20 KENKA
春季は土間から裏に出て、水場のほうに行ってみた。
陽介は月島に言われたとおり、水場の手前の細い道のあたりに、手持ち無沙汰な様子で立っていた。
…それを見ただけでなぜかなんとなく、春季は腹が立った。
「…先輩。」
春季が呼び掛けると、陽介は顔を上げて、歩み寄って来た。
「春季…どうなった?」
「大丈夫です。済みました。」
「済んだって…」陽介はちょっと困ったような顔になった。「…そもそも、おかしな客って、どんな客だったんだ?」
「…うちの仁王よりでかくて、顔は…戸の上にあって、見えませんでした。」
「…人間じゃないだろ。」
「どうかな。それはなんとも言えません。……それはともかく、玄関の戸が滅茶苦茶になっちゃいましたよ、戸しめたのに手つっこんでくるんだもん。でかい手だったなあ。襟首掴まれたときは、殺されるかと思ったけど…。とにかく、戻りましょう。」
春季が促すと、陽介は歩き出した。
話しているうちに腹立ちはおさまったが、何となく気持ちは曇ったままだった。
「先輩」
「ん…?」
「…さっきは変なこと言ってすみません。」
「…べつに。…冗談だろ?……襟首つかまれた割には冷静だったよな、お前。胆すわってるよ。」
陽介は軽く首を振って言った。
春季はちょっと頭をかいた。
「ああいうときって、かえって逆にすごく冷静になっちゃいますね。思考速度も普段の5倍くらいになるし。ストレスホルモンてやつかなあ。」
「…鉈なんか持ってくからさ、怪我とかしてたらどうしようって。心配してた。」
「幸い、乱闘までいきませんでした。途中で翠さん帰って来たんですよ。咳払いが聞こえました。…翠さんに用があるお客だったらしくて。…そうそう、ちょうど入れ違いのタイミングでいつきさんも戻って来ましたよ。ちょうど滝のほうにいたんだって。」
「…じゃ、その来客とは会ってないんだ?」
「ええ。ちょうどスレスレでした。危なかったです。…いつきさんといえば…ね先輩、」春季は思い出して、陽介に尋ねてみた。「…田中さんといつきさん、なんかベタベタしてません?」
陽介は首を傾げた。
「…そうかな?…ううん、ギクシャクはしなくなったかもな。…一緒にハイキングコース走ったからじゃない?苦労を共にすると連帯感が高まるっていうし。」
…陽介の反応はどちらかと言えば意外そうだった。春季は少し抵抗があったが、思いきって尋ねた。
「…先輩はいいんですか?」
「何が?」
「…いつきさん、あんな中年とくっついちゃっても。」
陽介はそれを聞いて吃驚した顔になった。
「…いつきが誰とセックスしようがそれはいつきの勝手だろ?」
「何言ってるんですか。あんた絶対いつきさんに男できたらへこみますよ。」
「男できたらって…あいつ男いっぱいいるじゃん。」
「誰。」
「…あのオトートちゃんみたいやつとか。菊さんとか。パパより大好きなライリとか。大物ではラウールとーさんとか。あと怪しいオヤジでナジールってやつも名前だけは知ってるよ俺は。」
「でもそのうちの誰ともセックスはしてないですよ。」
「田中さんとはしたの?」
「まだだと思うけど、時間の問題ですよ。」
「…なんで。」
「なんでって…姉を持つ弟の直観ですよ。」
陽介はあからさまに「参ったな~…」という顔になった。
…陽介は春季の姉と一時期つきあっていたが、上手く行かなくて別れている。
「…まあ、いいんじゃないの、田中さんは体目当ての援交オヤジとはまったく違うんだし、…気持ちが通じたなら、恋愛に年は関係ないだろ。あのいつきと上手くやれる男がいたなら、そこんとここそが俺としてはオドロキだが。」
「…先輩はわかってない。」
春季がドロ~っと言うと、陽介は「ほとほと困り果てました」な顔になった。春季は続けた。
「…いつきさんが田中さんとデキたら、いつきさんはいつも田中さんを優先するんですよ?先輩と田中さんの予定が重なったら、先輩がキャンセルされるんですよ?先輩と田中さんの利害や意見が対立したら、田中さんのカタをもつんですよ?それでいいんですか?」
「…まあ、仕方ないんじゃないの。」
「仕方ないとかじゃなくて、それでへこまないんですか?」
「…多分。俺はいつきの友達としての地位が一段階落ちたらすごく不満だけど、べつにやつに男がいるのは…むしろいいことだ、と思う。少しはましになるんじゃないの?あの態度とか、性格とか。」
「意地張って。あとで泣きみますよ。」
「…なんなんだよ。おまえって俺の恋人じゃなかったの?なんで俺といつきの仲を心配するわけ。だってね、たとえ納得いかなかったとしても、俺はいつきとはできねえよ。それだけは無理。あいつ相手じゃたたねえもん。」
陽介が呆れたようにそう言ったので、春季はもう一度「わかってない」と返した。
陽介は「だから、何が言いたいの。」と言った。
「…僕は先輩がないがしろにされるのがイヤなだけです。」
春季が言うと、陽介は「わからん」と首を振った。
「いつきがいなくなってくれればせいせいするって言うかと思えばさ。なんだよ。まったく。」
「…ナオトよりはいつきさんのほうがずっとましですよ。」
春季がまたドロ~っと言うと、陽介は立ち止まった。
「…よせよ春季。」
「…僕よりナオトのことが好きになったくせに。」
「…なんでそんなこと言うんだよ。」
「先輩は思いきって年上の男ってもともと好きでしょ。自分の父親くらいの男が好きなんだよね、ほんとは。僕なんか、もう子供で子供で。」
「…何いきなり言い出すのかと思ったら…そりゃ年上の男は好きだけど、それとこれとは…」
「…好きになったっていいですよ、別に。…どうせ夏休みが終わったらナオトとは会えなくなるんだし。それで終わりですよ。」
春季はドロドロ吐き捨てた。
陽介は困り果てた顔をしていた。
…嘘つきめ、と、春季は思った。
「…春季、…なんでそんな…こと、言うんだよ。」
「…昨日の夜、ナオトと一緒で、楽しかった?」
「俺が部屋に戻ったら、もう寝てたよ。」
「起こせば良かったんだ。あの人はあんたのためなら、起きるよ。望めば拒まない。」
「…春季、月島さんは昔俺がうんと子供だったころ父の秘書だったんだ、その頃の習慣が…」
「理由なんかどうでもいいんですよ。あのひとが好きになったんでしょ?! 僕は慣れてますよ、僕の好きな人が僕を一番に好きでないことには!」
陽介は言葉を失ったようだった。
少しして、陽介はキッ、と眉を吊り上げた。
「…俺に飽きたんなら、回りくどいこと言わずにハナからそう言えよ。」
「誰もそんなことは言ってませんよ。」
「俺なんか年上だし、女役にはトウがたってるよな?そもそもお前は女が好きなんだし、無理してホモっていただかなくていいぜ。」
「問題をすりかえるのはやめてください。」
「おまえなんか、俺が小夜と寝てたと思って寝てみただけだろ。お生憎様。俺、お前の姉貴とはやってないから。」
「…?! 何言い出すんですかいきなり。」
「お前は自分の姉に似た女を見るとなにげなくじーっと視線でおいかけるんだよ。御本人様はきづいちゃいないだろうけどな。…いきなりだって?そりゃそうだろ。そのぐらい我慢して当り前だと思ってたからな、やだなと思ったっていちいち言わねえよそんなこと。」
…どきっとした。
「俺なんかと寝てくれる奇特な男だと思って大事にしてたつもりだったけど、そっちがイヤになったんならしょうがないさ。今までお情け頂戴してありがとうございました! だ! どこへなりと出かけて好きなヤツとやりまくれよ、男だろうと女だろうといつきだろうと、好きにすりゃいいさ! お前は俺の気持ちなんて結局どうでもいいんだろ!! …翠さんがお前を返してくれるならと思って…命綱もなしにあんなとんでもない崖だって登ったのに! こっちがバカだったよ!」
陽介はそう言い捨てると春季を残して去った。
春季はぐらりと目眩を感じた。
…自分は一体何をこんなに怒っているのだろう?
額を押さえて、そう思った。
唐突に、右の目から、涙が流れた。
+++
陽介が戻ると、ちょうど、いつきが、ばりばりに壊れたガラス入りの戸を外して、古い戸板をはめ込んでいるところだった。
「あ、陽介。ちょっとここんとこを軽く向うにけってくんない?」
はまったはいいが、動かないらしい。陽介が軽くとんとんと蹴ると、急にガラリと動いた。
「あ、動いた動いた。サンキュ。」
「…手つっこんで来たっつってたが…すげえ壊れっぷりだな。どういう手よ、これは。」
「なんか大騒ぎだったみたいね。いられなくて、ちょっと残念。」
いつきはそう言って小さく舌を出した。陽介も小声で同意した。
「…俺も。」
「きひひ、あんた姫扱いね。」
「うるせーよ。おぼっちゃんなんだよ。悪いかよ。軟弱なんだよ。ちぇっ。」
陽介がくさると、いつきは手招きしつつ床に上がった。陽介がついていくと、「お滝のこっちで冷やして来た。食べない?」と、キュウリやトマトの入っている笊を出して来た。…しぶいおやつだ。いいかもしれない。頭が冷えるだろう。陽介はうなづいた。
「…キュウリは味噌つけるとうまいよ。」
「ほんと?じゃ、少しもってくっか。」
縁側のある部屋がいいねといつきが言ってさっさと歩き出したので、陽介は、田中さんはさそわねーの?と聞いてみた。いつきはくるっとふりかえって言った。
「あんたまであたしと田中やんをくっつける気?」
「あんたまでって…ほかに誰が。」
「ハルキちん。」
「…いや、俺も春季に聞かされただけだよ。」
「…あんたさ、友人なんだから、少しはそゆとき影でさりげなくフォローしなさいよ、あたしのこと。」
そのいつきらしい図々しさに、陽介は急に気が楽になった。
「なんで。田中さんいいじゃん。…なんか物凄い爪かくしてそうで、俺はああいう人好きだけどな。すごく冷たい人だよね。…お前は好きじゃねーの?」
「うん、裏の顔が悪人ぽくて好きだけどさ。」
「…やっちゃえば。」
陽介が言うと、いつきは顔をしかめた。
「…あんたさ、簡単に言わないでよ。キュウリに試しに味噌つけんのとは違うのよ。」
「ぷ。キュウリに味噌ねえ。ああ、…荷物かきまわせばいっこぐらいあるぜ。探してやろうか?」
「…なに??」
「ゴム。」
「…そうじゃなくて…。ああもう。あのね。あたしは修行中なの。今忙しいの。下半身で交流している場合じゃないの。」
「…下半身だけかよ。その上半身はお前の数少ない美点だつーのに。出し惜しみか?」
「数少ないとはなにさ。シバクわよ。」
適当な部屋を見つけて縁側をあけると、2人並んで座り、野菜を食べた。キュウリもトマトもほどよく冷えていた。モロキュウはいつきに好評だった。
「…ハルキちんさ、なんかおかしくない?」
いつきがトマトを噛みながら言った。
陽介は首を振った。
「…変、なのかな。わからん。ケンカになった。」
「絡まれたでしょ?あたしと田中やんがどうの、あんたがどうの、って。」
「…それもあるんだが…月島さんと俺が気に入らないらしい。」
「ああ、あんたが月島さんとベタベタしてるから、寂しいのか。」
「俺別に月島さんとベタベタしてないだろ?…春季のほうが月島さんにまとわりついてるくらいじゃない。ナオトとかよんじゃって。聞く度にびっくりする。」
「それはなんだか、月島さんが、翠さんのお気になんだって。その感覚が、翠さんが抜けても少しのこるらしいよ。それでナオトよばわりらしい。さっきあんたが買い物いってるときに聞いたらそう言ってた。…月島さんてさ、あんたがいると頑張ってるんだけど、いないとへばってるの、気がついた?」
「…しらん。昨日は俺の目の前で気絶してたけど。」
「気絶は意志の問題とちがいますからのう。」
「…なぜそこでおばあちゃんの口真似。」
その口真似がやけに似ていたので、2人はしばしけらけらと笑った。
「…あんたも月島さんの前でブリッ子しすぎ。」
「そんなことないだろ。」
「おおありだって。どこの坊ちゃんかと思ったわさ。あんたが月島さんと2人でいる部屋に入るの、なんかいやだし。」
「なーんで。」
「なーんか。あらおぼっちゃま、お邪魔ですかしら?ってかんじー。」
「なーんでー。ほんとに俺クガのぼっちゃんだもん、坊ちゃん臭いのはしゃーないじゃん。派手な若旦那着物だって無難に着ちゃいますよ?」
「よく言うねー」
その会話で、お互いなんとなく、静の着物の話を思い出した。
「…そう言えばさ、翠さん探してあげるって言ってたよ。」
「…着物?」
「うん、なくなったやつ。」
「…翠さんが持って行ってるわけじゃないだ。」
「違うらしい。初耳って風情だった。…あと、血の通う根っていうのは、翠さん的にもかなり不審らしい。…奥の院に翠さんが行くのはヨクナイらしいよ。でも行って確かめたい気分にはなってたみたい。」
「…」
陽介は暗い気分になった。…ここの山では、どうやら主の預かり知らぬ事態が水面下でひっそりと進行しているようだ。そして自分はそれを…かなり大胆な形で表面化させてしまったらしい。
…一体なんのスイッチを押したのだろう、代価を払わなくてはならないのではないだろうか。
いつきは、陽介の考えていることを気配で察したようだった。
「えっとー、…やっぱ、ヤバい、のかな、あんたの立場は、かなり。」
陽介は静かに首を振った。
「…わからん。昨日誰かに聞いたら、自分には答えられないって言われたよ。」
「…だれかって。月島さんとか慎二さんとか?」
「え」
陽介は聞き返されて固まった。
…誰に?
いつきもじっと何かを思い出そうとしている。
…思い出した。
「あっ! …昨日の! 月島さんが言ってた、あれだ!!」
「黒い勾玉!!」
2人はほとんど同時に言った。陽介は慌ててポケットから勾玉を出した。
…勾玉にはとくに変わった様子はない。
「…」
「…陽介、その人とほかにどんな話したか、思い出せる?」
「いや、それだけだったと思う。俺がウトウトしているところにやってきて…話があるならきいてやってもいいぞ、かなんか、言われて…俺は罰を受けるのか聞いた…と思う。」
いつきは呆れて言った。
「…話があるならきいてやってもいいぞって…それすごい高飛車じゃない?月島のおっさんでもさすがにそこまでは言わない。」
「…そうだよな。お前だってそこまでは言わんわな。」
「一緒にすな。」
陽介は勾玉をポケットにしまった。いつきは言った。
「…翠さんが言うに、あんたが逃がしたトンビは、多分天狗の化けたやつだったんだろうってさ。右目が潰れている姿に見えたなら、認識系に故障があってうまく機能してない可能性が高いらしいよ。…翠さんを襲ったのはその天狗だって。翠さんのことがわかんなかったらしい。翠さん的には、ちょっと悲しくも腹立たしいお話らしい。御近所さんに忘れられたわけだから。」
いつきの言葉をきいて、陽介は顔を上げた。
「…そうか、天狗の顔ってたまにいろんな本で猛禽だと思っていたが…あれってトンビなのか!」
いつきはうなづいた。
「らしいね。翠さんそういってた。…多分、おばあちゃんが帰って来たら、翠さんのほうからお話あると思う。」
「まってくれ、…あのな、日本では、…高慢な態度になることを、『天狗になる』っていうんだ。」
「…じゃあ…昨日あんたとこに来たのは…」
「…おそらく。」
「待って。」いつきは手を立てて、一旦流れをまとめた。「つまり、まず、天狗=トンビは、木の根にはさまっていた。翠さん奥の院に近づけないからそのことを知らなかった。で、そのトンビを、陽介が根ぇ切って逃がした。トンビはそのまま、食事をしに供物台へ行った。そこに…」
「…春季の体にはいった翠さんがいたが、…鳶は目が潰れていて、わからずに、敵とみなして、攻撃した…充分なダメージを与えたと考えて、鳶はその場をはなれて…」
「あんたを探しに来た。…あんたに何か礼をしようと思った…。あんたは寝ぼけてて、自分がヤバいかどうかだけ聞いた。勿論向こうがそんなこと知るはずもない。…黒い勾玉をお土産に置いて、去った…」
そこまで言い終わったとき、後ろで
「なるほど。」
と声がした。2人がびっくりして振り返ると、田中が立っていて、ちょうど眼鏡をなおしたところだった。
「ギャー田中さんいつから!!」
2人が思わず手を取り合って声をそろえて叫ぶと、田中はちょっと考えて、
「えーと、翠さんが着物を探してくれる、のあたりかな。」
…嘘だ。2人はそう思った。
+++
「もっとドタバタ歩いてよ田中やーん!!」
「いや、僕はなにも聞いてないですよホント。おかまいなく。」
田中はそう言ってにっこり笑うと、自分も縁側に並んで座った。
「…僕のほうからいくつか補足しておきましょう。…今日の客人ですが、まず、山伏ふうの格好をしていました。足も草鞋履きでしたよ。」
陽介はたずねた。
「…じゃあ、今日の客も天狗だったんでしょうか…。」
「僕はそこの部分については断定できませんが、…今日の客も、見えない、という発言をしていました。僕は、角度が悪くて見えないのだろうと思っていましたが、目に故障があった可能性も考えられないというわけではありません。」
「…大きかったと春季が言ってました。」
「…顔はかもいの上でしたね。」
「でかっ」
いつきが思わず言うと、田中はすこしいつきのほうを見て笑った。
「…尾藤くん大したものですよ。戸でせき止めてあっというまに援軍あつめましたからね。…もっともいつきちゃんがもしあの場にいたら、僕らの出る幕もなかったかもしれないけど。」
「…うーん、ほんの一寸散歩へいっただけだったのになあ。見事にいないときにきたよね。」
「そうだね、まるでねらったみたいに。…僕は時間稼ぎに客と話をしていたわけなんだけれども…どうやら彼の場合は、奥の院に上がれるらしいよ。彼の最後の記憶は、奥の院の御機嫌うかがいをしに行ったことだったらしい。…そのあと、彼の時間はスキップしてしまっている。彼は静さんのことをよく知っているらしいんだけれども、静さんが亡くなったことを知らなかったし、奥の院へ行った日は7月23日だったと、またそれは昨日だとはっきりと言っていた。つまり、まだ静さんが生きていた夏の、7月23日ってことだ。」
「…ええと、昨日、の認識がということですよね。」
「…そこがまたはっきりしない。」
「は?」
「…客はどうも昨日君にあっているらしい。そして君が静さんの着物を着ていたので、多分君を静さんだと思ってしまったんだ。昨日、静は青い着物をきて座っていたと言っていた。時間の前後関係を確かめようと思ったんだけど、向こうがシビレを切らしてしまって…。客の中ではおそらく時間関係が判然としてないんだ。君に会ったのも昨日、奥の院を訪ねたのも昨日、という認識なんだろろう。」
「…それってカナリやばくはない…の?…だって…力、あるんでしょ?天狗。…なのに頭んなか、ごしゃごしゃってことだよね…?」
いつきが田中にたずねると、田中は言った。
「うん、本当にごしゃごしゃ。尾藤君が騙し討ちに合わせたせいもあったのかもしれないけれど、自分が騙されているのではないか、ということを非常に気にしていた。……でもどうなんだろ。月島さんが言うには客がキレたすぐあとくらいに、大将が帰って来たらしくて…もともと僕らではなく向こうに用事があったらしいお客は、奥殿に入っちゃったそうな。…大将が上手く話をつけていてくれれば、問題ない…のかもしれない。…いつきちゃんが帰って来たのは、ちょうどその瞬間。」
陽介はそれを聞いてヒヤリとした。いつきは言った。
「なーんだ、それで月島のオヤジとか斧振り上げてたり、ハルキちんも鉈かまえてたりしてたのね。」
「そういうこと。」
「…翠さんそれまであたしと話しながら、ひなたぼっこしてたから。急に、いかなくちゃっていっていっちゃったからさ、あたしもなんとなく帰って来たの。」
「それであのタイミングだったわけだ…ほんとうに、あのときは寿命が縮んじゃったよ。」
「てへ。ごめんごめん。3年分くらいなら、あたしの寿命あげるよ。」
「そりゃどうも。」
…陽介は2人を見て、確かに春季のいうとおり、2人はややベタベタしているかもしれない、と思った。
だが、別に腹もたたなかった。それどころかなんとなく一緒にほのぼのとした気分になったくらいだ。…そういう自分の心の動きに少し安心した。
「ねえ田中やん、あのとき、なんか、羽織持ってたでしょ?どうして?」
いつきが無邪気に尋ねると、田中はこたえた。
「…昔、静さんによくそうされたんだよ。」
「そうされたって?」
「…羽織を被せられて、じっとしているように言われた。…静さんは、そういうときは、誰かと妙な話をしていることが多かった。」
陽介はぞっとして思わず声をあげた。
「誰かとって?!」
おちつけよ、といつきがこっそり背中をつついてきた。そしていつきはにっこりして田中にきいた。
「…妙なって?」
「…さあ、誰なのかはちょっと。僕は…自分の足下しか見えなかったから。…ただ、まともな話題じゃなかったよ。小動物の数を細かく報告しあったりだとか…あとは遠方の氏子さんの変な噂だったりした。とっくに死んでいるはずの人の噂だったこともあるよ。…たまにユウちゃんが通りがけに冷やかしてたな。クソ親父の化け物友達、とかって。すると静さん怒ってね。もちろんそのお友達はもっと怒ったわけなんだけど。やれやれ、本当に怖い姐さんだ。鬼だよ、ユウちゃんは。」
陽介はぞーっとした。
「たたたたたたたなかさん、よく御無事で…。」
「…うん、なんていうか、静さんの羽織を被っていると、それはどうやら静さんの友達という扱いになるらしいんだ。だから何もされないし。…物好きなやつが僕に何か話しかけると、静さんがいつも『この人は町の人だからやめなさい』というようなことを言って、とめてくれた。つまり地元民じゃないって意味だったんだろう。…誰かさんたちも、本当は静さんとだけ会いたかったんだろうけど…。僕は静さんにはりついていつも話をねだっていたし、よく碁も打ってたし、彼の空き時間を食いつぶしていた。誰かさんたち、いつもけっこう急ぎの用事みたいな感じだったよ。…そういうとき、気配を察すると、静さんはいつも僕に羽織を被せたんだ。
…でも僕は彼らを見たわけじゃないし、触ったこともない。単なる変わり者の人間だった可能性も否定はできないというか、そっちが妥当かもしれないと思ってる。実は翠さんとやらにもまだ会ったことがない。だから正直なところ、妖怪説についてはそれなりに懐疑的。」
いつきはかなり感心した様子で「へえええ」と言った。それから「でも翠さん、いるよ。」と付け足した。田中はいつきに微笑んだ。
それから田中は陽介に言った。
「…久鹿くんも一応、静さんの友人扱いにしておいたから。…着物着てたのは本当に幸いだったと思う。…だれが用意したのかはわからないけれど、会ったら感謝の気持ちを伝えたほうがいいとおもいます。」
陽介はまったくだと思い、うなづいた。
「…何か一枚出しておきましょう。君は今は静さんの着物を着ていたほうが安全だと思います。静さんの着物を着ていれば、静さんが守ってくれますよ。…ユウちゃんが嫌な顔をするだろうけれど、着替えがなくなって田中に借りたといえばいいよ。僕は『やーごめんねユウちゃーん』かなんかいっとくから。」
田中が言うと、いつきも、「借りなよ陽介」と言った。
+++
「目木くん」
陽介が着物を借りに田中の部屋へ行ったあと、いつきが台所で割れたガラスの始末に悩んでいると、月島が来て呼んだ。
「なに。」
「…はるきはどうした?」
「え。会ってないけど。」
「…ようちゃん迎えにいったきり帰ってないぞ。」
「ああ」いつきはうなづいた。「それはですね、彼は陽介とケンカをしたであります、サー。」
わざと軍隊調で言うと、月島はいやそうな顔になった。
「…キャバレーごっこの次は軍隊ごっこかね?」
「…わたしが普通にお話すると月島隊長はいつも失礼であるとお怒りになられるであります。」
いつきがすまして言うと、月島は何かをしっしっと追い払うときのような仕草をした。
「今いそがしいから無躾は許す。」
いつきは顎をそらした。
「…あんたが陽介に蜜をくれてやって骨抜きにしちゃったもんだから、春季ちゃん機嫌が悪いのよ。…陽介は中年の親父がまったくもって異常に好きなわけ。あんたはただそばにいるだけで、陽介をスイートな気分にさせて、その味付きの空気をそこいらじゅうに垂れ流しさせてるの。OK?」
「…」
月島は眉をひそめた。
「春季の機嫌がなんとなく悪いのは午前中からわかっているが、今は神社を離れるべきじゃない。」
「…んじゃ、行って気が済むまで撲られてやったら。」
「…大将が抜けたばかりだから、おそらく今の彼がわたしを撲るのは無理だ。…そうか。それで余計イライラしてるのもあるということか。」
月島はそういってますます眉をひそめた。眉間にキッと縦皺が入った。
いつきは一応本人にもきいてみた。
「どうして大将が抜けたあとだと、あんたのことなぐれないの?」
「…俺は大将に貸しがある。」
「どんな貸し?」
「…きみには関係ない。」
…いろいろお役に立ってあげているらしい。なんとなく「御寵愛にあぐら」のイメージだったのでちょっと意外だった。田中言うところの、人間関係なんてなんとやら、とかいうやつだ。
ハイキングコースで助けてやったじゃない、おしえてよ、と詰め寄ってもよかったのだが、考え直して、その札はもう少し温存することにした。
月島は続けて言った。
「…そうか。じゃ、きみ、どっちがいい。」
「は?」
「…はるきを迎えに行くのと、風呂焚き、どっちがいい?」
「え、今日おふろ焚くの?」
「盆の最終日だからおばあちゃんたち疲れて帰ってくるだろう。風呂ぐらい焚いておいてやろうと思わないのか。気が効かない。女のくせに。いきおくれるぞ。」
「いきおくれるってどこに。」
「嫁に。」
いつきは頭をかいた。
「…そんなひどい態度で、もしかして心配してくれてんの?」
月島は憤慨して言った。
「当り前だ!! 嫌がらせでこんなことを言ってる暇などあるか。」
「…まあ小さな親切大きなお世話っていうか。有り難迷惑っていうか。」
いつきは口を尖らせて言った。
月島は少し嘲笑をまぜて言った。
「…男だって独りで生きるのはかなりきついぞ。」
「男は、でしょ。…つーかうちの養父、『いつきは結婚なんかしなくていいよ。ずーっと僕と独身貴族しようね。お金のことは心配しなくていいよ。』って言うし。」
「ハッキリいってやろう。その男はバカだ。しかもそいつは、自分が子供なんだ。金だけの問題じゃない。」
「…まあ、バカで坊やなのはそのとおりだけどね。」
「君はスポイルされているんだ。」
「…馬鹿なりに一生懸命なのよ、あの人は。不器用なんだからしょうがないじゃない。…あの人はあの人で、寂しいのよ。」
「結構。その寂しさに一生付き合う気でいるなら君もバカだし、君も彼を見捨てているんだ。」
いつきはびっくりして、抗議した。
「…あたしは別にあんたにバカだと思われるのはなんら構わないけどラウールにはちゃんとしてあげてるよ。これ以上彼に気をつかってあげるのは無理っていうギリギリのセンまでゆずってるもん。」
「そうじゃない。きみは本音では彼の人生などどうでもいいと思っている。だから甘やかしてやっているんだ。それは優しさではない。むしろかかわり合いになりたくない気持ちの現れだ。深いところで関係を持ちたくないんだ。」
頭ごなしに言われて、いつきは持っているガラスのかけらを月島に浴びせてやりたい気分になった。深いところでのかかわりなんか持ちたくないに決まっている。あの男はいつきの仇だ。故郷を破壊し、略奪し、父を殺し、弟を殺した。だがいつきは今はあの男のところにいなくてはならないし、彼とうまくやらなくてはいけない。故郷は好きでもなかったし、父はうるさかったし、弟は不良だった、ラウールはかわいくてか弱い男だし、別に許してやってからといっていつきを責めるものも連邦にはいない。だから許してやっている。愛するほうも憎むほうも、どちらもそれでせいいっぱいだ。……だが、月島は、いつきの故郷がラウールの軍隊に壊滅されたことなど知らないし、ラウールがいつきの弟の首をいつきにむかって投げ付けたことだって知らない。ラウールの美しい笑顔をまのあたりにしたこともないし、あの甘い声に話しかけられたこともない。何もしらない人間に、まさかガラスをぶっかけるわけにはいかなかった。
「…何も知らないくせによくそんな事言うよね?」
いつきは静かにそう返した。すると月島は言った。
「見ればわかるさ。君以外の人間はみんなわかってるぞ。今の君が、その養父に限らず、だれとも深くかかわり合っていないことくらい。きみはそのお高いプライドを満足させるために、あらゆる相手からのはたらきかけを余計な干渉だと感じ、苛立ち、すべて拒んでいる。」
「あんたにそんなこと言われるとはね。お高いプライドのために毎日歯ギシリしてるのはそっちでしょう。」
いつきは充分な殺気を込めて言った。月島はいつきの腕力を察している。だが怯まなかった。それどころかまた言った。
「もう一度言ってやろう。きみの魂は他者とかかわりを拒んでいるために、くすみ、濁っている。あたかも流れない水のごとくに、だ。」
いつきは鋭く息を吐いて言った。
「…じゃきくけど、一体どこのだれがそんなに愛し愛されて、『清く正しく』生きているっていうの。あんたの言ってることはおかしいわよ。」
「…君の認識は、いろいろ間違っている。」
「あんたのやすっぽい常識に噛み合わないからって早速バッテン印?」
「もう一回繰返してやろう。君の水は憎しみや悲しみや怒りで濁っている。その感情的な濁りのほとんどには、自己愛か保身が関係している。きみはそのままでいくと、養父を食いつぶして共倒れするぞ。そんな女の子が親切顔でみせかけの愛情を首からぶらさげてそばに寄ってきているなら、きみの不器用な養父に同情するよ。」
月島の口調は断固としたものだった。さすがにいつきも腹が立った。
「…わかったわ。」いつきは割れたガラスの入ったブリキのバケツを地面に置いた。「春季ちゃんが無理だって言うなら、代わりにあたしが撲ってあげる。…裏へおいで。」
「…俺を撲ったら、君はあとで必ず後悔するぞ。」
「翠さんとケンカになるから?…上等だね。」
月島は思わず額を押さえた。
「バカ…そんなことを言ってるんじゃない。まったくきみはどこまで頑固なんだ。…いいとも。じゃ撲りなさい。裏へ出るまでもない。土間におりてやろう。静は俺を撲るときは畳の上で撲ってたから、ここで撲ってもらってもなんらかまわんのだが。」
月島はそう言うと、本当に草履をつっかけて土間に下りた。いつきのそばまで寄ってくると、目を閉じて尚も言った。
「…君はまず一人の女として幸せになることを考えなさい。そうすれば心の水が澄む。相手はだれでもいい。家族でも他人でも。…他の使命はそれからだ。」
「せっかく御忠告いただいたのに申し訳ないけど、わたしは女である以前にわたしなの。人間である以前にわたしなの。そしてわたしは、…一人のわたしである以前に、戦士なの。」
月島はいつでも好きなときに殴れと言わんばかりに、目を閉じたまま応えた。
「…わかるとも。おそらく、ようちゃんよりもユウちゃんよりも、ひょっとしたら春季よりも、俺にはその言葉の意味がわかる。…ただ、道に現れるもの全てを受け入れるまでは、肝心の部分は一歩も先に進まない。世界はそういうふうにできている。…きみには戦う力が確かにあるんだろう。だがそれと同時に癒しの力があることの意味を、もう一度よく考えなくてはならない。…自分がどうして女に生まれたのか、その答が必要だ、この先にすすむためには。」
「あんたの指図は受けないわ。」
いつきが素早くそっけない返事をかえすと、月島もすばやく返して来た。
「する気がないんじゃあるまい。できないんだ。」
いつきは肩を竦めた。
「できないかどうかはやってみなくちゃわかんないよ。やらないけどね。」
「やってみるまでもない。今のままでは上手くいきっこないさ。」
そろそろ撲ってもいいような気がする、といつきは思い、手をぐっと拳にした。
「…世の中はあんたみたいな偏屈ばかりじゃないわよ。」
月島は間髪入れずに返した。
「じゃ、試してみたまえ。田中でもいいぞ。…田中はきみのためになけなしの勇気をだしてくれたじゃないか。俺も春季も動く気にならなかったが、田中は君を守ろうとしてた。きみのほうがあらゆる意味でずっと強いのにな。君だって悪い気はしなかっただろう。お礼をいってもいいわ、くらいの気分になっているんじゃないか?
…試してみたまえ、彼とちゃんと愛し合うなり、いたわりあうなりする男女のやりとりができるかどうか。勿論年齢相応でかまわない。だがおそらく、今のきみにはできないはずだ。
きみの水は常に、悲しみや、怒りや、憎しみでひどく濁っている。恨みつらみがたまっているといってもいい。だからたとえ献身的に愛されたとしても、今のきみはそれをきちんとうけとめ、充分に返すことなどできない。遠慮はいらない、実際にやってみるがいい。そして自分に何が足りないのかあるいは逆に何が多すぎるのか、よく考えてみることだ。」
「…」
いつきは撲ろうと握っていた拳を、軽く開いた。
田中の名前を聞いて、なんとなく毒気が抜けた。
…田中は、あのときいつきが「下半身で交流している場合じゃない」と言ったのを聞いていただろうか?それとも聞かなかっただろうか?…実はそれがずっと気になっていた。
陽介は「やっちゃえば」などという言い方をしていたが、本当はそういう意味ではなかったことも、いつきはわかっていた。わかっていたにもかかわらず、その言葉の表面的な意味のレベルで答えを返していた。…陽介はさりげなく言ったではないか。心臓の入っている上半身は使わないつもりなのか、と。
…自分はその話を回避したかったのだ。
もし聞いていたとしたら田中はどう感じただろうか。期待はずれで失望しただろうか。そもそも何も期待などしていなかっただろうか。それとも…傷付いただろうか。
撲る代わりにいつきは言った。
「…おっさん風呂わかしといてよ。あたし春季ちゃんさがしてくるから。」
いつきは月島から離れて、裏口から外に出た。
…月島がしてやったりと笑ったのには、気付かなかった。
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春季の姿を探しながら道をおりていくと、水場を見おろせる崖の上にさしかかった。ふと下を見ると、春季が水に入っていた。まだ空もくもっていて涼しいくらいなのに、裸だ。…腰まで漬かって顔を洗っている。
…そういえば、陽介たちがまだ来る前に、いつきはここから田中が水浴びしているのを見てしまったことがある。別に気にもとめずに…いつきは実家では男の家族が多かったので…そのまま下りていったら、田中に氷りつかれた。…まるでチカンに囲まれた女のような怯え方だったっけ。思い出すと笑いが込み上げてきた。
いつきは春季に、上から声をかけた。
「…尾藤くん水浴び?…月島さんが帰ってこないっていって心配してるよ。」
「ナオトなんか泣くまでほっとけばいいんだ!あいつのせいで先輩とケンカした!!」
春季は顔をこすってそう答えた。…泣いていたのだな、といつきは思った。まったく、とんでもない苛めっ子親父だ。それに陽介にしたって、イチャイチャしている自分も悪いんだから、ここまでやっつけなくていいだろうに。後輩相手に手加減もできないのだから困る。
「…あがって待ってな。今タオルもってってやるから。」
「…すみません。」
春季は冷えたのだろう、震えながら小声で答えた。いつきは「可哀相に」と思った。
土間に引き返すと、月島はもういなくなっていた。おそらく外の釜のほうか、あるいは水樋のほうにいるのだろう。板の間にあがって、奥の棚に、かわかして畳んで積んであるバスタオルをとりにいった。一番ふかふかに乾いているのを探してやり、他に普通サイズのタオルも一枚とって、もう一度外に出た。
水場の岩に、別に恥ずかしがるでもなく春季は座って足を組んでいた。見たいならどうぞ御自由に、とでもいうような、半ばヤケになっているような態度だった。いつきはバスタオルをふさっとヒザの上に投げてやり、それから歩みよって、頭にもう一枚被せてやった。春季はタオルの下から、おずおずといつきに聞いた。
「…先輩、怒ってますよね…?」
「…そうでもなかったよ。俺別に月島さんとイチャイチャしてないだろ?! とか、必死であたしに確認してた。」
「…なんてこたえたんですか。」
「滅っっっっ茶べたべたしてるってこたえてやったら狼狽してたわさ。」
いつきは調子よく出任せ気味にそう言うと、「カカカざまーみろ陽介のやつ」と笑って春季の頭をがしがし拭いてやった。そして、さりげなく言った。
「…陽介は年上の男が好きなんだよ。」
すると春季もぽつりと応えた。
「…知ってます。」
春季の知っている内容と、いつきの言っている内容は違う気がしたので、いつきはくわしく言った。
「…そばにいて、自分やお母さんを励ましたり叱ったりしてくれる頼りになるお父さんが欲しいんだよ。…あそこんちの父親、尾藤家とちがって、滅多にいない…ってか、来ないから。…陽介は、母子家庭に疲れ果ててるんだよ。…夏休みはどこかに逃げたくなるくらい。」
「…」
「…月島のおっさんに多少甘えてても許してやんな。バカなんだから、陽介は。バカで子供なんだから。…尾藤くんがしっかりしなくちゃ。」
いつきがそういって、バスタオルでくるんでやると、春季はうなづいた。
「…姉さんにも、出てくるときそう言われました。」
「小夜も言ってた?やっぱりね!…さ、風邪ひくといけないから、ちゃんと拭いて服着な。体少し弱ってるんだし、無茶は駄目だよ。戻って少し昼寝でもしな。いつきさんが布団しいてやっから。」
いつきの言葉に春季は思いのほか従順にうなづくと、岩から立ち上がった。いつきが背中をむけてやると、のろのろ体をぬぐって、服を着た。




