18 SENTAKU
「尾藤君、大丈夫?」
いつきが尋ねると、春季は布団のうえに座り込み、首を左右にこきっ、こきっと倒した。
「…快調、とはいきませんが、おかげさまでなんとか生きてます。」
陽介も気を取り直して部屋に入った。
「春季…」
「先輩。」
春季が当り前のような顔で両手を差し出したので、陽介はいつきがいるのも忘れて、春季を抱き締めた。
「…もし、話す元気があるなら、尾藤君のほうどうだったのか聞きたいんだけど、…大丈夫?明日にする?」
だきつく陽介の背中越しにいつきは春季に尋ねた。春季は答えた。
「…明日はお休みがいただけたので、詳細は明日ということで…。でも、2~3申し上げときますね。…先輩?」
春季が問いかけるように呼ぶと、陽介は手を緩めて春季を解放した。その陽介の頭をかわいいかわいいとなでなでして、春季はいつきに言った。
「…翠さんのほうのダメージはそれほどでもないそうです。ただ、リズム…?だか調律…?だかが狂ってしまっている状態なので、一旦、なんていうか、再起動みたいなことをするそうです。それで、供物台のほうはちょいやすみ。再起動のほうは明日いっぱいくらいでなんとかなりそうってことでした。だから僕も明日は休みです。」
「そう…。じゃ、ひとまずはヨカッタ、でいいのかな?」
「ひとまずね。ただ、相手のほうはほとんどノーダメージなので、またかかってくると思います。」
「相手…。やっぱりなにかと衝突したような感じだったんだ?」
「有り体に言えば、襲われたんです。」
「襲われた…?」
「…ええ。」
「何に…ていうか、だれに、が正しいのかな?」
春季はなぜか少し気まずそうに頭をかいて言った。
「…天狗、らしいです。翠さんの認識では。…僕はわかりません、天狗と言われても見当もつかない。」
「…天狗…?…翠さんが、最近会ってないって言ってたあの天狗?」
「そう、その天狗です。供物台のもともとの主です。…僕はナワバリを荒したと思われたようです。」
「…えー…でも、お隣さんで、仲いい、みたいなこと言ってたよ?」
「…そうなんですよ。でもあの相手は僕が誰だかまったく認識できていなかったと思います。それに一体急にどっから沸いてきたんだか…本当に突然現れた感じでした。…ちょっと失礼、あの水、いただいてもいいのかな?」
と、春季が部屋のすみのコップを指したので、陽介が慌てて手を振った。
「あれ酒だよ。それに多分、なんかのまじないだし。」
いつきが思い出して、枕許においてあった紙袋からお弁当箱と缶のお茶を取り出した。
「ほら、これ飲みな。京子さんが持たせてくれたよ。…お腹すいてるなら、こっち、お弁当。」
「わあ、助かったー京子さん! 明日電話しよっ!」
春季はお弁当の包みを開けて、すごい勢いで食べ始めた。よほど空腹だったらしい。その食べっぷりを見て、陽介といつきも少し安心した。これだけ食欲があれば大丈夫だろう。
思いきり食べているときに吐瀉物の話をするのも憚られたし、根っこから血の件は陽介が話すだろう、といつきは思ったので、あとは何も聞くことはなかった。春季も休みたいだろうし、陽介と2人にもなりたいだろう、と思ったので、席をたった。
「…じゃ、あたし部屋に戻るけど、…陽介一人で部屋に帰れるデショ?先に失礼するよ?」
「えっ…」
ここで陽介が思わぬ難色を示してくれたおかけで、いつきは頭をもう一ひねりしなくてはならなかった。
「…わかった、じゃ、適当なところで田中先生に来てもらうってことでどう?」
「…へんぱい、ろうしたんでふか?」
もぐもぐとお弁当を食べながら春季が尋ねた。いつきは肩を竦めた。
「…そいつ、今ひとりでおうちん中歩いちゃイケマセンてことらしいの。屋敷内神隠しに遭いかねないんだってさ。」
「屋敷内神隠しってハハ、あのときのねーさんじゃあるまいしー。」
…春季の姉は以前自宅内で忽然と姿をけしたことがある。冗談口調で言ってから、春季は少し青ざめた。
「…まさか。」
その春季の反応を見て、いつきも少し心配になった。そうだ。確かにそういうことも、なくはなかったりしたのだ。
「…田中やんにゆっとくわ。」
陽介もこくこくうなづいた。
「…うん、頼む。」
いつきは部屋を出た。
+++
「田中やーん、起きてるよね?」
「はいはい。」
声をかけると襖が開いた。田中は寝巻代わりの浴衣に着替えていた。田中は浴衣が似合う。
「あのさー、15分くらいしたら、春季ちゃんとこにヨースケ迎えにいってやってくれない?…あたしがいると男の子どーしの話がしづらいだろうとおもって外してきたんだけど、陽介が、一人で廊下歩くのヤだって泣きそーだから。」
「はいはい、りょーかい。…あれ?ここ、コブになってない?」
田中が陽介にぶたれたところに触ろうとするので、いつきは微妙に避けた。…実はけっこう痛いのだ。
「うん、さっき陽介からかって殴られた。」
「…あの子そゆことするの。なんか意外だな。」
いつきは声をひくくしてひそひそ言った。
「…前のカノジョは殴っちゃって別れたらしい。」
「あわわ。…僕はなにもきいてませんから。聞かなかったってことでよろしく。…てゆーか、男女交際してたの、彼。」
「してたのよ、一応。」
「それも意外だし。」
「人間関係なんて誤解の集積ってわけね。」
いつきが口をヘの字にして肩を竦めると、田中はニヤリとした。
「よく覚えましたね。…魔女子さんはもう寝るの?」
「うん、ユウが起きてたら、ユウと少ししゃべって、あとは寝る。」
「そう。じゃ明日面白い話おしえてあげる。…お休み。」
「えー何、面白い話って。今 教えて!」
「…明日ね。今日はお疲れ様でした。よく休んでね。」
いつきが口をとがらせると、田中はにっこりして、いつきにバイバイと手を小さく振った。仕方がないのでいつきも「おつかれ~おやすみ~」と言って、移動した。
自分の部屋に戻る前に、ふと気になって、陽介の部屋の襖を開けた。
「あっ…!!やっぱり死んでるしーーー!!」
…そこには倒れ伏して、蹴っても起きない月島の姿があった。
いつきのブーイングにびっくりして、田中がすっ飛んできた。
「死んでるって誰が!!…ああ、なんだ月島さんか。この人は殺しても死なないよ。ああびっくりした。」
本気で来てくれたようだったので、いつきは田中の顔を見て一応謝った。
「…死んでるっていうのは言葉のアヤでした。驚かせてすみません。」
あー、いいよいいよ、いいかげん、僕がこだわり過ぎなだけ、と、よくわからない返事をしながら、田中は月島を覗き込んだ。
「…疲れが出たんじゃないの?…布団しいて寝かせておけば大丈夫じゃない?」
「チクショー…ヨースケくさい布団に寝かせてやる。…ったくもう、だから安静にしてろっていったのに…意地っ張りなんだから…」
いつきはぶつぶつ文句を言いながら陽介が使っている布団を敷いた。田中が月島を「うんしょ」とひっぱって…重そうだった、多分相性が悪いのだろう…布団にねかせた。ラフな格好だったので、脱がさずにそのままかけ布団をかけておいた。
「…陽介もどってくるよね。布団しいといてやっか。ついでだ。一緒でいいよね別に。」
「うん、いいんじゃない。」
ついでにもうひと組布団をしいてから電気を小玉にして部屋を出て、2人はまたそれぞれの部屋に別れた。
いつきが自分の部屋に戻ると、案の定ユウが布団に大の字で仰向けにねころんでいた。ねぼけまなこでおきあがると、くしくしと目をコブシでこすり、いつきを見上げて言った。
「はああ、今日はあんたもお疲れだったね。ほんとお疲れ。ごくろうさん。ながかったでしょ、ハイキングコース。」
「まあね…でもあんたこそ、今日大変だったんでしょ?峠走っておりたって…それに慎二さんはどうなの?」
いつきがユウの隣に座りながら言うと、ユウはうなづいた。
「ん…大変だった。でも、なんとかなったよ。神様が助けてくれたんだね…。」
その神様のアオリをくらって慎二は倒れたのだと思うのだが…まあ別にいい。
「…大丈夫?」
「うん…。」
ユウはまたうなづいて、それから顔を上げた。
「…あたしもさ、そりゃ、オマエほどでないけれど、山育ちで鍛えてるからさ…。峠くらいは屁みたいもんだよ。…でもさ、慎二さんが…慎二さんが、死んじゃうかと思った…うちに電話しても久鹿しかいなくてさ…京子さんて氏子さんが助けてくれたの…あの人がいなかったら…ううん、いたからよかったんだけど…」
いつきはうなづいた。
いつきなら陽介くらいいてくれれば充分だが、おそらくユウにとっては、陽介では少し頼り無いのだろう。
「…京子さん、すごくいろいろ、頼りになる人だね。親切にしてくれるし…。」
「…うん。…あのひとがいてよかった。」
いつきは今にもユウが泣き出すのではないかと思った。
「…慎二さんも、とりあえず、命には別状ないってね…」
「うん…ホントよかった。」
…ユウは泣かなかった。
「…ごめん、もう、寝ようよ、いつき。あたし明日も仕事だし…オマエもつかれたろ。」
「…そうだね。」
ユウはそのままこてっと横になり、足下から布団をひっぱってかぶった。いつきは電気を消してから、自分も布団に入った。ユウは、すぐに深い寝息を立て始めた。…泣く力も出ないくらい、疲れ果てていたようだった。
+++
翌朝の朝食の席には、初めて春季が加わっていた。春季と月島は似たようなげっそりぶりでお膳を並べていたが、2人とも食欲だけはまともにあるようだった。…勿論ここの朝食では足りていないことが傍目にも明らかだったが、誰かがどうにかできるという問題でもない。
少し早い時刻に江面がやってきて、「やあ、昨日大変だったんだって?…今朝ちょっと寄ってみたら、シンジ、起きて飯くってたよ。車出すとか本人はいってたけど、ちょっと無理っぽかったから、よそあたってみたら、江川のうちで車出してくれるってさ。…はいこれ差し入れ。」と大きな西瓜を差し出したとき、春季はあいさつもそこそこにそれを受け取っていた。
おばあちゃんとユウが出かけてから、田中の提案ですぐに西瓜を切った。
西瓜はよい出来で、その爽やかな甘味が、足りない胃の満足度を幾分上げてくれた。
いつきが昨日のように洗濯物を選り分けていると、月島がよろよろやってきて言った。
「おい、目木くん、車を貸してやるから、田中に運転させて、何か食い物を調達してきてくれんか。…洗濯は明日でもいいだろう。」
…いい考えだ。いつきは月島からキーを受け取った。するとちょうどそこへ田中がやってきたので、かくかくしかじかというと、少し考えて田中は言った。
「…運転は今のメンツでは僕以外どうしようもないけど、買い出し要員はいつきさんよりぼっちゃんのほうがよくない?彼ここにいても電話番くらいしかできないけど、買い出しの役にはたつと思うよ。いつきさんはここにいたほうがいいでしょう。…昨日の今日だし。また今日なにかあった日にゃ、ですよ。」
「…ようちゃんに薪割り教えようかと思ってたんだが。」
月島はそう言いつつもやはり少し考え、最後には同意した。いつきは洗濯がさぼれなくて残念だった。
「…はるきちゃんが元気なら、薪割りはきっとはるきちゃんがやってくれると思う。あの子、アウトエリア育ちで何でもできるから。」
「…わたしが元気ならわたしがやるんだが。」
「…ま、仕方ないんじゃない。はるきちゃんと2人でふとん並べて寝ててよ。」
「ふとんはもう上げた。」
「…いじっぱり。なら座布団でも並べて寝てなさいってーの。」
田中が、じゃ、行ってきます、と言って去ると、月島もよろよろとどこかへ行った。…月島が無理して山を下りていたのも、豪勢な夕食をもちこんでいたのも、どうやら自分の空腹に対応するためだったのだな、といつきは思った。
しばらく洗濯物を投げていると、今度はよろよろと春季がやってきて、すとんと座った。…なんとなく、動作に猫だったときの面影が残っていておかしかった。くすくす笑うと、春季は不機嫌そうに言った。
「何笑ってんだか。」
「いや、あのにゃんこ、尾藤君だったんだなー、と思って。」
「…そりゃそうですよ。…洗濯ですか。手伝いますよ。僕洗濯得意だし。僕や先輩の物もまざってるんでしょう?悪いから。」
いつきは手を左右に振った。
「ここの洗濯すごくきついから、やめときな。…それに、顔色悪い。もすこし休んだほうがいいよ。」
「…」
春季は顔をしかめて自分の顔に触った。
「…そんなに酷いですか?」
「うん、まあまあ酷いよ。クマできてるし。全体的にどすぐろい。」
…姉さん似のカワイイ顔が台なしだ。
「…でも、物持ちくらいならできますよ。先輩も田中さんも買い物にいっちゃったし…落ち着かなくて…。ナオトはなんだかヨレヨレだし。」
あのおっさんをナオトよばわりかい、といつきはいささか驚いた。
たいして長く話もしてないくせに、変なの、と思った。
「…そう。んじゃ、半分持ってきてくれる?川までおりるから。ついでに昨日の話でもおしえてよ。」
春季はうなづき、洗濯物を抱えていつきの後をついてきた。
天気はいつもの薄曇りだった。少し風があるせいか、爽やかな空気だった。
春季を岸の岩にすわらせておいて、いつきは川に入って洗濯をした。
足の骨の随がしくしく痛んでくるような水の冷たさは、今日もいつもとかわらない。
いつきが適当に話をふると、春季は昨日のことを詳しく話し始めた。
翠さんが御使用中の間、春季は完全に猫のほうに意識があって、あまり自分の体が何をしているのかはわからないのだそうだ。けれども、体に戻ってくると、それなりに体がやったことの記憶や、翠さんの思考の記憶が残っているのだという。
「…あのときいつきさんオカグラの練習してたでしょう?…正直言って僕にはあれが凄く退屈で…。眠くなっちゃってたんですよね。部屋がいくら広いって言ったって、畳の上で爪立てて走ったら畳がボロボロになっちゃうし。…それであったかいところへ行って寝ようかな、と。」
「…のっけから話の腰を折って悪いけど、多分オカグラのオは丁寧の『御』だと思うよ。」
「えっ?! そうなんだ!! 『オカ』と『クラ』かと思ってた!」
春季はびっくりしてそう言って、自分のミスに自分でげらげらウケた。
「まあそれはともかく、縁側で寝ようと思ったんですよ。…そしたら本当に唐突に苦しくなって。いつきさんあのとき毛玉だと思ったでしょう?」
「思った思った。」
「…昨日京子さんのお弁当いただきつつ、先輩といつきさんの統一見解、一応伺いましたが、…傷口の膿のようなものだというのは僕もそうかもしれないと思いました。…僕は、実はあのとき、何かに当ったな、というか、つまり…あれ、僕ヤバイものくっちゃったかな?!って感じだったんです。…それもちょっと腐ってる、とかじゃなくて、もう全身拒絶反応が起きる嘔吐ガスみたいな種類のものすっちゃったような感じ。…で、出てきたものがあれでしょ。びっくりしました。…吐いてるときね、もう、喉が、なんていうか、唐辛子、いや、ハバネロ飲んじゃったみたいに激烈に熱くて痛くて…」
「…ハバネロで思い出したけど、別に変な臭いとかはなかったよね。」
「…臭いはなかったけど、触るとびりびりしました。」
「そうだったね。うん、手を近付けるとなんか刺激のある感触があった。」
2人は確認しあって、お互いにうなづいた。
「…上の世界での毒素を物質的に処理・加工して一気に排出した感じ、というところです。」
「…毒素というと。」
いつきの問に、春季は少し顎のあたりをさすった。
「…敵視され、憎悪されること、でしょうね。翠さんはそういう感情の波をくらうと、…なんというか…性質が変わってしまうらしいので、なるべくケンカや争いを避けているみたいなんです。」
「ああ…」いつきはうなづいた。「ライリに聞いたことがあるよ。力を使うときに周囲に邪念があると、それにひきずられることがあるって。力が意にそぐわず悪い方向に動いてしまうんだって。だから周囲が感情的なときや、激しい憎しみを持っている人が一人でもそばにいるときはなるべく力を行使しないほうが無難だって。…神様は多分更にそういう性質が強いんだろうね。だってお祈りで動いてくれることがあるくらいなんだから。」
「はあなるほど…でも、ライリってだれですか?」
春季は不思議そうに尋ねた。いつきはこたえた。
「ああ、あたしの…ま、なんてーかつまり…導師みたいな人。」
「神殿の人ですか?」
「んーん、違うよ。軍隊の人。おとーちゃんの幼馴染なんだ。…ハチミツ色のふわふわっとした髪でさ、琥珀色の瞳で、…まあすごく落ち着いた大人っぽい静かな人だったよ。笑うといい顔だったなー。」
春季はいつきの言葉…か態度か…に、どうもびっくりしたらしかった。そしてその感想を素直に言葉にした。
「…いつきさんにも『憧れの王子様』みたいな人っていたんだ…!!」
いつきは春季にそう言われると急にものすごく恥ずかしくなり、絞っていた洗濯物を放り投げて慌てて両手を左右に振った。しかも、かなり激しく。
「いやいやいやいやそういうことじゃないよ!!…なんてーか、学校のセンセイてーか、その、あー、指導員みたいなもんだよホラあたしカナーリ問題児だったからさアハハハ!!」
春季はそのいつきの過剰な早口にますます驚いたようだった。
「…あなたでも動揺することあるんですね。」
いつきは顔を思いっきりしかめて言った。
「あんまり面白がってからかうとシメるよ。」
「からかってなんかいませんよ。びっくりしただけで。」
「…あんたたちさ、すごくあたしに対して失礼じゃない?」
「達って…僕と先輩ですか?…はァ…そうかも…。すみません。」
春季があまりにあっけなく謝ったので、いつきはなんとなく気に入らなかった。その気配を感じたのか、春季はちょっと身を引くようにして言った。
「…ご不満のようですが。」
いつきはうなづき、口をとがらせて言った。
「もすこしゴネさせろ。」
春季は呆れて言った。
「冗談じゃないですよ。い や で す。」
そしてめんどくさそうに目をこすった。…目がショボつくらしい。疲れが今一つとれていないのだ。
「えーと…それで何の話でしたっけ。ああ、敵視や憎悪が、翠さんの性質を変質させることがあるらしいって、言いましたっけ。」
「それは聞いた。」
「…どうやら、普段はその獰猛な上澄み…というより沈澱物かな…とにかく、そういう部分を、分離して、…というか、切り離してあるらしいんですよ。ただ、なんていうか、つまり…」
春季は熱心に考えて言った。
「…それは静かに置いてある泥水が泥と水に分離しているようなものであって、いたずらに刺激するとすぐに混ざってしまうんです。そうなると翠さん自身ではどうしようもなくなってしまうわけで…」
いつきはふーんと言った。
「神様でもキレると手のほどこしようがないってわけね。むしろ、神様なだけに大変だ、と。」
「そういうことです。」
「今はかなりかきまざらかさっちゃってるわけね。」
「…いえ、今はまだそこまでは。つまり飛び込んできた刺激物を人間の体の浄化作用を利用して排出できたわけで。」
いつきは洗濯物をぐいぐい踏みつけながら言った。
「…神様レベルの怒りや憎しみという毒は人間の体で浄化できちゃうってことなの?」
「そうらしいです。人体の免疫・解毒システムおそるべしってわけですね。…神様と人間がうまくつながっていれば、ということですけれども。」
「…ふむう、器用ねえ、翠さんは。」
踏み付けていたものを持ち上げてしぼり、岸辺へ持って行くと、春季がうけとって篭におさめてくれた。
「…翠さんはそういうシステムを失わないために、かなり努力して人間との繋がりをつくってきたようなんです。…それに、人間のリビドーを自分のエネルギーに使えるらしいんですよ。だから、あの方ちょうど萌え初めくらいのショーネンたちにイケナイ遊びをふっかけてエネルギー集めを…。」
後ろにいくにつれてぼそぼそと春季は言った。ああ、一応やっぱり気になってるんだなといつきは思い、別の洗濯物を絞りながらうなづいた。
「…京子さんから聞いたわさ、その話。…大分お食事なさったの?尾藤くん。」
「…言わなきゃ駄目ですかね。」
「…言っときな。なんかのとき助けてあげられるかもしんないから。」
というかなんというか、多分いつきにでも誰にでも、打ち明けさえすれば、多分それだけで春季は少し楽になるはずだ、といつきは思った。
促すと、春季は頭を掻いててへっと笑って言った。
「…とりあえず向こう斜面で手当たり次第5人くらいやっちゃいました。」
…極悪だ。
いつきは心の中ではそう思ったものの、口ではのんきに軽いあいづちをうった。
「へーがんばるねー。疲れないの?」
「…はあ。勾玉がありますから…。疲労回復というか、あれがあるとそれだけでかなり絶倫です。まして翠さんなんか入ってた日にゃ、ですよ。」
なるほど。あの勾玉にはそういう御利益があるのだ。
「…陽介には言ったの?」
「ああ、先輩にはナオトが言ってくれたって…。…それで奥の院にあがったんでしょ、先輩。多分翠さんのてーか、僕のご乱行をとめたかったんじゃないかな?」
「あ、そうなんだ。」
いつきはようやく前後関係を飲み込んだ。
ついでなので、さっきから気になっていたことを尋ねた。
「…ところであんたはいつからあのおっさんとナオちゃんハルちゃんな仲になったの?」
「…いつからって…ああ、翠さんがね、ナオトナオトっつってすごくかわいがってるんですよ…。それでなんとなく。」
「あのおっさん、翠さんのオキニなんだ?」
「そうらしいです。…翠さん何度か『こっちこないか』みたいな話をしたことがあるみたいですよ。まだ月島さんがああしているといことは、断られっぱなしなんでしょうけれど。」
「『こっちこないか』って…」
「…つまり、自分のもとで働かないか、って意味らしいです。」
「そりゃ月島さんことわるでしょ、あの人の実家も、なんか祀る側の一家だったらしいし。実家の神様との兼ね合いあるでしょ。」
「…翠さんて、わりとそういう…どっかから流れてきた一匹狼、みたいなのを可愛がる方らしいんですよ。ミズモリさんの一族とかもそうなんじゃないですか?あとなんていうか、親戚一族からはみだしてる子供とかのこと、たまらなく可愛いと感じるらしいんです。…多分、うちの父とかも来たら歓待されると思う。」
「へー、変わってるんだね。」
「どうなのかな…。ほかとは比べようがないから。でもキリスト教の神様だって、迷子にはことさら愛情をそそぐというじゃありませんか。」
「それは哲学上の言い回しでしょ。」
「そうかな?僕はそうは思わない。いなくなった小羊を探す飼い主の気持ちというのは、独特のものですよ。たとえその羊はいつか皮を剥いで食うにしても、いなくなったときはそりゃもう、かなり必死で探します。そのとき、実際は損得なんか何一つ考えていない。ほんとうに、ひたすら焦って探すものです、まるでわが子のように。
ただ、翠さんの場合は自分とこの迷子よりも、よそから来てしまった迷子が気になるみたいで、そこのところはユニークですね。それに、迷子をもとの鞘におさめるのではなく、…」
春季は言葉を切った。…いつきもその先は、もういい加減に想像がついた。
もとの鞘に返すのではなく、自分の手許にコレクションするのだ。
…いつきの養父のように。
「…翠さんてさ、イヤって断れば、つれていかないの?」
いつきは尋ねた。すると春季はすぐさまうなづいた。
「ええ。嫌がる相手を手込めにしたとか、断った人物を連れていくとかそういうことはないです。」
「そうなんだ…。じゃ、翠さんに隠された人ってつまり、オッケーして、自分からついていっちゃう人なんだ…。」
「勿論そうですよ! …無理矢理やるわけないでしょう、神様が。」
いつきは冷たく澄んだ水に手を入れて重しにしていた石をどけ、最後の洗濯物を水からとりあげた。
…よく見ると、それは陽介が昨日着ていたシャツだった。沢登り(?)をしてびしょびしょになったやつだ。濡れただけのくせにちゃっかり洗濯にでている。それとも昨日の件の仕返しよろしく嫌がらせ含みなのだろうか。いつきはちょっとニヤリとなった。そういう、懲りない、負けない、挫けない、でもセコイ、そういうところに感じられる陽介らしさ…その陽介らしさが、なんだか妙に懐かしく思えた。
春季もそのシャツに気がついたらしい。
「あ、先輩のシャツ。」
そう言うと、にこにこした。…こちらは単に、嬉しいらしい。
「最後だから手伝って」
いつきが笑って言うと、春季は裾をまくりあげてチャポンと水に入ってきた。わーつめたいなあ、と言いながら近付いてきて、シャツの片端を掴んで持った。2人で加減しながらシャツを固く絞り、篭に放り込んで、洗濯は終わった。
+++
日向の木にロープを結び、そこに洗濯物の皺を伸ばしてかけた。
何も言わなかったのだが、春季もどんどんやってくれた。
「…尾藤くん具合イマイチでしょ。座ってなよ。」
「はあ…そうなんですが、僕、じっとしていると余計気持ち悪くなってきちゃうんですよ…。」
いつきは鼻でため息をついた。
「…じゃあ、あたしが干すから、そこに座って、皺伸ばして、あたしに渡してちょーだい。…顔ほんとにどすぐろいよ。」
「…わかりました。」
春季は大人しく、そばの木箱に座った。
洗濯物の皺を伸ばして形を整えながら、春季は言った。
「…ねー、いつきさん。」
「なぁに。」
「…先輩に、例の件、聞きました?」
「例の件て。」
「…黒沼の手の件。」
いつきは言われて初めて思い出した。
「あっ、忘れてた! くそー、昨日の夜チャンスあったのになーっ!」
「…まあ、別に急ぐことでもないけど…。」
「そういえば、陽介が、尾藤くんにゃんこのときにあそこで何か見たらしいって言ってたけど…なんか見たの?」
「え、いつ?」
…どうやら陽介もその件を春季に確かめる暇がなかったらしい。
「多分あたしの足に隠れてたときでない?」
「…?…そんなことありましたっけ。」
「…わすれちったの。」
「はあ、覚えてません。」
春季がぽけらっと言うので、いつきは少しがっかりした。
「…あの池さ、ちょっとクセあるよね?…なんてーか…」
「うんうん、それ、わかります、てーか、翠さんが置いていった考えの中に、少しありまして…。あれって、タイミングがあっちゃうとちょっとヤバくないかな…?…僕は…うまく言えないけど、静さんの件は多分事故じゃないかなって気がしてきてます。…ひょっとしたら先輩が見た手も、何かのタイミングとか加減があったのかもしれないですね。」
「そうかもしれないね。ああいう池、奥の院にもあるんだって。でも奥の院の池は昔は澄んでたらしいよ、陽介が見たときは黒くなってたらしいけど。」
「…ふうん。」
春季が考えているようすだったが、いつきは言った。
「…でも、なんてーか、田中やんて、そういうこと、気付かないタイプじゃないと思うんだけどナ。…最初からあの人一人だけ、あの池に全然畏怖心も遠慮もないし…。知ってるけど、でも、事故だとは認めたくないって感じ…なのかな。」
「…田中さんといえば…、彼ほんとに静さんのこと、好きだったんですね。なんか意外だったな。そういう否応無しに道踏み外すタイプだとは思ってなかったです僕は。」
「まあね。あたしも。どっちかってーと、無害さを売りに女バリバリくってそーなタイプと思ってた。」
「えーっ、そうなんですか?僕はただの無害な人だと思ってました。もっと小市民的な感じの。」
「…甘いね、無害そうな男が好きな処女はけっこうぼちぼちいるわけよ。だから食う気になりゃ、食いたい放題。」
すると春季は面白そうな顔になって、ぽんとコブシを掌に当てた。
「なるほど。去勢された疑似父親像というやつですね。」
「そう。無害そうに見えるとココロを許してしまうワケよ。それで先に心情的なほのぼの系恋愛が進行してしまうわけだ。あとは頃合みはからって無害そうな羊の顔のまま僕でいいの?とかいいつつ、それなりにろーまんてぃっくに食えばおっけーよ。本格的な色恋はそのあと始めればいいってわけ。なんなら食い逃げも可。」
「あはははは、いつきさん女でよかったなあ、男だったらそのへんの女の子みんな貞操帯つけてないとヤバい。」
「やめてよ人をケダモノみたいに。そんなこと言うなら小夜のこと犯すわよ。」
「ダメダメダメ。」
春季は慌てて手をふって顔をしかめ、仕事を思い出すべく丁寧に整えた洗濯物をいつきに投げた。いつきはヒョイとキャッチした。春季は言った。
「…大丈夫ですかね、あの人。いつきさんのこと黙っていられるのかな。…観光客に土産話持たす感覚で人に言っちゃうかもしれないですよ。」
いつきはうけとった服を丁寧にロープにかけた。
「…大丈夫じゃない?…黙ってますってつもりで、自分の話をしたんだと思うよ。飲まず食わずで山にいた話とかさ…。見ちゃったから、代わりに、ってことじゃない。」
春季が意外そうな顔になった。
「そうなんですか?」
「…と思う。だって自殺未遂した話なんか、誰にでもべらべらするもんじゃないでしょ。」
「あれって自殺未遂したって話だったんですか?!」
いつきはチロっと春季を横目で睨んだ。
「…鈍い。」
「…あう。」
「…まあ向こうも尾藤くんのことは猫として勘定していたと思うから、…あんた黙っててあげなさいよ。」
「はぁい…。」
「…ま、あんただろうが田中やんだろうが、ばらしそうならボコるまでよ。死ぬより酷い目みせたるわ。」
春季が「なんて恐ろしい女なんだ」という目でいつきを見たが、いつきはケロっとして話を変えた。
「そういえばさあ、尾藤くんのボディのほうも、やっぱりげーろげーろ吐いたの?」
「そりゃあもう、気絶するかっつーほど吐きましたよ。ナカミ翠さんだったから、気絶も許されない。翠さん一応体をわき水の近くまでもっていってから抜けてくれたんですよ。供物台から目玉岩までの距離は短いですが、もう地獄。記憶もかなり断片的なんですよ、あこいらへん。一番辛いところを引き受けてくれたみたいで。…蛇が出てきたの、おぼえてます?」
「うん、アオダイショウね。」
「そう、ありふれた蛇らしいですけど、とてもきれいな蛇ですよね。…あれ、翠さんだったんですよ。」
「えー、そうだったんだ。御本人だったんだ。お使いかな、と少し思ったけど。」
「…目玉岩のところに体を置いてきた、ということと、こんなことになって本当に申し訳ない、ということを言われました。」
「…あのとぐろはそういう意味だったのね。」
春季はうなづいた。それから思い出したように洗濯物を伸ばして、整えた。
「…お山の水には微力ながら、回復の力があるらしいんです。とくに、翠さんが使った僕の体にはその水回復のための回路みたいなものが出来ていて、よく効くらしいんです。それでわき水のところまで運んでくれたんですよ。」
春季がのばしてくれた洗濯物を受け取って、いつきはロープのところへ持っていった。
「そうだったんだ。それでびしょ濡れだったわけね。」
「そうらしいです。」
昨日の話はそれでだいたい終わりだった。いつきはとっとと物干をすませて、春季を寝かせようと思いつつ、作業を終わらせるべく春季に背を向けた。
いつきが背伸びしてロープに洗濯物をかける後ろ姿を見るともなく見て、春季は言った。
「…いつきさん。」
「なに。」
「…田中さんのこと、好きになったでしょ。」
「うんうん、なんかかわいいよねー。」
「…そうじゃなくて…田中さんの下の名前知りたいとか、思ってるでしょう?」
いつきは洗濯物をきちんとかけてから振り返って尋ねた。
「なんで?」
「…なんとなく彼氏作る直前の姉さんの気配と似た感じがするから。」
いつきはびっくりして、「えー」と言った。そんなことを言われても、それがどういう気配なのか見当もつかない。こんな変なこと、実の弟にも言われたことがなかった。勿論、指摘された内容について、自覚はない。
「…なんて返事したらいいかよくわからん。」
「僕はね、そういう状態の女を4ヶ月に一度くらいは毎度見送っているンですよ。間違いありませんよ。」
ますます、なんと返事をしたものかわからなかった。
仕方ないので黙ってポカンと口を開けたままでいると、春季はちょっと苛立ったような口調で言った。
「…いかにも無害そうな『去勢された疑似父』にココロを許す処女。」
そしてビシ!と人さし指でいつきを差した。そして更に言った。
「まったくねえ、あんたは先輩の何なんですか。あんなこきたない中年男にときめいちゃって! 先輩に悪いと思わないんですか?」
いつきは呆れて言った。
「陽介の恋人に批難されるようなこと、あたしゃ何一つしてないからね! 陽介の友人として陽介に顔向けできないことをしてるとしたら、そりゃむしろ今あんたと洗濯物干してることのほうでしょ!」
「洗濯がなんだっていうんですか、こんなことくらい僕は毎日やってますよ翠さんがはいってなけりゃ。」
「洗濯じゃなくてあんたとあたしが2人でいるののほうがよっぽど陽介にとっては問題だっていってんの!」
「問 題 を 摺 り 替 え る の は おやめなさい。」
「どっちがよ! 言ったもの勝ちだと思って適当なこといってるでしょ!」
…がらがらと雨戸が開いた。
2人が揃ってそっちを見ると、顔色の悪い月島がよろよろ出てきた。
「…静かにしなさい、子供達。何をケンカしているんだね?…きみたちが怒鳴り合ったら、古い神社がこわれてしまうから、何か大事な討論だというならおじさんに言ってごらん。…それにしてもまったくようちゃんは…いったいどういう下半身の持ち主なんだね?! きみたちも大概自分たちがおかしいと気付きなさい!」
いつきも春季もそのとき実は月島に対して気持ちは一つだったので、それをストレートに月島に叩き返して反撃してもよかったのだが、自分達のおかしなケンカを悪い体調をおしてまで叱りつけてくれた月島に敬意を表して、2人ともそれはしなかった。
「…別になんでもないよ。じゃれてただけ。…おっさん顔色わるいよ。横になってな、ってば。陽介がかえってきたら起こしてあげるから。」
「…ナオトは寝てたほうがいいよ勾玉かけてないんだし。僕は、いつきさんに昨日かなり手当てしてもらってるし、だいたい僕とナオトじゃ年がちがうんだからさー。……あ、うるさくしてごめんね。」
「今度大声出したら貴様らに薪割りさせるからな。そんなに元気ならできるだろう。よく心にとめておけ。薪割りは半端でなくきついぞ。……私はちょっと寝る。とにかく静かにしてろ。けんかはおばあちゃんか、すくなくとも田中がかえってきてからだ。いいな。…俺はケンカをするのは好きだがとめるのは苦手だ。」
月島は最後のほうをぶつぶつ言うと、雨戸をあけたままよろよろと部屋に引き返して行った。
「はーいわかりましたー、おやすみなさーい。」
2人は姉弟のようにそろってにっこり作り笑いし、同じ回数、手を振った。




