですか。もうしわけありませんなあ。…では田中センセ、よろしくおねがいいたします。」
頼子は田中に深々と頭を下げると、医者を伴って奥の部屋へ向った。
田中は眉をひそめてたちどまったまま、腕を組んだ。
少し考え込んでいた田中だったが、やがて顔を上げて歩き出した。
すると、どうしたことか、誰かが後ろをついてくる。
廊下には医者と頼子と田中しかいなかったはずだ。誰かが近くの部屋からでてきた気配もなかった。
けれども、背後でかすかな衣擦れの音がするのだった。
それも、絹独特の、シュッ、シュッ、というような音だった。
田中は気付かないふりでそのままペースを保って歩いた。
気配はついてくる。
いくら歩いても廊下が終わらない。
田中はまずいな、と思ったが、気取られないようにそのまま歩き続けた。
すると、突然、それが女の声で喋った。
「のう、男の子が、いたであろ?」
田中は無視して歩き続けた。
「きれいな男の子が、いたであろ?」
田中はさらに無視し続けた。
「髪のながい男の子、紅をさした男の子がいたであろ?」
それは、田中の濡れた着物の袖をひっぱった。
「のう、静、みたであろ。かわいい子じゃったのう。おまえにやろか。おまえ、独りでさびしいじゃろ。誰かそばにいてほしいじゃろ。のう、あのこをとって、おまえにやろか?おまえはよくやってくれるゆえ、わらわが褒美をとらせようぞ。」
田中は聞こえないふりをした。
ふと、襖にうつる影が目に入った。
田中は息が止まった。
…大きな蛇の影が、田中の影の袖のあたりをちろ、ちろ、と舐めている。
田中は勇気を奮った。
(静さん)
(助けて下さい)
息を吐く。
そして吸った。
「…いらない。錦の鯉は、泳がせてこそ。手にとってはいけない。」
「…やせ我慢するでないぞ静。そうじゃ、わらわが、そなたのために、小さなうみをつくってやろうぞ。そこへ泳がせればよいではないか。いつでも眺めて愛でられる。…そのかわり…」
きたな、と思った。
「…魚を手にとってはいけない。人の体温に、火傷してしまうから。」
「…もはやわれらに体温などないではないか。静よ。」
そのもの悲しい口調は田中の胸を締め付けた。
だが、ここで譲るわけにはいかなかった。
「…のう静、そなた、以前にも、そのようにかたくなになったことがあったのう。」
「…」いつだ、と田中は思った。
「…少し前よの。…のう、あの子、人の子は育つが早いゆえ、あの子、あの子であろ。静。わらわはわかっておるぞ。今度は騙されぬ。あの子は、声がわりしておったぞ。のう静。わかっておるぞ。そなた、本当はあの子がほしいであろ?づっと会いたがっていたではないか。わらわは知っておるぞ。今度こそ、ちゃんとあわせてやろうほどに。美しい子になったぞえ。見たいであろ。」
田中は戦慄を禁じ得なかった。
あのおぼっちゃまは、静が命がけで逃がしたトラの穴に、まんまと舞い戻って来た愚か者だったのだ!
(正直てめーいっぺん死にやがれ、だな)
(…とはいえ…)
田中は言った。
「…見たくない。」
「…強情よのう。…あの子はそなたを好いておったに。ずっとそばにいてくれようぞ。ずっとずっと、裏切らずに、そばにいてくれようぞ。そなたを捨てて逃げた妻とはちがうぞえ。そなたを化け物よばわりする娘とも違うぞえ。そなたを理解し、受け入れ、こころから信じて、ただそっとよりそってくれるぞえ。」
田中は聞いているうちに、突然怒りがわいて、胸を焼かれたような心地になった。
「いい加減にしろ!!」
後先考えず、振り返った。
そこには、豪奢な着物をきた、美しい女のようなものが立っていた。
「いらないといってるんだ! 静さんはそんなものいらない! 僕がそばにいたじゃないか! いつも、いつも…!! 静さん…あんな…あんなものほっとけばよかったんだ!! 山育ちで顔洗うのだって怖かったくせに!! あんなものとろうとするから…とろうとするから!! とれるわけないじゃないか! 時間だって狂ってたのに!!」
涙がどっと込み上げた。
「お前が引いたんだろう!! 静さんを騙し討ちにしたのはお前なんだろう!! お前は静さんがほしかったんだろう!! あんなところに都合よく破片がおちてたまるか!!おまえがやったんだ!! おまえが見せて、だまして、拾わせたんだ!!」
叫びながら自分が何を言っているのかだんだんわからなくなってきた。
「お前はあの娘の中に巣食っているんだからな! 僕は知ってるんだぞ!!」
「…そなたは何者か。」
おんなのようなものは田中の顔を見て、低い声で言った。
「…たばかりおったな。」
「…そちらが勝手に間違えたんだろう。」
「わらわに無実の罪をきせおったな。許されぬぞ。」
「僕の静さんにいやらしく言い寄るな!!」
「よう言った。」
「静さんをなんと言って騙したんだ!!これ以上何をさせる気なんだ!」
「不遜である。」
おんなのようなものはそう言うなり、田中をドン、と突き飛ばした。
田中はおそろしい勢いで後ろにふっとび、ぐるぐると転がって、どこかに落ちた。
+++
雷雨は夜通し続き、翌朝になっても晴れ間はなかった。
「…童子舞いに手抜かりがあって主さまの怒りをかった」
「…童子舞いをしこんだユウも足をおったらしい」
下山できずに神社で夜明かしした氏子たちの間で、そんな話がまことしやかに囁かれた。
「おばあちゃん、どうしましょう、お米が全然足りません。」
「小麦がありますよ。いつきの保護者の方ががたんと送ってくれた。部屋いっぱいにありますから大丈夫ですよ。おやきやお饅頭をたくさんつくりましょうね。」
「…おばあちゃん、役所から電話があって、沢の橋が流れてないか、見て来てほしいと…。」
「…坂下さんに電話に出てもらってください。」
「おばあちゃん、」
「おばあちゃん…」
普通の人間ならとっくにオーバーヒートするところだが、頼子はまったく疲労の色も見せず、淡々としていた。
目を泣き腫らしたユウが足を引きずって台所に来た時も、
「…おまえ、小麦粉こねるくらいできるだろうが」
と言って平気でボウルを押し付けた。ユウは黙って板床に座り込み、小麦粉をこねた。
「そうじゃ、田中センセイ見なんだか?」
「見ん。」
ユウはふくれっつらで答え、それから逆に問い返した。
「…いつきたちは。」
頼子は首をふった。
「もどっておらんよ。」
ユウはため息をついた。
「…ばあ、どうよう、舞い…あたし、いつきの背中、あんなに責めたのに…あたしの足、こんなことになって」
「だから人のあやまちをそんなに責めるもんでないとちいつも言っておろうに。」
「…まさかこんなことになるなんて…。どうしよう…。」
「まあいずれにしろこの雨じゃ、舞台には上がれんさ。」
「…そうだね…。皮肉にも、不幸中の幸いだったかも…。」
どこか近くに雷がおちたらしく、轟音とともに、屋敷が揺れた。
「…翠さん、怒ってるね…。」
「…そうだの。カミさんは一度怒ると、おさまるのに時間がかかるさなあ。」
「…ばあ、どうしようか、いつきたちのこと…」
「…まあ最悪、ぼっちゃんに死んでもらえばええよ。証拠隠滅。」
「そういう冗談よしてよ。直人叔父をけしかけるわよ。」
「おおこわい。…まあ、いつきたちのことは心配いらん。」
「どうして。」
「…田中さんを迎えに行かせたから。」
「役に立つの?あのおっさん。」
「足の折れとるおまえよりゃましだぁよ。それに、舞いも、心配せんでいい。」
「…」
ユウは上目遣いに目をあげた。
「…やっぱり…あれはあたしの勘違いじゃなかったのね。…ようちゃんが来てるのね?あたしの代わりにようちゃんがやるのね?」
「勘違いなもんかい、おまえが見ようとせんかっただけだろう。月島さんと藍で役に立つように鞭ふるっとったわ、可哀相に、ようちゃんふらふらだよ。でも仕上がっとるとさ。ほんとはいつきの代わりに出そうとしてたんだよ。」
「どこからつれてきたのよ、あんな子、今更…」
「おまえはアホか。」
「どういう意味よ!」
頼子はそれ以上もう答えなかった。
「…憎たらしい。あんなにきれいになって。あたしに挨拶もしないのよ。ひどいわ。」
ユウはぶつぶつ文句をいいながら、小麦粉をこねた。
「これ、文句垂れて飯つくるな。まずくなる。」
ユウは思いっきり頼子に舌を出した。
それからふと思い出したように言った。
「あっ、そういえば、あの役に立たない久鹿のボンはどうしてるの?いくらなんだって水汲みくらいできるでしょ。よびつけて働かせりゃいいのよ。こんなときくらい。」
「…おまえは。」
頼子はあきれて言った。
+++
「へーっくしょいっ!!」
「…風邪ひいた?」
「いや、きっと誰かが噂してるんですよ。」
「ならいいが。」
月島は仮眠明けの目をこすりながら、メールを打っていた。
「…そうか、ここは電話回線があるから、有線ならメール送れるんだ…」
陽介は布団からごろごろ転がって月島のそばまでいったが、月島はそこで送信ボタンを押してしまった。
「うん、そう。ただし、こう雷がひどいと届くかどうかわかんないけどね。ちょうどいいとこで回線おちたりして。」
「…欠勤届けですか。」
「そう。峠で立ち往生ですとかいといた。…さて、衣装乾いたかな。…全然かわいてないな。手伝いのオカミさんたちににアイロンかけてもらうか…。」
とっとと立ち上がって服を着る月島の背中をちょっと見遣って、陽介はため息をつくと、起き上がった。
「…いつきもはるきも何やってんだろな…。とっととけーってくりゃいいのに…。」
「そうだな。…きみもいつまでごろごろしているんだね?この非常時に。のんびりしていると木片とともに洪水で流されるぞ。」
「…翠さん怒ってますね。」
「怒ってるな。わかりやすい。」
「…お祭りには顔だすって話しだったのになあ…。」
「…でずっぱりじゃないか、派手な閃光と轟音つきで。」
「ま、ね。」
陽介は起き上がった。夜のうちにだれかが用意してくれたらしい浴衣に着替えた。もう、今ここの神社には、着替えをより好みできる自由はないのだった。
「…天気ににあってない陽気さで、実にいいな。」
「…月島さんもね。」
…月島は作務衣だった。
「わたしは若い頃はここではたいていこれだったよ。」
「そうなんだ。」
「そう。…さ、寝てると女どもに蹴られるぞ。食い物調達がてら、アイロンを呼んでくるから、君は布団を上げてくれないか。できる?」
「大丈夫ですよォ。自宅では毎日やってますよォ。」
「じゃ、やっといてくれ。」
月島はさっさと出ていった。
陽介は布団を畳んでぼふっと押し入れに押し込んだ。
そして、ふと思い出して、部屋をあとにした。
少し歩いて、ずっと滞在に使っていた、例の襖絵の部屋に行った。
「…京子さん、いる?」
そっと声をかけると、返事があった。
襖をあけると、京子が、眠りっぱなしのセイに付き添っていた。
「セイさん、どうですか?」
「…トランス。ときどき喋るんだけど、断片的でわからないの。」
「なんて?」
「うーん、火とか水とか言ってる。」
「ずっと起きない?」
「全然。」
「…京子さん寝た?」
「ああ、もうぐっすり。大丈夫よ。きみは?」
「うん、俺も寝ました。ぐっすり。」
「…昨日、化粧してひな壇にのってたでしょ。最初気がつかなかったけど、途中できがついたわ。どうしてあんなことになっちゃったの。」
「いつきの身替わりです。」
「…あああ。…まあ、似合ってたけどね。」
「…どうも。…今日もがんばりますよぉ。」
「…って?」
「まあ、お楽しみに…。」
少したつと、月島が部屋を探し当てて、食事を運んで来てくれた。
「…うおっ?! 朝からハチミツパン?!」
「…いろいろあったが、ようちゃんの口にあいそうなものがなかなかなくてね。これかホットケーキか、山盛りのちんすこうのどれかだなと思って。」
「なんですか、ちんすこうって…」
「ラードでつくったクッキーだよ。」
「えーっ…」
「意外とさっぱりしてるよ。バターよりくどくない。」
「そうなんだ。食ったことないけど…。」
「どうやら米がきれたらしい。…わたしはおやきが苦手なんだ。」
「あっ、わたしもここのやつ苦手~、だっておばあちゃん、ニラとかいれるんだもん…」
「そうなんだ。あのニラがつらいんだ。…あと、そば茶があったぞ。」
3人でなんだかんだいいながら、こぶしくらいのおおきさの、やわらかいスコーンのようなものを食べた。かすかにハチミツのにおいがした。
月島が片付けに出て行くと、京子がまた言った。
「…ねえ、久鹿君…がんばるって、もしかして、いつきちゃんの代役で舞台に立つんじゃないわよね。」
「…そうですけど?」
「駄目よ!」
京子は陽介の腕を掴んで言った。
「…久鹿君、あのね、ここの神社には昔から悪い噂があるの…」
「…男子だとカミサマにバレると、カミサマにとられちゃうんでしょ?」
「知ってるならどうして…」
「…だれかがしないと始まらないじゃないですか。女どもみんなけがしちまうし。」
「おかしいわよ、そんなの。」
「おかしいったってしょうがないでしょ。」
「逃げなさい! 今逃げるのよ。月島が戻る前に!」
「京子さん、しっかりしてくださいよ。逃げてどうするんです。祭は?」
「どうせこの雨じゃ無理よ。」
「そのとーり! だから心配いりませんよ。…いずれにしろ、いつきとはるきが戻るまでは、山をおりるわけにはいきません。」
「何を馬鹿なこといってるの、しっかりするのは君よ!」
京子は陽介の両腕を掴んで揺さぶった。
「いつきちゃんもはるきくんも、帰ってくる保証なんかないわ。あんただけでも逃げなさいっていってるのよ! 殺されてからじゃ遅いわ!」
「殺されるって誰に。いくらなんでも人聞き悪いですよ。」
「山によ! シュウが何年かえってこなかったと思っているの?どんな姿で見つかったか忘れたの?!」
「…」
「…外は土砂降りだけど、神社から下は幸い道があるわ。とにかく全部捨てて、身ひとつで下りなさい。大丈夫、なんとかなるわ。…送ってあげたいけど、あたしはセイを見てないと…」
「なるほど、名案だな。そうするかい?ようちゃん。」
襖の向うでそう声がして、そのあと、10センチほど開いた。
隙間から月島の顔がのぞいた。
「…きみには選ぶ権利がある。その女の言い分は、一理あるぞ。」
…さげに行ってなかったらしい、まだ皿をもったままだった。
「…送ってあげようか?道は川になってるだろうが、まだ滝にはなってないだろう。」
陽介は月島に微笑んだ。
「…まだ逃げません。…俺は、逃げ足の早さは自信がありますから、まだ大丈夫です。」
「ぎりぎりじゃ間に合わないかもしれないぞ。洪水の避難と一緒で。早めが勝負かもしれないぞ。」
「…大丈夫ですよ。」
陽介は袖の中で小さな勾玉を温めるように握った。
+++
「頼子さん、ちょっと…」
一人の老人が台所にやってきて、頼子を呼び出した。
江面家の老人だった。去年の総代だ。
頼子がだまって廊下へ行くと、江面老人は電話のそばで待っていた。
「なんでしょうか。」
「…雨、止まんね。」
老人は枯れた声で言った。
「さようでございますね。」
「…氏子がみな不安がっておるよ。…主を怒らせたのではないかといって…。」
「…」
たしかに、誰がみてもそうなのだった。
シロウトでも十分にわかる。
「…はあ、みなさん、腹がへっておられるのかとおもいましたが、ごはんをたべてもだめでしたかのう。」
「…うん、だめだった。」
「こまりましたね。」
「…うん。」
江面老人はつま先を見て少しむずむずとしたようすを見せた。
「…で、みなさんは、どうしたいようすでしたか。」
「うん、なにか、主の御機嫌をとったほうがいいと思っているようだ。」
「…カエルでもそなえましょうか。」
「それじゃだめだ、なんだか霊験あらたかでない。」
頼子は首をかしげた。
「はて、ではいかがしましょう。祈祷でよろしければ。」
「…ユウはどうしてる。」
「骨折で熱がでましてな。寝かせてあります。」
「参ったな。あの子に挨拶させれば、少しはいいかと思ったんだが。」
「…童子舞いがよくなかったですかのう。」
「…うーん、いや、わしは、…わしは良かったと思うよ。それに、ほら、童子舞いの間は、天気もよかったし。きぃこがかわいかったのう。みな上手にできた。…だが、そう思っとらん者もいるでな。」
「…ユウは無理です。わたしでよければお詫びいたします。」
「いやいや、詫びろというのでなくな、ユウに、娘舞いを前倒しでな、奉納させたらどうかという話なんだ。屋内でな。」
「…それは…勿論ユウが健在であれば可能ですが。あの状態では…。」
「…なにかよその子にな、稽古をつけていると、藍から聞いたんだが、…その子はどうだろか。昨日ひな壇に座っていた子だろう?みんなあの子に興味があるようすでな、連中の御機嫌とりの代わりにはなろうと思う。連中を放っておいて万一…ぶっそうなことになってはいけないでな。」
「…」頼子は下を向いた。「…すぐできるか、あたってみます。」
江面老人はうなづいた。
陽介と月島のもとに、迎えがきたのは、間もなくであった。




