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Till you die.  作者: 一倉弓乃
32/41

31 HARUKI

 猫でいるのも、慣れるとそんなに悪くない。

 いつきと陽介がおしゃべりしているときに、割って入れないのは腹立たしいけれども…おしゃべりなはるきにとっては、人語が話せない、というところが最大のネックだったのだけれども、…他は、悪くなかった。

 まず、体が楽だ。猫のからだは運動能力に優れているから、人間などよりずっと自由に軽やかに行動できる。爽快だった。

 服を着なくてもいい。楽だった。

 陽介の膝にすきなときにのっかっていられるし、陽介に一日中撫で回してもらえる。楽しい。幸せだ。膝にあきたら肩や頭にのってみるのもいい。

 床が近いので、人間の目にはよくみえないものがいろいろみえたりもする。面白い。虫とあそんだっていい。

 すき放題に、どこでどんなかっこうでいつ寝てもいい。

 気まずいときは、お茶目でごまかしていい。

 足のまわりを8の字に歩いてもいい。

 いつきの邪魔を正々堂々とやっていい。

 退屈な話に欠伸していい。

 いやなことから逃げ出していい。

 本を読みたいと感じないのも不思議だった。

 はるきは活字中毒であり、自宅の自室は本の森である。

 どんなものにかいてあるどんな文字であろうも、読める文字ならかならず読む。

 …そんなはるきだが、猫になっていると、この読むことに対する欲望が、嘘のように消えるのだ。

 そのかわり、世界を映像のようにじっと見るようになる。

 猫の目はすばらしくよい。

 猫でいると、世界のなにもかもがが奇跡によって作られた芸術に見えるのだった。だから、見飽きない。人間の目には見えないエネルギーの流れもはっきりと見える。それはとても美しいものだった。

 耳もいい。いろんなことが聞こえる。気配、みたいなものにも敏感になり、かえって人間でいるよりも、「せかいのこと」が詳しくかつはっきりとわかるのだった。

 それに。

 猫でいると、不思議といつきが嫌いでないのだ。むしろ邪魔したくて邪魔したくて仕方なくなる。それが楽しいのだ。撫でられてみたりもする。

 そうしていつきの足にからんでいるうちに、今まではあまり見ることのなかったいつきの行動が見られて、なんとなく微笑ましく感じられたりもした。

 今のはるきは自分が二人いるような感じなのだ。

 かってに活動してたまにかえってくる人間のからだと、口のきけない猫のからだ。どちらも自分だという感じが強くする。だから、蛇の君…翠さん、が、抜けたからだに戻って、蛇殿の記憶が体に少しのこっていると、それもまぎれもなく自分の体験であるかのように思えるのだ。

 それは、正直、悪くない感じなのだった。ひと粒で2度美味しいのだ。

 とはいえ。

 いつかはもとの状態にもどらなくてはイケナイ、とは考えていた。

 それは「ねえさん」のいるところに帰らなくてはならないと漠然と思うからだった。

 それにこのままでは陽介もきっと困るだろう、と思ったからだ。なににどうこまるのかは、正直ここのところ、よくわからなくなりつつあった。でも「せんぱいがこまるだろう」というのはすごく「ちゃんと」わかっていた。「ねえさんのところ」にはもしかしたら帰らなくてもイイかも知れないという気がすることはあったが、「せんぱいがこまる」は間違いなかった。

 …だから、自分が戻りたいというのではなくて、「もどらなきゃならない」と義務として感じていただけだ。

 そこへ、「体を取り返せ」との命令が下った。

 はるきは正直とまどっていた。まあ、別にもどるのは「仕方ない」けれども…何もいそがなくたって、ねえ、と思っていた。

 猫は命令されるのを嫌うものだ。

 襖があいて、自分が入って来た時、はるきはびっくりして、すっかり毛が逆立ってしまった。入って来た自分の回りにぐるぐると赤い空気の渦が巻いていたからである。

 長毛種なので、毛が逆立つと、すごいことになる。尻尾など、狐のえりまきのようになった。

 なんじゃあこりゃあ。…これが怒りというものなのか、とびっくりした。

 入って来た自分の手が、まっすぐにいつきに向って行ったとき、さすがに「あっ、やばい」と思った。

 部屋の中なのにごうごうと風が吹いて、はいってきたはるきの髪が舞い上がっている。

 しかしいつきを見てまた仰天だった。いつきは白く光をはじくたまごの中にいて、そこにはるきの手が到達したとき、ビリビリとオレンジ色の稲妻みたいなものが散ったのである。いつきははるきの手を、ひらいた掌でぱんと払っただけだった。

「こりゃ、いずれおとらぬ化け物どうし」と思った。

 はるきをつないだヒモを持っていた田中は、あまりの出来事に呆然と座り込んでしまっていた。

 そのとき、急に首のうしろをつかまれてぶら下げられ、はるきは苦しくなった。そのように吊るされると、息が出来ない。

「はるき、もどってこい、アイシテル、頼むぞ!!」

 せんぱいの声がした。

 せんぱいに頼まれたら、嫌とはいえない。

 はるきはニャッと声を出さずに返事をした。

 するとはるきは、せんぱいにぶんなげられて、ひゅうと飛んだ。

 …自分の懐、赤い嵐の真ん中へ。


+++

 気がつくと、はるきは自分自身と向かい合っていた。

 相手が言った。

「…悪いけど、ちょっとまだ用がすんでないんだよね。」

 はるきは言った。

「うん、でも、そろそろ時間一杯ってかんじ。」

 相手は言った。

「…別にいそいでなんかいないくせに。楽しいデショ、剥き身の魂で暮らすのは。」

「…まあね。」

 考えていたことを言い当てられて、はるきは少し困った。

 相手は言った。

「じゃあなにも、急ぐことないじゃん。」

「そうなんだけど、先輩が困ってるから、そろそろ出て行ってよ。」

 はるきが言うと、あいては実にはるきらしい顔でふん、と笑った。

「先輩がって、いうけどさ。…なんで奴のことを君がそんなに考えてやらなくちゃいけないわけ?」

「…」

 はるきはこたえられなかった。いつもなら湯水のように沸いてくる明晰な理論が何一つでてこないのだ。

 …わかる。嘘がつけないのだ。なぜか。だから、言葉がうまく滑らないのだ。本来ならあっというまに連鎖していく言語のイメージが、もずくのようにぷつぷつと一つずつちぎれてしまっているかのようだ。

 はるきは察した。相手は、はるきよりも、数段上の意識をもっているのだ。だからこんな感じがするのだ。多分実際自分は、普通通りなのだが、相手の構造が緻密なので、自分が粗雑に感じられてしまうだけなのだ。

 そう直観したので、はるきは勇気を奮った。笊の目が大きいか小さいかは、仕事上の機能の種類の差異であって、それは優劣ではない。

 しかしその勇気をへこますかのように、相手は言った。

「奴が困ったからって何なのさ。…奴は君のことなんか、なんとも思っちゃいない。もう忘れちゃってるよ。もしかしたら名前だって。」

「そんなことないよ!」はるきは咄嗟に答えた。

 大声で否定しないと、がっくりきてしまいそうな気がした。

「へええ、でもきみは、いつもおもってたじゃない、先輩は僕のこと愛してないって。愛しているのはいつも別の人で、僕じゃないって。」

 …そのとおりだった。

 はるきはなぜか、たとえ陽介がいつも一緒にいてくれても、忙しい時間を自分のためにさいてくれても、こうして一緒に旅につれてきてくれてさえ、陽介が自分を愛してくれている、という気はしなかった。

 …なんだかむしろ、努力して恋人ごっこしてくれているみたいだ、と思ってしまう。「恋人ってこんな感じ」というマニュアルみたいなものが陽介の中にはあって、そのイメージに合わせて無理をしているように感じられる。そして、それは実は、自分が先輩を好きだから、そういう自分を哀れに思っているからなのではないか、という気がしてしまうのだ。

「それどころか、もしかしたら、きみのことは、言うこときいてくれる便利な子だからってことで、一応キープしてくれてるだけなんじゃないの?そう思ってたじゃない。それにほら、きみはあの姉さんの弟だから、あまり邪険に扱うと、兄弟で結託してかかってくるかもしれないって、そう思って警戒してるのかもしれないじゃない。懐柔されてるだけなじゃないの?自分でそう思ってたじゃない。」

 はるきはさすがにしおれた。

 そうだ、それは…いつも、そんなふうに勘ぐったりしていた。

「…奴がすきなのは、直人みたいな威張ってる中年だろ?…直人も奴が好きだよ。直人は奴を懐にいれて大切に持ってに帰りたいと思っているよ。」

 胸が痛くなった。

 そうか、あの二人はひかれあってるんだな、と思った。

 …それも、知っていた。

 でも夏休みが終われば、どうせあの男と先輩は2度とあうこともないからと思って…。僕は学校でまたとりかえせばいいと思って…。人間はどうせ、そばにいる相手と親密になる生き物なのだから…と…。

「…きみとは学校であって、お義理をつくしたら、夜は直人とホテルであうさ。」

 …聞きたくない。

「もしかしたら、独りになるのがイヤなだけなんじゃないの、奴は。カッコ悪いとおもってるんじゃないの、恋人いないのは。だから好きってほどでもないのに、きみのことキープしてるんじゃないの?」

 …否定できない。いちいち全て、それははるきが考えていたことだった。

「…だまされてるんじゃないの?だから、愛を感じないんだよ。」

 ぽつり、と付け加えられた一言。…涙が出そうだった。

「…どうしてそれを許すの。」

 はるきは首を振った。

「…ああ、きみも騙しているからか。」

「! …僕は…だましてなんかいない。」

「騙してるよ。」

「騙してない。」

「…きみはほんとに奴が好きなの?」

「好きだよ!」

「ならどうして信じてあげられないの?」

「…」

 そうだ、どうしてなんだろう、とはるきは思った。

 …嘘をついてるのは僕のほうなのか?…はるきは思った。

「…きみが愛してるのは姉さんなんだろ。姉さんの男だったから、奴に興味があるんだろ。」

「違う!」

 はるきは大声で否定した。

「それは違う! 最初はそうだったけど! でも今は違う!」

「本当にそうかなあ。…血がつながっているから、姉さんを愛しちゃいけないから、姉さんの臭いがついていそうな男で誤魔化してるだけなんじゃないの?」

「ちが…」

「僕に嘘ついたってはじまらないよ?」

 思考が止まってしまった。

「ね、愛してもいないし、愛されてもいないんだよ。」

 相手は手をのばして、そっとはるきの頭を撫でた。

「…そんな相手に義理立てする必要なんかない。…きみはきみの幸せを求めていかなくちゃ。彼の幸せは彼が考えればいいことだよ。」

 涙が出た。

「…愛してもいないし、愛されてもいない…?」

 相手はうなづいた。

「きみがそう思ったんだよ。」

 相手はそう言って、またはるきのあたまを撫でた。

「じゃ、なんでこんなに涙がでるんだろう。」

「…悲しいから。」

「なんで悲しいんだろう。愛してもいないし、愛されてもいないなら。」

「…孤りだから。」

「…」

 黙ったはるきを憐れむように、優しく相手は言った。

「猫でいれば、膝の上でかわいがってもらえるよ。もう少し、そうしていればいい。お互いのためだよ。奴は猫相手なら、無条件に愛せる。」

 けれども、はるきは首をふった。

「…いやだ。」

 そのとき、初めてはるきは、猫でいるのがイヤだと思った。

 そんな惨めなしみったれた愛撫ならいらない。そう感じた。

 するとはるきの胸に断固とした意地みたいなものが沸いた。

 僕は贅沢なのだ、美食家なのだ、欲張りなのだ。

 はるきははっきりとそう思考した。

 すると別のなにかがこみ上げて来た。

 それは記憶だった。

 あの夜、白き炎をくぐった夜、電話を通して陽介と言葉をかわした途端にあふれて来た涙の記憶だった。生きて還った安堵と、陽介が言葉を受け止めてくれたことへの歓喜と。濃密に生きていたあの瞬間に、陽介はそこにいてくれたのだ。

 あの瞬間が欲しいのだ、僕は、生きていたいのだ、とはるきは思った。

「…僕は言葉がほしい、人間の言葉で喋りたいんだ。…自分自身ではなく、他の誰かと。…僕の体を返してよ。」

 はるきは、相手の手を静かにとって、そっと払った。そして更に言った。

「…僕は、姉さんとの約束を守る。先輩の面倒は、僕が見るよ。」

 相手は…静かに手を引いた。


+++

 それは長い時間の果てのようにはるきには思われたが、体感でわかった…一瞬の出来事であったことが。

 はるきはすばやく屈んで、床を這う輝く翠色の蛇を掴んだ。

「…お力になれなくてごめんなさい、翠さん。…あなたと体を分かち合うのは悪くなかったんだけど…。でも、みててくださいね…この山にとって、悪いようにはしませんから。きっと怒りさえおさまれば、あなたもこれでよかったのだと納得していただけるようにしますから。」

 蛇はなおもかーっと口を開けたが、毒もないので、はるきはそのまま頭を掴んで、縁側をあけると、外の薮に放り投げた。

 そしてくるっと部屋の中に振り返ると、ニコっと笑った。

「…帰還しました。」

「よくやった!」

 3人は一斉に言い、陽介はわっとそのままはるきを抱き締めた。はるきも陽介を抱き締めた。…人間の腕も悪くはないな、と思った。

「じゃあ、これから、ユウんとこ行って、死体の件を相談しよう!」

 いつきの声にはるきは振り向いた。…猫の目で見えたような光をはじく卵は見えなかったが、いつきの周囲はまだなんとなく明るく見えた。

 そのいつきを、田中が止めた。

「…いまから走って行っても供物台につくのは夕方だ。そのあと何かするのは無理だよ。」

 その通りだった。

 いつきも一度供物台まで走っている。無茶さ加減は理解できたようだった。

「…うーん、それもそうだね…。あたし一人ならともかく、複数じゃね。」

「ユウちゃんはあれでけっこう忙しい。明日の予約をいれておいて、今日は少し休ませることだね。ほら、舞の件でかんしゃくおこしてるし。」

「…わかった、じゃ、そうしよう。」

 陽介が決定した。

「じゃあ、僕が、挨拶がてら頼んで来ますよ。早い時間がいいでしょ。7時でどうですか。」

 はるきはそう申し出た。

「あーごめん、片付けがおわるの7時半なんだ。」

 いつきが言った。

「大丈夫、さぼりましょう。大事のまえの小事です。」

 はるきは言った。

「そういうわけにはいんないよ、今日だってさぼっておばあちゃんに叱られたし。」

「じゃ頼子にもいいましょう。僕が言ってあげますよ。」

 いつきはうーんと複雑そうだったが、うなづいた。

「うん、じゃやってみて。」

「了解です。」

 はるきは陽介にちょっと抱き着いてから、その腕の中を抜け出して、部屋を出た。

 翠さんと僕はどこが共鳴していたんだろうな、と思いながら。


+++

 ユウは藍と二人で、子供たちの舞の総仕上げをしていた。

 休憩にはいったのを見計らって、はるきは声をかけた。

 ユウは縁側にはるきを連れ出した。

「…うまくいったのね。」

「おかげさまで。有難うございます。」

 はるきは頭をさげた。ユウはうなづいた。

「…あとは骨の件を、みなさんが、明日詰めようとのことでした。」

「…そうね。今日はもう無理だわ。これから行っても帰ってこられない。」

「7時でどうですかね。」

「飯の真っ最中だわ。」

「頼子は僕が説得しますよ。」

「…できるならいいわよ。ま、今おばさんたちもたくさんいるしね。」

 ユウはそう言って、少し目をすがめてはるきを見た。

「…?どこか見苦しいですか?」 

「…ううん、目が痛い。…姫は翠さんを避けるからね、姫の痕跡が残っているせいだろうと思うけど、今の尾藤くんはちょっとつらいわ。」

 はるきはユウに聞いてみた。

「姫はユウさんが呼ぶと来るってかんじなんですか。」

 ユウはだまって目を閉じ、頭痛をまぎらすときのように、こめかみをもんだ。

「…ひらくのよ、姫につづいている扉がね。そんなかんじ。」

 それははるきに翠さんが「はいっていた」のとはまったく別の「感じ」といえた。

「…姫に、つながってるんですか。」

「そう。普段は、とじてあるのさね、ドアが。」

「はあ。なるほど。」

「…じゃ、あたしちょっと今子供たちみなきゃいけないから、またあとでね。」

「あ、はい、おじゃましまた。」

 はるきはあわてて挨拶すると、奥の部屋を出た。

+++

 おばあちゃんは、台所の土間で野菜を洗っていた。

「…ども。」

 声をかけると、顔をあげた。

「あれ、ぬけましたかの?」

「はい、ぬけていただきました。」

「それはそれは、お疲れさまでございます。」

 おばあちゃんはふかぶか、頭を下げた。

「いやー、すみません、翠さんは、まだ僕をつかいたがってたんですけど…」

「いやいや、あんたさんの体ですからのう、あんたさんがイヤになったのでしたら、それはあんたさんの権利です。」

 はるきは少しほっとした。

「…翠さんがしようとしていたことは、翠さんの手では困難なようなんです。」

「…今朝方、おおきくゆれておりましたがのう、やはりダメなのでしょうか。」

「ダメなんです。」

「さようでございますか。」

 おばあちゃんは洗った野菜をざるにあげて、水をきった。

「…それをなんとか、やりとげようと思うんです。」

「今からですかの。」

「もう日が暮れるので、明日のあさ。…いつきさんとユウさんの朝食時の労役を免除していただきたいのですが。」

「…」

 おばあちゃんは少し考えた。

「…まあ、いまは奥さんたちもおおいですしの。いつきはどうせ、けが人なので、あてにしてはおりませんでした。明後日では無理ですが、明日ならばなんとか。」

「有難うございます。」

 今度ははるきが頭を下げた。

 おばあちゃんは、別の野菜を持って来た。豆だった。

「…さやとりですか。手伝いましょう。」

「お忙しいのでは?」

「いえ、別に。」

「ではおねがいしましょうかのう。」

 はるきはおばあちゃんの隣にしゃがんで、豆のさやをむきはじめた。

「…直人と慎二は…二人とも、翠さんに体を貸したことがあるんではないですか?」

 はるきが問うと、おばあちゃんは、さよう、さよう、とうなづいた。

「ございますな。」

「…なんだか、回路がつながっているようなというか、道がついてしまったような感じなんですよ。」

「あの二人とですかな。」

「ええ。」

 おばあちゃんは、プラスチックの桶の中の剥き終えた豆をざらざらとかきまぜた。ういてきた殻のかけらを、つまんで捨てる。

「…まあ翠さんの作られた道ですから、山を出れば、ながれるものがなくなるでしょう。直人さんがドームに住んでいるのはそのあたりもあるのです。慎二といちいち繋がるとやっかいですからの。」

「…で、山にもどってくると…」

「はい、またつながりますのう。」

 はるきは複雑な話になったなあ、という気がした。

 月島とは陽介をとりあう恋敵なのに、なんとなく気持ちが通じ合ってしまうのだ。慎二とは多少ツーカーになっても別に問題はないのだが、月島は、立場上、困る。

 乾いた豆の鞘は軽くねじると簡単に割れた。なかの豆は色鮮やかで、アーティスティックな柄がついている。はるきは見たことのない豆だった。

 はるきの手伝いのおかげで、おばあちゃんの作業はあっという間に終わった。はるきはドームに越してくる前は、こういう仕事の一端を家族の一員として、当り前に担っていた。薪割りしかり、食事の用意しかり、…そして小型の家畜を絞めるのも、子供達の仕事だった。

「…まだはるきさんの左手の件がありますからのう、ひょっとしたら、はるきさんにはかよっていただくことにもなりかねんのですが。山はおいやですかの。」

 おばあちゃんに言われて、はるきは慌てて首を振った。

「いや、この山は僕の故里の山より、すでに僕と深く繋がってしまった。…好きとか嫌いのレベルの話ではないんです。」

「はるきさんは、故郷も山ですか。」

「ええ、古い巡礼路の途中にある廃村を、僕らの家族と知り合いで勝手に占領していたんです。」

「さようですか。それはそれは…。それでとおりがいいのでしょうなあ。そういった道には気脈がとおっておりますでのう、幼い頃から近くに住んでいると、自然とその流れを受けて、体のなかに楽器のように響く部分ができてゆくのです。…巡礼者は今もいるのですかのう。」

「少しはいますよ。…まあ、なんというか、そこ以外に行き先のない人たちが。…紫外線が、世界でもサイアクにランクされる場所の一つですから、普通のひとは来ません。」

「さようですなあ、巡礼は、いつもそういう人間を、受け止めますわいなあ。」

 おばあちゃんはしみじみ言った。

 はるきは言った。

「頼子、ここは、僕には健康な場所に思える。でも、ドームやエリアは、…生き物が生きる場所として、不健康だと感じるんです。異常、といってもいいけれど…。」

「…さようですか。わたしはドームもエリアも存じませんのでなあ。」

「…そうですね。」

 はるきはちいさな箒で床を掃き、豆のこまかい殻を土間に落としてしまうと、おばあちゃんに手を振って、立ち去った。

 ドームやエリアが不健康なのか、それを求める人間が不健康なのか。

 そんな話をおばあちゃんとしても、不毛なのは確かだった。多分、さようですなあ、と、そのほかになにか別の相槌を組み合わせて終りだ。

 …陽介ならなにかいってくれるだろうか。

 はるきの思いつきもしない何かを。

 はるきは苦笑した。

 なるほど自分は寂しいのだと思った。

 世界中さがしても、「言葉」を返してくれる相手は、陽介しかいないのだと。

 

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