16 RUN
いつきと田中と猫は走り続けていた。
月島と別れてからしばらく走ると、ある場所で急に猫が立ち止まった。かと思ったら、全身総毛立ってUターンしてきた。田中は止まりそこねて数歩行き過ぎたが、いつきは止まりながら器用に猫を抱き上げた。
「どうしたの?!」
猫はいつきの脇に頭を突っ込んで隠れようとしている。その頭かくして尻隠さずなばたばたぶりを、田中が息をつきながら振り返り、いつきの困惑した目と視線が合って、再び先に目を戻した。いつきも進行方向に目をやった。…遠くに誰かいるような気配が感じられた。
「…田中センセイ、誰か来たんじゃないかな。」
「…そうかもしれないね。…靄がでてきちゃって見通しが悪くなってきたな。見えないや。…すれ違うまで抱いていくしかないね。このまま歩こう。…すれ違うとき、会釈だけして。別に挨拶しなくていいから。足下よく見てね。このへん道悪いからさ。」
田中の言葉にいつきはうなづき、猫を抱いたまま、先を歩き始めた。田中があとに続いた。
しばらくそうして歩いて行くと、やはり向こうから誰かが歩いてきた。猫はいつきの脇でピタッと動きをとめ、「あたしゃ抱えられた縫いぐるみでござい」とでもいうような様子になった。いつきは「まったくもう…」と思いながら、その幾分無理のある体勢のまま進んだ。猫一匹ぐらいへでもないが、小脇に抱えて歩くのは煩わしかった。田中の言う通りなぜかそのあたりは小石が道に突き出ている部分が多く、よそ見をしているとコケそうだった。
結局下を向いたままやってきた人とすれ違った。会釈しろと言われたので、更に頭も下げた。
そのときふといつきは思った。ここの道を抜けたら、神社に出る。この人は神社に用があるはずだ。だが今神社には、冷えきった陽介しかいない。たとえ月島が帰り着いていても、あの体調ではおそらく陽介と二言三言交わしてバッタリというあたりだろう。それを教えたほうがいいのではないか、用件なら留守番の自分が聞くべきではないか、と思った。
しかし田中の手が背中に触っていつきを軽くせき立てるように押した。いつきが思わず振り返りそうになると、固い声で厳しく言った。
「振り返っちゃだめ。」
通りすがった人が立ち止まるのがわかった。
田中は更に言った。
「…はやく行きなさい。」
そして強くいつきを押した。
…すれ違った人が立ち止まってじっとこちらを見ているのが気配でわかる。
いつきは不満に感じたが、田中がせき立てるので仕方なくそのまま歩調を速めた。
日が暮れるまでに向うに下りてしまわなくては、懐中電灯一つ持っていないので足下があやしくなるのも確かだ。時間を節約するのもこの際大切かもしれない、といつきは思った。
…立ち止まった通行人はいつまでもじっと二人の方を見ていた。
少しして狭い丸太の橋を越えた。
すると今まで縫いぐるみのふりをしていた猫がもぞもぞ動き出して、いつきの脇から抜け出し、すとんと地面に下りた。ぷるぷるっと全身を震わせて毛並みを整えると、自分の毛皮の、抱えられていたあたりをさかんに舐めた。それと同時に、田中はため息をついて言った。
「…見なかったよね?」
「足下が危なくて…。でもさ、あのひと、神社へいくんでしょう?陽介もおっさんもぶっ倒れてるほうに現金で1000賭ける、あたし。…まずくない?」
「…むしろぶっ倒れててくれることを祈るしかないね。まともに応対したら、いくら負けず嫌いの月島直人でもちょっと…。それとも怨敵調伏だのカンマンボロンだのでもかますかな。…ま、でも大丈夫だろ。あの人たちが、神社に行くのは神社に宮司がいない日、寺に行く日は寺に住職がいない日と小川のおばあちゃんが言ってたよ。別に人間に用事があるわけじゃないんだ。神とか仏だけいればいいんじゃない。」
「…あのひとたちって…知り合いなの?」
「いや。全然しらない人。…さ、行こう。」
「ちょっと待ってよ田中センセイ、…」
いつきは言い募ろうとしたが、猫と田中はとっとと走り出してしまった。仕方がないのであわてて後を追いながら、いつきは言った。
「なんとかボロンて何?!」
「…なんとかボロンはね、おまじないみたいなものです。日本州では子供向けのアニメにもたまに出て来ますよ。…悪い、おしゃべりあとにして。僕の体力はやはり魔女子さんよりは大分ヌルイみたいだから。…きみほんとは箒でそら飛べるでしょ。凄い身体能力だね。」
「…箒は無理。」
いつきは肩をすくめて否定した。すると田中は「そう?」とからかうように笑った。そして冗談の続きのように言った。
「…さっきのひとね、頭半分しかなかったよ。交通事故かなんかかな。あと滑落かもしれないけど。」
田中がさらっと言ったので、いつきも「ああそうだったんだ」と言った。
しかし、言ってから、さらっと返してよかったのだろうか、という気分になった。しばらく田中の後ろを黙って走っていたが、やっぱり気になって、言った。
「…じっとみてたね、あたしたちのこと。」
田中はうなづいたが、いつきの顔は見なかった。
「…きっと懐かしかったんだろう。」
「懐かしいってなにが。」
「…人生が。」
いつきは「さよか」と思い、あとは黙った。
少し不思議な感じがした。
田中の言葉がよくわかるような、やっぱりわからないような気がした。
いつきは死にかけたことはあるが、結局今は生きている。だから死者の気持ちはわからない。死にかけたときはむしろ死んでしまいたいと…そう言い切るのには幾分語弊があるが、死にたくないとう気持ちよりはどこか遠くへ行ってしまいたいというようななげやりな気持ち、流れに任せてなすがままといった気持ちが強かった。
いつきが死にかけたのと同じとき、いつきの弟は死んだ。いつきの弟なら田中の言ったことがわかるだろうか。…いつきの弟は、短くして終わってしまった人生を懐かしんでいるのだろうか?
…田中に尋ねてみようかとも思ったが、田中の規則的な呼吸を乱すのも、なんだか悪い気がした。
二人と猫が最後のきつい登りを越えて供物台についたのは、少し日が傾き始めたころだった。…直線距離などまるであてにならない、ひどく長い道のりだった。たどりつくなり猫はへた…と座り込み、そのままぱたりと横になった。いつきは近寄って猫を撫でて、抱き上げた。猫はだらりと死んだように手足をたらして、はあはあと全身で息をしている。ふりかえると、田中も身をかがめ、膝に手をついたかっこうではあはあと息をついていた。ぽたぽた汗が垂れている。
「田中センセイ、大丈夫?」
「…生きてる生きてる。…それより探して。…そこの草ふみこえて…薮ん中入って。…向こうがすこし開けてて…石の…舞台みたいの…あるから…」
「わかった!」
いつきは言われた通り道から夏草を踏み分けて薮に入った。ぐいぐい草を漕いですすむと、言われたとおりぽっかりとした小さな広場に出た。
いつきは周囲を見回したが、春季の顔は見当たらなかった。
小さな広場の片隅には巨大な石をテーブル状に組んだ遺跡らしきものがあった。
いつきは猫を抱いたまま近付いた。
…いやな感じがした。
なんと言えばいいのかわからないが、とにかく嫌な感じがする場所だった。
いくつかの要素が絡まって、ここを嫌な場所にしてしまっているようだ。
一つは、なにか人間の感情が吹き溜ってしまっているような、どろっとした感じがある。いつきにはあちこちが焼けこげている場所であるかのようにも感じられた。…気持ちが悪かった。
もう一つは、生ゴミのバケツを洗ったような臭いがする。お供えものがあまり上手く処理されてこなかったのだろう。
最後の一つは、…たった今、ここの場を傷だらけにしてしまうような激しい出来事が起こった、その余韻が残っている…ということだった。
いつきは石のそばを離れた。
そのとき、やっと田中ががさがさやってきた。
「…どう?」
「…なんかあったのは確かみたい。」
「…でもいない、か。」
田中はため息をついた。
そのとき、石の下からちいさな蛇が這い出して来た。
「あ、田中センセイ、へびへび。」
いつきが言うと、田中は無感動にいつきの指す方を見た。
「ああ、アオダイショウだね。…毒はないよ。日本では屋根裏に飼ってる農家も昔はよくあったんだ。鼠よけになるから。」
いつきの腕の中で、ぴくりと猫が動いた。
きれいな水色の目を開き、いつきの腕をするりと抜けて蛇に近寄った。
「これ、駄目だよ。」
猫が悪戯すると思ったのだろう、田中が言った。
しかし猫は蛇の前に座ると、じっと蛇とみつめあった。
蛇は音をたてたりはしなかったが、そこでゆっくりととぐろをまいた。
…器用だな蛇って、といつきは思った。田中もだまって見ている。
きれいにとぐろをまいた蛇が、猫を見てチラチラと先の割れた舌をのぞかせると、猫は立ち上がって、くるりと背を向け、とことこ歩きだした。
「…話し合いが済んだらしい。」
田中が言うと、猫は振り返って「にゃー」と鳴いた。
蛇はしゅるりととぐろをといて、出て来たほうへ消えていった。
「…行こう。」
「あ、うん。」
田中といつきは再び猫のあとを追った。
+++
がらんとして静かな神社で電話が鳴った。
急に体が軽く、寒くなり、陽介は目をさました。
…月島が電話をとったところだった。
「…神社ですが。…わたしは氏子の月島だ。…ああ、慎二くんの件だな。どうなった。…そうか、病院に運んでくれたんだな。ユウちゃんは?…そうか。…何だと?…これから?…まちたまえ、女がいっても仕方がないだろう、だれかそこいらのジジイか少年でも焚き付けて行かせたまえ。…あ、おい、君!」
陽介が全身の激しい筋肉痛を我慢してたちあがり、近付いたときには、京子からだったらしい電話は切れたあとだった。
「…京子さんですか?」
「ああ。…慎二くんは彼女と多喜川というじさまで病院へ運んでくれたようだ。そのあと別の氏子のじいさんが車でユウちゃんの予定を手伝ってくれているらしい。」
「そうですか…。よかった…。」
「…彼女はこれから供物台まで出向いてくれるそうだ。…春季くんのことを見に行ってくれるらしい。」
「…みつかるといいけど…」
「…そうだね…。」
月島はうなづきながら、ちょっと手を伸ばして、陽介の寝乱れた前髪をなおしてくれた。
月島は上半身は裸で腕時計だけ、というワイルドなかっこうだ。…胸といい腹といい肩といい腕といい、かなりエエカラダをしている。なんとなく陽介は照れた。月島はそれで気がついたのか、苦笑して陽介に言った。
「…着替え、見つからなかったんだね。」
「そうなんです、すみません。とりあえず汚れた服は脱がせたんだけど…。」
仕方ないのでそのまま毛布をきせて、抱きかかえていた…というか、つまり脱がせるのに死ぬほど苦労して、そのまま下敷きになってしまってかろうじて毛布をひっぱって着せてあったのだが…陽介も力つきて眠ってしまった。…ものすごく重かった。でもなんとなく幸せだった。
「うーん、多分どこかにシャツかセーターくらいならあるだろう。探してくるよ。」
「…すみません。」
「電話にはりついててくれ。ついでに水浴びしてくる。」
「え…でももう日が…。」
「気合入れなきゃおばあちゃんが帰ってくるまでもたん。二人で爆睡している場合ではない。」
爆睡というか、絶対に月島は気絶していた、と陽介は思った。
「でも! 月島さん無茶しないでください! こんな状態であんな冷たい水に入ったら危ないですよ!」
陽介が必死で言うと、月島は少し考えた。そしてうなづいた。
「わかった。じゃお湯わかして浴びるよ。」
陽介はほっとした。
月島は立ち去る前に、ふと陽介のかっこうを見て、唐突に手を伸ばし、帯をほどいた。陽介は息の根がとまるかと思うほどびっくりしたが、月島は気にせずに、手早く陽介の着物の着付をなおしてくれた。帯も手慣れた様子で洒落たかっこうに結び、最後に衿と裾を整えると、満足そうにうなづいた。
「…静の着物をなおしたやつだな。昔着ているのを見たことがあるよ。…丈がつめてある。」
「…田中さんが出してくれたのかな。部屋に行ったら置いてあって…。」
「似合うよ。…たまには田中も気の効いたことするじゃないか。ここんとこ清潔にしているようだし。きみ惚れられたんじゃないの。」
「…だから田中さんはタケトさん。」
月島はぷっと笑うと、陽介の頭をなでなでして、服を探しに行った。
陽介はまた電話のそばの部屋の座布団に戻った。
一眠りできたので少し気分は楽になっていたが、体は逆にぎしぎしと寝る前よりも痛みを増した。全身どこもかしこも筋肉痛だ。…水が飲みたくなった。月島が戻って来たら、交代して水を飲んでこようと思った。
そのとき、境内で何か大きな音が鳴った。
陽介はびっくりして顔を上げた。
賽銭箱の上に吊ってある、お参りのときに鳴らす大きなあの鈴の音だ。がらんがらん、と大きくはっきりと2回鳴った。
こんな時刻に誰だろう。もう外は薄暗い。陽介はおそるおそる立ち上がり、玄関のほうへ向かった。玄関の並びにある部屋からなら、境内のようすが見えるはずだ。
と、玄関に近付いたところで、うしろから月島に捕まった。月島はどこから見つけて来たのか、厚地のウールの登山用のシャツみたいなものを肩にかついでいた。…まだ裸だ。
「…ようちゃん、…」
「あ、月島さん、今だれか参拝に…」
陽介がそう言うと、月島は陽介の唇に指で軽く触れた。
「しー…。そっとしておいてあげなさい。のぞいたりするものじゃないよ。わたしたちは神社の者ではないのだし。」
「でも、用事のあるひとかも…」
「…用事があったら呼びに来るさ。いいからほっときなさい。」
陽介はそう言われると、なぜかますます来客が気になった。
月島はそんな陽介を見ると、ひそひそと耳打ちした。
「…盆には、沢を越えて死者が来る。そっとしておきなさい。見てはいけない。むこうがきみに興味をもつよ。連れて行きたいと言われたらどうする?」
途端に恐がりの陽介は頭のてっぺんまで真っ青になって、くるりと方向転換し、そそくさと引き返した。
しかし今度は一人になるのが怖くてたまらない。途中で追い越された月島にくっついて土間までいくと、月島が呆れて言った。
「…電話番しててくれって言ったろ。そんなに怖いのか?」
「…別に怖くはないですよ。…電話なら、ここから取りに行っても間に合うし。…それに喉がかわいてて、水が一杯飲みたいし…。」
陽介は強がってそう答えたが、月島に笑われた。月島は慣れたようすで竈に火を起こし(着火剤のようなものを容赦なく大量に使っていた)大鍋に水を入れて、火にかけた。ついでにコップに水をくんで、陽介に渡した。
陽介がごくごくと飲んでいると、裏口から外をのぞきながら月島はぶつぶつ言った。
「…ああ、薪割りしたほうがいいな…明日やるか…明日風呂もわかすだろうし…」
「…全然休む暇ないですね、月島さん。」
陽介がその背中に声をかけると、月島はこちらを向いて言った。
「昨日休んださ。…ばかみたいにのべ3時間ばかり雨を見ていた。」
「たった3時間?お盆なのに。」
「…家庭なんかもってたら一時間たりとも休む暇はなかったよ?親戚が来て神主呼んで、墓掃除して、墓参りして。やれおそなえだ御神酒だ花だ、御馳走作って親戚もてなすかみさんのヒステリーにつきあって。息子の面倒をみさせられて甥姪に小遣いねだられて、野球とサッカーやらされて、…しかも親戚はたいていバカで、ぶさいくで、金がない。終わったら陰口を叩かれまくり、親戚に貸した金の念書だけが山になっている。休み明けはうんざりして出勤し、やたら色つやよくなって出てくる市長の美人秘書にやつあたりだ。」
いわれてみれば不思議だった。月島家の盆はどうなっているのだろう。
「…お盆、いいんですか?御自宅のほう、ほっといて…。」
「御自宅のほう、ね…。…うむ、怒りっぽいことに関してはわたし以上の妻だったが…。5~6年前に逃げられたよ。うちの親父とお袋の墓は今朝掃除してきた。明日、もし余裕があったら、おばあちゃんが祝詞をあげてくれるだろ。」
陽介はしまったと思った。思えば田中にそれは言うなと止められていたではないか! 田中にきいておくべきだった!
「…すみません、変なこときいて…」
しどろもどろで謝った。すると月島は苦笑して言った。
「…ま、いいさ。本当のことだし。隠したって仕方ない。田舎の狭い世界だ、皆も知ってる。」
「…」
陽介は小さくなってちょっと頭をさげた。
「…なんで逃げられたかきかないのかい?」
「…ええと…」
「聞かないなら教えない。」
…とても聞きたいとは思えなかったが、ここまでリクエストされては仕方がなかった。陽介はしぶしぶ尋ねた。
「…どうしてでてっちゃったんですか。」
「…天井の梁から吊るした。」
「は?」
「…紫の紐が似合うなと普段から思ってはいたんだが、…ある日ちょっと飲み過ぎて、縛っちゃってねえ。」
陽介はコップを落としそうになって慌てて持ち直した。月島は淡々と続けた。
「『あんたあたしを殺す気なの?!』とか何とか言われたらしく…たいへん嬉しくなってかなり殴ったらしい。…それで次の日、目が覚めたらもういなくなってた。後で見たら顔も体も痣だらけで…さすがにまずかったなあと思ったよ。
そのときは向うの実家にいって妻の両親の前で土下座して、いったんは妻も帰って来たんだが、…その半月後また酔っぱらって縛っちゃってね。…今度は梁から吊るした。
…いやしかし、大きな声で言うわけにはいかないが、あれは楽しかったな。忘れられんよ。よっぱらってたが、完成したときは感動で素面にもどった。肌がきれいで、いい女だったなあ…。あいにくとそういう趣味だけがない女で…。あやうく訴えられそうになったのを、金積んで勘弁してもらった。今もたまに揺すられて金払ってるよ。…というか、養育費だろうけど。」
陽介は口をあけたまま、なんと答えたものか途方にくれた。するとちょっと口をへの字にして、月島は言った。
「…なんかコメントしてくれよようちゃん。『まじであぶねえおっさんだなあんた』とか。『なんで素肌ブスでもマゾと結婚しなかったんだ』とか。『結婚は遊びじゃねえんだ趣味発揮してないでまじめにやれよ』とか…なんかあるだろう。」
…ますます、何を言ったらいいかわからない。
ただ、月島が言った3つの例は、どれも、陽介の感想とは違うものだった。…強いて言えば1つめだけはかろうじてニアミスしているだろうか。
陽介が何も言えずにいると、月島は軽くため息をついた。そして竈の鍋の蓋をあけて、指でちょいちょいと温度を見た。
「…行水するからあっちいってなさい。わたしの裸みてたってしょうがないだろ。」
しょうがないということは全然なくてむしろとても見たい気持ちだったのだが、陽介は「それはやっぱりいくらなんでも」と思い、コップにもう一杯だけ水をくんで、引き返すことにした。月島は鍋を運んで外へいってしまった。
しかし陽介ががっかりぐずぐずしていると、一旦戻って来て、残った火に水をいっぱいいれたヤカンを載せた。
陽介は鴨居の下で立ち止まって顔を上げ、思いきって月島に言った。
「…あなたの価値がわからない人と一緒にいても、それは時間の無駄ですよ。…出てってくれてよかったじゃないですか。」
すると月島は陽介に顔を向けて、肩を竦めた。
「そうだな。だが恋愛なぞ、おおかたは時間の無駄に終わるものさ。そして離婚は金の無駄だ。…それでもやっちまったんだから、致し方ございぁせん、てところだな。」
陽介は非常に月島らしい返事が来たので少し安心し、そこを離れた。
部屋に戻って、そっと胸を押さえた。
…体が疼いた。月島の体が見たかった、何か適当な冗談でも言って残ればよかった…と陽介は思った。
+++
猫がヨレヨレになりつついつきと田中を連れていったところには、巨大な丸い石があった。田中が、「目玉岩だ」と教えてくれた。辺りは夕焼けで赤く染まり、もう時間があまりないことを物語っていた。
猫は今度こそ石の下にへたりこむと、力なく尻尾をぱたり、ぱたりと動かした。
いつきが周囲をさがす間に、田中は少し奥へ踏み込んだ。そして鋭い声で春季を呼んだ。いつきはパッと身を起こして、そちらに走った。
白いヨーロッパ風の場違いな水盤があり、水がこぼれていた。春季はその下で、ずぶぬれになってよこたわっていたらしい。田中が急いで助け起こしたところだった。
「生きてる?!」
「縁起でもないこと言わないで。」
田中に厳しくたしなめられた。田中は春季の頬を軽く叩いた。
「尾藤くん、尾藤くん!」
いつきはかがみこむと、田中から春季を受け取った。
「…田中センセイ無駄。中身あっちにへたってるから。翠さん今は抜けてるみたいね。ちょっと中身の近くへつれていこう。」
田中はうなづいて手伝おうとしたが、いつきは断って、よいしょ、と春季をおぶった。そしてすたすた歩くと、目玉岩のそばの、猫の隣に寝かせた。
「…こんなに濡れちゃってる…。体温奪われるよ。服はがして。これ着せよう。」
田中はそう言って自分が着ていたシャツを脱いだ。下にはTシャツを着ていた。
「わかった。」
いつきはうなづくと、ぐいと春季の体を起こしててきぱきとシャツを脱がせた。田中はすぐに自分の着ていたシャツを春季に着せた。
「…春季ちゃんも多分盛大に吐いたと思う。…それを洗い流したんじゃないかな、あの噴水のとこで。」
「そうかもしれないね。…あれ、ヤバいんだろ、洗ったほうがいいんだよね?」
「うん、それもなるべく早くね。」
いつきはうなづき、春季のシャツをぎゅっと絞ると、春季の顔や、濡れた髪を拭いた。
田中は春季の額に手をあててついでに首の脈をとった。
「…うわ、ちょっと不整脈っぽい…。」
「ここに寝かせといても駄目ね。…近いところからおりようよ、センセイ。どこが近い?さっきの供物台の近くの道はどう?」
「…あの下の村廃村になっちゃったんだよ。もうすこしがんばってこっちに抜けよう。山をおりれば確か商店から20分くらいのところに駐在さんがある。お店で電話借りられると思うし…。とにかく日がくれちゃうときつい。…えーと、じゃ僕が…」
「センセイ猫ね。あたしこっちかつぐわ。」
「…申し訳ない。」
「いいよ。…いこう。先歩いて。」
田中は猫を抱き、いつきは春季のぐったり濡れた体を背負って、夕暮れの山道を歩きはじめた。
「…日が暮れる前に下りるのは不可能かもしれない。」
田中は眼鏡をずり上げて言った。いつきはうなづいて、答えた。
「そうだね。…もっと急いで歩けない?」
「あ、うん。急ごうね。」
急かされて田中はペースを上げた。
それでも道のりの途中で、無常にも日は落ちた。
最後の光が山の稜線に消えたとき、二人は立ち止まる以外になかった。
…動物の鳴き声がした。猿だろうか。野性の猿は凶暴だ。
「…暗くなっちゃったね。」
「…ゆっくり、摺り足ですすむしかないね。気をつけて。…と、魔女子さんは、見えるの?ひょっとして。」
「いや、見えるというのとは少し違うけど、わかるはわかるよ。…でも、月が出てくれると少しいいのにね。…曇ってて駄目か。」
「じゃ、きみが前歩いてくれるといいかもしれない。遅れないようについていくよ。」
「…それにしてもきついでしょ。…いいわ、センセイほんとにほんとだよ、絶対人に言わないで。陽介やユウにもナイショにしてね。」
「いいけど…何を…?」
田中が戸惑いつつ訊ねたとき。
いつきの手の上に、丸い明かりがあらわれた。
田中は息を飲んで絶句した。
明かりの色は青白く、月明かりに似ていた。眩しい感じではなく、ぼんやりと薄明るい感じで、かろうじて周辺が見える程度のものだ。
「…あんまり明るくすると目立つから。これでがまんして。」
いつきがそれをぽーんと田中のほうに放ると、そのあかりは田中の足下へと下りて、地面までは落ちずに膝の近くへとどまった。
「…ああ、充分だよ。」
田中がぼんやり答えてうなづくと、いつきは春季を一旦地面に下ろした。…やはり少し重い。
「…大丈夫かい。重い…よね。少しでも僕がかつぐよ。そのあいだ休めるだろう。」
「うん、大丈夫だよ。…ちょっとニャンコ貸して。」
田中が猫をいつきに預けると、いつきは猫を春季の胸の上に置いた。猫は力なくニャ~と鳴いた。
「…尾藤君、戻って戻って。」
そういって手でほれほれとあおぐようにすると、猫は春季の胸の上にはりつくように伸びて、それからゆっくりと中にとけこんだ。
田中が「わー」とすっかり無感動になって言ったが、いつきは気にせず、中身の入った春季をまた担ぎ上げた。
「…あ、あったかくなったよ、センセイ。」
「そうか。よかった…。じゃ、行こうか。」
また歩き出した。
15分ほど歩くと、遠くのほうでちらちらと光りが揺れるのが見えた。
「…誰か来たよ。助けを頼むから、明かりを消して。」
「オケ。」
いつきが明かりを消すと、田中は大きな声でおおい、と叫んだ。
「だれかいますかあ!!」
すると、光りが大きく振られて、遠くで女の声がした。
「山の下の店のウィズリーですう! 神社から来た人ね?電話もらったわ!いつきさん?田中さん?」
「僕は田中ですう! いつきさんも一緒です!」
「あっ、田中さんね!ごめんなさい!…尾藤くん見つかった?!」
「はーい、一緒です!」
「今いくわー!そこでまっててー!!」
二人はそれを聞いてほっとした。
「…陽介が手うってくれたのかな…。よかった、話つたわってるみたい。」
「そうだね。月島さんかもしれないけど…。とにかく、よかった。」
二人が待っていると、間もなくまだ中年とよぶには早すぎるような女性がやってきた。いつきはその顔を知っていた。
「あ!…あなた京子さんだよね?! 尾藤くんに写真みせてもらったんだ!」
「ええ、わたしは京子。…いろいろあって偶然さっき久鹿くんと電話で話したよ! 話はきいた。あなたが久鹿くんの友達のいつきさんね。…尾藤くんどう?意識ないの?」
京子はそう言って電灯で春季の顔を照らした。
「うん、でもあったかいし、命に別状はないとおもう。」
「…女の子に背負わせるなんて…」
じろーっと京子は田中を睨んだ。田中は慌てた。
「あっ、もう交代するよ、目木さん!」
「もう少し大丈夫。田中センセイずっと背負ってたから、体ぎしぎしでしょ。さ、とっとと行こう。」
いつきはさらりと嘘をつくと、先に歩き出した。京子と田中があとに続き、京子はいつきの足下を照らしてくれた。
苦心の末やっと山をおり、京子の商店の前につくと、明るい灯りのもれる店の中から店番をしていてくれたらしいおばあさんが出て来て、4人を労いつつ、中に招き入れてくれた。山をおりると驚くほど暑く、いつきも田中もあっというまに汗がだらだら流れはじめた。幸い店の中は冷房が効いていた。
「奥が部屋なの。上がって。…タオルがいるね。今布団敷くから。…ミナ叔母さん、北沢先生に電話してもらえますか。」
京子は言った。おばあさんははいはいと言って電話をかけ始めた。いつきは春季をかついだままくつを脱いで部屋にあがらせてもらった。畳に春季をおろした。
田中は京子からタオルをうけとり、春季の世話を引き受けてくれた。濡れた残りの服を脱がせ、体を拭いてやった。
京子がふとんをしいてくれている間に、いつきはおばあさんと替ってもらい、神社に電話を入れた。
電話をかけると、すぐに陽介が出た。
「おいっす。あたしだわさ。」
「どうなった?!」
「春季ちゃん、気絶してるところを無事救助。びしょびしょだったから、今田中センセイがぱんつ脱がしてふきふきしてまっす。」
いつきがそういうと、田中がじろっとこっちを見て「目木さん…」と低い声で言った。いつきは田中にぺロリと舌を出して見せてからかった。
「田中サンに悪戯しないようによく言っておいてくれ。こっちじゃ今田中さん魔性の中年説浮上中だ。それはどうでもいいが、春季どうなんだ、気絶してるって?猫とは別か?」
「気絶してる。猫は中に戻ったよ。見つけたときはあちらさんも抜けてた状態だったみたい。今京子さんとこにいたミナおばあちゃんて人がお医者呼んでくれた。」
「そうか…何かわかったらまた連絡してくれ。」
「あんたは大丈夫なの?着替えたんでしょうね?」
「ガキじゃあるめーし着替えくらいできるぁ。」
「ならいいけど。…あ、そうそう、月島のオッチャン、生きてる?もう瀕死って感じでしょ?無理させるとヤバいから、ちゃんと寝かしといてね。絶対安静だかんね。お茶いれてはこんであげな。それとなんかおいしい食べ物あげて。…うなされてたら、隣にすわっておでこに手あててあげんのよ?わかった?」
「えっ…やっぱり!!」
その「やっぱり」はむこうにいるらしい月島にむけられたものだったようだ。しばらく陽介が月島を怒鳴る声が続いた。いわく、月島さん! どうして大丈夫とか嘘つくんですか!! いつきが寝かせろって絶対安静だって言ってますけど!!…等々。…月島が顔をしかめて耳を塞ぐ姿が目にみえるような気がした。
「…陽介、説教はあとまわしにしてよ。」
「…ああスマン…いや、…それで、このあとはお前たちはどうする。」
「…うーん、帰るのはちょっと無理かも…。近くのドームで宿とるかな?」
すると、布団を敷き終えた京子が顔を覗かせて言った。
「あたし送るわよ、大丈夫。」
いつきは振り向いて、ぺこんと頭を下げた。
「…京子さんが送ってくれるって!」
「そうか、じゃ帰ってこられるな。…あ、月島さんと俺で飯くっちゃったから、お前田中さんと、あともし春季大丈夫そうなら春季も、なんか食って来いよ。近くのとこ京子さんに聞いて…」
「あ、食事! そうだった、忘れてた。あたしたちは昼たべたけど、あんたとオッチャンは食ってないんだっけ。」
「うん。それで月島さんがもってきてくれたもの、食っちゃったから、さっき。」
「えー…おいしいのよね…残念したわあ…あ、あのお店はさ、どこなの?」
「…U市の中、そっからだとけっこう遠い。それと多分、あそこは夜は予約制だと思う。」
「わかった~じゃ、京子さんによさそうなとこ聞いてたべてく。」
「金あるか?」
「あーまって。」
いつきはごそごそとポケットをさぐった。…ちゃんとカードが入っていた!
「カード持ってた!」
「偉い! じゃしっかり食って来いよ!…ちょっと京子さんに替れ。」
いつきは京子を呼んで替ってもらった。京子はもしもしー、と言って陽介と話し始めた。
「…慎二くんとユウちゃんのことは月島さんに伝えたけど、久鹿君まで届いたかな?…うん、うん、そうか、大丈夫ね。病院から連絡あった?ああそっか、坂下の家のほうにいくよねえ。ユウちゃんが戻るまで無理ね。なんでもなきゃいいけど…。…春季くんね、今おふとんに寝かせた。大丈夫、とりあえず血圧と脈とってみたけど、ちゃんと正常。息も自分でしてるよ。気道確保しなくても大丈夫みたいだから、気絶ってよりは眠ってる感じかな。…みつかってよかったね。ほんと…。途中で日が暮れちゃって、ぞっとしたよ。そしたら田中さんといつきさんが尾藤くん背負って現れたの。間一髪て感じ。…お医者さんに話聞いたら、また電話するね。それと、御飯、いつきさんたちがイヤじゃなかったら、あたしがなんか作るから。うん。心配しないでね。…うん、大丈夫、それはいいんだよ。困ったときはみんなで助け合わないと、こういう田舎では、大事なことなの。…じゃ、また電話するね。あ、待って。」
電話をきろうとしたところで、田中が手を伸ばした。電話は田中の手に渡った。
「もしもし、久鹿くん。一つ言い忘れてた。今日明日は参拝のお客の相手しにのこのこ出て行かないほうがいいよ。…あ、月島さんに聞いたの?そう。よかった。…え、悪戯するなってどう言う意味だよ。僕は男の子には興味ないぞ。…僕?いや、大丈夫だよ。ああ、目木さんにね。うんうん、大丈夫、手加減してもらったから、ちゃんとついて行けたよ。あはは、そうだね、僕はこうみえてもちょっと走れるんです。ええ。…じゃあ、きみもあったかくして、風邪ひかないようにね。月島さんとはほどほどにね。じゃまた。」
田中は受話器を置いた。そしてふと目をあげ、いつきと京子がなぜかやけに見開いた目で注目していることに気付き、いくぶん、引いた。
「ほどほどにってなにどゆこと?!」
二人が声を揃えて聞くと、田中はコホンとせき払いして、二人を「お下品」と批難するかのように睨んだ。




