24 YORU 3
薄暗い宵闇に、髪の長い女が一人立っていた。
女は子供をつれていた。
…ように見えた。
一歩、また一歩と歩くたび。
女は足下から溶けていった。
やがて川辺に辿り着く頃に。
女は黒い水たまりになった。
なすすべもなく立ち尽くし、
泣いている子供は、
男の子、だった。
おかあさぁぁぁん、…
にごった悲鳴の泣声、
…いつきは胸を締め付けられるような気持ちになり、その子のほうへと駆けた。
何ができると思ったわけではない。
ただ、誰かが抱き締めてやらなくては、と思った。
しかし駆けても駆けても、至ることはなかった。
一羽の鳶が、ゆっくりと上空で環を描いている。
風のない午後だった。
森はひっそりと静まり返り、主は沢で涼んでいた。
遠くで音がした。
主は顔をあげた。
悲鳴が、かすかに響いた。
鳶がきえている。
沢の音だけが清らかに続く。
唐突に斧が振り下ろされた。
生臭い魚のうろこが飛び散った。
ぬるい体液が岩をぬらす。
あの女に死を。
女の声が言った。
返して。わたしのあの人を、
返して。
あの子供に死を。
あの子さえいなければ。
あの子さえ。
…生温い血と、どろりとこぼれた黄色い脂。
誰かが歌を歌っている。
呪いの歌を。
その美しい声。
…空が割れた。
何かが空を引き裂き、落ちてくる。
熱い大気を突き抜けて
生け贄の血を目指して
さっさかさまに。
…絶叫が響く。その声はいつき自身の声だ。
(やめて!やめて!やめて!それを呼んではいけない!決して呼んでは!!)
知り尽くした激痛に撃たれる。
(やめてーーーー!!)
…鳥が逃げたのだ。
ただの鳥だった。
ただの、きれいな、オウムだったのだ。
…いつきのものではない、よく知った誰かの悲鳴が聞こえる。
あつい、あつい、あつい、…
…燃え上がる炎の中、オレンジ色の炎に舐められる黄金の天使。その七色の翼。
「…魔女子さん、しっかりするんです。あなたはそんなものに負けたりはしない。すべて、幻のようなものですよ。何一つとして、あなたに起こったできごとではないんです。」
…届いた静かな声に目を開けた。
頭からずぶぬれになった誰かが、いつきを水から引き上げたところだった。
苦しさに、はぁはぁと息をついた。
…その濡れた髪の、睫の長い、目のきれいな痩せた男が誰なのか、いつきにはわからなかった。
「…立ちなさい。」
命令は穏やかだった。いつきは足を踏み締め、彼の腕にすがって立った。
岸に上がると、静かな森のなかで。二人が出て来た泉は澄んだ美しいものだった。いつきは濡れた手で顔を拭った。…手から、なにか光の粒がきらきらとこぼれおちた。
彼はふとそれに気がついて、こぼれる光の一つを手に受けた。…光はそのまますうっ…っと彼の手に染みていった。
「…これは…。」
…少し胸打たれたといった顔でいつきをみつめ、いつきが不機嫌な顔で見上げると、苦笑した。
「…じゃ、いきましょうか。」
二人は歩いて、森に分け入った。
いつきは、自分が何をしに来たのか、また今何をしているのかが判然としなかった。…まるで自分という図が、周囲の風景という地に反転してしまったかのようだ。自分が世界になってしまったために、意識が散じてしまったような気がした。
いつきはいつでも不機嫌だった。
夜徘徊する野良猫のように。
救済の手に噛みつく黒猫アルテミスのように。
しばらくすると、彼は立ち止まって、そっと指をさした。
いつきがそちらを見ると、緑色に光る着物をまとった、真っ白な髪の男が立っていた。
いつきはその男を見て、ぎょっとした。
「…しっ、大丈夫。しゃべらなくていいからね。」
彼が静かに耳に吹き込んだ。
いつきは黙ったまま、不遜な目で白い髪の男を見つめた。
…在りし日に、父を断罪したときの目で。
「…おまえか。」
男は彼の顔を見て言った。
「…ここにはなにもない」
彼はそれを聞くと、いつきを促して、先に進んだ。
次に二人が誰かに会ったのは、切り立った岩場だった。
天狗がいて、こう言った。
「今日は、姫に会う。」
彼がうなづくと、天狗は言った。
「…供物台が匂うと、姫は嫌がっていらっしゃる。」
彼がもう一度うなづくと、天狗は言った。
「…誰かが呼んでいるようだが、わたしが行くことはできない。姫の御心に、添わぬゆえ。」
彼がまたうなづくと、天狗は飛び去った。
おそろしいほどに晴れ上がった真夏の晴天に。
…水がのみたくなった。命の水が。
「…いこう。」
彼がいつきを促した。
「…のどがかわいた」
と、いつきは言おうとしたが、口からもれたのは、鳥のような鳴き声だった。
彼はそれをきいていささか驚いたようだったが、別にそれ以上気にするふうでもなく、すぐに前を向いて歩き出した。
美しい山林の中を、いつきはかわいた喉に苦しみながら、彼のあとについて歩いた。
しばらくゆくと、薄青く透き通った人影に出会った。
いつきは誰何の声を出したつもりだったが、なにか鋭い鳥の鳴き声のようなものが響いただけだった。先を歩いていた彼は一旦ふりかえり、いつきが見ているほうをみた。…少し考えているようだったが、思いきったようにその青い影に言葉を発した。
「…どうしたんですか。」
すると影は二人を見た。
そして言った。
「…忘れ物をとりに来て、道にまよった。」
彼はそれをきくと、静かに問いなおした。
「…何をとりにきたのですか。」
「…忘れた。」
「…それじゃ迷いますね。」
「…」
影は妙に罰悪そうにだまった。
それから言った。
「昔、このあたりに住んでいた。」
「…そうなんですか。」
「そうなんだ。…この道も、よく歩いた。」
「…なるほど。変わったお住いですね。…食べ物は、食べない生活だったのですか。」
「…?いや、そんなことはない。普通だ。ラーメンが好きだ。山の中腹に昔は『まつの』という食堂があって、そこのラーメンがかなりうまかった。俺の同級生の実家だ。」
「…あなた人間ですね?」
「…それ以外のなんだ。」
彼は影に向ってうんうん、とうなづいた。
「…わかりました。あなた、いつここにはいったのですか。」
「いつ…」
影は少し黙り込んだ。
「…おぼえていないのですか。…じゃ、お名前は?」
「シバウラだ。」
「…町の人ですかね、その名字だと。」
「いや、山の中腹の村落に家があるんだ。10戸ばかりの小さな村落だから、村というほどでもないんだが。」
「…供物台の近くの道から降りたところですか?」
「そうだ!」
「…あそこにシバウラさんという家はなかったとおもいます。」
「ああ、ちがうんだ。両親が離婚して、俺と弟は母と山をしばらく離れていた。シバウラは母の旧姓なんだ。」
「じゃ、お父様は?」
「…」
影は本気で考え込んだ。
「…覚えていないのですね。」
「うーん…。」
彼はすこし考えて言った。
「…あなたの事情がよくわからないままに、これを言っていいかどうかはわからないのですが。…なんにせよ、あなたの今の状態はあまりよろしくない状態であることは間違いないと思う。まず事実をお伝えしますね。」
影はすこし動いた。うなづいたようにも見えた。
「…ここは生きていようが死んでいようが、人間が存在するべき場所ではありません。…あなたはなるべく早く出て行く必要があります。」
影は抗議するように言った。
「なにいってんだ。ここがいくら山奥だからって、そこまでいうことはないだろう。」
「…そうですね。でもわたしはここに、静さんからもらった呪符を使って命がけではいってきているのですよ。あなたは道に迷って、とんでもない世界にきてしまっているんです。ここは、あなたの知っている故郷の山の、さらにずっと上のほうにあるまったく別の世界ですよ。普通なら決して入ることなどできないんです。」
「静って…みずもりの…?」
「そうです。」
…水守の一族の名が青い影に与えたインパクトは強烈だった。影はぶるぶると震え、紫色にかわり、縮み上がった。そしてさらに影は黒みを増しながら言った。
「お、俺は、はやくかえりたい。」
「…そうですね。そのほうがいいでしょう。」
「だが、俺は、さがさなくちゃいけないものがあるんだ。それが見つかるまでは、帰れない。」
「…」
それを聞くと、彼は少し注意深く言葉を選んだ。
「…忘れ物、といっていましたね。…なにを探しているのですか。」
「俺の家にあると思うんだ。供物台はどっちだかおしえてくれないか。」
「…自分の家をさがしていたのですね。」
「そうだよ。だから山に来たんだ。」
「…目は、見えていますか?」
「…いや、正直なところ、薄暗くて、あまりよく見えない。」
それを聞くと、彼は少し暗い顔になった。
「…そうですか。…ではもう一つ、あなたに事実を告げなくてはいけません。…10戸ほどあったその集落ですが、現在は無人です。」
しかし、その言葉を聞いても、影はそれほど動揺しなかった。
「…老人が多かったからなあ。…親父が死んだって話は人づてにきいてるよ。」
「そうですか。」
「…わかった。じゃあ、とにかく、家へ行く。…供物台はどっちになるかな?」
「…」
彼は少し沈黙し、そして言った。
「…では、わたしの用が済んだら一緒にここから出ましょう。ついていらっしゃい。」
「わかった。」
「あ、そうそう、…この女の子の機嫌を損ねないようにしてくださいね。怒り出したらどうなっても僕は知りませんから。」
青い影はそういわれて初めていつきを見た。
「…もう怒っているように見える。」
影がそう言うと、彼はぷっと笑った。
「…それは地顔です。まだ大丈夫ですよ。」
影はああそう、と興味なさそうにいつきから目を外した。そして彼に言った。
「あんた名前は。」
「ウィリアム。」
いつきは「だれじゃあそれ」と思った。
「ありがとうウィリアム。よろしくな。その子は?」
「…まじょこさん。」
「…名前だよ。」
「…思い出せないんですよ。」
「知合いじゃないのか?」
「知り合いですよ。でも思い出せないんですよ、名前だけ。…多分、偽名だったんでしょう。」
いつきはその瞬間に目が覚めたような感触を覚えた。…自分が砂漠で別の名で生きていたこと、ラウールに新しい名前をもらったこと、砂漠にいたときのことは連邦では隠さなくてはならないこと、…菊や咲夜のこと、陽介のこと、はるきのこと、…母からの伝言を読まなくてはならないこと。
ウィリアムはその気配に気がついたようだった。
「…大丈夫ですか、魔女子さん。」
「ギャ-」
声はあいかわらずそんなような声だった。
青い影はぎょっとした。
「しゃべれないの、この子。」
「…うーん、多分、日本語が母国語でないのだと思います。こっちの言葉は理解しているから心配ないですよ。」
「しゃべれないのかあ…」
青い影…シバウラは残念そうにそう言った。多分、大変なお喋り好きの男に違いない、といつきは直観的に思った。
「ぎーぎーぎー」
のどかわいた、とシバウラに言うと、シバウラは言った。
「俺に文句いわれても困るわな。」
…話が通じている、らしき気配だった。
+++
一行は2人から3人に人数が増え、また道を進み始めた。
シバウラはいつきの予想どおり大変におしゃべりな影で、ひっきりなしにどうでもいい話やらつまらないギャグやらを続けていた。ウィリアムは面白そうにそれを聞いていたが、ふといつきの顔をみてその表情に苦笑すると、シバウラの話の腰を折って尋ねた。
「…ひょっとして、誰かと話すの久しぶり?シバウラ君。」
シバウラは少し考え、答えた。
「そうだね。ずっと誰にも会わなかった。」
「寂しくなかった?」
「退屈だったな、言われてみると。」
「魔女子さんがみつけてくれてよかったね。」
「…俺って、今普通の人からみえないの?」
「いや、多少は見えますよ。でも、見えても気がつかないことって多いから。」
「…含蓄深い言葉だね。ウィリアムって、宗教関係?神社とかの…」
「…まあ、出たらゆっくり話します。きみは…学生ではないよね。」
「…俺、何やってたんだっけ。仕事してたけど、思い出せない。」
「思い出したら教えて下さい。」
そこまで話したとき、一行は何か壁のようなものに遮られて、道を失った。
「あれ…。こんなものなかったのに…。」
ウィリアムはつぶやいた。
「…でけー木だな。」
シバウラが言った。それを聞いて初めて、ウィリアムといつきはそれが木の巨大な幹であることに気がついた。
「…まあ、じゃ、迂回しましょうか。」
ウィリアムはそう言ってまた歩き出した。
その巨木は有り得ないほどの太さだった。回りを囲むのに20人の腕でたりるかどうかというほどのシロモノだ。幹には立派な注連縄がつけられている。
「…シバウラ君は、ここにきてから、何か印象的な出来事や、不思議な事件を見たり体験したりはしていないですか?」
「うーん…とくにおぼえてねえなあ。なんか必死だったつーか…まるで眠って夢見てたみたいだ。今さっきウィリアムと話して目が覚めたって感じ。…あ。」
ウィリアム は振り返った。
「…なにか?」
シバウラは言った。
「…まえにも、誰かが話し掛けてきたことがある。返事はしなかったけど。」
「…話し掛けて来た?どんなものが話しかけてきたのですか。」
「女だったと思う。」
「女ですか。」
「ああ。」
「どんな。」
「…なんていうか、こう、着物を着て、髪が長いような。」
「…着物。」
「ああ。あまりはっきりとは覚えていないが。」
「…何と話し掛けられたのですか。」
「そこまではおぼえていない。」
「…そうですか。」
一行は大木を迂回して、さらに先へ進んだ。
しばらく行くと、大きな屋敷の前に出た。
屋敷は照葉樹の森に覆われるようにして建っていたが、入り口を見ただけではその広さはハッキリとはわからなかった。
「…ここ、おじゃましてみましょう。」
ウィリアムはそう言い、玄関に近寄った。
「ごめんください。」
そう声をかけると、少しして扉がするするとひらいた。
「おじゃまします。」
そう言って頭を下げてから、ふりむいて、影といつきに手招きした。
奥の座敷へ行くと、女ばかり5人ほどが集まっていて、何かを議論していた。
議論の内容は、いつきにはよくわからなかった。
影が言った。
「…ようするに、ここの主は不在のようだな。それも、行方不明といった状態らしい。」
ウィリアムは少しびっくりして言った。
「わかるのですか?」
「ああ。…そうか、あんたもよそもんだな?方言がきつくてわからないんだろ。最近はここいらも標準語やら、下手したら連邦の共通語で話すやつもいるくらいだけれども、俺が子供のころは、まだまだ年寄りなんかは、この言葉を使ってたよ。」
「すいません、ほかにわかることがあったら通訳してくれませんか。」
「いいよ。」
影はすこし明るい色になった。
「…なまぐさい、とかなんとかいってるな。魚の匂いではないとか、なんとか。」
「なまぐさい…」
「…あれをなんとかせん限り、主を呼び戻すことは事実上不可能だといっているな。」
「事実上、ですか?」
「そう、つまり仮に呼び戻したとしても、お姫ィ様はすぐに逃げてしまうだろう、といったようなことらしい。」
「おひいさま?ここの主は若い女性なのですか?」
「…かどうかはシランが、おひぃさまらしい。」
「かどうかはしらんって…」
「…年寄りでも独身女ならおひぃさまだしな。あとは男でも、おひぃさまの場合があるからな。」
「ああ、体の弱い子に女装させるのですか。」
「ちがうよ。可愛い男の子に赤いべべきせとくのさ。男だとばれると、泉の方にさらわれるから。…ありていにいうと、美童好きのホモなんだとさ。泉の主が。」
いつきは思わずふりむいた。…影はべつだん、もやもやとかげっているだけだ。ウィリアムものほほんといった。
「…ああ、なんか聞いたことあります、そういえば。でもここ何年も、そんなことしている男の子はいませんよ。」
「そうだろうな。たぶん静で最後だろうさ。あんなばかみたいな迷信。」
「…静さんは子供のころ、そうしていたのですか。」
「なにいってんだよ、あんた静の知合いじゃないのか?あいつ普段でも絹の着物をきて、化粧していただろう。」
「まあ、たまに化粧はしてましたねえ。でもあれは、神事のためでしょう? 」
「…あんた騙されてたんだと思うよ。」
「そうなんですかね?まあ、わたしも何もきかなかったからなあ。」
ウィリアムはさらにのほほんと言った。
部屋は別段、生臭いとか、そういった不快な匂いはなかった。いつきは訝しく思った。
「…天狗に頼んでみようかと言っている。」
影は言った。
「…天狗に。」
「うん。」
影が肯定すると、女達は話し合いを終えて、部屋から出ていった。
「…供物台、の話ではなかったですか。」
「多分そうだろうな。呪いだろ、また。」
「…また、…」
「ああ。あそこはしょっ中だれかがやってるよ。…魚でないとなると、動物かもしれないな、供物。」
「…」ウィリアムは少し黙ってから言った。「…あなたはしってますか、やり方を。」
「誰だって知ってるよ、このへんの人間なら。」
「…満月か新月の夜、でしたよね。」
「そう。台に酒かけて生きた供物をあげて、右3回、左4回回って、願いごとを唱えて、命をたつ。簡単だよ。効かないときも多いけどね。きくときもあるとか。」
ウィリアムは顎をさすった。
「…きかないときも多い、…が、きくときもある…」
影はうなづいたようだった。
「俺もやったことあるよ。テストの点あげたくて、カブト虫かなんか殺した。効かなかったな。みんなに笑われたよ、もっとうまい供物でないと駄目だって。」
「…みんなって」
「クラスの。」
「ああ。」
「…なんなら効くんだってきいたら、それはやっぱり、人間が一番だろうって。でもそれは現実として無理だから、魚とか動物が妥当じゃねーの、って。できれば猪とか、鶏とか。」
「なるほど…。」
三人は更に屋敷の奥に進んだ。
まったく誰のかげもなかった。話し合っていた女たちがどこに消えたのかもわからなかった。
「…しかし、願いごとを叶えてくれるのは、だれなんでしょうねえ。天狗なのかなやっぱり。」
「どうなんだろう。…少なくともここの女主人は、どちらかというと、あれのおかげで迷惑しているってニュアンスだったね。」
「…しかもここの女主人は、供物台に干渉できない、」
「そのようだね。」
「…動かそう。」
ウィリアムはそう言うと、おもむろに懐からなにか紙切れを取り出した。そしてぺたりとゆかに貼ると、二人に手招きした。
「さ、手伝って。まわってまわって。」
影といつきはわけもわからず、ウィリアムと一緒に紙のまわりをぐるぐる回った。
…なにか変化があったようにはみえなかったが、やがてウィリアムが言った。
「ようし、このくらいでいいだろう。…さ、出るよ。」
ウィリアムが二人を連れて屋敷を出ても、何かがかわったようすはとくになかった。
しばらく木々の間を進むと、今度は地面のようすがなにかおかしい。
「…でこぼこしてるね。」
いつきの考えを読み取ったように、ウィリアムは言った。
いつきはうなづいた。
地面がでこぼこしていて歩きにくい。
「…誰かいないかな。」
ウィリアムはそう呟いて耳を澄ましている。
いつきも耳を澄ました。
遠くで声がした。
三人は顔を見合わせて、そちらへ急いだ。
声だと思ったものは、小さな滝だった。
落差は2メートルほどで、水量は少ない。
ドドドというような轟きできなく、ザーザーというような音だった。
だが耳を傾けて聞くと、それは小さな言葉の集まりだった。
女の声が言った。
返して。わたしのあの人を、
返して。
あの子供に死を。
あの子さえいなければ。
あの子さえ。
間違いない、さきほど、つい先ほど、…いつきが聞いたあの声だった。
おかあさぁぁぁん、…
男の子の声もした。
「不思議な滝だね。」
ウィリアムはぼんやり言った。
「…きみたちには何が聞こえますか。僕には、…僕の昔の恋人の声が聞こえる…。僕を許せずに…流産して…そのあと出ていってしまった恋人の声が…。…誰かを呪う声が聞こえる…不思議だ。僕ではない誰かを呪っているようだ。…なぜ…?」
「***_____***++****」
いつきは神聖言語…いつきの故郷の神殿の言葉…で答えた。言葉にはなったが、ウィリアムは、首をよこにふって、ごめんわからないと言った。どうしてわからないんだろうと思い、いつきはいらいらした。いつきはつい最近、その理由を誰かから聞いた。だから知っていた。
青い影が言った。
「…お嬢が何言ってるかは俺にもわからないが、…多分それは、あんたのことは憎めなかったから、別の何かに無理矢理憎しみをむけていたんだとおもうよ。一度は添った仲だったんだろう?」
ウィリアムは遠い目になった。
青い影は続けた。
「…でも、俺には別のものが聞こえる。…なんか、男の子がお母さんをよんでる声だよ。」
いつきは大きくうんうんとうなづいた。
…ウィリアムは多分前半だけを聞き違えていて、青い影には、多分女の声が聞こえていないのだと思った。
「…二人ともそれが聞こえるのか。」
いつきは再び大きくうなづいた。
ここに来る時にも聞いたと言いたかったが、声が言葉にならない。もどかしかった。
「…魔女子さんは、何か言いたいみたいだね。…よわったな。わかればいいんだけど…。」
お互いいろいろ苦労して伝えあおうとしたが、結局徒労におわった。いつきは、ああ、こんなとき陽介がいてくれたらなあ、と思ったが、どうにもならない。
結局3人は滝を離れた。
森の中は、そのあとはもう、ひっそりと静まりかえっていた。
澄ました耳にはいってくるものもなく、こらした目にうつるものも、これといってなかった。
ウィリアムはため息をついた。
「…これででそろったということ…?わからない。誰か女がやった呪術の特殊な供物のせいで、匂いが酷くて、おひぃさまが逃げたことしかわからない。…その呪術で、誰か男の子が一人不幸になったらしいことはわかったけど…。…もう少し動かしてみるか…」
ウィリアムはそう言うと、再度地面に何かをおき、残りの二人を呼んで、またそのまわりをぐるぐると回った。
今度は周囲が明らかに変化したので、いつきも青い影も少し驚いた。
紅葉、している…?
「…なんだ?木が枯れてる…」
青い影が言った。
ウィリアムはうなづいた。
「…うん、枯れてますね。なんだろう。初めてだ。」
ウィリアムは、その葉が黄色くなった木に近付こうとして、なにかにつまづきかけた。
「わっ」
あわてて半歩さがる。
…足下に、木の根がむき出しになっていた。けっこう太い。
「…さっきの歩きにくかったのは、これか…。…随分太い根が…。」
いつきはいやな気持ちになった。
…根だと?
そりゃあ、これだけ木があれば、根も半端ではないだろう。だが…。
この景色をどこかでみたことがあるような気がした。
…思い出せない。
足下に気を付けながら、3人は枯れた一群の木々に近付いた。
木々はたしかに枯れかかっていた。
よく見ると、枯れかかった木々の根元には、別の木の根が絡み付いて、這い上がって来ていた。初めは蔦かとおもったのだが、そうではなかった。どうみても、別の木の根だった。
「…栄養を吸われて枯れてしまったようですね。」
「そのようだな。」
それ以外のことはわからなかった。
「…ここまでだな。帰りましょうか。」
ウイリアムは二人を促して歩き始めた。
しばらく歩くと、またきれいな泉のそばへ来た。
「…かえりましょう。きみから入ってシバウラくん。…次が魔女子さん。最後に僕がいくから。庭で待ってて。…油断しないでね、魔女子さん。何かあってもふりかえっちゃいけないよ。いいね。何かあった時は、まっしぐらに走るんだ。わかったね。」
いつきはうなづいた。
泉に入ることに抵抗感はなかった。水はきれいだったし、その冷たさは命を脅かす種類のものではなかった。
水に髪まで浸かり、それから更に潜ってゆくと、やがてじわじわと染みてくるような不快なブルーの中に到達した。足がついたので立ち上がると、ざぶりと音がして、いつきは庭の池から顔を出していた。あまりに不快な感触なので、急いで岸に上がると、後を追うようにして、田中が現れた。
「あれ、シバウラくんがいませんね。やっぱここ、ぬけらんなかったかなあ、彼には…」
田中もまとわりつく青い水を振払うようにして、早々に池から上がった。
不意に巨大な手が現れて、田中を掴みそうになった。イツキの表情をみて気付いた田中は間一髪で身をかわした。
「!走って魔女子さんはやく!!」
その手はあらためてぐーっと二人に近付いて来た。
いつきは田中の手を掴んでひっぱると、一目散に駆けた。
巨大な手は追ってくる。
「僕のことはいい!護符があるから!!… きみは危ない!はやく行きなさい!!」
田中は無理矢理いつきの手を引き剥がした。
「あ!」
あっという今に田中は巨大な手に掴まれた。
「田中やん!!」
「僕は大丈夫!そのまままっすぐ行け!」
いつきは口を結ぶと田中のさした方向の襖に飛び込んだ。




