17 KYOKO-2
医者の見立てでは、おそらく大丈夫でしょう、じきに目をさましますよ、そっとしておいたほうが勿論いいけれども、まあそういう事情なら、移動してもいいですよ、そーっとね、とのことだった。
医者と、留守を守ってくれていたおばあちゃんが帰ると、京子は言った。
「…みんなで御飯でも食べながら、少し待っててみましょ。…ビトウくんの分は、おにぎりでもして、お弁当にしとくわ。」
「あ…、手伝いますよ。」「あたしも。」
田中といつきが言うと、京子はにっこりして言った。
「あんまり大した料理はしないから、気にしないで座ってて。今お茶道具もってくるから、二人で適当にお茶の汲みあいっこしつつおしゃべりしててくれれば助かるなー。」
ハッキリ言われたので、二人は「たはは」と笑ってそのまま座っていることにした。京子は言葉どおりにポットと急須とお茶の葉、それに寿司用の大きな茶碗を二つ出して、薄い餅菓子とともに二人の前に置いていった。京子が台所に消えると、田中は微かにため息をついた。
「…なんとかなって良かった。」
「ほんと。」
いつきもうなづき、お茶缶のナカミを確かめた。…茶だ。ハーブじゃない。
「…やった~、田中センセイ、薬湯じゃないよ。お茶お茶。」
「どれ、僕がいれましょう。魔女子さんには重労働させましたからね。」
田中が手を出すので、いつきは茶缶を手渡した。田中は慣れた手付きで煎茶を用意し始めた。
「…田中センセイは、なんか、慣れてるよね~?…おうちではカノジョに汲んであげるの?」
「ん~、今は一人です。以前はそういうことも、たまにはあったかな。」田中は簡潔に言って軽く流した。「…お茶汲みは研究室では僕の仕事なんだ。女手がないからね。」
「…なんか大変なのね。」
「うーん、でもお茶汲みでも会計でも、仕事があるうちは追い出されない。大学追い出されるとちょっときついよやっぱり。…今は女の助手が入ってこないことを祈るばかりだね。女の子がきたら、僕はあとはトライアスロンする以外あそこに残る術はないです。ははは。」
「研究成果あげればいいじゃない。」
「…なかなかネタもないしさ。僕はオカルト好きだから、雑誌屋さんは原稿を買ってくれたりすることもあるけど、学会では、なんていうか、こう…『やれやれ、田中くんは、もうしょうがないねえ』みたいな。…タナカをいじるなよ、上にいる教授が煩いから、みんないいな?…みたいな。」
いつきは思わずためいきをついて首を左右に振った。
「…センセイ大変なのね。」
「…そもそも先生とかではないですし。…ドゾ。」
「いただきまっす。」
いつきはペコリと頭をさげて、お茶をいただいた。…きちんといい味にはいっていた。
「美味しい。……公務員とかは考えなかったの?」
「…あなたがどう想像しているのかはわからないけれど、田舎のドームでは、コネクションが全てです。試験なんてね、形式。…エリアのほうではどうか知らないけど。」
「…田中っち大変なのね。」
「ま、僕だけではないです。みんな大変なんです。」
「…助手って給料出るの?」
「僕はちょうどドーム税分だけもらってるよ。…それで、長期の休みはあちこちにお邪魔させてもらって、部屋は買い物やレジャーに来る人なんかに一泊いくらで貸してるわけ。」
「! …て、違法だよね?!」
「友達や親戚ってことにしてるから、3日までは違法じゃないよ。宿泊料は、飯代ってことにしているし。つまり僕は役所では、親切して飯だけおごってもらってる奴、って扱いなわけ。…なに食ったかまでつっこむ役人はいないよ。」
「…田中やんけっこうちゃっかりしてるじゃん…。」
「…そのくらいでないとドームには住めません。こういう言い方はだれかさんみたいで嫌だけど、事実だからね。…昔は二~三人で組んでやってた。部屋主2~3人は常にどっかの部屋でごしゃっと同居するわけ。ほんで、空いたのこりの部屋を貸す。それを当分に山分けするわけ。」
「…なるほど…それでたまにそのメンバーの女の人とよい仲になったりするというわけ…」
田中は朗らかに笑った。
「そう。そういうわけ。…というか、半分はそこが狙いだったわけ。…若い頃はだいぶ女の子仲間に口説きましたよ~。」
「今はもうやめたの?」
「…仲間はみんなドームでちゃったよ。早死にしても外がいいって。女の子はいつのまにか外の男と子供こさえてたり。…それにやっぱり、結果として駆け込みの手引きになったりとかさ、物盗まれたりとか、厄介ごとも多いからね。…うちは藁人形かざるようになってからトラブル一気に減ったけど。」
「…そうなんだ。」
「…僕もドームから出たいと思うことが多くなったなあ。…でも、親が生きてるうちはドームに税金払おうと思う。親の夢だからさ、僕がドームにいるのは。」
「…親孝行なんだ、田中っち。」
「そだよ。えらい?」
「…偉くないよ。…親の人生は親自身が考えるべきだよ。親じゃなくて、田中たんが幸せになんなきゃ、駄目じゃん。」
いつきは口を尖らせて言った。すると田中は、
「そうだねえ。魔女子さんのいうとおりだねえ。…でも、僕の幸せってなんだろう?」
…そう言い、なぜか笑った。
+++
電子レンジの音がたてつづけに鳴り始め、京子はテーブルにつぎつぎとおかずを並べ始めた。
二人の前に華麗に並んだ大皿・小皿の最後に、たきたての御飯とほかほかの味噌汁がつくと、いつきも田中も口が半分開いて、「ふわ~ごはんだ~」な顔になった。
「さ、じゃいただきましょ。今日はあちこち駆け回って、わたしもおなかぺこぺこ!」
京子は席につき、二人に箸を手渡すと、どうぞどうぞといいながら、自分もとっとと食べはじめた。いつきと田中も有り難くいただくことにした。料理はどれもあたりまえなもので、多分保存してあったものを解凍したものだったが、量は充分にあったし、味も悪くなかった。生野菜のサラダなどもあって、彩りもきれいだった。
「わーおいしー!!」
いつきがぱくぱく食べながらにこにこ言うと、京子もにっこりした。
「そう?お口に合って、よかった! 御飯おかわりあるよ。いっぱい食べてね。」
田中も抜け目なく食べながら、京子に言った。
「こういうの、いつも料理して保存してるの?マメなんですね。美味しいし。大変でしょ?」
「気が向いたとき、いっぺんに作ったほうが楽だから。…全部食べてってちょーだい。冷蔵庫一掃と思って。そしたらまたはりきって作る気にもなるから。」
いつきがまたにこにこ言った。
「誰かが作ってくれたものって、おいしいね!」
「あ、わかるゥ~それ。あたしもたまに人が作ったもの食べると、なんか嬉しいの。」
京子は軽く受け流して、いつきの顔を見た。…食事をしているいつきの顔は善良そうに見えるのだろうか。京子はいつきに尋ねた。
「…いつきちゃんはさぁ、久鹿くんの友達なの?」
「そですよ。」
いつきがうなづくと、京子は言った。
「…美形男って手間かかるでしょ?」
「…んー、でもま、友達だから。彼氏とちがうから。」
「えー、そう?」
いつきは御飯を食べながらウンウンうなづいた。
「それに、ぶさいくとかデブとかハゲとかバカとかうっかりののしっても全然傷付かないから、そゆとこは楽ですよ。」
「あ、そーっか、うん、それはあるかもね~。」
田中が呆れて口をはさんだ。
「そういうこといっちゃ、駄目だよ。…彼だってそのうちハゲるし腹も出てくるし、男はみんなバカなんだから。年とってから思い出して落ち込むんだぞ。女の子に言われるとすっごくきずつくんだから。」
すると京子が笑いをこらえて言った。
「…今 田中さんが言ったことのほうが絶対怒ると思います。」
「本人の前では言いません。」
いつきもクスっとして言った。
「…田中ちゃんて、裏表あるよね。」
田中ははずかしげもなく言いきった。
「一人前の大人なら裏表はあって当然です。」
「裏のほうが好きかも。凶悪で。全然そういう人だとは思わなかった。もっと卑屈でショボイオヤジだと思ってた。」
いつきがそう言ってニコニコすると、田中は複雑そうに言った。
「…そりゃ、どうも…。でも…ま、僕は実際、卑屈でショボくてこきたないオヤジなんだけどね。」
「うーん、どうかなあ、少なくとも卑屈ではないよね。あと、こきたないのはポーズでしょ。実は不精とは違うよね?」
「…いや、卑屈だよ。月島さんとか来たら絶対勝てないからコソコソ隠れたりするし。陰口も叩く。」
「そりゃあ、あのオヤジはまた別だよ。あたしだってよー相手せん。神社の世話になってなかったら、初対面でなぐってる。…殴れない立場にある以上はがまんしなくちゃなんないし。顔を合わせたくないなら逃げ回るのも、ケンカを避けるには有効な手段だよね。そう思うと、田中ちゃんの判断は正しいのかもしれないと思うし。」
「…きみはどうかはしらないけどさ、僕は月島直人とは殴り合いにはならないよ。一方的に殴られて殴られて殴られて、終わり。あのひと中肉中背の普通のおじさんだと思ってるかもしれないけど、脱ぐとすごいんだから。逃げたくなります。とてもじゃないが恥ずかしくて一緒に水浴びはできない。」
京子が興味ありげに口をはさんだ。
「いつきさんは、久鹿くんと神社で待ち合わせの別口旅行??で、田中さんは…神社に滞在なさっていらっしゃるんですか?」
いつきは自分はユウの紹介で修行に来ていること、田中は亡くなった静の友人で、長く何年もあの神社を訪れているダイガクのぶんかのケンキューシャであること、陽介は学校の友達で、偶然こっちで会ったことなどを簡単に説明した。
「そうだったんだ。…実はね、久鹿君と尾藤君は、神社へ上がる前に、うちの店にちょっと寄って懐中電灯とか買ってくれたのよね。見たとき、あたし思っちゃったのよね、『わあ、かわいい高校生のカップルだな~』って! 仲いいじゃない?あの二人。いちゃいちゃしてない?あたしチューしてるの見ちゃったわ! かぁわいいよねー! なんかどきどきしちゃった!」
いつきはちょっとニヤリと京子に目配せした。京子は悟って、深くうなづいた。
「…あのね、それで、…いつきさんにちょっと言っておきたいことがあるんだけど…」
「なんですか?」
「…ここいらの…なんていうか、風習、っていえばいいのかな…。あの、たまに、悪習にとりつかれる男の子っていうのがいるのね。たいていは真面目で、頭よくて、健康で、みたいなタイプの子が多いんだけど…。」
いつきは笑うのをやめて、京子の顔をじっと見た。田中は、手はとめなかったが、耳は澄ましているようだ。
「…でもそれって、一過性のものなの。だからここいらの人はみんな『神様が憑いた』とか言って、大目に見ているの。被害にあったほうも含めてだけどね。…でもよその人から見ると、すごくショックなことかもしれないんだ。…とくに自分の友達とか、まして彼氏とかがなっちゃうと…。」
京子は微妙な言い方をした。いつきは、こちらの口から陽介か春季に伝えて欲しいという意味なのだな、と悟って、うなづいた。京子は続けた。
「…春季くんそれだと思うの。時季が去ったら収まると思うから、あまり大騒ぎしなくていいからね。それと、終わった後は、本人もショックをうけてることが多いから、…周囲で追い詰めるようなことはしないように気をつけてあげてほしいんだ。」
いつきはまずうなづいた。
「うん、よくわかった。」
それから言った。
「…悪習って…何。」
京子は少し声を低くして言った。
「…うら若い男の子を連れて行っては食うの。…ここ数日、こっちでは『来た』って噂になってるよ。」
「…」
「…」
いつきと田中はそろって手をとめ、ちょっと目を合わせ、そして田中は食事に戻り、いつきは京子に言った。
「…わかった。…たとえケンカになってもあたしから言っとく。」
すると京子はあわてて言った。
「あ、ケンカになりそうなら無理しなくていいから。今、月島さんいるでしょう?お盆と大祭にはいつもいるもの。あのおじさんにたのんでみるといいわ。あのおじさんは地元育ちで事情もわかってるし、契約職だけど役人だし、命令口調でばんばん憎まれ役やって物事進めてくれるから、助かるわよ。たまに拝んじゃうもの、あたし。…そういうことは、大人がやるべきことなんだし、遠慮しなくていいよ。ただ、友達だったら、知ってなくちゃいけないときもあると思って…。」
…なるほど。月島の存在価値というのは、そこいらへんにあるらしい。理屈でなっとくできないことは、彼が権威を背景に無理矢理押し通すのだ。
「わかった。」
いつきがうなづくと、田中が言った。
「…ちょっとお尋ねしたいんですが…」
京子は少し身構えて田中を見た。田中はそれに気がつくと、あ、違う違う、と手を横にふって苦笑した。
「あの、お話はよくわかりました。…ええと、それでちょっとお尋ねしたいのですが、今までに、…時季が終わる前に、つまり、えー、神様が憑いた状態でですね、トラブルに遭った子っていないですか?…まあその、彼女に煉瓦でなぐられたとか、そういうことでもいいんだけど…」
その呑気な聞き方に安心したのか、京子は警戒をといて、答えた。
「…わたしは聞いたことはないです。ただ、おっしゃりたいこはわかります。…つまり、今回の尾藤くんのことをおっしゃってるんでしょう?」
「ええ。そう。今回彼に起こったことは何なのかな、と思いまして。」
「…私にはわかりません。…びしょ濡れでしたね。」
いつきはそれを聞いて、あ、と言った。
「あれはね、えーと、何岩だっけ、田中さん。」
「…目玉岩のところの水盤の水です。あそこに倒れていましたので。」
田中が代わりに説明してくれた。
「ああ、…そうなんだ?…どうしたのかな。何か…見ようとしたのかな?水盤の水に写して…。」
それは新しい見解だった。田中といつきは顔を見合わせた。そして田中が言った。
「…彼、何か吐いたのかもしれない、と。それで、水であらったのかな、と。」
「吐いた?…なんかついてました?」
「…いえ、何も。」
田中はどこまで喋ったものか悩んだらしく、一応そこでひっこんだ。たしかにやれ猫が吐いたの月島が吐いたのと言葉を並べるのは、おかしいかもしれない。
「…吐いたといえば、慎二さんも何か変な物を吐いたんですよね…。」
京子は食事の手を止めて言った。
二人はまだ慎二のことを知らなかったので、尋ねると、京子は慎二が何か得体の知れないものを吐いて気絶したため、ユウが峠から一人で走ってここに駆け込んできたこと、それにまつわるごたごたを二人に話した。二人はまた顔を見合わせた。
「…ひょっとして、他にも誰か吐いてたんですか?それで尾藤くんも、と?」
「…月島さんも吐いてました。」
田中が簡潔に…無難なほうだけ…言うと京子は「ああそうだったんですか」となんどもうなづいた。
「…尾藤くんもそうだったのかも、ということですね。」
いつきはそれでいいやと思ってうなづいた。
「うん、そうなの。…ユウが駆け込んできたのって、3時くらい?」
「2時半ちょっとすぎくらいかな。いや、もう3時になってたかもしれないけど…」
「…じゃ、慎二さんが一番先だったかもしれない。でもだいたいは多分、同じくらいの時刻に吐いた可能性高いと思う。」
「そか…そういう怪現象が起きてたわけ…。」
京子はしじみの味噌汁を一気に飲み干して、言った。
「…正直なところ、わたしあまり神様って信じてないのよね。…あ、信仰がどうのっていみではないの、そうじゃなくて…神様とか、えーと、ま、精霊とかモンスターとか、そういうの…がね、つまり、何か、説明しにくい出来事とかを説明して、納得するための方便みたいなものかなとか思ってて…。だから、神様が憑くっていう現象も、実際は眉唾と思っているわけなのね、ただ、分かりにくいことが起こっているんだろう、とは思っているんです。…でも、こうなってくると、なんていうか…」
京子が言葉に困っていると、田中はうなづいた。
「…よくわかります。僕もそう思っています。」
すると京子は急いで言った。
「でも、このあたりの神様のことは、なんとなく好きなんですよ。それに、そういうものを信じている人たちの気持ちは、尊重したいと思っているんです…」
田中は何食わぬ顔で食事に戻りつつ、さらりと言った。
「…このあたりの神様は女の人には優しいし、そういうものが信じられている共同体は、危機的状況に陥ったとき、神秘的なものに対する恐怖のもとに一致団結してくれて、調整する立場のひとにとって大変に便利ですからね。」
京子が返事に窮すると、田中はおからの小鉢をとって、御飯のうえにおからをあけると、勢い良くかきこんで食べた。茶碗がからになると、ケロっとして言った。
「やーおから上手ですね! 漬物もたべたいから、おかわりしていいですか?」
いつきがあわてて「あたしもあたしも!」と茶碗をからにしたので、京子は2人の茶碗を預かって、席を立った。
+++
京子が車で2人と気絶したままの春季を神社に送り届けたときには、夜も10時過ぎになっていた。京子は「もう遅いから。明日電話するね。」といって神社には上がらずに、猛暑の山裾へ引き返していった。いつきと田中は、車道から神社までの暗い涼しい小道を摺り足で歩き、鳥居の中にまだごうごうと燃え上がる明かりをめざして、2人で注意深く春季を運んだ。
鳥居の中に入ると、まるで聞き付けたかのようにおばあちゃんが出てきた。おばあちゃんはすごい速さで近付いてくると、春季の顔をのぞきこんだ。
「お二方、おつかれさんです。お話はあちらこちらからきいております。…尾藤さんは、勾玉はつけておりますかいなあ。」
「うん、つけてたよ、おばあちゃん。」
「そうですか。そんならじきに目をさますでしょう。さ、早くなかへおはいりんさい。はやく。」
おばあちゃんに連れられて、入ったことのない部屋に通された。そこには布団が敷かれていて、枕のむこうのほうには塩が盛られ、部屋のすみには酒らしいもののはいったコップが置かれていた。いつきは春季をその布団に寝かせた。おばあちゃんにいわれて服を脱がせ、白い浴衣を着せてから、ふとんをかけてやった。
それからおばあちゃんに連れられて、2人は春季を部屋に残し、別の部屋に移動した。
「…そういえば、慎二さんや月島さんは、大丈夫?」
いつきがたずねると、おばあちゃんはうなづいた。
「…まずは2人とも、ありがとう。お山に何かあったようですが、皆で適切に手を打ったおかげで、今の所大事にはなっておりません。おかげさまを感謝いたします。」
「翠さん、大丈夫かな。」
「…翠さんは神さんですから、よほどでなければどういうこともございません。…実は例の時刻に、久鹿の坊ちゃんが、神域で木の根を断ったそうです。」
田中が目を上げた。いつきは眉をひそめた。
「…どうしてそんなことを…?」
「鳶がひっかかっておったそうです。…たまたまナオトさんがお守り代わりに小柄を持たせていたそうで…。」
「…」
「根を断ったとき、根から血が吹き出たそうです。」
田中は口を押さえた。いつきは厳しい顔になった。
「…陽介は無事?」
「御無事でらっしゃいます。…ナオトさんがついておられたそうですから、滅多なことは。あのかたは、煩いなりに役に立つ方でらっしゃいますからのう。」
「…あたし、話してくるね、おばあちゃん。」
「はい。よろしくお頼み申します。…春季さんが帰られたことも、よろしく伝えてください。」
「うんわかった。」
いつきは立ち上がって部屋を出て行った。
いつきの背中を見送って、田中はおばあちゃんに言った。
「…大変な盆になりましたね。」
「さようでございますな。」
「盆の行事でただでさえお忙しいでしょうに…。」
「いえいえ、そんなことは。」
おばあちゃんは疲れなどまったく見せずに、いつもどおりのようすでそう言った。
田中が声をおとして言った。
「…僕がいないあいだに多分ひと組参拝に来たと思います。道ですれ違いました。」
「さようですか。そのことは直人さんは特には言っておられませんでした。ぼっちゃんは気がつかなかったか、気がついたけれど行く元気がなかったのかもしれません。幸いでした。」
「ああ、電話で久鹿くんに言ったら、月島さんが止めてくれたようなことを言っていました。」
「さようでございましたか。ともあれなにごともなく、なによりです。」
2人でうなづきあったあと、おばあちゃんは言った。
「…田中センセイも、ようやく向う斜面にゆかれるおつもりになられましたか。」
「いやあ…えーと…」
田中は頭をかいた。
「…うん、いつきちゃんがね、頼りになりそうだったから、便乗です。いつまでも愚図っていても、始まりませんから。」
おばあちゃんはにこにこうなづいた。
「なによりです。向こうにはまた向こうの世界がございますからの。」
「そうですね。商店のウィズリーさんというかたに御会いしましたが…」田中は意味深長なようすで言葉を一度切り、そして続けた。「…ユニークですね。」
おばあちゃんは何気ないようすでうなづいた。そして話を変えた。
「…田中センセイは…いつきに対して今日一日で随分くだけたようですのう。…何かご覧になられたのであろうか。」
田中は冷静に否定した。
「…いや、何も見ていませんよ。ただ、とてもしっかりした子ですね。驚きましたし、感心しました。」
「あんたさんはいつもそういわれますね。」
…おばあちゃんの痛烈な皮肉に、田中は苦笑した。
+++
陽介の部屋の前へ行くと、低い話声が聞こえた。誰かいるんだな、といつきは思い、襖の外から声をかけた。
「…陽介、今帰ったわさ。話せる?」
「…ああ!」
陽介の返事があって、襖が開いた。
陽介は明るい色のきれいな和服を着ていた。わー、あのお母さんそっくりだな、といつきは少し驚いた。
「…春季は?!」
「今、寝かせてきたよ。お医者が言うにはほっとけば起きるって。」
陽介はほっとした様子だった。
「そうか。…いや、行ってくれて助かったよ。ありがとう。」
「…おばあちゃんにちょっと変な話きいたけど。今いい?」
「ああ。入れよ。」
念をおしたいつきの配慮などまったく気付かぬようすで、陽介はぞんざいに答えた。果たしていつきの予想どおり、そこには月島がいた。
「…御苦労さん。」
「おっさん、寝てろって言ったでしょ。死んでもしらないわよ?」
「休んでたとも。…2時間は爆睡していた。ね?ようちゃん?」
「…気絶してた、の間違いでしょ。」
陽介は呆れて言ったが、月島は無視した。
陽介はため息をつき、いつきに言った。
「…とりあえず、飯からあとは座らせてある。」
「…いっとくけど春季ちゃんも慎二さんも、まだ気を失ってるからね。」
いつきがケンケンと言うと、月島はあっちを向いた。…まったく絶対にひとのいうことは聞きたくないらしい。いつきは面倒になったので、そのままほっとくことにした。
「じゃあ好きに死になさいよヴァーカ。」
「こんなことぐらいで死んでたまるか。」
さりげなく言い返した月島に、陽介は呆れて言った。
「…月島さんといつきって、ちょうど同じ気張り具合なんですね…。」
いつきは心外だったので抗議した。
「あたしは死にかかったときはちゃんと寝るわよ。」
「…誰も行動が同じとは言ってねーよ。気合の入れ方が似てるつーだけ。」
「だ か ら あ た し は 死 に か か っ た ら 寝 ま す。」
陽介はめんどくさそうに手をハタハタ振って、いつきに座布団となげてよこした。
「…おばーちゃんから何きいたって?」
「…あ、そうだった。どこで何切ったんだよあんた。」
「ああ、それな…。」
陽介は荷物の山からスナック菓子をとりだして、いつきに2袋ばかり投げてよこした。
いつきは遠慮なく菓子の袋をあけると、一人でかかえてばりばり食べ始めた。すると月島が
「『みなさんもいかがですか。』」
と嫌味ったらしく言った。
いつきは思いきりあかんべーをして、袋を、開けた口に向けて傾けると、お菓子を口にざらざらーっとながしこんでむぐむぐ食べた。
陽介は仕方なくもう一つの袋を月島に差し出した。すると月島は手を振って「そういう意味じゃないよ」と言った。陽介はしかたなく袋をばりっと開けて、「これで手をうってください」と言いたげな顔でもう一度差し出した。月島は困ったような顔で陽介を見た。
見ていたいつきはふいた。
「あんたたちばっっっかじゃないの?! ぎゃははははは!」
陽介がやり返す一瞬前に月島が言った。
「指さして笑うな! お前は躾悪過ぎだ!」
「ひーーー腹いたいーーーー!!」
文字どおり笑い転げるいつきに、陽介は冷たく言った。
「…笑い過ぎ。」
いつきの七転八倒はしばらく収まらなかったが、それでもやがて笑い疲れたいつきが静かになると、陽介は鳶と血の出る根の話を簡単にいつきに伝えた。
「…ふぅん、なるほどね。」
いつきはそれを聞いてお菓子の粉をはらった。
「…いやな話だね。春季ちゃんもそうだと思うけど、あたしも木の根っこと言われると、良い気はしないよ。血、ねえ。」
「…どう思う?」
「…多分その時刻と前後して、にゃんこと、月島のオッチャンと、慎二さんがげーろげーろと赤黒いゼリーを吐きだしたわけなんだよね…。あと、ひょっとしたら、春季ちゃんも。」
「…関係あると思うか。」
「…関係はあるだろうね。どう関係あるかは別として、あるはあると思う。…あの吐瀉物だけど、あたしの見た感じでは、…浄化作用が働いた結果だと思うんだよね。…だから、まあその、例えば傷口から膿が出ることがあるでしょう?でも膿というのは、雑菌を食い殺す白血球の共倒れ死体なわけじゃない?だから、膿みが出るってことは、勿論雑菌が入ったという意味ではあるんだけど、逆に言うと免疫が働いてるって意味でもあるわけで。」
陽介は少し考えて、確認した。
「…つまり結果としては浄化には成功はしているが、穢れがあったのはまちがいない、てことか。」
それを聞いていつきはいつきで少し考え、言い直した。
「穢れなのかどうかはわからないけれど…つまりなんていうか…呪術的な衝突みたいなものがあった可能性は高いと思うな。」
「…呪術的な衝突、」
「語弊があるかもしれないけどね。」
「…その衝突でできた傷口を浄化したために、副産物としてその妙な吐瀉物が出た、と?」
「まあそんなかんじかな。…供物台のほうね、いって見たけど、今まさにチョーノーリョクシャが さいきっくばとる しました、みたいな状態になってたよ。あそこが現場みたいね。」
「まってくれ。もしそうだとして、…にゃんこと春季はわかるよ、春季の体は翠さんに貸し出し中だったわけだし、肉体と魂は多分多少は干渉しあっているんだろうし…でも慎二さんと月島さんはどうよ?」
「…月島さんは近くにいたからアオリくらったのかもね。すごく通りのいい体みたいだから。…いままでも、山で、翠さんのおかげで具合が悪くなったり、逆にハイになったりしたことなーい?」
いつきが月島に尋ねると、月島は軽くうなづいて肯定し、少し付け足した。
「…慎二くんとは不思議なことにわたしは緩い精神交流がある。夢でお互いの行動を見たり、とかそういったことだ。ごくまれに、だが。」
いつきもうなづいた。
「…ためしてみないとわかんないけど、慎二さんもかなり翠さんの恩恵・迷惑ともにうけてるタイプの人なんだと思うよ。多分、翠さんを介して、2人は交流があるのかもしれないね。」
陽介は考えて言った。
「…つまり、俺が根を切ったことで何かスイッチが入って、供物台で春季に入ってた翠さんが、何かと衝突して、その傷の浄化のために3人吐いたってこと…だな…。」
いつきは点検するように少し考え、そしてうなづいた。
「…そういうことでとりあえず今のところいいんじゃないかな。翠さんと衝突おこしたのはなんだったんだろう?…あんたのほうはそれだけやっといて何もなかったの?」
「…と、思う。…俺は無傷だったし、電話に出ている間以外は飯までほとんど気絶並に爆睡してた。」
すると月島が口をはさんだ。
「…ようちゃんわたしが帰ってきたとき、誰かが来てたって言ってたぞ。それで何か残して行っただろう。」
「え?」
陽介は吃驚して月島の顔を見た。月島は「…袂に入れてなかったかな?」と言った。陽介はあわてて自分の袂を両方さぐり、何か小石のようなものを取り出した。
「あ…これ。そうだ、誰か…来て、何か話したような…?」
「…見して。」
いつきが手を出すと、陽介はそれをいつきにわたした。
「うわ重い!!」
いつきは慌てて持ち直した。
「…?そお?重いか??」
陽介は不審そうな顔をしている。
いつきが手の上のものをよく見ると、それは小さな黒い勾玉だった。
「誰にもらったの?」
「…だれだったろう??」
陽介は首をかしげた。
大きさから考えると恐ろしいほどの重さの石だった。…なんとなく、相性が悪いような感じがしたので、いつきはそれを陽介にすぐに返した。陽介は普通にあつかっている。別にたいして重くはないらしい。…かなり力のある石らしいのは確かだった。
「…まああんたも寒くて死にかけてたもんね。覚えてなくても仕方ないわさ。…で、そっちの奥の院ほうはどうだったわけよ。わざわざ登ってったんでしょ?」
陽介は石を袂に戻しながら、うーん、と言った。
「…会えなかった。」
いつきは目を上げた。
「なんかしくじったの?」
陽介は首を左右に振った。
「しくじったとしたら、その根っこの件だろうな。他に考えられん。神域に血を流したわけだから、まずかったかもしれない。……上のほうは、少し荒れた雰囲気だった。」
いつきは少し考えてから尋ねた。
「…泉はどうだった。まともだった?」
「…なんで?」
「ここのお山は水の神様だから。異変があったらまず水に出るかと思って。」
陽介は納得した、という顔で2~3回うなづいた。
「…なるほど。…いや、お察しの通り、泉は黒くなってた。」
「黒く?」
「…そう。ちょうど、この部屋の外にある、例の池みたいな感じだな。前は違ったって。」
陽介はそういって月島にチョイと手を向けた。月島に聞いたということなのだろう。
「…ふうん?」
「…どう思う?」
いつきはうでを組んで眉をひそめた。そして言った。
「…あの池ね、田中やんは嫌ってるみたいだけど、ほら、静さんの件があったからさ、…でも別にそんなに、ヤバい池じゃないよ。少しなんか変なクセみたいなものはあるみたいだけど、危険てほどでもないから。あんまりそこんとこはこだわらないでほしーかも、なんて。」
「…変なクセ?」
「うーん、そうね。多分、その奥の院の泉も、同じ習性があるんだろうね。」
「どんなクセだよ。」
「…」
いつきは真剣な顔でしばらく考えたが、やがて首を振った。
「…うまく説明できない。まあ、なんていうか…使おうと思えば手品に使える、とでも思っといてよ。」
「そういえば春季が猫のときに何かあそこで見ているらしい。…うっかり聞き損ねたんだが。」
「あー、じゃ、是非きいてみてよ。よくわかるかもしれない。」
「そうしよう。」
「…春季ちゃんの顔見てくる?」
「うん、ちょっと行ってくるわ。おばあちゃんにことわったほうがいいかな。」
「そうね、いつもの部屋におばあちゃんはいると思う。」
いつきがそう言って送りだそうとすると、月島が言った。
「…目木君、きみついて行ってあげなさい。」
陽介といつきが一斉にふりかえった。
月島はもう一度言った。
「ここの廊下、寝ぼけて歩くと迷うんだよ。ようちゃんは危ないから、きみ、ついていってあげなさい。」
寝ぼけてなんかいませんよお、くらい言うかな、と思っていつきが陽介の顔を見ると、陽介はすごく真面目な顔でうなづいた。いつきは少しあきれたが、陽介についていってやることにした。
+++
一緒に部屋を出て少し歩くと、陽介はぼそりといった。
「…迷ったんだよ。いくら歩いても知ってるとこに出なくて…。」
「どうやったらこんなとこで迷うわけ。」
「…どっかで部屋を抜けようとしたんだよ。…知ってる部屋には小麦が…。」
「にしたってさあ。」
「…なんかやってるはずのことと、実際やってることが食い違ってたみたいで。」
いつきはため息をついた。
「…あんたってば、そんなんでこの先ちゃんと生きていけるの?」
陽介は手をひらひら振って返事に代えた。
そんなのここだけの怪現象だ、とでも思って楽観視しているのは間違いない。
説教するのも不毛なので、いつきは話をかえた。
「その着物、洒落てるじゃん。どうしたの。」
「あ、これ?これな、部屋にもどったら置いてあったんだよ。ちゃんと、足袋も。」
「たび?たびってなんだっけ。」
「このつま先が二股になってるジャパニーズトラディショナルくつした。」
「ああ、靴下の一種ね。…えー、でも、誰が用意しといてくれたの?」
「田中さんじゃないか?…月島さんが言うに、これ、静さんの着物なんだと。前に田中さん、静さんが亡くなったとき着物をもらってくれないかっておばあちゃんに言われたっていってた。静さん細くて背が高かったから、着物の仕立てが特別で、普通の人は着られないらしい。丈をつめれば田中さんなら着られるんだと。で、この着物は丈がつめてある。」
「なるへそ。つまり田中やんの着物なのねん。今は。」
「そゆこと。」
「じゃ、着替え心配して貸してくれたのか…。田中やんなかなか細やかだよね。」
「だよな。助かったよ。いや、着替えはあるけど別に、でももー濡れた服脱ぐのも億劫だったくらいで…。」
「着心地どう。」
「…グー。高い和服は着心地がいい。」
「…一瞬おかーさんかとおもっちった、さっき。」
「はは、おふくろいつも和服だからな…。」
別段迷うこともなく、2人はおばあちゃんの部屋についた。中にはまだ田中がいるようで、ボソボソと話し声がした。
「…おばあちゃん、陽介が尾藤くんの顔みたいって。連れて行っていい?」
いつきが声をかけると、おばあちゃんは「ああ、ちょっとおはいりください、」と言った。
襖をあけると、きちんと正座した田中とおばあちゃんが、そろってこちらをみて、「およ?」という顔になった。
だが2人ともすぐに普通の何食わぬ顔に戻った。いつきは奇妙に思いながらも、陽介を先に部屋に押し込み、次に自分も入って襖をしめた。
「…ぼっちゃん、いつきが話したと思いますが、お連れさん、医者の見立てでは、大丈夫だそうです。」
「はい、ありがとうございます。…すみません、いろいろお世話をおかけしまして…。田中さんも向うまで出向いてくださって、ありがとうございます。」
「いえいえ、こちらこそ、とんだことになりまして。御無事でなによりです、はい。」
おばあちゃんと陽介は2人で頭を下げ合った。田中はちょっと付き合うように会釈しつつ、いつきの顔をチラッとみて笑った。
頭を上げると、陽介は言った。
「あ、着物、部屋にあったので、お借りしました。」
「…お部屋にありましたか。」
「…はい。…ありましたが?」
陽介が少し戸惑って答えると、田中がニヤニヤして言った。
「久鹿くん、あとで面白い話をしてあげましょう。…とりあえず、尾藤くんの顔みてきたら。」
するとおばあちゃんが急いで言った。
「あ、それなら、いつき、ついていきなさい。…隠されるといけないから。」
「…隠されるってなに?」
いつきが聞くと、田中がにっこりして答えた。
「…翠さん男の子大好きだから。物陰に連れ込まれて返してもらえなくなるってこと。」
「…わかったついてく。」
「あの…おばあちゃん、あとで、…ちょっとお尋ねしたいことが…」
陽介が遠慮がちに言うと、おばあちゃんは内容を察したらしく、言った。
「…ぼっちゃん、奥の院は女人禁制でしてのう。静が亡くなったあとは直人さんと慎二さんに管理をお願いいたしております。もし月島さんの知らないことがございましたら、慎二さんにお尋ねになるとよろしいですよ。はい。」
陽介は完全に質問を先取りされて、ちょっと驚いて言った。
「えっ、ああ、そうなんですか。」
「はい。わたしは上がったことがこざいませんのでのう。…慎二さん、今日はおうちに帰られておいでです。…よくなられてからでは遅いのでしたら、明日の朝にでもお電話なさいませ。番号は電話の横の住所録に書いてございますから。」
「…わかりました。」
今度はおばあちゃんはいつきのほうを向いた。
「そうそう、いつき。」
「はい?」
「おまえ、お神楽を留守に頑張っているらしいけれども、休んでもいいんだよ?」
「うん、でも、暇だから。」
「そうかい。なら月島さんに見てもらうこともできるよ。静が一時期あの人にかなり教え込んでいたから。それにあの人も多分退屈しているだろうから、明日気が向いたらたのんでごらん。勿論無理に頼むことはないけれども。」
「…うん、わかった。」
「わしはもう寝るから、おまえさんたちも用が済んだら寝なさい。明日も早いからね。」
「はーい。じゃ、おやすみ、おばあちゃん。」
話はおわったようだったので、いつきと陽介はまた部屋を出た。続いて、「じゃ僕も失礼します、おやすみなさい。」と田中も出てきた。田中は2人にちょっと手を上げて挨拶すると、自分の部屋に引き返した。
廊下の薄暗い明かりの中を、2人は春季の寝かされている部屋へ向かった。
「…おまえ、ここ迷ったこと、ないの?」
「うーん、最初のうちは部屋が見つからないことはあった。どの襖が入り口かわかんなくて。でもまよったことはないよ。」
「…なんで俺だけ迷うんだよ…」
「あはは、あたし毎朝廊下雑巾がけしてるしね。その間何度も往復するから、自然と覚えるよ。」
いつきはそう答えてから、ふと思い出して言った。
「…そういえば、最初のときに、ユウに言われたなあ、廊下で何か変なもの見ても、何も見ませんでしたって顔で無視しろって。」
陽介は「うげっ?!!」な顔になった。
…陽介は怖い話が苦手なのだ。
その顔を見ていつきはさらに思い出したことがあった。
「あっ、そうそう、そういえばさ、ここってお盆に、亡くなった人が沢を越えてお参りに来るんだって?」
「…い、いつき、やめてくれ、せめてそういう話は朝になってから…!!」
「さっき山道歩いていたらさ、にゃんこがいきなりとびついてきてさ、どうしたのかとおもったら頭の半分ない人とすれちがったんだよね! あたしは足下みててちゃんとは見てないけど! 田中やんが事故でなくなった人かなって言ってた! はじめてユーレイみちゃったもんね!!」
「やめろっつってるだろーが!!」
陽介は思わず叫んでゲンコでいつきの頭をぶった。「バコッ!!」と凄い音がしていつきは思わず座り込んだ。
「…ったあ……マジで星出た…ざけんなよこのハゲ…」
「やめろっつってんのにやめねーからだよ!! 弱いものいじめしやがって!! 俺はおめーと違ってか弱いんだ!!」
いつきがようやく顔をあげると、確かに陽介は「自分の両腕を抱いておびえる乙女のポーズ」になって少し震えていた。顔もまっさおだ。
「…そんなに怯えなくてもあの人たちはほっときゃなんもしないよー…」
いつきは殴られたところを摩りながら立ち上がった。…軽くコブになってきている。
「なんかしようとなんにもするまいと怖いもんは怖いんだよ! 恐怖つーのは必ずしも何かされるから怖いんじゃねーんだつーの! なにもしなくてもこええもんはこえーんだよ!!」
「わーかったわーかった、大声だすなよ神社で。神様出てもしらねーぞー。可愛い男の子はさらわれっぞー。」
あやうくもうイッパツなぐられそうになったところをいつきはヒョイとよけて、春季の寝ている部屋の襖をあけた。
すると中では陽介の大声で目がさめたらしい春季が、かなり苦悶の表情で、歯を食いしばって起き上がり、部屋の電気をつけたところだった。




