2 TRAIN
「…は、快晴。最高気温は38度になるでしょう。湿度は85%、紫外線指数…」
春季はそこまで聞いてラジオを切った。
夏休み第一日目、午前5時26分。気温は30度、風ゆるやか。勿論暑さのせいでたいして眠っていない。でも、いいのだ!
もうここの天気なんてどうでもいいのだ!だって春季は大好きな久鹿先輩と、今日から夏休みのおわりまで、二人っきりで旅をするのだから!
「… 出かけるの?」
朝食を作ってくれた小夜がやってきた。春季は姉ににっこりした。
「うん!そろそろ行くよ。」
「…エリアを出たら、危険なのだから、気をつけてね。パスポートや身分証を人に見せてはだめよ。コピー持った?必要なときはそれを見せるのよ。」
「うん。」
「それからお金はすぐに使う分以外はお財布にいれないで、別のものにいれなさい。体から離さないようにね。一日分ずつ予算を組んで、はみださないように使うのよ。…少なくとも週に一度はお洗濯しなさい。旅先でも身綺麗にして、礼儀正しくするのよ。土地の人と絶対にケンカしてはダメよ。」
「うん、わかったよ。」
「タオルは使ったら干すのよ!食事は少なくとも一日一度は必ずしなさい。久鹿は馬鹿だから、あんたが面倒をみてあげるのよわかった?」
「うん、大丈夫。」
小夜は最後に春季をきゅっと抱き締めた。春季は姉の頬に軽くキスをして、
「じゃ、いってきます。」
というと、荷物の入ったバックパックを背負って家を出た。
春季の部屋では同室の長兄・一輝が窓を開け、るんるんと遠ざかる春季の背中にひっそり毒づいていた。
「…朝こっぱやくからガキが色気づきやがって。生意気も甚だしい。」
そしてふん、と鼻を鳴らすと、累々と部屋半分を埋め尽くす本の山に目を移した。酸性紙の古本はエリアの夏の熱気に蒸し上げられて、独特の酸性紙臭をただよわせている。うかうか吸っていると喉が痛くなった。
「…さて、と。」
一輝は階段の上まで運んできてあった段ボールを部屋に運び入れた。
+++
殺人的な快晴だった。
エリア中央の駅はまだ人影もボチボチで、構内は歩きやすかった。あたりにはツアー客の集団やら、荷物番をしてお母さんと子供を待つお父さんやらがまばらにかたまっている。
待ち合わせ場所へ行くと陽介はとっくに来ていて、春季をみつけるなりニコニコ手をふった。春季も嬉しくなり、ぱっと手を上げた。
「おはようございます!」
「オハヨ。…荷物けっこういっぱいあるな?着は明日になっちまうけど、猫荷便で宿に送るか?」
「うーん、それも考えたんですけど、とりあえずS市くらいまではこれで行こうかと。S市からY市に移動する前に、必要ならそうします。」
「わかった。…じゃこれ、お前の分の乗車チケットと、宿の予約票のコピー。自分で持ってろ。基本的に、はぐれたら、次の場所へスケジュール通りに移動して、そこを拠点にして待つことにしよう。エリアをでたら都市部以外では電話が圏外なことが多いから、心得といてくれ。」
「わかりました。…大丈夫です。僕はもともと外の暮らしのほうが長いですから。…まあ、ヨーロッパだったけど…。」
「そうだったな。じゃ、行こうか。」
二人は歩きだした。
+++
陽介が二人旅の移動手段に選んだのは鉄道だった。ところどころ、使おうと思えば速いチューブラインだって使えたのだが、陽介はどうやら鉄道が好きらしい。どこそこの線は何色の車両で総グラスファイバーの中二階展望ラウンジがあるの、ここそこの路線には去年新型の樹脂車両が導入されて、あの車内の明るさや快適さといったらどうのこうの、と、いろいろいろいろ蘊蓄があった。春季はそれなら別にそれでいいと思ったので反対しなかった。州鉄の学生向け商品の「学チケ夏期特」は、「どこからどこまでの間乗り降り自由何週間有効」とかいうもので、事前に申請して買う。かなり安い金額で快速が使い放題使えるし、急行などでも急行券等を別途購入すれば自由席に限りそのパスでも乗れるので、なかなか使い勝手もよく、便利だった。
エリアから出て行く列車のホームは時刻のせいもあってか、さほど混んではいなかった。二人は首尾よく二人用のシートをおさえ、荷物を荷棚に上げ、テーブルを下ろした。テーブルは防水パネルの下に情報端末が設置してあり、飲み物や弁当が注文できるようになっていた。車両の内壁はパステル調の色彩とはいえ大胆な植物柄でかざられている。シートは緑色のビロード系素材張りで、座り心地もよかった。
最初から疲れるのは避けましょうという春季の提案で、最初だけは特急を使うことにした。特急はエリアの他はドームのある町にだけ停車する。比較的安全な乗り物ともいえた。
「…先輩、どこかで列車強盗とか出ますかね。」
「ひゃー、カンベンしてくれい。…いちお旅行保険は入っておいたけど。」
「わーぬかりないなー。」
「俺ってば小心者だから。…てゆーか掛け捨てだけど安いから春季の分もはいっといたよ。」
「…じゃ、列車強盗出たらそのときは僕が守ってあげます。」
「はい、お願いします、はるきさん。…でもなるべく逃走でけりをつけましょうね。陽介さんはケンカは斎さんのようにはモニョモニョですが、逃げ足だけは体育のときの10倍ほども速いのです。」
陽介は自分の母親の口真似で言うと、苦笑した。…信じていないようだ。そのうちちゃんと教えておこう、と春季は思った。
「…でもマたいていの人は斎さんよりケンカ弱いデショ、やっぱり。」
「…お前んちの一番上、斎に勝ったやん。」
「…それは斎さんが油断してたんでしょうねきっと。ただのまじめな坊さんだと思ったのでは…。典礼用の長衣なんか着ると、なかなかエレガントですからねあの人は。」
「油断も実力のうち。樋口先生ならそう言うだろうな。…それはともかく、ほんと物騒な目にあわないことをいのりましょーや。」
「ペンか剣かなら、ペンですよね先輩は。」
「そう、その場は逃げて、あとで暴露サイトつくるタイプ。」
発車のアナウンスが流れた。
二人は話を一瞬やめてホームに目をやり、心の中でかったるくも平穏な日常生活にしばしの別れをつげた。それから申し合わせたように二人、悪戯っぽい目で視線を合わせると、静かに列車が駅から滑り出した。
+++
二人の旅行はS市ドームを基点にその周囲を歩くところから始った。事前に陽介が調べてあった遺跡を中心に、行政管区役場の観光課で貰ったパンフの観光名所などもそれなりにめぐった。人っ子一人いない郊外の野っ原のまん中に「ただの石」という以外に表現のしようもないようなものを見に行ったり、逆にカップルだらけの遊園地にひっかかってあからさまなデートになったり(ホモのカップルよと後ろ指さされても旅の恥はかき捨てだ)、毎日がなかなか楽しかった。
紫外線よけのスプレーを体中にふきつけて、帽子を被って長いパンツや長そで、晴れていたらサングラス、という「アウトエリアスタイル」もすぐに慣れた。アウトエリアの素材はいろいろ工夫されていて、軽く、陽をよけつつも通気性は確保というものだったから、かえって肌を晒しているより楽なくらいだった。むしろエリアに流通している素材よりも質がよいといっても過言でない。二人は、郊外の町の小さな商店街で適当なものを見つけると、全身分買い揃えた。値段も、ドームを出てしまうとびっくりするほど安いのだ。
「俺達ぼられてると思わない、普段」
と陽介が言うと、春季も
「そうですねえ。とくに極東は物価が異常ですね。」
とこたえた。安い流行ものを着ると、春季は妙に小洒落て見えた。よく馴染む。もともとはいつもこんなような格好だったのだろう。
「…春季さ、今回予算はどのような感じなの?」
「…」
陽介の問いに、春季はカードを一枚出した。
「…引き落としの口座の入金フォームをひらきながらワイトさんが言うに、『旅行へいくんだっけ?7月と8月の分、100ぐらいで足りる?』だそうです。…アホですね、あいつら。いくらエリアに住んでるったって、僕ぁ妻子もちの中年じゃないんですよ。」
「あーなんつーかうーむ…P-1ドーム上層部も普段かなりボラれてる世界なのかな…。じゃ、少しのびのびあそびますか。」
「なんなら全部特急で移動してもいいんですよ。」
「あはは、でも特急じゃ全部通過しちゃうでショ。」
「じゃあ気球でもチャーターするとか。」
「それはいいなあ。見つけたら乗ろう、気球。」
予算について個人的詳細を語ることがスマートでないという慣習のある極東育ちの陽介は知るよしもなかったが、実は春季は「ワイトさん」に「多分足りるとおもいますけど、念のためにもう50くらいおいといてくれませんか。いえ、使いません、なにもなければ。それとフィールドでカードを使うのは危険なので、現金で下ろせるようにしておいてほしいんですけど。」といって合計150ばかり巻き上げていたのだった。そして更には厳しい尾藤家の財源からも「大丈夫だよ、宿は先輩にタカるから。交通費と食費とまああと雑費。洗濯は自分でするよ。」と、15ばかり巻き上げていた。こっちは帰ってからの活動費に使う予定だ。2年くらいのびのび暮らせるだろう。
エリアで言われているほどには治安も悪くなく、たしかに歓楽街などではいろいろあるらしいが、昼間の観光地やまして遺跡などに、騒ぎの気配や痕跡など少しもなかった。あたりまえだが、ケイサツだってある。ドームの中とは別組織ではあったが。
朝食は宿でとり、昼はファーストフード、夜はレストランに出かけるか、宿の食事をとった。出歩いている間あちこちに立ち寄って土地の珍味だの銘菓だのをたべ、もちろんポテトチップスやソフトクリームも食べ、…陽介も春季もエリアでちんまり暮らしていたのが嘘のように元気になった。
S市は小さなドームの中に駅ビルやビジネスホテルをかかえている。そこも別段高すぎる宿というわけではなかったが、二人が滞在したのは、ドームの端にある古い豪邸を改築した小さなホテルだった。その宿は二人になんとなく久鹿家の別荘を思いださせた。
陽介は外から戻ると、眠るまでの間に簡単に一日の記録をとった。もらってきたパンフレットなどをファイルに整理し、必要な記事を書き…。春季も簡単に荷物を整理したりレポートに使えそうなところの写真をネットワークサーバーにアップロードして保存したりした。何事もあっさりばっさりな春季と違い、陽介は面白いと思ったところへ行った日などはいつまでも作業が終わらない。そこで春季は洗濯とスケジュールチェックをひき受けることにした。暇なのだ。
そのあとはテレビのニュースを見たり、自宅にちょっと電話を入れたり…あとはベッドにもぐりこんで、せいぜい恋人らしい夜を過ごした。
+++
S市でおおよその行動リズムが出来上がった頃、Y市に拠点を移動する日がやってきた。
そのころになると二人顔をつきあわせてバカップルよろしく過ごすのにもいささかの慣れみたいな飽きみたいなものがきた。その感覚は、濃い味の外食への飽きと歩調をそろえつつ、じわじわと虫歯のように進行した。二人は浮かれたバカ騒ぎはやめて少しお互いに落ち着いた。それでもそれなりに仲良く過ごし、たまには言い争いもあったが、すぐに仲直りした。
このころに陽介を驚かせたのは、春季の生活の中での地道で粘り強いトレーニング習慣だった。
朝陽介が目を覚ますと、春季が部屋にいないことが多くなり、さがしてみると、外の広い場所で黙々と筋トレやストレッチをしているのだった。一体どのくらいやっているのだろう、と少し早起きをしてみて更に驚いたのだが、なんと春季はそのトレーニングの前に、30分ほど走っているのだった。陽介が起きるくらいの時刻にさらっともどってきてシャワーなんか浴びたりしている。それで日中は陽介と同じだけ活動し、夜は夜で「もういい加減ねようってば」ってなくらいだし、こいつ只者じゃねえな、と感じることしきりだった。なのにそれでも更に駅で時間まちをしていると「あー体がなまる」と言って伸びをしたりする。まったく普段家にいるときはどういう生活なんだろう、と陽介は呆れた。…そういえば、春季の自宅には、武道場がある。もしかして、普段は毎朝兄達の誰かと組手でもやってるのかもしれない。だとしたらすごいことだ。ちなみに春季の兄たちは一人をのぞいて全員かなり立派なガタイをしている。とくに上から2番目はすごい。もっともこの2番目と春季はどうやら少し仲が悪いらしいが…。
「…おまえP-1にいたとき、なまってなまって退屈のあまり死にそうになったんじゃない?」
「正解! なりました。先輩荷物重い?持ってあげましょうか?」
「…いいよこんなもんくらい。別に重くない。」
「遠慮しなくていいですよ。先輩か弱いんだから。体きつくないですか?」
「…ぶつよアンタ。」
「イヤン。」
「Y市についたら蕎麦でも食おうか。軽いやつ。」
「そうですね。シンプルな味のものが食べたいです。なんだか。」
「うん、あと薄味でそぼくなやつとかね。」
「賛成。」
乗り込んだ鈍行列車はたいそうクラシックな車両だった。
中の席は全てが二席ずつ向かい合ったボックス型になっていて、椅子の下には前の客が置いて行ったゴミがそのまま残っているところもあった。壁はなんと板張りで、ニスの色がなんとも言えない風合いになっていた。古風な帽子かけもついている。椅子の布地もところどころすりきれていた。
「…窓が手動だ。」
「へえ、窓あくんだ。…わ、窓、きったねー。」
二人はひそひそいいながら、すいているのをいいことによさそうな席をのんびり物色して、やがて決めて荷物を棚にあげた。荷棚はいわゆる網棚というやつで、荷物をのせると「荷物ハム」みたいになった。
「うふふ、先輩が鉄道好きなの、なんとなくわかってきた。いろんな車両があるんですね。けっこうおもしろいや。」
「…おまえからその言葉が出るのがこの車両とはなあ。」
陽介が複雑な顔でそう言うと、春季は言った。
「…ここの州ってなんだか潔癖っぽいのかと思ってたんですよ。免疫システムが退屈して暴動おこすくらい清潔だって聞いてたし。じっさいドームの中とかって異常にきれいですもんね。匂いまで消してる。…でもこれを見てなんだか安心しました。」
「…まあ俺は廃虚もアンティークも好きだけどね。住んでるとこもかなりアンティークだし。いまどき襖のある家ってどれくらいあるんだか…。」
「先輩んちは素敵です。おちつきます、あそこは。にゃんこたちも御機嫌です。」
「…喜んでいいのか?」
「勿論。」
二人が硬くて妙なすわり心地の椅子に座ると、唐突に車両の開いていた窓が全て自動で閉った。そしてシューと音をたてて、冷房が入り始めた。…みかけほど旧式というわけでもないらしい。よく見ると、なんと椅子の下のゴミはプラスティックで巧妙に作られた「ゴミの置き物」だった。二人は面白がって、車両の写真を撮った。
「ドーム以前の時代の服着てふろしき包み持った行商さんのろう人形とかいたりしてな、どっかに。」
「いそう!」
二人はきゃっきゃっと笑った。
間もなく列車は動き出した。
+++
S市からY市までは特急でも使えばすぐなのだが、鈍行をつかうと4時間かかる。途中2箇所下車して観光したり食事したりの予定だったので、その日は一日移動だった。
実は春季が思う程には、陽介はか弱い体ではないのだが、ときどき、電池がきれたようにコトっと眠ってしまうことがあるのは事実だった。着替えの途中とか、ちょっとベンチにすわってるときとか、ほんとうに「うっかり」眠ってしまうのだ。一緒に旅行を始めてからそれが2回ばかりあったため、春季はすっかり陽介がグリコーゲンの貯えのない息切れ体質なのだと思い込んでいた。
…だからその日、途中下車して神社なんかを回ったあと、もう一度古風な車両にのりこんでまもなく陽介がすーすー眠ってしまっても、「先輩ほんとか弱いなあ。ふふ、かわい(はぁと)。」と少し苦笑して、静かにそっとしておいた。あとはもうY市まで乗ったままだったし、その車両には、二人のほかに客の姿はなかった。無理に起こすほどでもないと思った。
外は午後の日が、すこし傾き加減になっていた。のどかな農村風景の山あい・平地の繰り返しがずっとつづいていた。
春季は眠った陽介を一人座席に残して、連結部分まで飲み物を買いに行った。自動販売機が二つ並んでいたのでのぞきこみ、レモンとハチミツのジュースを小銭で買い、そこで栓をあけた。
ちょうど半分ほど飲んだところでどこかの駅についたらしく、列車は停止した。春季の立っていた連結部分から見える乗降口も自動で開いたが、田舎の駅なのだろう、乗り降りする客の気配はなかった。
のんびりジュースを飲み続けているうちに、列車は再び発進した。
缶がカラになったので、リサイクルケースに放り込み、自分の席に引き返した。
戻ってみてびっくりだった。なんと、陽介の向かいに誰か座っているではないか。
周囲の席は全てあいている。一体何を考えているのだろう、と春季は訝しんだ。
(…置き引きか、ホモのチカン…?)
まずそう考えたものの、その人物のなにやら上品そうな後ろ頭を見て、違うかもしれない、と思い直した。
(一人旅の人かな?…僕がいなかったから、先輩も同じ一人旅だと思って、向かいにすわったのかもしれない。)
春季はそう考え、気を取り直して、そのボックスに近付いた。
春季が近付いても、男は気付くようすはなかった。春季はかまわずにボックスに踏み込み、眠ったまま壁によりかかっている陽介の隣にべったりくっついて座った。…この座る距離は、春季のクセみたいなものだ。別に相手へのデモンストレーションというわけではない。
男は座っていても背の高さがわかるような、ほっそりした体つきをしている。髪はさらさらのストレートで、はんなり長かった。目はいわゆる切れ長、鼻はほそくて高く、薄い唇を上品に結んでいた。質のよいソフトスーツをこれまた品よく着こなしていて、一目で「生まれつきのお金持ちだな」とわかった。春季はいい気がしなかった。この人に少し似ている人物を知っていたからだ。
(こいつ、先輩の友達の安西に似てる…。親戚とかじゃないだうろな。)
春季はその男をじろじろ見たが、…間もなく、その男の様子が普通でないことに気がついた。
(こいつ…僕が見えてないんじゃ…?)
男の態度は春季が戻ってくる前と少しもかわらない。
目は間違いなく眠っている陽介を見つめていて、少し微笑んでいるようにも見える。
手荷物などは何一つ携えていないようだ。
一体何者だろう。
こうまで無視されると、むっとするのを通り越して、無気味に感じた。
陽介は相変わらずすうすうと静かな寝息をたてている。
男も動かない。…まるで置き物のようだ。
春季は思いきって話しかけてみることにした。春季の育った地方では、相席した旅人同士、挨拶をするのは当り前のことだ。
「…こんにちは。御旅行ですか?」
すると、男が初めて春季に気がついたかのように視線を動かした。
そして、不思議そうな顔でじろじろと春季を見た。上から下まで、何度も見た。…つくづく失礼な男だったが、指摘するのは何となく憚られた。春季は息をのんで、相手の言葉を待っていた。
男はそのうち目をほそめ、少し唇を押さえるようにしてから、静かな、けれどもよく聞こえる美しい声でこう言った。
「…君は…お連れさんかい?」
…鈴の音、という喩えは男には合わない。ならばそれは…せせらぎの水音のような澄んだ声、とでも言えばよいのだろうか。耳がくすぐったいほどの美声だった。春季は我知らず、ぼーっと聞き入った。あるんだよなこういう声、たまに、と思った。前にもどこかで、こういう素敵な声を体験したことがある。本当にカラダの不調さえなおってしまいそうな、よい響き。
春季の考えが筒抜けにわかってしまったかのように、男は少し苦笑した。
そして言った。
「私はこの子を知っている。この子は…でしょう?」
「あ、お知り合いですか?」
男が陽介の名前を言ったので、春季は少し意外に思い、聞き返した。
「ああ、うんと小さいころだから、この子は忘れてしまったかもしれないけれど…私はとてもよく覚えている。まんまと騙されたからね。」
男はそう言ってにやりと唇をつりあげた。
…なぜか春季はぞっとした。笑った男の唇の両端が…思わぬところまで持ち上がったせいもある。
「…ははは、こわがらなくてよいよ。怒ってはいない。ただとても残念だった。私は可愛い男の子がとても好きなので…もう少し滞在してほしかった…。」
ものすごくストレートにカミングアウトされて、春季はいささか戸惑った。
「…そうですか。先輩、小さい頃、かわいかったですか?」
男は2回うなづいた。
「…とても可愛かった。」
「…あの、起こしましょうか。せっかく、お知り合いなのでしたら。」
そう申し出ると、男は寂しそうに首を左右にふった。
「…どうして…?」
「…起こしても無駄だよ。…それに、きっと、もうわたしのことなど忘れてしまったさ。それを確認させられるだけなのは、私にとってはつらいことだ。」
…この男ほんとに美童好きの大馬鹿者なんだな、と春季は察し、同類相憐れむといった気分になって、頭を掻いた。きっと大切にしている思い出なのだろう。ケチをつけたくないのだ。…現在の陽介にかかわるつもりがないというなら、春季にとってはむしろ好都合だし、尊重しよう、と思った。
男はそれからまた春季に目を移して言った。
「君は…その腕はどうした。なにやらずいぶんと光っているね。」
あ、と春季は思った。なるほど、これが見えるということは、…住んでる世界が半分くらいずれているということだ。…春季の兄にもそういうのが一人いて、どえらい変わり者だったりする。
「ええと、話せば長くなるのですが、…これ、ある人への伝言なんです。あずかっているんです。」
「うむ。」
「…」
「…」
春季が困って黙ると、男は言った。
「…なるほど、誰かに書き込まれた。それを誰かに届けると約束してしまった。では消すわけにもゆくまい。…それにしても目立つ。いろいろ寄ってこないか?」
「いろいろ…とおっしゃいますと…?」
「…いろいろ。稲荷の前でだれともつかぬ誰かに話し掛けられたり、気がついたら鳥居の前に立っていることはないか?」
「!…い、いえ、そんなことはありませんが…あの、ちなみに鳥居とは、なんでしょうか。」
「神社のまえにこのような形の門があるでしょう。」
男は手で井戸の井の字のような形を描いた。春季は先程行ったばかりの神社を思い出し、あああれか、と思った。
「ああ、あの門ですね。」
「さよう。あの門の中には、祭られるものが居る。そのしるしになっている。」
「ええと、いなり、とは…。」
「…君はその匂いから言って、州都から来たね?…あのあたりの路地には、まだ稲荷がある。ちいさなちいさなお社を見たことはない?」
あいにく覚えがない。…それにしても匂いってなんだ、と思った。
「意識にひっかかってないみたいです。多分見ているんでしょうけれども。…僕、匂いますか?」
「匂いはだれでもそうだ。水の匂いがつく。州都は水が悪いので、とくにすぐわかる。」
「…州都の人って、くさいんだ?」
「…くさいというほどでもない。」
「みんなわかっちゃうものですか?」
「みなはわかるまい。わたしがわかるというだけです。…鳥居にはひっかからなくても…金色の仏とすれ違ったりしない?」
「そっ…それもありません。でも…あの、」春季は思いきってうちあけた。「…空いっぱいの天使なら、見ました。」
男は眉をひそめた。
「…うむ。そうでしょう。そういったものの場合もある。」
…春季の見たものは、多分、彼にとって…好ましいものではない。そんなふうな態度だった。
男は言った。
「…君にはわからぬやもしれぬが…君は、暗闇のなかで激しく燃え盛る松明をかかげて歩いているようなものだ。珍しがって寄ってくるものがあっても不思議ない。だが、よくないものや矮小なものは、その火をおそれて近付くことはできない。結果として、…滅多にない珍しいものばかり寄ってくることになる。」
「た、松明、ですか?」
「さよう。…隠したほうがよいよ。めんどうでありましょう。いろいろと。」
男はそう言うと、立ち上がった。…席を去る気なのだな、と春季は察し、慌てて尋ねた。
「どうやって隠したらいいでしょう?」
「…うーむ。」
男は立ち止まって考えた。
「…私にはわからない。頼子が知っているかもしれないな。頼子に聞きなさい。」
「え、どこのだれですか、ヨリコって…」
男はめんどくさそうに眉をしかめた。それからまたうーむといって、そして言った。
「8月20日から23日までどんちゃん騒ぎをするから、そこへ来ればいる。この汽車にどこまでも乗って一番先まで行って、一番先で降りたら、人にききなさい。私は道順は苦手だ。それから私と話したとみだりに言わないようにしなさい。わたしのほうは別にかまわないけれども、きみは周りから、気が狂ったと思われるから。」
「え…あ、はい、わかりました。」
「祭りには私もいます。またそこででも会いましょう。まあ、たまには州都にも行ってるけれども。…じゃあ。」
「あ、ありがとうございました。」
春季が頭を下げると、男は足音も立てずにすーっと歩いて、隣の車両へ行ってしまった。
気がつくと外は宵闇が広がっていた。おわりかけの夕焼けが、遠くのほうに少しだけ見える。車両の中に、唐突に蛍光灯がまたたいて灯った。
「うーん…」
旧式な蛍光灯のまたたきに反応したのか、陽介が呻いた。
春季が黙って見ていると、陽介は目を開けた。
開けた瞬間に、陽介の目から涙の粒が2つ3つ落ちた。
「あれ…?」
陽介は不思議そうにそれを拭い、それから春季を見て、言った。
「…何キツネにつままれたような顔してんの。」
春季はぼんやりと、男が出て行ったドアを見つめてから、また陽介を見た。
「…ちいちゃくて可愛かった頃の先輩に騙されたっていう、先輩の昔の男が来てましたよ。」
「なんだよ、そりゃ。またなんか変な目にあったのか、お前。」
陽介に言われて春季はやっと気がついた。
…あの男は、人間じゃなかったのだ。
春季は急に寒くなり、陽介の腕にすがると、あったことを早口で全部残さず話した。陽介はそれを聞いて少し考えていたが、やがて立ち上がって言った。
「…まだどこにも停車してないだろ。そいつ乗ってるかもしれない。探してこよう。」
春季はイヤだったが、陽介に引っぱられて仕方なく、列車をすみずみまで歩いた。途中で2~3組の客に会ったので、いちいち「こういう人見ませんでしたか」と聞いたが、誰も見ていないと首をふるだけだった。時間がたてばたつほど、男と話したことの現実味が春季の中からうすれてゆき、目的地につくころには、すっかり男の顔つきの記憶もあいまいになってしまった。
とるものもとりあえずY市で列車を降りた二人は、駅で宿に電話をかけて、車で迎えに来てもらうことにした。外はもう真っ暗だ。
車を待ちながら、陽介は言った。
「…春季、この路線の終点てU市だろう。どうせ後日その町行くし、スケジュール合わせて行ってみるか、祭。…その人がなんであれ、なんだかお前によかれと思って言ってくれたみたいだから…。よりこさんて人も探してみよう。」
春季は眉をひそめた。
「…僕…あまりそういうのと、おつきあいしたくないんです、これ以上。」
「…そんな言い方するなよ。失礼だろ。」
「失礼って…人間じゃないでしょ。」
「カミサマだろ。失礼な言い方絶対するな。」
意外ときつい言い方をされて、春季は驚いた。
「…そ、そういうもんですか?」
「そうだよ。」
「え…あ、はい。わかりました。」
戸惑いながら、春季はうなづいた。
駅の外はまだ昼間の暑さが残っている。
車が迎えにきて、二人はY市の宿に向かった。