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Till you die.  作者: 一倉弓乃
22/41

21 JYUJYUTSU

 いつきが春季を寝かし付けて、少し思案しながら歩いていると、着物に着替えた陽介が現れた。いつきはその着物を少し見て、沈黙した。

「…」

「だまってねーで言いたいこと言えよ。」

「…出て来たわけね。」

「…田中さん押し入れあけて絶句だよ。」

 話に出てきた、赤みがかった白い着物だった。最初に田中から「逃げた」着物だ。

 …陽介は無難に着こなしてはいたが、以前の水色にくらべるとイマイチだった。

「…春季、戻って来たんだろ。さっき声がした。」

「うん、疲れてるみたいだから、寝かせたよ。」

「…すまんな。」

「べつに。…あんたあんまり、全力で叩くんじゃないわよ?あの子はあんたのことが好きなんだから。卑怯だわよ、好意につけこんで。」

 いつきが一言お説教を入れると、陽介は人が悪そうな顔になって弁明した。

「好意につけこんでなんてとーんでもない。俺も春季のことは好きだけど、春季はどーも、俺が常に浮気していると思いたいらしいんだわ。いつも疑惑かけられるんだ。」

 あらーん?といつきは片方の眉を吊り上げた。

「思いたい、じゃなくて、思えてならない、とちゃうのん?」

「思いたい、なんだよ。そういう幻想にしがみついていれば、楽なんだよ。」

「…楽じゃあないでしょう。」

 いつきが否定すると、陽介は意地悪そうに口の左端をつりあげた。

「あのな、人間て自分の『普通』で生きるのが一番楽なの。『普通』っていうのは、反応とか対処とかが、フルオートになってんの。自動処理だから余計なストレスがかかんない。新しいこと苦労して見聞きなくていいし、認識しなくていいし、対比したり区別したり、判断しなくていいの。苦労して新しい方法を摸索しなくていいの。当然失敗もないし、あってもすでに経験済みの方法から対処すればいいの。だから万事『楽』ってわけ。」

「それはそうだとしても、よ。いくらナンでも、その『普通』が辛かったら、それを避けようとするのが自然じゃない?」

「どうかなあ。

 たとえば日常的に虐げられている人間にとっては、虐げられていることに耐えているのが普通の状態なわけだ。…虐げられていない状況に直面したとき、『しあわせになる』って適応、誰でも必ずとれると思うか?俺は思わないね。むしろ幸せになると、いままで周囲からかかってた圧力が減って、うかうかしてると内臓吐いちゃうんじゃねえ?つりあげられた深海魚みてーに。

 だから周囲をうごかして、やっぱり自分が虐げられている状況をわざわざ作ろうとするやつもいるんじゃねえ?…ちなみにうちの浩一はそれだけど。事実なんかどこへやら、虐待してくる相手を自分の中だけでつくりだして戦い出したりさ。それでくたくたに疲れちまうの。疲れるわな。常に一人で戦争してんだから。

 だから、辛い状況を必ずしも回避しようとするとは限らない、と言えると思うね。」

 浩一というのは陽介の母親の違う兄だ。むかし陽介の父親の関係で、怨恨動機の誘拐にあっていて、全治何週間という怪我を負わされたと聞いている。…どうやら話をきくに、精神には治りにくい傷が残ってしまっているらしい。…陽介は本来、跡取業務は補欠選手なのだが、この兄がいつもつねにピンチなので、いつもつねに交代で、守備位置にも打席にも毎回もれなく立たされている。

 …そういう人間もいるはいる。少なくとも、コウイチくんについては間違いあるまい。だが、いつきは敢て反論した。

「…だからって『楽』じゃあないでしょう。楽じゃないってわかっていても、そこからぬけだせないだけでしょ。…陽介、それは、『呪い』だわよ、病気とか習性ってよりはむしろ『呪い』。ましてや性格なんかじゃない。

 それに、世界中がみんなあんたの兄貴と同じじゃないわよ。…よりによってあの春季ちゃんを誰かと一緒にするなんて! 

 あんたね、すぐに大雑把に人間を分類しようとすんのやめなさいよ。あたしと月島のおっさんを一緒の分類にしてみたり。失礼しちゃうわさ。人間は一人一人ちがうでしょ。」

 いつきが口を尖らせていうと、陽介は少し考えて、「…それもそうだな」とうなづいた。それから更に言った。

「『呪い』か…。まったくたしかに、その通りだな。あれはまさにそれだ。前々時代的な表現だが、むしろ当たってるよ。誘拐犯どもに、激烈な呪いをかけられたって感じだ。…俺はあいつは嫌いだが、それでも誘拐はされてほしくなかったと思うよ。」

「…そだね。誰であろうと、誘拐なんか、されてほしくないよね。」

 いつきが同意すると、陽介も軽くうなづいて、それからおもむろに話をもどした。

「まあそれを何と呼ぶかは『呪い』でも『条件付け』でもなんでもいいとして…俺はつねに、はるきからは浮気者だと思われてるって事実はあるわけ。」

 …こだわってるらしい。仕方ない。聞いてみることにした。

「…はるきちゃんにはそうすることで何のメリットがあるわけ?」

「俺は、やつはそうしていると心のどこかじゃ楽な部分もあるんじゃないかな、と言いたいわけよ。」

「どうしてよ。常に自分が愛されていないとか、愛されているにしても二番手か三番手だっていう『普通』が『楽』だとでもいうの?」

「…じゃーさ、『楽』って表現を『自動化されている』に置き換えてみて。」

「『常に自分が愛されていないとか、愛されているにしても二番手か三番手だっていう【普通】が』ええと『自動化されているとでもいうの』…ああ、そう、自動化されて悪癖になっているわけね。」

 いつきはやっと陽介がこだわっていた部分にたどりついた。『楽』という言葉になにか悪意のようなものを感じて、それとなくはるきをかばってしまっていたので、なかなかたどりつけなかったのだな、と自分でもよくわかった。多分『楽』というのは、燃費がいい、という程度の意味なのだろう。陽介も「通じたな」という顔になって、手をしゃかしゃかと摺り合わせた。

「そうそう。わかってくれて嬉しい。…さっきはるきにいわれたわけよ。『僕の好きな人が僕を一番好きでないことには慣れてます』って。」

 …それを先に言え、といつきは思った。

「…そら慣れてるわな。あの子重度のシスコンらしいから。…姉は彼氏とっかえひっかえだし。…なるほど、それであんたは『俺と小夜とをいっしょくたにするたぁどういう了見よ、俺はお前の姉が我慢ならなくてぶん殴って別れた男だぞふざけるのもたいがいにしろ少し頭ひやして出直して来いやバカタレ』っていってやったわけね?それではるきちゃんはこの寒いなか震え出すまで水に漬かって反省していた、と。」

  陽介はそう言われてしばらく考えた。そして言った。

「…そうか、そう言えばよかったのか。」

 …言えなかったらしい。

「…まあ、言えなくてもはるきちゃんが『超弟分』っぷり発揮して軌道修正したみたいだけど…。」

「だってしょうがないじゃん、俺姫だもん、そんなオトコマエな台詞とっさには思いつかねえよ。お前や月島さんじゃあるめえし。」

「一緒にするなつーのに。…んじゃ何を言ったのよ。」

 陽介は掌を見せた。

「…お前だって姉貴一番なんだし、つまりは俺のこと一番に好きってことではないわけだから、今日でお別れしましょうか、いままでどうもありがとう、って。」

 いつきはあきれかえった。

「救い難い馬鹿ってあんたのことね。…ほんとは全然別れたくなんかないくせに。本気にされたらどうする気よ。ちょっとひと月かそこらはるきちんがいなかっただけで顔中吹き出物つくったさびしんぼさんが別れられるわけないでしょ。」

 陽介は目をとじて顔をしかめ、頭をばりばりと掻いた。全部図星でさすがに恥ずかしくなったらしい。

「………つーかお前はなんで俺が小夜撲ったこと知ってンの。言ったおぼえないけど。」

 言われてみれば、陽介から聞いた覚えがない。いつきは少し考えて、自分でも意外な事実に気がついた。

「…そういえば、前になんかのついでにミモリーから聞いたんだわさ。あんたに聞いたんじゃないや。」

「…尾藤が水森にばらして、水森がお前にばらしたのか。」そこまで言うと、陽介は急にオカマ風の口調になった。「女って嫌ね! おしゃべりで!」

 いつきがキッと眉を上げて睨むと、陽介はうざったそうに手を左右にふった。

「あーお前の言いたいことはわかってるよ。はいはい。もうしません。あれは俺もまずかったと思ってるんだよ。もうすこしましなやり方あったんじゃねーかって。」

 …いつきは実のところ、撲りあうことについて、さほど悪いとは思っていない。ただ、普通の男が普通の女を撲るのは多くの場合圧倒的で一方的な暴力でしかないことは知っていた。殴り合いになる可能性がある相手ならともなく、絶対撲り返してこないとわかっている相手を撲るのは、いつきとしてはいただけなかった。卑怯だ。…だいたい、陽介が本気で口げんかして勝てない相手など、女だろうが男だろうが、この世に誰かいるのだろうか?…手抜きをしたとしか思えない。

「…わかってるんならいちいち言わないけどさ。……小夜もねー、男兄弟に囲まれてるから、世界中の男の標本が我が家に揃ってるような気がしてるんだわさ、だから自分はなんでもわかっているような気分というか…。あそこんちの兄貴はどれ一人選んでも確かにユニークだとは思うけど、それにしたって世界中の標本が5~6人で足りるわけないじゃない。そもそもオトートちゃんはよくがんばってる偉いはるきっち一人だけだし。うちの弟なんかさぁ…」

 話を続けようとしていつきを、陽介は突然遮った。

「ちょっとまってくれ。…俺はお前の泣き味噌で気難しい弟の話をきくと、どうもいたたまれなくなるから、本筋に関係ないなら願わくは次回にしてくれ。いや、お前の死んだ弟にケチつけてるわけじゃないよ。ほんと。」

 いつきはそう言われてちょっと黙った。そういえば、自分は陽介にことあるごとに死んだ弟の愚痴ばかりきかせている。聞かされるほうはうんざりかもしれないし、そもそも今は違う話をしているのだ。いつきは話題をもとに戻した。

「じゃ一応最後に確認しとくけど、…本当なわけじゃないよね?」

「何が。別れる気はとりあえずないよ。」

「それはわかるけど、…だからつまりさー、あんたほれっぽいじゃん。ほんとに浮気行動してるわけじゃないよね?」

「浮気行動って。…まあ月島さんはエエ体しちょるなとか、ちょっとみちゃおうかなとか思ったりはしたけど…。でもいちいちその程度で目くじらたててたら、世界中の男はみな浮気者なわけだが?」

 いつきは軽く2~3回うなづいた。

「…その程度なら別にいいけどさ…。でもだきゅーってだきついたりなんだりしたら、やっぱり目くじらたてられると思うよ。」

「…」

 急に陽介がつまったので、いつきはじろっと睨みつけ、言い放った。

「…とりあえず抱き着いたわけね。ならあんたが悪い。」 

「…だって」

「だってとかでもとか、おかあちゃんはそういう言葉が嫌いだ。」

「だれがおかあちゃんだ一緒にするなうちの百合子はもっと美人だ!!」

「うちのおかあちゃんももっと美人ですがそれがなにか?!」

 だんだん2人とも何を言い合っているのかわからなくなってきたので、お互いにしばらく黙った。

 …別のことを思い出した。いつきは頭を掻いて言った。

「…まあ、もういいや。…頃合みはからって、はるきちゃん起こしにいって、少し2人でながながとチューでもしなよ。…ところでさ、陽介。陽介って、『手』の夢、よく見る?」

 唐突に話がかわったので、陽介は複雑怪奇な顔になった。

「手の夢…?なんだあそりゃあ。」

 口調にも当惑がありありと表れていた。

「んー…つまりね、夢を見たとき、多くは忘れてしまったけれど、手だけ印象にのこった、っていうようなことある?」

 陽介は首をひねった。

「えあ?どうかなあ。夢なんてすぐには思い出せんが…。」

「たとえばね、床にみっしり手が生えていて、足の踏み場もない夢、とか、極端に言えばそういうの。」

「うへっ、気色悪いな。」

「壁でもいいよ?」

 陽介は首を振った。

「いや、そういうのはないと思うが…そうだな、そう言えば、子供のころ、知らない誰かに手を引かれて歩く夢はよく見たな。縁日の宵宮とかそういう感じ…つってもおめーにはわからんか…。クリスマスとはまたちがうんだな。もっとシンプルで、日本的な情緒というか…。狭い仄明るい夜道に浴衣着た人がいっぱいいて、その人ごみに紛れて手をつないでこっそり歩くんだ。……誰の手かはわからんのだが、大人の大きい手だな。女だったり、男だったり。どっちかというと、よく働いているタイプのあったかくて厚い手。モデル手じゃなく。」

 いつきはそれを聞いて少し考えた。

「…それはさー、楽しい夢なの、不安な夢なの。」

「たいていは楽しい夢。なんか親にナイショで、よその大人と出かけるような感じのシチュエーションだな。サーカスの団長とかなんかの仕入れとか買い付けの人みたいな感じのときもあったし、幼稚園や学校の先生みたいなときもあったし。…あと知合いのお父さんとか…。」

 …本質的にこの男は浮気が好きなのか?といつきは思った。

「あ、俺、昔、自分がよその子だと思ってたからな。なんてーか、今の親でないほんとの親のところにつれていってもらうような感じの夢だったんだ。…まあ、願望だろ。多分昼に叱られたりとか、気に入らない指図受けた夜とかにみてたんだと思う。」

 …実に陽介らしく、最後には自分自身を理屈でばっさりと切り捨てた解説つきだった。

「…それがどうしたよ?」

 陽介の問に、いつきは答えた。

「…そうか、手を、つなぐわけね。」

「うん。引っぱってつれまわされるって感じじゃなく、迷子にならないように大切に保護されてる感じだな。」

 …陽介はなんだかんだ言ってもやはり育ちが良いと思う。そういう感じを知らずに大人になる子供もたくさんいるというのに、こいつは夢でなにげなく再現できるほどそういう体験があったのだ。まあ、あのお母さんが大切に育てたのだろうから、それはよくわかる。

 …いつきは子供の頃はよく、弟に生きながらにして食い殺される夢を見たものだ。噛みつかれたところは夢だというのにマジで痛かった。…皮肉なことに、現実は逆の結果になったわけだが。

「…他はない?…こう、箱あけたら手が入っているとか…」

「…お前の例はなんでそう気色わりいの?」

「砂場で砂掘って遊んでいたら手がでてきたとか…」

「気色わりいっつーの。やめてくれ。みてねーよ。…なんなの、手の夢って。どうしたつーわけ。」

 いつきは少し考えてから、にっこりして言った。

「陽介、黒い水は暗澹とした心や感情、そこから手招きする手は、その心情に関する対話の必要性、だよ。」

「…?」

 陽介は何を言われたのかわからなかったようだ。…いつきは言った。

「…鏡池のやつ。…あんたの見たのが物理現象でないなら、そういうメッセージかもしれないってこと。…誰か、話さなくちゃいけない相手がいるんじゃないの?ここの誰かで。しかもあんまり気乗りしない相手。感情的になったが最後、ドツボ間違い無しの相手。内容は…そうね、しばらく忘れてたか、あえて秘密にしていた、心の奥の方にしまってあるようなこと、かな。」

 陽介は奇妙な顔になったが、やがてぼそりと言った。

「…お前って…普段は忘れてるけど、ほんとに巫女さんなのな?」

 いつきは肩をすくめた。

「そうだけどそれがなにか?」

 陽介はその挑発には答えず、御神託への答えを言った。

「…ミズモリユウだろ。忘れてたよ。…ここんとこあいつ、いなかったしな。」

 …いつきのほうが、今度は妙な顔になった。


+++

 夕食はピザを温めてたべることになった。温めるといっても電子レンジとかとういうものではなく、かまどに鍋をのせて、軽く焼いて温めた。陽介が仕入れて来た挽き済みコーヒー豆を、漏斗に布を重ねて被せたにわかづくりのドリッパーに入れてコーヒーをおとすと、うすぐらい土間はなぜか不思議としっくり似合う芳香でいっぱいになった。風呂窯に火が入っているせいか台所はいつもより数段あたたかく、少し汗ばむほどだった。

「…いい匂い。」

 声にいつきが振り向くと、田中がのぞいていた。

「コーヒーおとしたよ。」

 いつきがにこにこして言うと、田中が入って来た。

「…なんか手伝う?」

「ううん、今日はらくちんだから、大丈夫だよ。」

「…これ、運ぶね。」

「…そう?じゃ頼んじゃおっかな。わりぃね~」

「いえいえ~僕も食べるわけですから~。」

 田中は温めたピザののった皿を器用にピラミッド形に重ねてから両手で持つと、食事をする部屋に運んでいった。

 いつきは湯のみをならべて、コーヒーをついだ。

 戻って来た田中と一緒に、コーヒーを運んだ。

「…久鹿くんと尾藤くんは、けんかしたの?」

「…らしい。…仲直りするようにいっといたけど、だめみたい?」

「うーん、ちょっとまだ無理みたい。」

「そっか。でもほっとけば大丈夫だと思うよ。…あの2人は特別っていうか…もちつもたれつでお互いに相手を必要としているから。」

「うん、それはいいんだけど…ちょっと雰囲気が暗いね。」

「…月島のおっさんと三すくみになってる?」

「そうでもないけどね。…月島さん、近々倒れそうな顔色だし。」

 ひそひそ話しながら部屋についた。中に入ると、月島と陽介とはるきがお行儀よく座って待っていた。

「…みなさんお揃いね。んじゃ、ごはんにしよう!」

 コーヒーを配っていつきが言うと、ぼちぼちと食事が始まった。

 …明らかに月島は体調が悪化しているのがみてとれた。午後に眠ったはるきは逆に幾分回復している。そういえば、はるきには、眠る前にいつきがまた手当てをしてやっているし、あの冷たい水も、翠さんの回復回路が仕込まれているはるきにとってはいくばくかの治療たりうる。それに勾玉もかけている。

 …こうして2人並べてみると、月島がやすまなくてはならないのは一目瞭然だった。しかし月島がいつきの言うことを聞くわけがない。陽介にでも頼むしかないが、そもそも陽介がいると月島は余計に休まない。陽介をまたどこかに出せばいいのかもしれないが、使いのあてもなかった。

 幸い月島は食欲だけはまったくおちておらず、精力的にピザをかたづけていた。ぼやぼやしているとこっちが食いはぐれてしまう。いつきも参戦することにした。

「…今年は山でいろいろなものを食べるなあ。ピザにコーヒーかあ。…久しぶりに食べると、平凡な食べ物でも美味しいね。」

 田中がのほほんと言ったが、いつき参戦に怖れをなしたほかの三人は返事もしなかった。

 夕食はおかげであっと言う間に終わり、またいつき以外の人間は不条理な敗北感とともに御馳走様の挨拶をすることとなった。

 そのあといつきが一人で皿を洗っていると、また田中が来て、手伝ってくれた。

「…暇なの?田中やん。」

「…暇ではないけど、退屈なんです。」

「…まあいいや。ありがとう。」

「…いや、ただ魔女子さんと一緒にいたら、何か珍しいこと起こるんじゃないかなあ、って勝手に期待してるだけだから。邪魔だったらおっぱらってくれてもいいよ。」

「…別に邪魔じゃないよ。」

「…そうですか。」

 田中が拭いてくれた皿を戸棚にしまいながら、いつきは言った。

「…ねー田中やんさー」

「はい」

「みんなが田中やんにあたしの面倒を押し付けようとしてるよ?いいの?」

 田中は鼻の上で眼鏡を直した。

「…魔女子さんはどんな面倒しょって歩いてるの?」

「…うーん。よくわからんけど。…こんなあたしでも女に生まれた意味があると言う人もいるね。」

「…それはまた、面倒な。」

「だよねー。」

 いつきがけけけと笑うと、つられて田中も少し笑った。

「…ま、でも、いいじゃない。女の子っていいでしょう。なんか、トータルして人生の半分くらいは楽しそうにすごしてる人が多いし。お店にいけば綺麗でかわいい服がいっぱいあるし。なんかいい匂いだし。…あー、あとそれにさ、結婚して子供うまれると、お母さんになれるじゃない。」

「ハァ?」

 わけがわからずに聞き返すと、田中はもう一度繰り替えした。

「お父さんじゃなくてお母さんになるってとこがいいじゃない。」

 いつきはやっぱりそれでも意味がわからなかった。

「…あたしは別におとうちゃんになってもいいけど…。」

「えー、そうなんだ?珍しいね。」

「ええ?そうなの?そういうもん?」

「そうじゃない?ふつうは男でも女でもお母さんになりたいと思うんじゃないかな。大人になって価値観がかわったり、自分に融通が効くようになったりしたあとは別としても、子供のころはそうだと思うよ。」

「そんなことナイと思うけど…」

 と、言ってみたものの、いつきは自分は一応女のはしくれだったし、子供が生まれたらたしかに自動的にお母さんになってしまう。お父さんになってしまう生き物の真意は、弟にも聞いて確かめたことがなかった。…まさかそんなことは陽介にはきけない。そこは陽介の一番ナーヴァスな部分に直結している可能性のある、いわば逆鱗とでもいうべき場所だ。…陽介は女にうまれたかった男なのだ。

 すると田中はちょっとシニカルな笑いになって言った。

「…きみのお父さん、月島さんににてるんだっけ?…ああいうふうになってもいいと思うの?」

 いつきは確認した。

「いや、そじゃなくて、…どういうお父ちゃんになるかじゃなくて、おとうちゃんになるか、おかあちゃんになるか、の話だよ?」

 田中はうなづいた。

「うん…でも、よそのお父さんやお母さんのことなんか、結局わかんないじゃない。自分のうちのことしか。…自分で普通だと信じているものって、わりと自分の家族限定の特例だったりすることも多いくらいだよね。」

「うーん、まあ、そうかも。」

 いつきは来たばかりのころに、ユウのもつ『兄』のイメージの違いに苛立ったことを思い出した。

「…結局、自分のお父さんとお母さん、どっちが好きかという話になるわけで…。よほどよくできたお父さんや環境に恵まれていたのでない限り、四六時中そばにいてくれて、お乳を飲ませてくれるお母さんが好きなのは乳幼児段階では当たり前なわけだ。」

「子供の頃ね。うん、なんかおかあちゃんがカミサマのように思える時期って、あるってばあるね。

 …うーんでもどうかなあ、まあうちのおとうちゃんは、別に全然よくできた人ではなくて…本当に子供みたいに我侭で自分勝手でプライドは滅法高いし負けず嫌いで好戦的で、うちの場合はほとんど家にもいなかったわけだったんだけども…でも、おとうちゃんみたい生き方は、本人にとってはそんなに悪くなかったと思うよ。やりたい放題てーか。あたしは、おかあちゃんの生き方よりはおとうちゃんの生き方のほうが、得してると思ってた。」

「得してるって…」

「困るとおかーちゃんに泣きついて『あとよろしく。ばいばい』って感じ。いやなことは全部おかーちゃんにおしつける。自分のケンカは勿論、浮気の後始末まで。」

「…えーと…」

「しかも男と浮気する。」

「あの…」

「おかーちゃんは鬼みたいにおこるけど、おとーちゃん年下でおかーちゃんにとっては滅っ茶かわいくて前途有望なやり手の軍人さんだったのを魔法かけてだまして結婚して神殿の政治的なこたごたやらなにやらに巻き込んで出世おそくなったから、仕方なくなんでもやってやってた。それで結局おとうちゃん遅れを取り戻して、最後はかなり上のほうに食い込んでた。」

「…」

 田中はそこまで聞いて論旨を見失ったらしく、言葉が続かなくなった。

 いつきは、ちょっと余計なことを言い過ぎたかな、と思った。そもそも父親のそういう甘ったれた部分が月島に似ているわけではない。高飛車なところが似ているだけなのだ。

 話の筋をもどさなくてはならない。

「…あんなんなら、別におとうちゃんになってもいいかもな、と、思ったわけ。」

「…うーーーん、そうかあ。」

 田中は頭を抱えた。その姿を見て、いつきは「あたしって本当に面倒なやつだったのね」とあらためて自覚した。

「田中やんちは、きっと普通のいいおとうちゃんとおかーちゃんだったんだろね。」

 一応確認してみた。田中は手の中から顔を上げて、思い起こすように考えて、答えた。

「…そうだなあ、よくもないけれども、魔女子さんちに比べれば、だいぶ普通だなあ。魔法も使えないし。多分お見合いかなんかで当り前に結婚しただろうし。」

「…子供の頃はおかーちゃんになりたかった?」

「というか、なれないから、ちょっと悲しかったな。そのうち魔女子さんがいうところの『おかーちゃんがカミサマみたく思える時期』が終わって、どうでもよくなったけど。そのあとまた一時期、『おとーちゃんになりたくない時期』ていうのもあったな。今となっては『せめて自分の親父程度の人間にはなりたい』になっちゃったくらいだけどね…ははは。」

 …ある意味かなりいい親だな、といつきは思った。

「…ねー、田中やんはさー、自分が男に生まれた意味って、ナンダと思う?」

「…それきかれるとつらいな~。」

 田中はそう言って苦笑した。

 いつきが黙って田中の返事を待っていると、田中はいつきから目をそらした。

「…とくにない。」

「…え。」

「私が男に生まれた意味はとくにありません。」

 これはまた思いきった回答だな、といつきは思った。…本音なのか試しがてら、聞いてみた。

「…じゃさ、あたしが女に生まれた意味は…田中やんは何だと思う?」

「ああ! それはわかりますよ。」

 田中は今度は手をうって、自信をもって言った。

 いつきは驚いた。

「えー! 教えて!」

「ふふふ、内緒。」

「えー! なんで! なんでー!!」

 袖をつかんでひっぱると、田中は眼鏡をちょいと直してにっこりした。

「…そういう宿題は、自分で考えないと。ズルは駄目ですよ、魔女子さん。」

 いつきは口を尖らせた。

「考えるけどさー、参考にー。」

 田中は使い終わった布巾をいつきに返しながら、唱えるような口調で言った。

「…それを掴むために、そのうら若い両手から血を流しなさい。そのほうが有難みも増すし、その痛みと犠牲が、のちのち魔女子さんの魔法を強くしてくれます。必ず。」

 いつきはちょっと目を見開いた。…田中は本気で言っていたのだ、自分が男にうまれたことに、とくに意味はない、と。

「…それちょっと胸打たれるコワイ台詞だわあ。」

「…呪術マニアならではでしょ?」

「あは…そーかも。」

 いつきは布巾をうけとって、物干がわりに張ってある針金にかけた。

 …宿題はやはり陽介にでも相談してみるか、だが、激怒されるのもいやだな、ともいつきは思い、少し憂鬱になった。

 話をかえた。

「呪術マニアっていえばさ、…このへんって、民間の呪術あるんでしょ、少し。」

「…たぶん。」

「みたことある?」

「…うーん…まあ、多分、ある、かな。…てゆーか、魔女子さんは、呪術のほうは?」

 いつきは左右に首を振った。

「…そゆことすると、叱られるから。」

「誰に。」

「んー…うまく言えないが。とりあえず、魔法のカミサマに、とでも。」

「…そうなんだ?よく自分に返って来たりするっていうけど、そういうかんじ?」

「んー…まあ、処理みたいなのが悪いと、そうなることもあるらしい。」

「アフターケアみたいな。」

「そうねアフターケアみたいな。」

「…基本的には、返ってこない…?」

「んー、基本的には、しない。」

 ちなみに、いつきは本当にしたことはなかった。

 田中はふーん、と言って、さらにたずねた。

「…呪術やるプロって、魔女子さんたちとは、別の集団だったわけ?」

「…そうでもない。ただ、…禁じ手使ったのがばれると、神殿からも厳しく罰せられたし。滅多なことではしないよ、やっぱり。」

「マホーのカミサマだけじゃないんだ?」

 いつきはうなづいた。

「うん。いじった事柄とかおこっちゃった出来事にもよるけど、やっぱり大騒ぎになっちゃうとそれなりに…石投げの刑とかポピュラーだったよ。」

 田中は首をひねった。

「石投げ…?」

 いつきは説明した。

「…町の外に引きずっていって、みんなで石ぶつけるの。…動かなくなるまで。」

「…死刑じゃない。」

「…うん、8割くらいは死ぬ。…キビシイでしょ?」

「厳しい。… それは、法律で決まっていたの?それとも、慣習だったの?」

 いつきは少し考えて答えた。

「法律っていうか、戒律ね。」

「…戒律の運用は誰がしていたの?合議制?」

「裁判みたいのあったよ。神殿の偉い人が裁判官兼ねる、みたいな。軍法会議の神殿版ね。一応、弁護人もついてた。」

「…何年かに一人くらい、ってかんじ?」

 ちょっとばらしすぎかなと思って少し迷ったが、言った。

「あたしは、3人くらい知ってる。でもどのくらいの頻度なのかはわかんない。石投げるのは子供は行っちゃいけなかったし、神殿の中にいると、かえって耳ふさがれてる状態で…。まちの人と話すとわかるんだけどね。だからわたしが知ってるのはどれも噂だよ。わたしのお目付役がいないときに、おとーちゃんの知合いとかが面白がって教えてくれたの。…最近だれそれが神殿にいないだろー、このあいだ石なげられてたよーとかそういう感じで。」

「…なるほど。」    

 いつきは田中が次の好奇心を発揮してくる前に言った。

「ねー、田中やんさー、教えてほしいことがあんの。」

 田中は少し引いて、眼鏡をなおした。

「…なんでしょう。」

「…あたしはさー、別にあんまり考えもなく、腹がたてば、コロスぞてめーとかボコるぞコラーとか言うけれど…6割くらいは、その直後に忘れてるんだよね。まあ、田中やんみたいな場合はしっかり覚えてるし、守らないなら本当にやる気なんだけどさ。」

「…おぼえてますよ。はい。おぼえてます。」

「うん…でもあたしは一ヶ月に10回くらい陽介にコロスっていうけど、まだ本気で殺したことはないよ?それに、言ってすぐ忘れちゃう。…まあ、ちょっとぺちぺちぶったことは一回だけあるけど…」

「…どんなぺちぺちなんだろう…」

「なに?」

「いやいや、なんでもありません。はい。…それで?」

 田中はひきつった笑いでやけくそに問い返した。いつきは言った。

「…自分に返ってくるかもしれないし、まして自慢できるような御立派な所業でもないと知りつつ、本気で呪術やるときってどういうときなのかなあ?」

 田中は眼鏡をなおしかけていた手をとめた。

 それからゆっくりと苦笑し、静かな声で言った。

「…きみは僕を随分試してくれますね?…本当にそんなことが知りたいの?」

 いつきは黙って田中をまっすぐ見つめ返した。

 田中は目をそらさずに言った。

「… きみは、正直なところ、呪いはどのくらいの確率で効くと思っているんですか?」

「…腕によるね。ばらつきあるから、トータルして4割くらいかな。」

「そうなんだ、きみの国では4割も効くの。…僕らんとこでは、シロウトがやってもあまり効かない、効いたとしても、実際に殴りにいったほうがずっと早いっていうのがだいたいのところなんだよね。」

 いつきはうなづいた。 

「それ聞いたことある。術で戦うよりゲンコで殴れって話。陽介が言ってたよ、下手な呪文より正拳突き、とかって。」

 田中もうなづいた。

「…呪術は、法律では不能犯扱いになる。ストーカー認定や脅迫認定されればまた別だけれど、基本的に、ひっそりひとり藁人形なんかは、おとがめなしだ。やっても効かないし科学的根拠がないとされているから、だよ。」

 いつきはウーンと言った。

「…でも呪術を行なう人にしても、効くと堅く信じているわけではないと思うんだよね。やっぱり効かないかも、くらいの計算ってあると思うんだよ。」

「そうだね。実際そうだと思うよ。」

「…効かないかもしれないのにどうしてやるのかな。」

「…万に一つくらい効くかもしれないからじゃない?」

 いつきは田中の顔を見た。

「殴りにいけばいいじゃない。」

「殴ると捕まるじゃない。」

「捕まりたくない、でも殴りたい、なんて我侭だよ。」

「…そうだね。」

「そうだねって…」

「…あと、殴りにいくと、自分が殴りたい気持ちでいるのがバレちゃうじゃない。」

「そりゃ、だってそういう気持ちなんだもん、仕方ないじゃない。」

「あと、返り討ちにあうかもしれないよね。」

「それはそうだよ! 人を殴る以上はそれなりに覚悟してないと。」

「…やっぱりそれはいやだからじゃない?」

「我侭じゃん!!」

 田中は不意にげらげら笑い出した。そのまましばらく笑って、いつきがあきれ顔を通り越して不可解な顔になると、田中は今度は唐突に笑うのをやめた。

「たとえばこんなことじゃない?

 一人のご婦人がいて…そのひとは、真面目な人だった。真面目で、繊細で、思い遣りがあった。怒るということをしらなかった。怒るくらいなら、悲しんだ。物静かで優しい人だ。少し、体が弱かった。

 親のすすめで見合い結婚した。相手は良く働く、普通のサラリーマンだった。彼は奥さんのことを愛して、とても大切にした。2人はすぐに子供に恵まれた。

 …妊娠は彼女に体力的・精神的な負担を強いた。彼は気をつかって、彼女をますます大切にした。…ただ、彼は若い男だった。彼女に必要だったように、彼もまたケアされる必要があったし、彼も負担に苦しんでいることがあった。けれども彼のからだの弱い妻、妊娠している妻に、慰めを求めると、妻がみるみる不調になることに彼は気がついた。彼は考えた末に、外で自分の感情や性を処理することを選んだ。それは彼女を愛していたからで、彼女に不満だったからではない。金を払って、職業にしている人に相手をしてもらっていた。女の子には理解し難いかもしれないが、彼の感覚としてはカウンセラーにかかるみたいなものだった。あけすけに人に言うほどのことでこそないが、別に悪いことでもないと思っていたんだ。…読みが甘かったかもね。

 彼女はある日貯金通帳を見ていて、その事実に気がついた。…彼女は探偵をやとってそれを確かめたりなんだり…。彼女は夫のもちかえる感情や、夫の若い激しい性愛に、今の自分が耐えきれないことには気がついていた。けれども外に女がいることを、どうしても受け入れることが出来なかった。…結局すったもんだのあげく、心労で流産した。」

「…」

「…2人は不幸になったけれども、まだ一緒に2人でいたかった。どちらも、お互いに自分の何かが間違っていたのだと思ったけれども、自分だけが悪いとは思っていなかった。何が起こっているのか理屈ではわかっていた。ただ、理屈でわかっていても、心が納得することはなかった。どちらもやりきれない思いが残った。亡くした子供のことは考えるとつらすぎた。愛だけではにっちもさっちもいかない。

 …人間の心はときとして、理性からは遠く隔たった場所にあるよね。とんでもないことはすっきり受け入れるくせに、受け入れる以外にどうしようもないことに限って断じて受け入れようとしない。受け入れたいという理性の激しい祈りをあざ笑うかのように…だ。

 2人は笑えなくなり、ギクシャクし、…話しにくくなった。それでも、相手にたいする執着だけは薄れることがない。むしろ2人の手は傷だらけになっても、互いに相手にしがみつく。2人が2人とも、捨てられたくない。捨てられることへの恐怖で一杯だ。一人では生きて行けないと思ってしまうし、今更相手以上の誰かなどみつかりっこないと思う。その半面、自分を弁護したい気持ちも強くある。言い訳したい、お互いに、だ。でもお互いに、それは相手にしてはいけないことだと感じている。

 せめてどちらか一人が笑えればよかったけれど、なかなかそれができない。どうすればそうできるのか、見当もつかない。どこまでも際限もなく、見えない、周囲など、なにも。世界がせばまってゆく。その狭くなって行く世界を埋め尽くすのは、うまくいかなかった現実への激しい拒否や抵抗といったような種類の悲しみと、どこにむけたらいいのかわからない憤りだ。…しかし彼女は自分のそれが憤りであることすらわからない。だからもちろん、その発散の仕方もしらない。」

 いつきは眉をひそめた。なぜか、はるきの姉の小夜を思い出した。…嫌な話だと思った。

 すると田中は意地悪そうに笑った。

「…おや、呪術の流れが知りたいのではなかったのかい。そんなものがお綺麗な世界だとでも思っていたの?これでも充分に女の子向けに脚色したつもりなんだけど。」

 いつきは負けないように気持ちを張り、挑むようにたずねた。

「…それで?」

 田中はいつきを覗き込むようにして続けた。

「…関係が壊れてしまっていいなら、壊せは済むことだった。けれども、2人とも、それが壊れるのはいやだった。それ以上何かを失うのは耐えられない。…会社勤めの夫はまだ外にいられるだけいい。仕事に忙殺されていれば気も紛れた。…だが、彼女は一人で自分だけをみつめながら、…いつも部屋にいた、流産したあとの体調の悪さと、精神的なダメージをかかえたまま…。

 彼女はぐるぐると考え続ける。わたしは悪くないと。でも夫も悪くないと。でも子供は死んでしまった、と。でも夫は悪くない、わたしも悪くない、でも子供は…。

 単純に考えれば、原因は夫が女をつくったことだ。でもそれは彼女が具合を悪くして、夫の気持ちに付き合えなくなったせいだ、夫は彼女を今でも愛している。でも具合がわるくなったのは、赤ちゃんが出来たからだ。赤ちゃんができるのは、いいことで、わるいことじゃない。じゃ、何が悪いの。…

 何が悪いの、魔女子さん。」

 田中はいつきにたずねた。いつきは少し口籠ったが、答えた。

「…もうちょっと、体を鍛えておくとよかったと思うけど、別に悪いってほどのことでもないと思うわ。…あたしは旦那がバカだと思うけど、彼女がそう思いたくないなら仕方ないし。」

 田中はうなづかずに言葉だけで肯定した。

「そうだね。おっしゃるとおりだ。…で、何が悪い?何かが悪いはずだ。そうだろ、だってうまくいかなかったんだから。」

 くりかえされて、いつきの眉には少し力がこもった。

「…何が悪いか決める必要なんかないよ。ただいろんなことがすれちがって、うまくいかなかった、それだけでしょ。…何も悪くなくても、うまくいかないことだってあるもん。」

 すると田中は少し顎をそらすようにして、乗り出していた身を引いた。

「…なるほど、きみは回避できるんだね。」

「まあ、一応修行中ですから。てゆーか、所詮他人事だし?」

 田中は軽く2~3回うなづいた。

「…じゃあ、彼女の胸をいっぱいに満たしている、やりきれない、悲しみと呼ぶにはあまりに激しすぎる気持ちは、向けるあてのない憤りは、どこへ捨てればいいの?」

「…」

「死んだ子供への哀惜はどこへ埋めればいいの?」

 田中はそう言って、ちょっと切ない顔で笑った。

 いつきは答えに困った。

 すると田中は静かに笑みの質を変えた。そして声をひそめて言った。

「…相手なんか、だれでもいいんだよ。」

 ひそひそと低い声で続けた。

「…だれでもいいから、一番どうでもいいやつを、彼女は選ぶ。…夫の浮気相手だ。まあ、この女が夫の前に表れたのは偶然で…この女が現れなかったら、別の女だっただけのことだけど…そんなことどうでもいいんだよ。」

 いつきは眉をひそめた。

「…どうでもいいって…」

「…ただ行き場のない気持ちを、何かに、できれば誰かに、引きうけてもらいたいんだ。…名前を書いた紙をスリッパで殴りつけるんだっていい、髪の毛を仕込んだ人形に釘をうつんだっていい、効くか効かないかわかんなくったっていいんだ。ただ、胸の中を埋め尽くしている気持ちをなんとかしたい…いや、不幸な現実が心の中に山ほど作って置いてった重い固まりを、鋼鉄のスクラップみたいななにやら痛くて苦しくて冷たいものを、なんとか処分したい、そのリサイクルの引き取り手を探しているだけなんだ。なんなら、あとで自分に返って来たってかまわない。そもそも、正体のわからない何かへの激情に、焼き尽くされてしまいそうな状態なんだから。一時的にでもうまくいけばめっけものくらいのものなんだ。まともな手段ではどうにもできないことくらい、彼女は良く知っているんだ。

 この物語はちょっとした作り話だけれど…自分で呪術をやる人は、多かれ少なかれそんなところだろう。そんなところというのはつまり…関係性を壊したくないけれど、殴りつけたくてしょうがないってこと。もっと簡単に言うと、殴りつけたいけど、事情があって殴れないんだよ。事情の種類はいろいろあるよね。もっと汚い場合もあるだろう。社会的地位を守りたいとか法律が怖いとか、うでっぷしが弱いとかね、相手が完璧なガードの内側にいて手が出ないとか、そんなようなのもあるかもしれない。でも、殴れない、という事実は同じ。」

 いつきは鼻でため息をついた。

「…田中やんはさ、なんでそんなことが好きなの?」

 すると田中はその言葉を予期していたかのように少し大袈裟に笑った。

「…魔女子さんや尾藤君にはわかんないだろうなあ~。腕っぷしに自信がなくて、月島直人を殴れない人間の気持ちは。」

 いつきはそう言われて目をあげた。

 いつきは戦場に出たことがある。銃を持ったこともあるし、生きている人間を刃物でざっくりと斬り付けたこともある。そのあと死んだ人間もいたかもしれない(確認したことはないが)。確かにいつきはその気にさえなれば、月島と殴り合いだろうが投げあいだろうが、そのくらいのこといくらでもやってやるわいと思っている。殺しあいに比べたらそれが何だというのだろう?本気をだせばあんな親父くらいにまけはしない。別段目潰しや鼻裂きをしなくても、5分以内にどこか関節をキメる自信がある。

 …でも田中は。

 田中は、決して、そんなことはしないだろう。

 いつきの顔を見て、田中は優しい目になった。

「…いいんだよ。そんなものは、わからないほうがいいに決まってるんだから。きみは別に悪くない。」

 そしてなでなでといつきの頭を撫でた。

 …悪くない。その言葉が、まったく違う意味に聞こえた。

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