23 YORU 2
月島と陽介が待っている部屋に、いつきはおばあちゃんと2人で入った。4人は向かい合って座った。
「やれやれ、月島さん、夜中に、申し訳ございませんなあ。」
「いや、それはかまわないんですよ。…ただ、明日から私は仕事に出なくてはならないので、夜少し顔を出すくらいしかできなくなります。祭は仕事にかこつけて来るつもりですが。」
「さようですか。あいわかりました。」
おばあちゃんは当り前のようにうなづいたが、その向こうでなぜか急に陽介が不安そうな顔になった。
めんつは集まったのだが、なぜかおばあちゃんは話を始めなかった。いつきは不思議に感じたが、月島も黙っているし、陽介も大人しいので、自分も黙っていた。
そうして少し皆で黙りこんでいると、遠くから、ずしり、ずしり、という音が聞こえ始めてきた。やがてその音は部屋の前でとまり、軽い音をたてて、わりに勢いよく襖が開いた。
見ると、先ほど寝に行ったはずのはるきが、部屋に入って来た。どうしたことか、眼鏡をかけていなかった。部屋の顔ぶれをぐるりと見回してから、おばあちゃんの向かいに座ると、口を開いた。
「…頼子、どうやら厄介なことになりそうです。」
「…」
おばあちゃんが軽く頭を下げると、ハルキは言った。
「この面倒な時季に世話をかけるが、なんとかこらえてください。」
「…微力ながらおつとめさせていただきます。」
おばあちゃんがそう答えると、ハルキは軽くうなづいた。
「…隣人が壊れたようです。一旦、もどして、立て直す必要があるようです。」
いつきは、多分、例の天狗のことを言っているのだな、と思った。その考えを見すかしたかのように、ハルキはひた…といつきを見た。いつきは少し緊張した。ハルキは軽くうなづいた。
それから、またおばあちゃんに言った。
「…少し、揺れるか崩れるかするかもしれません。」
「…揺れますか。」
「…極力、響かぬように手をつくします。」
「恐れ入ります。」
おばあちゃんが頭を下げると、ハルキはいつきの顔をまた見た。
「…言葉をつくして話しましたが、まったく埒があきませんでした。…なにか、思考に事故のようなものかおこっている。それを認められずにいます。」
いつきはなんと返事をしたものかわからず、とりあえずうなづいた。
「…われわれは言語や思考に、属性を変性させられやすい。ああした状態は非常に危険です。あのままでは、彼の本性は、あの思考にふさわしいかたちに変わってしまうでしょう。放っておくと、面倒なことになります。」
…陽介が身震いした。
ハルキは月島に目をやって言った。
「…オナト、姫が不在だと聞きましたが。」
月島はうなづいた。
ハルキは尋ねた。
「…いつからです。」
「用もなく冷やかしにいく趣味もないので、いつからおいででないのかはわからない。ただ、昨日はすでにいなかった。」
「 なるほど。確かに用事もなく行けるところではない。…慎二は上がっていないですか?」
「…電話してききましょう。」
月島はそう言うと、懐から電話を出し、真夜中であることなどまるでおかまいなしに、慎二に電話をかけた。慎二のほうも心得ているらしく、別に電話の向うで騒いでいる様子もない。だが返答は残念ながら、期待に添うものではなかったようだ。月島は「…上がっていないそうです。」と短く伝えた。ハルキは少し考えた。
「…由々しき事態です。」
「…探しますか?」
「それにはおよびません。…ただ、…姫がへそを曲げているとすると、仕事に邪魔が入るやもしれませんね。…鏡が黒くなっていたとか。誰が確かめたのです。」
月島が陽介を示すと、ハルキは注ぐように視線を向けた。陽介は少し、居住いを正した。ハルキは陽介には何もいわずにまた視線を月島にもどした。
「…隣人は壊れる少し前に姫に会っておられるようだ。」
「…」
「…覚悟しておいてください。」
「わかりました。」
月島は一礼して、少し下がった。
ハルキはいつきに目をやった。
「…どこかで、豪奢な着物を着た、髪の長い女のようなものを見ませんでしたか。」
いつきはくびをふった。
「…見てない。…でもあたし、避けられてるんじゃないかな…?」
「姫はまた別ですから、なんとも言えません。…ですが見ていないのなら、避けている可能性もあります。…頼子、ユウはどうしたのですか。」
「…酔いつぶれてしまいまして。」
「…困った子だ。」ハルキは冷たく言った。「…彼女を厳しく問いただす必要があるかもしれませんね。…頼みます。何かわかったら教えてください。」
「恐れ入ります。かしこまりました。」
おばあちゃんは深く頭を下げた。
するとハルキは立ち上がり、ゆっくりと戸口に向かった。月島がいつきに手を振って「戸、戸」と口だけ動かして襖をさすので、いつきはハルキのために戸を開けてやった。ハルキはいつきに気付くと、にっこりして、手を出すように言った。
「?」
いつきが掌を出すと、ハルキはそこにそっと何か置いた。そして言った。
「…あの岩をのぼってはいけませんよ。いいですね。」
いつきはもらいものに気をとられていたので、返事をしなかったが、ハルキももういつきを見ておらず、陽介に目をやって手招きして言った。
「…ようちゃん、ちょっといらっしゃい。」
いつきが手に残されたものを見ているうちに、陽介はいくぶんおぼつかない足取りで、ハルキと一緒に部屋を出ていった。もしいつきが自分の手をみていなかったら、緊張した陽介が月島に目をやったところや、月島が行くように軽く視線で促すのを見ることが出来ただろう。
ハルキと陽介の足音なのか、それとももっとべつの何かなのか、とにかくやけに重い音が遠くなって消えると、おばあちゃんがいつきに言った。
「何をいただいたんだい。」
いつきは顔をあげておばあちゃんを見た。
「なんだろう。これ。」
掌をおばあちゃんにさしだした。いつきの手の上には、なにかどろりとした白色のものが小さなたまになっていた。
「…ああ、これは…」
おばあちゃんはうなづいた。
「…ローヤルゼリーだね。美容にいいからなめときな。…不味いけどね。」
おばあちゃんが言うと、月島もうなづいた。
「…あれは不味い。水で飲み下すことだな。」
…いつきは汗をにじませた。
…翠さんまで荷担するのか…と思った。
+++
外の廊下に出ると、月が登っていた。
ひんやりと重い空気をすい、いつきはため息をついた。
…黒い池は、月明かりの下で一層黒い。
陽介はこの池をみて怯えていたが、いつきは別にどうとも思っていなかった。だから、ここの廊下は気をつけろ、などという警告も内心はどこ吹く風だったし、実際いつきにはなにも起こっていない。幽霊だの神様だの、いるっつーならケチケチしないで出て来てみろや、いつきはいつもそんな気持ちだ。翠さんの言う通り、いつきは多分そういう連中の大半に嫌われているのだろう。そもそも翠さん以外に会ったこともないし、翠さんだって、はるきが特殊な催眠術みたいなものにかかっているだけかもしれないと少しは思ったりもしている。
池のある廊下は人通りも少ないし、ひっそりしていて、いつでもたいていは独りになれる。よい場所といっていいくらいだった。…ただし、夜は寒いのだが。
「…神様会議終わったの?」
声に振り向くと、田中だった。いつきは軽くうなづいた。
「そっちは飲み会終わり?」
「うん、終わり。明日からタケト、部活だって。だから早めにオヒラキ。」
田中はそう言いながら通り過ぎて行った。…そういえば、ここを通ると田中の部屋からはトイレや台所が近い。
いつきがそのままぼんやりしていると、しばらくたってから田中が用事を終えて引き返して来た。そして尋ねた。
「…なにこんなところでぼんやりしてるの?…なんか見える?」
いつきは首を振った。
「ううん、別に。」
「…なにしてるの?」
「別に。ぼんやりしてるだけ。…あたしあんまり頭よくないから、いろいろ考えると疲れんの。だから、こういうところでぼけらっと休むのが好きなの。」
「…翠さん、なんか言ってた?」
いつきは暗い空を見てしばらく考えた。そして言った。
「…おとなりさん、駄目だったんだって。だから、何か消滅と再生の儀式をするみたいだよ。少し揺れたり崩れたりするかもしれないって言ってた。あと、なんか姫がいないとか、ヘソ曲げてるかもとか言ってたな。」
「…駄目ってなにが。」
「うん…だからね、なにか、あまりよろしくない思考にとりつかれて、修正がきかないんだって。」
「…どんな思考?」
「…そだね、自分が騙されているとか、あと、間違った時間感覚とか、そういう感じ。」
「…ふうん。」
田中は少し不服そうなあいづちをうった。
いつきは少し考えて言った。
「…うまく言えなくてごめんね。明日の朝陽介にきいてみてよ。あいつあたしよか10倍くらい口達者だから。」
すると田中は少し意外そうに言った。
「えー、大丈夫です、ちゃんとわかりましたよ多分。」
「…そう?」
じゃあ何が不服だったのだろう。
いつきの考えを察したかのように田中は眼鏡をずりあげて、言った。
「…自分がだまされているという思い込みとか、間違った時間感覚とかって、殺されなきゃいけないほどの罪悪なんでしょうか。」
いつきはなんとなく月を見上げて、少し考えた。
そして答えた。
「…ノートの画面の狂った時計がどうしてもなおらなかったら、ソフト入れ替えるのもいたしかたないじゃない。それにいくら入力しても、へんちくりんな変換しちゃってへんな計算結果しかでなくて、ソフト上書きしても駄目なら、とりあえず初期段階に戻すとかさ、別に普通じゃない。」
田中はいつきの横顔を見て言った。
「…お隣さんは人間よりはむしろソフトみたいなものだと思っているわけね。記号の行列が、仕組み通りに動いてるだけのものだと。」
「…翠さんの話きいてたら、なんとなくそうなのかなと思った。それに人間も突き詰めていけば、案外と数種類の単純な法則に従って動くソフトみたいなものかもしれないよ。」
「…じゃそこは譲るけど、もしオペレーションシステムみたいなもだったらどうする?上に乗ってるソフト全滅なわけだけど。」
「それどころかハードのほうかもしれないわけだけど、それはわたしたちにはどうしようもないことだから。」
「どうしようもなければ、従う?」
「…」
いつきは田中の顔を見た。
田中は言った。
「…僕が言いたいのは、計算結果が狂って見えるのは、ぼくらの受け取り方や感性や時間法則のせいかもしれないのに、確かめずに済ませていいのかってことだよ。何がおこるかもわからないっていうのに。」
「…どうやって確かめるの?」
「どうにかして。」
「…」
「方法なんて考えればいいことだよ。」
いつきは肩をすくめた。
「…翠さんでもできなかったことをあたし達ができるの?」
「やってみなくちゃわからない。」
「…どうしてそんなことを?」
いつきが尋ねると、田中は静かに言った。
「…たとえば僕という人間から、間違いをすべて取り除いたら、一体何が残るんだろう?」
「…」
そこまで謙虚になることないじゃない、むしろなんか卑屈、といつきは思ったが、口にはしなかった。田中の言いたいことはわかっていた。田中は「おとなりさん」は人間のようなものだと思っているようだし、それを「殺す」と表現していた。田中といつきとの差異はそこにあるのだ。その表現の違いはそのまま感性の違いでもある。田中が卑屈か謙虚かの問題ではない。
田中は言った。
「…世界の調和はダイナミズムの上に成り立っている。それは部分部分を見ると、すべてが間違いなのかもしれない。だけど、全体としては調和している。方解石のかけらのように、破片がすべて正方形というわけにはいかない。けれども遠くからみればその外郭は恐ろしいほどきっちりと正方形なのです。断片として正しいのではなく、全体として正しいんです。一見間違いのように見える部分を徒らに正したとき、全体の調和が崩れてしまったのでは、…それは見せかけの正義がヒステリックに敢行されただけの、単なる暴力沙汰にすぎない。」
いつきはまた月を見上げた。
「…でもさ田中やん、あたしたちに全体なんかみえないよ。神様じゃないんだから。」
「そうですね。」田中はもう一度眼鏡を鼻の上で直した。「…だからこそ、良心が騒いだときは従うべきなのではないかと、僕は思ってしまうんですよ。」
いつきは田中の顔を見た。
…ま、べつに手伝ってやってもいいけどね、と思った。
「…どうしたいの、田中やんは。…多分、翠さんが動くまで、あまり時間ないよ。」
「…今はどうしていますか。」
「なにしてるのかな。…陽介つれてったみたいだけど。」
「…チャージ中かな。それなら明日の朝までは動かないはずだ。…魔女子さん、ちょっと来てくれませんか。」
「…いいよ。」
歩き出した田中のあとに、いつきは続いた。
+++
田中はいつきを部屋の前で待たせておいて、着物を着替えてすぐに出て来た。夜の闇に溶け込みそうな暗い灰紫の着物だった。
「…髪切っとけばよかったな。」
田中はいつきに足袋をはかせて、自分は靴下をはきながら言った。
「…どうして?」
いつきが尋ねると、田中は面白そうに笑った。
「…掴まれるかもしれないから。」
「…誰に?あたしそんなことしないよ。」
いつきが抗議すると、田中は困って頭を掻いた。
「いや、魔女子さんがするとは言ってないですよ。…てゆーかむしろ、魔女子さんのその立派な尻尾、つかまれないように気をつけてください。…って、ああ、今おだんごか。ちょうどよかった。じゃ、いきましょう。」
田中についていくと、田中は真っ暗な布団部屋の戸を開けて、中に入って行く。いつきもつづくと、田中はそこを通過して、向うの襖をあけて出て行きかけている。いつきは慌てて追いかけ、追いつくともう田中は別の襖を開けている。そして振り返るとにっこりしていつきに言った。
「魔女子さん、そこ、閉めて来て。」
いつきはあわてて引き返し、最初の襖を閉めてから、次の襖もしめて、既にその先にいる田中の背中を追った。
「田中やん、見失ったら困る。灯りつけてもいい?」
「いや、駄目です。灯りをつけると辿り着くことが出来ません。実験済みですので御容赦願います。」
「えーっ…」
「大丈夫、待っていますから、ちゃんとついてきてください。」
「まって、まってー」
「まってますってば。」
「そ…そで掴んでてもいい?」
「駄目です。この着物は静さんの大事な遺品ですから。」
田中はにべもなく断ると、どんどん先に進んだ。
そうしていくつかの襖をあけたりしめたりしているうちに、いつきはおかしなことに気がついた。
「…田中やん、なんかもう、廊下か表にでないとおかしい気がするんだけど…」
「…そうですねえ。おばあちゃんがあそこを小麦粉置き場にしなきゃ、もうすこし近いんですけどね。…何か察していたのかもしれないですね、あのおばあちゃんのことだから。」
「…近いってどこに?」
「…さて。それは僕にもわかりかねますが。」
「…」
のんびりとそういうこと言わないでよ…いつきは思ったが、田中は気にもとめていない。どんどん行ってしまうので、仕方なくいつきも後を追った。
そうやっていくつ襖を開け閉めしただろう。気がつくと障子の前にいた。障子の向こうは月明かりでうっすらと明るい。
障子の前に立ちはだかるように田中は振り返り、いつきに言った。
「…魔女子さん、勿論わかっていると思うけれど、僕には君を守る力はありません。だからこれから先に出会うものがなんであれ、どんな失礼や恐怖を宣うのであれ、…たのむからケンカだけはしないでください。あなたが震え上がって石みたいに動けなくなるなんてことは絶対ないだろうから、それについては心配していませんけれども、…ケンカしないことだけは約束してください。それと、僕が殺されたときは、後ろを見ないでただ目をつぶってまっすぐに引き返して下さい。道筋のことは気にしなくていいです。あらゆる襖を突き破って、ただ帰りつくことだけを祈って走ってください。約束できますか?」
「わかった。…でも、そんな野蛮な相手と会うの?」
「…ええ。」
「…誰?」
「…そうですね、強いて表現を探すなら…もう一人の翠さんです。」
いつきは驚いて田中の顔を見た。田中はうなづいた。
「…あとでゆっくり説明しましょう。…多分われわれにとっての不明箇所は全部調べられると思います。問題は、われわれがそれを正しく組み立てられるかどうか、ということです。」
「…?」
「…さっき世界が正方形だといいましたけれど、あれは喩えで、実際は球体ですよね。…球体にはかならず裏の半球があるものです。さ、時間がありません。おしゃべりはこのくらいにして、いきますよ。」
いつきの返事を待たずに田中は背を向け、静かに障子を開けた。
そこには見たことのない庭が月明かりの下に広がっていた。
見たことがない、ということ以外は別段珍しいこともない、きれいに整えられた静かな庭だった。
むこうの隅に池がある。おそらく黒い池なのだろうと思われたが、夜の闇の中では判然としなかった。
田中は庭に降りた。とくに履物はなかったので、靴下のままだ。いつきもあとにつづいた。足袋という靴下(?)は頑丈なつくりで、最近裸足の雑巾がけで鍛えているいつきに地べたは少しも苦痛でなかった。
田中は池のそばへいくと、懐から何か紙のようなものを取り出して水に投げ込んだ。紙切れは静かに音もなく沈んでいった。
するとしばらくして、池がぼこぼこと沸き立ち始めた。
いつきが目を見開いている前で池は巨大な鍋のように沸きかえり、熱を伴って溢れはじめた。田中はじっとそれを昏い目で見つめたまま…いや、睨み付けたまま、微動だにしなかった。その煮えてあふれた水が、足を浸してもなお。
近付いてきた水から一歩足を引いて、いつきは思わず尋ねた。
「…田中やん、熱くないの?」
「…熱いですよ。熱いだけじゃありません。つかってみればわかります。」
田中はそう答えて、凶悪そうな顔で笑った。
慄然としたいつきの足を熱い気配が呑込んだ。いつきは一瞬身を固くした。
…痛い、と思った。
だがそれは気のせいのような気もした。痛い、というよりは、もっと違う感覚で…飢えに似た熱さである気もしたし、悲しみに似た苦痛であるような気もした。
…悲しみ?いいや、違う。
それは違う。
たとえ悲しみだとしてもこれは…
彼女はそれが憤りであることにすら自分では気付くことが出来ない…
そんな田中の声が思い出された。そうだこれは、この痛みは…
怒り、だ。
水はいつきの膝のあたりまで上がって来ていた。
田中の声がした。
「…膝まで浸かると、歩くことが難しくなります。腰まで浸かると身動きが困難になります。腋まで浸かると、焦躁感におそわれ…耳まで浸かると、支配されます。御健闘を祈りますよ魔女子さん。それではひとまずさようなら。またすぐお会いできますけどね。」
「待って田中やん!」
叫んだいつきの目の前で田中の姿が黒い水の中に消えた。いつきは駆け寄ろうとしたが、体が思うように動かない。もう水位はいつきの腰を越えていた。
腋まで浸かると、焦躁感におそわれ…耳まで浸かると…
いつきは回りを見回した。今や周囲にはなにもなかった。ただわきたつ黒い怒りの水だけが渦を巻きながら水位を上げている。
なんなのよ、といつきは思った。ここはどこなのよ、一体何が起こっているのよ、この事態の意味はなんなのよ、どうすりゃいいのよ、ちょっと田中やん説明してよ!!と矢継ぎ早に不平不満が噴出したが、それも長くは続かなかった。
黒い水は小さな渦をたくさんつくりながら、あっというまにいつきの体を沈め耳の中にまで流れ込んだ。…いつきは思わず目をつぶった。




