19 KYAKU
結局春季は午前中、いつきのあとを猫のようにつけまわし、ついには念願のパンこねを嬉々として手伝った。ハラヘリ者が多かったので、思いきってたくさんこね、あり合わせの野菜を唐辛子と味噌で炒めて具を作った。昨日もおばあちゃんとユウはちゃんともらいものをしてきていたのだが、いろいろごたついていたせいか、それらの食料は台所の板床に山積みにされたままになっていた。春季がてきぱきと分類してくれたのでいつきが所定の場所に収納し、ゆでてすぐに食べられそうなものや果物などは昼食に出すことにした。
パンが焼き上がったころ、タイミングよく田中と陽介が帰ってきた。約束なのでいつきが月島を起こしにゆき、台所にもどってみると、春季はすっかり勝手に盛り付けを終えていた。
「…なんかあんたがいると仕事が滅茶苦茶早いんだけど…」
「それはですね、僕が有能だからです。」
「…さいですか。」
「あはは。じゃ、運びますね。」
春季が皿を持って出て行くと、入れ代わりに陽介と田中がたくさん荷物を持って入ってきた。
「ただいま~」「スーパーで特売してたからオバチャンたちと戦ってたくさん買ってきた。」
「おつかれー! 昼御飯できてるけど、もしすぐ食べられるものあったら出して!」
「とりあえず…これ!」
数ある戦利品の中から田中が出したのは、大きな『フィッシュ&チキン』のボックスだった。「世界連邦どこであろうと、ハラヘリたちの救世主『フィッシュ&チキン』」がキャッチフレーズ…フライドチキンとフィッシュ&チップスのファーストフードのチェーン店のものだ。CMにはこの箱を持ったキリスト風のおじさんが登場する。ア-ネスト・ビバリ-というコメディー俳優がその役をやっているが、もう15年目とか。
「うそー!?感激! ビバリ-ボックスだ!」
「久鹿くんがさ、なまぐさものはだめですか、とかいうんだよ。とーんでもない。おばあちゃんだってチキン大好きだよ。たまに絞めたやつもでる。」
田中はきゃーとボックスに抱き着くいつきににこにこ笑った。陽介が言った。
「おめーらに肉くわせないと帰ってからおふくろに叱られっからよ。俺のおごりー。」
「陽介大明神様!!」
いつきは思わず陽介に柏手を打った。
「…いつき、その冗談は神社ではちょっと。」
「えーなんでー。せっかく柏手上手になったのにー。」
「所定の場所で所定の神様にしろや。」
「…久鹿くん若いのにけっこう迷信深いよね。」
田中が眼鏡をずり上げて言うと、陽介はげんなりして言った。
「…田中さんもよくこういう状況で『迷信』とか言いますよね。」
すると田中はけろっとして言った。
「僕は慣れてますから。…さ、ごはんごはん。」
部屋では何食わぬ顔で服装を整えた月島と、料理を運んだ春季が勝手に先に食事を始めていた。
「あっ、なによあんたたち、みんなが揃うのまちなさいよ!!」
「いやちょっとつまみ食いの予定だったんですが。まあ予定はあくまで予定といいますかその…」
…余程餓えていたらしい。
「…僕達もいただきましょうか。」
田中の提案に反対する声などあるはずもなく、みな大皿の回りにわらわらとたかって、ピクニックな感じの昼食となった。
春季もチキンとフィッシュフライには大喜びで、頼みもしないのになぜか月島の取り皿に「ナオトはい」といってひょいひょいと載せたあと、自分でも大きなピースに手を伸ばした。陽介はものすごく不審そうな顔になった。月島がたまたま顔を上げたため、陽介と目が合った。あ、面白いぞ、といつきは気付かないふりでチキンを食べ続けた。月島が言った。
「そういえば、ようちゃんもう着物はヤメかい。着付けが難しいなら着せてあげるよ。」
言われてみれば、陽介は今日は朝から自分の服を普通に着ているようだ。勿論買い物にあの和服というわけにはいかないが、神社にいるなら和服でもさしつかえない。…それにあの和服は、まるで陽介にあつらえたようによく似合っていた。
陽介は微妙な沈黙を作った。何だろうと思っていつきがチラっと見ると、春季が言った。
「似合ってましたよ、先輩。」
陽介は田中の顔を見たが、田中は知らん顔でパンを食べていた。陽介は仕方なく、自分で言った。
「…朝起きたら、なくなってました。」
「無くなってたって…?」
春季が尋ねると、陽介は春季に言った。
「…昨日寝る前にちゃんと畳んで枕許に置いて寝たんだけど、…朝起きたら誰か片付けてくれてたみたいで…。」
月島はちょっと考えて言った。
「…そういえば起きたとき、なかったな。」
それで思い出したが、いつきは昨日月島を陽介の部屋に寝かせてしまったのだ。多分眠っている月島のところへ陽介が帰ってきて、着物を畳んで、隣に寝たはずだ。
「…どっちが先に起きたの?」
「…私だな。」
「えー、昨日ナオトが先輩と一緒に寝たの?」
あからさまに不満そうに春季が言った。月島はつらっとして答えた。
「そうだが?」
「何の権利があって?」
すかさず春季が畳み掛けた。
「別に何の権利もないが?」
平然と月島は答えた。
春季はどうでるだろうか、といつきはちょっと面白がってそのまま見ていた。
春季のリアクションはストレートだった。
「勝手に僕の先輩と寝ないでよ!」
田中が笑いをこらえたのがわかった。
月島は田中を視界から追い出すように春季のほうを向いた。
「…今度は私か?誰彼かまわず訳のわからない独占欲をふりまわしてかみつくのよしなさい。」
「…今度はって…ほかに誰に絡んだの春季…?」
陽介がおそるおそる尋ねたので、いつきはにこにこ笑って挙手した。
春季はちょっとゴネて満足したのか、そこまででやめたので、いつきはそのニコニコ顔のまま、話を修正した。
「あれ、田中やん、しまっちゃったの、着物。」
「…いいえ。…というか、そもそも僕は出していませんし。」
田中は鼻の上で眼鏡をなおしながら言った。春季もつられて眼鏡を直して、言った。
「…あれ?でも丈のなおしてある静さんの着物というのは…田中さんが頂いたのではなかったでしたっけ?」
月島がさり気なくうなづいた。
田中は言った。
「…じゃ、久鹿くんにはもう買い物しながら話したけど面白い話をここで余興がてらひとつ…。」
「まってました。」
いつきがいいタイミングで間の手を入れると、陽介が憂鬱そうな顔になった。…ということは、これはどうも面白い話というよりは…。
「…おばあちゃんがあまりこういう話で大騒ぎするの好きじゃないだろうし、亡くなった人にかかわることだから、僕もあまりこだわらないようにしていたんだけど…実は、静さんの着物で、どうしても見つからないものが何枚かあるんだ。亡くなった直後に、もう既に見つからなくなっていたものもあるし、時間がたつにつれていつのまにか少しずつ無くなったものもある。おばあちゃんは最初、自分の勘違いかと思っていたらしいんだけど、あまりにもあれとこれがない、とはっきりわかるので、首をひねっていたらしい。」
「へえ。」
春季が無邪気にあいづちをうってパンをもぐもぐかじった。田中は続けた。
「…僕がその話をきいたのは最初に何枚か着物をもらったときのことで…欲しいのがあったら探すから言ってくれ、と言われたついでにきいたんだ。つまり、見つからないものがいくつかあるから、完全に御期待には添えないかもしれないけれど、みたいな感じで。僕は初めは、たいして気にかけていなかった。きっと整理の関係でどっかに紛れてるって意味だろう、くらいに思っていたんだ。
ところが実際はそうじゃなかったんだ。
最初の時、おばあちゃんが、何枚も着物を広げてくれて、このなかから好きなのをとりあえず2~3選んでくれと、滞在中に間に合うように丈をつめるから、と言ってくれて、僕はそのなかから、わりに濃い色のものばかり選んだんだ。明るい色はどう気張っても似合わない気がしたし、気分じゃなかったからね。そうしたらおばあちゃんが、もっと明るいものを着なさいと、これなんかもとても品物がいいから、といって無理矢理明るい色のものを一枚選んでくれたんだよ、何か若旦那風の、まあピンクというか、赤みがかった白だったな。僕は気がすすまなかったけれど、せっかくの御厚意だから、それもいただくことにしたんだ。おばあちゃんは僕の気が変わらないようにと、その明るい色の着物から丈をつめ始めた。…僕の目の前ですぐに作業をはじめたんだよ。しばらく見ていたけれども、仕事を持って来ていたから、僕は途中で退室した。」
田中はそこまで言うと、自分で勝手にお茶をくみはじめた。
「…その日の夜半にはその着物は仕上がっていた。合わせてみてくださいと言われて、たしかに試着もしたよ。ちょうどよくなおってた。でも僕はなんとなく気がすすまなかった。だってどこかの若旦那じゃあるまいし、あんな派手な着物、もらっても着られないよ。…合わせたあと、乱れ箱に入れて、おばあちゃんが押し入れにしまってくれた。帰りに他のといっしょに荷造りしてあげますからといって。」
田中はみんなにお茶を配り、自分でも一口飲んだ。
「…翌朝、乱れ箱もろとも着物は消えていた。僕もおばあちゃんも探したが、出てこなかった。…いまだに出てこない。僕が内心気が進まずにいたものだから、着物が悲しがって逃げたのかなと思ってしまったよ。静さんに悪いことをしたと思った。…まああのころちょっと情緒不安定だったし。」
田中はそう言うと、自嘲した。
「…残りの無事だった着物は細心の注意を払って保管して、神経を尖らせて持ち帰った。ドームの部屋で思わず御神酒上げたよ。
…おばあちゃんから、『さしあげようと思ったのに、申し訳なかった、前にも言ったとおり、紛失したきり出てこない着物は初めてではないです』と言われた。それで初めて、おばあちゃんが言ってた見つからない着物、という言葉の意味がわかったんだ。
…その後も静さんの着物はときどき無くなる。この屋敷を出てぼくの部屋まで運び込んでしまえば無くなるなんてことはないんだが、ここにある間はいつなくなるかまったくわからないんだ。だからおばあちゃんは着物を用意してくれているとき、念のために必ず複数用意してくれている。
昨日久鹿君が着ていた水色の着物だけれど、あれも丈をつめた途端消えたうちの一枚だ。何年か前の大祭のときに、僕があまりに身汚くしていたものだから、おばあちゃんが清潔感を出そうと一計を案じたわけなんだけれども、出来上がった10分後にみごとに消えた。」
さすがに春季もいつきも「ウ-ム…」な顔で黙りこんだ。…月島は「へーそう」な顔をしている。おそらく、このオヤジも田中と同じで、怪現象に慣れているのだ。
月島は言った。
「…出て来たのは初めてなのか?」
田中はうなづいた。
「僕の知る限り、初めてですよ。」
「ふうん…まあ静は気難しくて趣味にうるさい男だったからな。着物も同じ性格だったわけだ。やれやれだな。…あんたにゃピンクも水色も確かに似合わん。」
…なんとあきれるほど当り前な喋り方で、かなりスウパア・ナチュラルなコメントを出した月島だった。
陽介が言った。
「…それで実は…俺は昨日乱れ箱に脱いだ自分の服を放りこんでおいたんだけどさ、…よく考えたら、部屋に戻ったとき、なくなってたんだよね。…なかったですよね、月島さん?部屋のまん中に出しっ放しだったんだけど…」
月島はうなづいた。
「うん、なかったね。きれいに片付いていた。…君の服までなくなったの?」
あ、と春季が言った。
「それはありましたよ! さっき洗濯物にまざってました。ね、いつきさん?」
「ああ、あのシャツね。洗ってほしといたよ。」
「…誰が洗濯にだしてくれたんだろう。俺と月島さんしかいなかったんだぜ、昨日は。」
「…」
「…」
「…」
「…」
みな一様に黙りこんだ。
田中はパンをかじりながらお茶をすすり、そして言った。
「…ま、それだけの話です。気にしてもはじまらないですよ。…フルーツ切りましょう。」
田中がいつきに手を差し出してナイフを要求したので、いつきは慌てて「皮くらいはむくわさ。」とフルーツを手にとった。
+++
神楽の練習をするなら見てあげるよ、と月島が言ってくれたのだが、春季も月島も休ませなくてはならないと感じたので、いつきは今日はあえて練習を休むことにした。陽介が帰ってきてからは、春季はこんどは陽介にゴロゴロとまとわりつき、おまえ少し横になって休めよ、などと今度は陽介に言われて、えーだってじっとしてるとかえって疲れちゃうんだもん、などとまたゴネていた。そんな2人を月島は引きずって裏へ行き、薪割りを仕込むことにしたらしい。まったくなんのためにいつきが神楽の練習を休んでやったのか、全然わからない。思惑が上手く行かなかったのは残念だが、もともと大雑把ないつきはたいして気にもとめず、自分はちょっと息抜に、水ごりをする滝のほうへ散歩にいくことにした。
「田中やーん、あたし、お滝のほうにいるから。」
「あれ…」田中は襖を開けて顔を出した。「でもおばあちゃんが、まだ一人で滝行しちゃダメって…。」
「うん、中にははいらない。さんぽ。…電話とか、頼むね。連中も裏にいるけど。」
「んー、わかりました。」
「…田中やんは何してるの?」
「書き物してた。」
「…」
「何?」
「いつも籠って、退屈じゃないの?」
「だって仕事だもん。」
田中はいつきの口まねをして言うと、にこにこ笑った。
「そっか。」
「はい、そゆことです。…じゃいってらっしゃい。」
「いってきまーす。」
裏のほうでは、鉈を使う音がしはじめていた。まだ小さい音だ。とりあえず小さい薪を作って練習しているのだろう。春季も真面目にやっているらしく、おしゃべりの声は聞こえない。空は曇っていた。
滝のほうへ歩いてゆくと、前に翠さん入りの春季と話したときに座った岩が目にはいった。何かのっかっているな、と思い、近付いてみると、細い蛇がだらーっとながくなって、ほんのりあたたかい岩の上で休んでいた。
「…」
いつきはちょっと隣に座った。すると蛇は言った。
「…今日は話したくない。」
いつきは肩を竦めて立ち上がると、そのまま滝のほうへ歩いてゆき、今日こそはこの崖を登って向こうを見て来てやろうと靴を脱ぎ始めた。すると背後で蛇がシュッと音を立てた。
「これ、待ちなさい。どこへ行くつもりです。」
「…つかれてんでしょ、寝てナ。」
「何と不遜な。…答えなさい。」
足下にピシリと小さな電撃が走った。
いつきは振り返った。…目が吊り上がった。いつきはその恐ろしい目で蛇を睨み付けて言った。
「…ここを登るんだよ、御領主。それがなにか?」
「…やめなさい。滝の向こうは女人禁制ですよ。」
「なに にょにんきんせいって。女の血は汚いし臭いはクサイから立ち入り禁止ってこと?」
「誰もそんなことは言っていません。…わかりました、話しますからこっちへいらっしゃい。」
いつきはその場で向きを変えて蛇のほうを向いたが、一歩も歩み寄りはしなかった。
蛇はため息をついて言った。
「わたしに来いというつもりですか。それはいくらなんでもやり過ぎでしょう。分を知りなさい。あなたを害するつもりはない。雷があたったわけでもあるまいに大袈裟な。」
「…」
いつきは黙って岩まで引き返した。
「…昨日は騒がせたようですね。」
蛇はゆっくりと身をくねらせて、輪を描いた。そして自分の尻尾を枕に、顎をことんとおいた。
「…天狗、元気だったんだって?」
いつきは言った。蛇は答えた。
「…元気ではなかったですよ。目が見えていなかったようだ。」
「…目が見えてない…?」
「…私のことがわからなかったようです。ああいうことをされる仲ではないですから。」
「…何されたの。」
「…」
蛇は煩わしそうにしばらく考えたが、表現が見つからなかったらしい。あなたに何と伝えていいやら、と言っただけで、詳しい説明はしてくれなかった。そうですね、肉体とは違う次元で、撲る蹴るの暴行を受けたと思って下さい、とだけ言った。
「…それはひなたぼっこしていれば、なおるものなの?」
「肉体があればひなたぼっこくらいでなおりますよ。ジョギングとかね。行水や温泉も悪くない。…肉体というのは持っているのが当り前になってしまうとなかなかわからないものですが、なかみが衝撃をくらったときはよき緩衝帯になってくれますし、痛みや怪我を物質的に癒し、毒素を中和してくれる素晴しくよくできた宇宙服のような物なのです。」
「神様のくせにジョギングとか宇宙服とかいわないでよ。」
「…宇宙服の概念はハルキが持っていたものをもらったようです。…借りた体から少しずつ、私は認識のための枠組みのようなものを土産にもらう。…影響される、と言ってもいいかもしれません。」
…なるほど、だから電車に乗れたり、品のいいソフトスーツを着てお金持ちふうに着飾ったりできるわけだ。
「…じゃ、春季ちゃんの中にいたほうが早くなおるじゃない。」
「…毒素の分解にコキ使ってしまいましたからね…。少し向こうも休ませないと。」
…宇宙服メンテナンス中、といったところというわけだ。
いつきは納得して話を変えた。
「…目が見えない、か。どうしたのかね、天狗さん。なにか目がつぶれるような凄いものでも、見たのかな。」
蛇は少し間をおいて答えた。
「…あるいは事故にあったか、どちらかでしょう。」
「神様同士も、目でお互いがその相手だって確認してるんだね。」
「それは違います。確認作業をしている部分を仮に目とか頭とか呼んでいるだけです。」
「あ、なるほど。そっか。」
「ただ便宜上そう呼んでいる手前もあるので、たとえば今わたしのその部分に機能不全がおこったとしたら、あなたには、この蛇の目が潰れたりにごったりして見えることでしょう。」
「…ふーん、そうか、あたしたちにわかりやすいように、あたしたちの法則で姿をつくってみせてくれてるわけね。」
「そうですね。」
「…ということは、蛇でいるってことは、手も足も出したくない気持ちの現れなのね。」
「…あなたなかなか鋭いですね。…能力を封じていたほうが、エネルギーが節約できるんですよ。その分回復にまわせるのです。蛇は非常に優れた生き物です。鼠を一匹くらい食べれば、一週間はひなたぼっこでかまわない。気温がさがれば冬眠もできます。」
「…いよいよのときは脱皮もできる、」
「…できますね。」
いつきはうなづいた。
「便利だ。…ところで、陽介が奥の院へ上がる途中で、根にからまっている鳶を助けようとして血のかよった根を切ってしまったんだって。そちらの世界で何か影響はでてる?」
「…わたしには何とも言えないですね。」
蛇はそういって、細い舌をぴろっとのぞかせた。
「ですが、天狗は…たぶん、その鳶がそうだったのでしょう。」
「え?」
「…天狗はわたしが蛇の姿を使う要領で鳶の姿をつかいますよ。」
「あ!…そういえば、片目を怪我してたって言ってた!」
「…やはり。」
「根で突いたのかと思うような様子だったって。」
「…」
蛇は少し黙った。
それからゆっくりと動いて輪をほどき、今度はちょうど反対の方向に回って輪を描いて止まった。
「…血の通った根というのがわからない。…だが奥の院に私が確認しにゆくのはよくないことです。」
「…どうして?あなた男だよね?」
「…何でも聞きだそうとするものではないですよ。」
蛇はそう言うと、また顎を自分の尾にのせてひらぺったくなった。
「…ねえ?」
「…まだ何か。」
めんどくさそうに言われて、いつきはそろそろひっこんだほうがいいのかな、と少し思いつつ、最後の質問のつもりで言った。
「…あの建物の中でなくなったものって、どこへいくの?」
「…」
蛇は少し黙り、それから言った。
「あなたはおかしなことばかり言いますね。血のかよった根の次は、屋敷の中の紛失物、ですか。わたしには見当もつきませんが。一体何をなくしたのです?」
少し苛立っているように聞こえた。ヤバいな、といつきは思ったが、一応言った。
「…あたしじゃないよ。…静さんの着物だって。」
「…」
蛇は黙りこんだ。
…社のほうで、がらんがらん、と大きな音がした。誰かお参りにきたようだ。
しゅ、と舌を吐くと、蛇はずるずると岩を滑り降りた。
「…どこいくの。」
「呼んでいる。ゆかなくては。…失せものの件は後日、探してみましょう。」
蛇はそう言うと、しゅるりしゅるりと草間に消えた。
いつきは滝を見上げた。…滝の水は、いつもどおりに、清い。
+++
「あれ、誰かお参りしていますね。」
春季が小さな鉈をもつ手を止めて言うと、陽介は眉をひそめた。2人の仕事を監視していた月島が言った。
「…ここや寺の盆は、沢を越えて、死者がお参りにくるとかいうんだ。…そっとしておきなさい。気に入られたら、つれていかれるよ。」
「えー…でも、じゃ、あんなにはっきり鳴っているのに…ユーレイってことですか?」
「…かなんかだということだね。」
「僕、見て来ます!」
春季が嬉々として手などグ-にまでして言うのを見て、陽介は慌ててとめた。
「やめてくれ春季!…なにかあっても怖くて助けにいけないよ、俺。」
「だーいじょーぶだーいじょーぶ。」
月島もとめた。
「…やめときなさい。」
「みつからないようにしますよ。」
「春季!」
月島と陽介二人がかりでとめるのも聞かずに、春季は2人の間をすりぬけて、土間のほうへ入っていった。
陽介がおろおろして月島の顔をみると、月島は口をヘの字にまげて言った。
「…ま、大丈夫だろ、彼は。」
「どうして?」
「…なんとなく。」
「そんな!月島さん、無責任ですよ!」
月島はなぜか手を左右にはたはたと振った。…何を否定したのかは、陽介にはよくわからなかった。月島は仕方なさそうに言い足した。
「…ようちゃん、ここで女衆言うところの翠さんとやらに勝てる猛者はそうそうはいないんだ。幻みたいな連中など、春季の体に残っている彼の気配だけで震え上がるだろうよ。春季は今むしろ、本殿あたりにいたほうが、回りに迷惑をかけないくらいなんだ。もっともここの本殿は滅多に開かないから仕方がないけどね…。…それと、春季の左手だが。」
陽介はどきっとした。
…月島と、春季の手の話をするのは変な感じがした。…いつ月島に話しただろうか?
「…ひどく勢いの強い火のようなものだ。気の弱いやつなら焼き尽くされてしまう。…だからまあ、春季は大丈夫だろうさ。放っておこう。…これ持てる?持ってごらん。真面目に集中して持たないと、怪我するよ。」
月島はそういって少し大きめの鉈を陽介に差し出した。陽介は、口を結んで受け取った。
一方建物の中に一旦入った春季は、足音をたてないように気をつけながら、表の拝殿が見えるほうに向かった。春季はいつきと話をして以来、幽霊なるものがいるならこの目で見たい、という気持ちが強くなっていた。
玄関から出ようとして、ふと考え直し、玄関の近くにある部屋に移動した。窓から見たほうが、気付かれにくくていいのではないかと思った。
部屋の襖を静かに閉め、かがんだ格好で足音をしのばせ、窓の格子に近付いた。
…そっと覗いてみる。
参道には誰の姿もなかった。特に変わったようすもない。
眼鏡をなおして、視線を拝殿のほうに移動させた。
…とくに何もなかった。
(なーんだ。)
春季は少しがっかりした。
戻って薪割りにを手伝おう、と思い、すっくと立った。
そのとき、玄関口で「誰か」という声がした。
…客だったらしい。春季はかるい足取りですたすたと部屋を出て、玄関へ向かった。
引き戸を開けようとして、すりガラスに透ける客の影にぎょっとした。
…でかい。
(に…仁王よりでかくない?この人…)
春季の兄達の一人である仁王は、みかけこそ純日本人だが、血は半分白人のものだ。そこいらのチャチなプロレスラーなどよりずっと巨大である。すくなくとも極東に越して来てから、春季は仁王より巨大な男にまだ出会っていない。テレビで見た相撲取りをのぞけば、見るのだってこれが初めてだ。
春季が戸惑っているのに気付いているのかいないのか、男は微動だにしなかった。
…思いきって出るしかない。
鍵はかかっていなかった。春季は引き戸を開けた。
「…はい?なんの御用でしょうか。」
男の顔を見上げようと上を向いたのだが、顔が見えなかった。顔が、戸より上にあるのだ。
男はどこかで見たような奇妙なかたちの服を着ており、その布地は古く傷んでいた。
きたない素足に藁で編んだ草履のようなものを履いていた。なんとなく「草鞋」と頭に浮かんだ。おそらく、翠さんの知識が残っていたのだろう。…春季はヨーロッパ育ちで、極東の生活文化に関してはあまり明るくない。いつきといい勝負だ。
「…宮司か、頼子はおらんか。」
「はい、お盆ですので、いらっしゃいません。夜には帰られます。」
「なに、盆だと。嘘を申すな。」
春季は呆れた。
「嘘ではありません。氏子さんのお家を一件一件まわっておられますよ。」
すると突然、巨大な腕がにゅっと突き出て来くるなり、春季の襟首をぎしっと掴んで、ぐいと持ち上げた。
「小僧、誰に嘘を申せと言われたのだ。貴様臭うぞ、××××××の××に会うたな? やつに何を命じられたのか、言え!!」
春季はとっさにその手に両手でつかまり、力をいれて体をささえた。…かろうじて息を確保して言った。
「…言う前に僕が死んじまってもいいならそうやってずっと掴んでろ。」
すると、男はもっともだ、と思ったようで、手を離し、春季を振払うように地面に下ろした。春季は急いで引き戸を閉めて鍵を掛け、つっかい棒もした。自分の体重でこの相手に徒手空拳でかかっていったら一激死しかねない。素早く板の間に飛び乗って中のほうへ走った。斧、と思った。男はばーん、ばーんと戸を殴りつけている。…おそらくいくらももたないだろう。月島はともかく、陽介と田中を逃がさなくてはと思った。
「いつきさん! いつきさんどこですか?!」
ばりーんとすりガラスが砕ける音がした。
騒ぎを聞き付けて部屋から顔を出したのは、田中だった。
「いつきちゃんならお滝に散歩へ行ったよ。…どうしたの?」
がき、がき、と玄関の戸の格子を突き破る音がする。
「…変な客が…! …田中先生、裏庭から逃げて下さい! 先輩も今そっちへやりますから!」
「…まあ、まちなさい。…出てみましょう。」
「殺されますよ!」
「…僕が時間稼ぎするから、その間に久鹿くんを山に逃がしなさい。」
田中はそう言うと、一旦中にもどって、羽織をかぶってすぐに戻って来た。春季を土間のほうにせきたてる。春季は走りながら振り返り、田中が格子を突き破ってはいってきている巨大な赤い手に向かい合うのを見た。
土間から裏に転げ出ると、陽介と月島が仲良さそうに寄り添って小声で何かしゃべっているのが目に入った。…いきなりムカついた。
「先輩! ヤバい客で、いま斎さんが母屋にいません。好みのおじさまとラヴラヴなとこ申し訳ありませんが、ちょっとハイキングコースのほうに避難しててくれませんか。」
「いきなりラヴラヴとか好みとか言うな!!…ヤバい客ってどういう意味だ。」
「今のあんたの顔ぐらい、全身真っ赤な巨大な男です。」
「なんでいちいちつっかかるんだよ!」
「このくそ一大事に、他の男とラブラブでムカついたからですよ! とっとと避難!! …直人、斧もってついてきて。田中さんが食べられちゃうから。はやく!」
月島は無造作に台木にささっていた斧を一本抜き、そばにあった鉈を春季に手渡した。
「…今どうなってるんだ。」
「玄関の格子をやぶってたところを、田中さんが応対して時間稼いでます。」
月島は陽介のほうを振り向いて言った。
「…ようちゃん、とりあえず水場のあたりまで逃げておきなさい。万が一のときはハイキングコースへ。二の沢まで行って、沢を上流にさかのぼると、滝があって、水の裏にかくれることができる。岸壁に真言がカタカナで書いてある。くりから不動のご真言だが、なぜかここの青大将にも劇的に効く。あらゆるものを浄化の炎でやきつくしてくれる。なにも恐れることはないよ。…さあ行きなさい。」
陽介がうなづいて、小走りに道へ向かう姿を確認してから、2人は大股で歩いて玄関まで行った。
玄関には田中が羽織をかぶって立っていた。戸の格子に、赤い巨大な腕がつきささるように挟まっており、その長い爪は、呼吸に合わせてゆっくりと動いていた。
「…でも、今日は本当に盆ですよ。日の位置をよく御覧なさい。…午後になって一時間ほど。日はどこにありますか。あそこに日があるのは、盆のころのはずです。」
「…むう…」
「どうしてわたしがあなたを騙すとおもうんだろう。何かあったんですか。」
…先ほど春季を掴んだときより、謎の客は落ち着いているようすだった。
「…昨日来たら、静がいた。確かにいたはずだ。盆ならば静はいないはずだ。」
「だから、先ほども申しましたとおり、静さんは5年ほど前に亡くなりました。」
「そんなはずはない。わたしは昨日静と話した。静は青い着物を着て、廊下に座っておったぞ。」
春季も月島もぎょっとした。
この人物は、昨日、陽介に会ったのだ。
田中は別段驚きもせず、淡々と諭した。
「…その人は静さんじゃないですよ。」
「いや、静だった。わたしが静を見間違うはずがない。」
「静さんの着物を借りていたんですよ。僕だって静さんの羽織を借りているでしょう。」
「…見えない。」
客は、苦しげに言った。…そりゃ、見えないだろう。手しか入ってきていない。手で満杯だ。
田中はクスリともせずに言った。
「…見えなくても臭いでわかるでしょう。」
「…わからん。しょうのうの臭いがきつい。」
「そうでしょうね。静さんがなくなったあとは、だいたいは畳んでしまってありますからね。だからしょうのう臭いんですよ。」
客人は唸り声を立てた。
「なぜだ、なぜ盆なのだ、なぜ静が亡くなって5年も過ぎているのだ。わからない。昨日は確かに7月だった…7月の23日だった。」
「7月の23日…どなたかの縁日ですか?」
「そうだ。姫の縁日だ。わたしは日がくれてから姫に御機嫌伺いをした。」
「どちらの姫ですか。」
「泉の御方である。」
田中は顎をさすった。
「それからどうなさったのですか。」
「…それから…」
…唸り声がし、手がぐ、ぐ、と震えた。
「…わからない。」
「…そのあと、何かあったのですね。…青い着物の人にあったのは、泉へゆく前ですか、あとですか。」
「…××××××の××だ、やつはどうした、どこへいった、なぜ出てこない。」
唐突に、客は話を打ち切った。田中は羽織の下で顔を上げた。
「いませんか。おかしいな。近くにいるはずです。」
「…貴様もわたしを騙そうとしているな!!」
手にぐわっと筋や力こぶが浮き立った。
「田中さんっ! こっち!」
春季が田中の腕を掴んでおもいきりひっぱった。田中が後ろに転ぶと、今まで田中がいたところを、客の爪がなぎ払った。春季はさらに田中をひっぱって、板床の上に放り投げた。月島が前に出て、斧を振り上げた。
そのとき、小さな咳払いの音がした。
3人は息をつめて静止した。
ずるり、と手が静かに引き抜かれ、無くなった。
手が破った引き戸の大穴から、客人の汚れた髪や衣服が垣間見えて、消えた。
重い足音がゆっくりと拝殿の方へと遠ざかってゆく。
そのとき「あれま」とやたら普段どおりな間抜けないつきの声がした。
田中ががばっと床から飛び起きて羽織をふりはらった。月島も春季も目が吊り上がった。危ない、今近付くのは、あまりに危ないと3人とも思った。
「どうしたの、これ。」
いつきはそう言ってガラリと破れまくった戸をあけた。
田中がいつきの腕をひっぱって中に引き入れた。
「きゃ! なに!」
「静かに!」
厳しく叱咤して、田中は戸の破れ目から、拝殿をうかがった。
「…どうなった。」
月島が尋ねた。
「…誰もいないみたいです。」
田中がいつきを抱いたまま答えると、月島はやっと斧を下ろした。
「…本殿に入ったな。さっきの咳払い、大将が戻って来たんだろう。」
そう呟くと、おおきなため息をついた。
春季も田中もつられたように、ため息をついた。
「え、え、みんな、どうしたの?ねえってば。」
いつきは田中になつきながら周囲に尋ねた。田中は手をゆるめて、いつきを放した。そしていつきの頭を「よかったよかった」のリズムでぽんぽんとなでた。
月島はめんどくさそうに左右に手を振って、斧を持って裏の方へ向かって歩き出した。そして途中でふりかえると、春季に
「ようちゃんを迎えにいってこい。」
と言った。春季が了承すると、手をさしだして
「…鉈」
といった。春季が歩み寄って鉈を渡すと、
「…だから見に行くなと言ったんだ。もうこういうことはやめなさい。」
と言った。
…春季は不満たらたらで
「はぁい。」
と言った。




