25 YORU 4
あっというまだった。
10枚ばかり襖を蹴倒したとは思うのだが。
はあ、はあ、はあ、と、自分の呼吸の音が聞こえた。いやな匂いのする息だった。
いつきの息がここまで上がることはまず滅多にない。
いつきのヘモグロビンは水棲爬虫類のそれに匹敵するほど酸素をキープできるからだ。
びっしょりとかいた汗を拭って周囲を見回した。
…ここのところ陽介が使っている部屋だ。今は誰もいない。
水墨画の描かれた襖の前に、陽介の荷物が無造作に置かれているだけだった。
(田中やんと落ち合わないと。)
いつきは息を静めてそう判断し、きっ、と口を結ぶを部屋を出た。
…どこの襖も破れたり倒れたりはしていないようだ。
一体いつきはどこへ行って来たのだろう。
田中は「もう一人の翠さんにあいにいく」と言っていたが、たしかに白い髪をしたそれらしきはいたが、あれは…
(あれは記号にすぎない…)
いつきは唾をのみこんだ。…のどが乾いている。
(…あっちの世界に似ていた…)
いつきがいつも倒れて眠るときに、自然と意識が流れて辿り着く世界と、あそこは気配がそっくりだった。
(でもいつも見る大河も川原もなかった、深い森のなかで、山ん中だった。…それに、なに、あの気持ち悪い泉…)
いつきは故郷の神殿では、向こうの世界を旅して地図を描くのが仕事だった。そういう種類の能力者だったのだ。普通、「向こう」へ行った時の地理的記憶は、目が覚めるとたちまち曖昧になり、おぼろげになる。だがいつきや一部の巫女たちは、かなりクリアに覚えていることができた。そして訓練を積んでその能力に更に磨きをかけていた。
(そだ、それよりも、田中やん!)
いつきは廊下を渡って田中の部屋へ行ってみた。すると静かに襖が開いて、濃い紫の着物を着たままの田中が眼鏡をなおしながら現れた。
「ああ、魔女子さん、大丈夫でしたか。よかったよかった。」
むしろ田中のほうこそよくぞ無事でいたものだといつきは思ったが、田中はほっとした様子でいつきの頭をなでなでと撫でた。
「さ、急いで記録しないと。すぐ忘れちゃいますから。きみも手伝って。…ああ、汗びっしょりですね。…入ってください。」
田中はいつきを部屋に招き入れ、タオルと一緒にペンとメモを投げた。
「覚えてること一刻もはやく、全部書いて下さい。書いてる端から忘れます。急いで。あなたの楽な字でいいです。」
そう言うと、田中もすぐにノートをひらいてキーを叩きだした。
黙り込んで、半時間ほどもメモと格闘しただろうか。
「…うーん、こんなもんかな。そっちはどうです?」
「まって、もう少し書ける。」
いつきは早口で答え、素早く手を動かした。
向うでは思い出せなかったことも、思い出せた。
…不思議だった。向こうにいたウイリアムという男は多分田中だったのだと思うのだが、…流産した女が男に怒りを向けられなかった話は…。
知ってか知らずか、田中は言った。
「…向こうにいるときは、夢をみている状態に似ているんだ。こっちでは当たり前のことがわからなかったり、…君も向うでは口がきけなかったでしょう?不思議なんだよ。…僕もあそこが何なのかは、実のところよくわかってないんだけどね…静さんは『裏山』とか『奥座敷』とかって言ってたよ。コノヨならぬところ…この山の心象風景なんだと、静さんは言ってた。」
いつきは驚いた。
「…山の?」
「そう。だからこの山で起こったことは、何らかの形で向こうにも反映されている。」
いつきはメモを書き終え、田中に渡した。一応共通言語で書いておいたので、多分田中にも分かるはずだ。
「うわ…こまかいな、道筋まで…て、東西南北がなぜわかるの?!」
「最初にかいたでしょ、起点時の方角を北とするって。」
「…にしたって…実際何度か行ってるぼくだって右左と目印の木ぐらいがせいぜいなのに…てゆーかこういう、東西南北考えると道がわかんなくなるから、むしろ考えないようにしていたのに…」
「…田中やん、魔女なめたらあかんよ。」
いつきはさらりとそう流し、周囲を見回した。何か飲み物がないかと思ったのだが、生憎ない。
「…田中やん、ちょっとそれ読んでて。あたし限界。水飲んでくる。のどカラカラ。」
「あ、僕にも一杯くんできてくれると嬉しい。」
「了解。」
いつきは立ち上がって、部屋を出た。
台所で冷たい水をぐいぐい飲むと、やっと人心地ついた。
水差しに水をいれ、グラスを二つ持って、田中の部屋に引き返した。
「やーありがとう。…あそこ行くとほんとのど乾くんだよね。…ああうまい。やっぱり人間の生きる場所はこっち側だなあ。」
「…ほんとだわね。」
いつきは神妙にうなづいた。
「…で、問題の件は、何かわかりそう?」
「うーん、つまりこれをつなぎ合わせると、…ええと、供物台で、女の人が呪いをやった、というのは確かみたいだね。それがええと、多分、恋愛絡み。失恋の恨みで、子供のいる女の人を…主にその子供を呪ったようだね。ということは多分、男が二股かけてたかなにかで…できちゃった結婚で一方が捨てられたってとこかな。…客観的事実ではないよ、あくまで、その女の人にとってはってことね。で、そのときの…なのか別のときなのかはよくわかんないけど、とにかく供物が腐って、臭ってた。」
田中はペンタプレットで頭をこりこりかいた。
「えーと、それで、姫、が、匂いを嫌って失踪していた、と。姫ってだれなんだろうね。」
いつきは首をひねった。
「…そういえば、翠さんや月島さんも姫の話ししてたわ。多分、もう一人、女のような神さんがいるのかもしれないね。」
「月島さんが?…うーむ、あのひと確か、ここの奥の院の管理を慎二くんと二人でやってるんだよな。…」
「奥の院て、女人禁制とかいう、…陽介が登ったとこね。」
「そう、そこ。…そこの主かな。」
「うん、うん」
いつきは多分そうだと思い、うなづいた。
「…多分、ユウが詳しいとおもうよ。翠さんの口ぶりではそうだった。」
「…くうう、僕の鬼門ばかりだな。」
「じゃあたしが聞いたげるよ。」
「ほんと?助かるよ。」
いつきは了承した。
「えと、それで、天狗に、供物台をみてくるよう頼んだ、と。」
「供物台は天狗の管轄なんだよね。」
「そうだね。でもどうやらいつもきっちり管理しているわけでもないと。」
「てことなんだろね。」
「…わかったのはそれだけだ。」
いつきは首をひねった。
「…で、天狗は多分、姫のところへいったんだよね?」
「多分ね。よばれて。」
田中もうなづいた。
「…そして行く途中で、血の通った根に絡まって、…というか捕まって、何年もぶら下がる羽目になった。」
田中はもう一度うなづいた。
「そうだね。」
いつきはふと黙り、それから眉をひそめて言った。
「田中やん、…あそこで他の木を枯らしてた根、」
田中は顔をあげた。
「地面がでこぼこしていて歩きにくかったね。あれのこと?」
「うん…それに…田中やんも初めて見たあの巨木…」
いつきは言いながら、次第に青ざめた。
田中は訝しんだ。
「…魔女子さん?どしたの。顔色おかしいけど…。」
「…生け贄…まさか…」
いつきの左腕がズキっと痛んだ。
いつきはぞっとした。
…魔法樹。
「…魔女子さん?」
「…田中やん、陽介たちが見つけた死体、何年前の、誰だったの?」
「わからない、身元とかわかったって話はきいてないよ。」
「…田中やん、女の人が呪いをかけたのは、相手の女の人の子供だったけど、実際に呪いがかかったのは、お母さんのほうだったんだよ。だって子供が泣いてたもん。」
田中はそう言われて、なるほどという顔になった。いつきは言った。
「…おかあさんが子供の身替わりになったっていうか…そもそもくらうべき相手がくらったんだ…呪いって正直なんだね。それはともかく、子供はまだ生きてるはずだ! もしかしたらお父さんも。 …それから、シバウラのこと!」
「ああ、シバウラくんのことは、多分調べればすぐわかるよ。」
「しらべて。…死体のほう、なんとかわからない?」
「この真夜中にかい?…無理だよ、せめて夜が明けないと。夜が開けたら、山向こうの駐在さんにでもきいてみようか。おしえてくれるかどうかわからないけど…」
「山向こうの駐在さん…」いつきはまゆをひそめた。多分おしえてくれないだろう。「それより、京子さんのほうがはやい!」
田中は微妙な顔つきになったが、すぐうなづいた。
「…ま、そのとおりだね。御曹子にでもたのんできいてもらおうか。」
「そうしよう。」
「その死体、関係あるの?」
「…あんただって、あれが生け贄だって思ってるでしょ。」
いつきがズバリというと、田中は無言で肯定した。
「…そう思うならまずシバウラのこと調べて。シバウラがあの死体だったとしら…」
「わかった。」
田中はそれ以上聞かず、ノートで連邦ネットにあがった。…サーバーには田中の膨大な研究資料が保存してあるのだろう。…井戸端の噂話まで含めた、この山の物語の数々が。
+++
いつきは田中のもとを離れて、ユウの部屋へ向った。
ユウは自分の部屋でぐっすりと眠っていた。
いつきはその布団を無造作にめくり、ユウの両肩をがっしりつかむと、容赦なく揺さぶった。
「ユウ、ユウ、起きて。」
「うわぁ…何事さア。」
ユウはうんざりしたように目をこすった。いつきは容赦なく言った。
「ユウ、お姫様のことについて聞きたい。」
「えー?まあそのうち話すよ。今でなくて良いだろ。もうあたしゃ疲れ果てちまって…」
「いいや! 今だよ。今話して。」
いつきがぴしゃりと言うと、ユウはやっと目を開けた。
「…なんだよ、ヤブカラボーに…」
「…ユウ、きいて。天狗が、狂ったらしいの。」
「…」
「翠さんはリセットする気らしい。」
ユウはわざと大袈裟にふーっとため息をついた。
「させればいいじゃないの。…どのみちあたしたちに口出しできる問題じゃないわよ。」
…それはおっしゃるとおりだった。しかし、いつきは田中に力を貸すつもりだった。
いつきは一計を案じた。
「ねえユウ、リセットってそう簡単にはできないんでしょ。翠さん、地震とか山崩れとかおきるかもって言ってたもん。」
「…そりゃね、神様ひとりホドくとなりゃ、それなりの力は動くわさぁ。」
「…翠さんてば、またシンジさんや月島さんから、力を集めるつもりなんじゃない?…シンジさんは、またへんなもの吐いて寝込むんじゃない?」
ユウの態度が微妙にかわった。
「…そんなこと誰が言ったのさ。」
「…だってたかが小競り合いでもハルキちゃん、シンジさん、月島のおっさん、総動員されたんだよ?山崩れが起きかねないことするのに、他にどこからパワー集めるって言うのさ。」
「…」
それは完全にいつきのでっちあげだったが、ユウはちゃんと起き上がった。
「…かもね。」
いつきはうなづいた。
「田中やんがね、『姫様』がどうしているのか、知りたがっている。」
ユウは少し黙った。
「…それが何に関係あんの。」
「どうやら、天狗はね、壊れる前に、姫様に会っている可能性が高いの。」
「…」
「…姫様のところで何かあったんじゃないかと思うの。それがわかれば、もしかしたらリセットしなくてすむかもしれないでしょ?」
「…と、田中センセがいってるのね。」
「うん。あたしもそうかもしれないと思うんだ。」
いつきは立場をはっきりさせて、念をおした。
ユウは、ふぁぁ、やれやれと言うと、枕許においてあった上着を羽織った。
「…ついておいで。」
ユウは寝床を抜け出して、先に歩き出した。
いつきは後を追った。
+++
ユウがいつきの手を引いてつれていったのは、件の廊下だった。
池といわずどこと言わず、廊下そのものも含めて、真っ暗だった。
鼻がつうんとするような暗闇だ。
廊下の真中に座ると、ユウの声が言った。
「…いいよ。聞きたいことがあったら聞いて。仲介するから。」
「…なんでここなの。」
「…この池は奥の院の鏡池に繋がってるのよ。」
「…ふうん。」
…陽介が訪ねたという、岩場を登って行くあの池のことか。だれもいなかったとのことだが。まあいい。
「…姫様は異臭に苦しんで、お住いを離れたって聞いたけれども、何の臭いだったのかな?」
ユウは少しだまっていたが、不意にまったく別の声で喋り出した。
「片付けたのだろうな?あのようなものを放置しおって…」
いつきはいささかびっくりした。
「え…と、多分片付いたんじゃないかと思うんだけど…それは、あの、人間の死体だったの?」
「天狗は生きた人間をかどわかすことはあっても、食うわけではないゆえ。死体など、無用。」
「…死体じゃなかったの?…」
「しらぬ。異臭は古くからあった。しかしあの時期の悪臭には流石にたえかねた、それだけだ。小さな悪臭は大きな悪臭を呼ぶ。…とにかくはよう片付けよ。」
ユウは別人の声で吐き捨てるように言った。
「…天狗には、会った?」
「供物台の主のことか?会ったとも。呼びつけてやった。」
「そのときに、どのような話を?」
「即刻片付けよと命じた。ひれふしておったぞ。」
「そのあとどうなったの。」
「何も変わらなかった。…いや、奴は、おそらく…」
「おそらく?」
「我が元を辞する際に、解けたやもしれぬ。」
「…解けた?」
そういえば、ユウもさっき、同じような言い方をしていた。
「それはどうして?」
「…わからぬ。我もその際に遠くへ吹き飛ばされて、解けたゆえ。」
「え、じゃあ、あなたは今解けたままなの?」
「いや、我はまたすぐに結んだ。我の結び目は強固ゆえ。すぐまた元通りになった。ただ、奥の院には帰ってはおらぬ」
「どうしてふきとばされたの?なにに?」
「わからぬ。そののちのことは時間もはっきりせぬ。」
「天狗は…結びなおすことはできなかったと思う?」
「…わからぬ。」
いつきは真っ暗な闇のなかで眉をひそめた。
「…なぜ帰らないの。」
「…帰られぬ。」
「…なぜ。」
「まだ臭い。…それに別の力が入っておって、煩わしい。」
「…それは…どんな力?」
「強い力。叡智の力。守護の力。維持の力。聞き取る力であり、発信する力。…異国の力。時間をさえ…分断する。」
「…」
いつきの胸で、悪い予感はますます膨れ上がった。
「…あなたは今どこにいるの」
「それは…」
答えかかったとき、廊下に突然ぱっと明かりが灯った。
いつきはまぶしさに目をほそめた。
ユウのおかっぱあたまが目のまえで揺れ、向こうを向いた。
「なにしとるおまえたち。早う寝ないか。」
おばあちゃんだった。
ユウは普通の声で言った。
「いつきがトイレ怖いっていうからさぁ…」
「なにいっちょるか。まったく、遊ぶ元気がのこっとるんならば、台所のことでもせんかい。」
「はぁい寝まーす。」
ユウはぱっとこっちをむいて、いつきの手をひっぱると、引き返した。




