15 BLOODY GEL
「あれ…いつきさんと、僕だけ?」
「…と、白にゃんこ。」
なー、と白い猫はキャットフードの小鉢から顔をあげ、田中をみて鳴いた。いつきはその尻尾をしゅるんと掴んだ。
昼食の席に集まったのは、いつきと田中と白猫だけだった。
「…今日はスープと合わせてみたけど、食べられそう?」
「うん、食べますよ。パン好きですから。…久鹿くん山にはいったのかな?月島さんの案内で…。」
「うん、行くって言ってた。」
「…一応僕も昨日聞いてたんで、地図見せておいたよ。」
「…あ、そう。ありがとう。」
「…なんできみが礼を言うの?」
「いや、なんとなく。」
白猫はフードから顔をあげて、にゃごにゃごとなにかを不満そうに言った。
「…なに言ってるかわかる?」
田中がきくので、いつきは言った。
「わかんないけど、多分、『ぼくだけ知らなかった』といってるんでないかな?」
…それは当たりだったらしく、白猫は思いっきり鼻息をフンッと吹いた。
いつきは猫の背中を撫でて言った。
「だってあんた午前中どこにいたのよ?」
「…あ、僕んとこにいた。『遊んで遊んで~』ってされてたんだけど、ちょっと忙しくてほっといたら、『遊ばないとこうだーー!!』って雑誌をばりばりにされた。でも忙しくて相手ができなくて…。午後はちゃんと遊ぶよ。版下送ったから、チェック通ればあとはしばらくどうでもいいことばかりだし。」
「…んもー、だめじゃん。」
いつきが猫の長い毛をつまんでひっぱると、猫は「にゃぐるぁ!!」と威嚇した。
…なんとなく、若い夫婦と息子代わりの猫、といったような、のどかな昼食になった。
「田中センセイ。」
「なんでしょう。」
「…いじめっこしてごめんね。」
いつきがそう言うと、田中はびっくりしたような顔になった。
それから田中は頭をかいて困ったような顔になり、ちぎったパンを口に放り込んで飲み込んだ。
「…なんですか突然。なんかあったの?」
「…ううん、別に。」
「…久鹿くんとケンカでもしたの?」
「…ううん、してないけどさ。」
「してないけどしたんでしょ。」
「…」
「…僕にあやまったって仕方ないじゃない。久鹿くんが帰ってきたら、久鹿くんに謝らなきゃ。」
「…」
田中はそう言うと、スープを飲んだ。
そして「お」という顔になり、複雑そうにいつきの顔を見た。
「…きみの作るものどれもけっこう美味しいよ。盛り付けはオトコマエだけど…。…久鹿くんと、遠慮しないでちゃんと付き合えばいいのに。まああそこんちはお父さんがうるさいのかもしれないけど…。」
「…なんで付き合ってないのかって、良く言われるよ。」
「…なんで付き合わないの?仲いいのに。」
「…」
猫がいつきを見上げた。
いつきは猫にパンをちぎってやった。猫は大人しく、いつきの手からそれを食べた。
「色っぽい感じになんないんだもん。」
「なんなくたっていいじゃない、別に。他人と同じでなくてもいいと思うけど?」
「…気ははっきりいって全然あわない。あいつ箱入りだし自分勝手だし。本当にたまに殺したくなる。…一回、立てなくなるまでボコッたことあるくらい。」
田中はスープの肉片を木のさじですくいながら、少しおどかすような口調で言った。
「…後悔したってしらないよ。人生なんか、あっという間なんだから。彼の顔みていられる期間なんて、ほんの数年の間だけかもしれないんだよ。」
いつきは口のはしを片方だけつり上げて、変な顔で笑ってやった。
そして、たずねた。
「…誰かのこと後悔してんの?」
…田中はいつきの目を見た。
田中がいつきの目を見たのはこのときが初めてだった。
いつきが黙って見つめ返していると、田中はそのままゆっくり一つうなづいた。
…そして、あとは食事が終わるまで、二人はなにも喋らなかった。
猫もだまって、いつきのそばにうずくまっていた。
+++
いつきががらんと広い奥の間で黙々と神楽の稽古をしていると、外は日が射しはじめた。すると間もなく、田中が猫を抱いてやってきて、いつきに言った。
「…お先に水浴びさせてもらうよ。猫、頼むね。」
「…へーい。…あ、剃刀とかタオル、出す?」
「自分でやるよ。」
田中はあっさり言って、猫を置くと、すぐにいなくなった。いつきは汗をぬぐい、休憩がてら猫のそばに座って足をなげだした。
「…あの人、多分女と暮してるよね?尾藤くん。それも奥さんじゃない女の人と。」
いつきがひそひそ話しかけると、猫はにゃーんといって、いつきの前でごろりと横になり、そのまま横にごろりと回転し、またごろりと戻って起き上がり、すまして前足の裏を舐め始めた。
「…陽介たち、かえってくるの、夜かな?ユウたちのほうが早いかな?…ちょっと退屈だよね。」
いつきがこちょこちょくすぐると、白猫は「くはっ」といって、その手にじゃれついた。
しばらくそうして遊んでいたが、手が疲れたのでひっこめると、猫はすこし遠慮しながら、いつきの膝の上にのってうずくまった。いつきが背中をなでてやっても、じっとしていた。
「…ねー、何かんがえてんのよ?退屈だからなんか喋ってくんない?」
いつきがからかうように言うと、猫は目をつぶって無視した。
一休みするといつきは猫を膝からおろして、ふたたび神楽の稽古を始めた。
猫は最初はだまってみていたが、そのうち飽きたらしく、古い扇子にじゃれついて遊びだした。しかしやがてそれにもあきて、日向へぽてぽてあるいてゆくと、畳みの上にごろりとひっくりかえった。眠いのかな、と思っていつきが見ると、猫は突然起き上がった。そして奇妙なかっこうで背中を丸くした。
なんだろうと思っていつきが動きをとめると、猫は奇妙な音をたてはじめた。不審に思い、猫に近寄った。すると猫は何かを苦しそうに吐き出した。ああ、毛玉か、といつきは思ったが、吐いたものをつまんで庭に捨てようとしてぎょっとして手をとめた。
…赤黒いゼリーのような塊だった。
「…尾藤くん大丈夫?」
いつきがのぞきこむと、猫は顔をそむけて、更に吐いた。こんどは一度目とは比べ物にならない量だった。
…食べ物が変化したものではない。食べたばかりのキャットフードやパンは、どう加工してもこうはならない。いつきが手を近付けると、何かびりびりとしたものが伝わってきた。…これは…。
猫は苦しそうにさらにもう一度吐いた。そしてやっとすべて吐き終えると、そのまま力なく横になった。
…春季の体に何かあったのだ、と直観的にいつきは悟った。
猫の体に触ってみると、息もしていたし心臓もどきどき動いている。ぶるぶると小さな体でふるえてはいたが、なんとか生きているようだ。うっかり伸ばした足が、自分の吐いたものに触れると、まるで電撃がはしったかのようにビクリと足を縮めた。
いつきは急いで立ち上がり、押し入れから紙を掴んでもってくると、猫が吐いたゼリー状のものを手早くつつんで庭の隅まで遠ざけた。紙の上に小石を並べると、地面を叩いて神聖言語で言った。
『地の母、これを包んで隠してください、ハルキを守って。』
するとボコっと地面が割れて、紙の包みを飲み込んだ。…吐瀉物に触った手がびりびりと痛む。猫は多分、なにか猛烈な威力のものを浄化して、体内から排出したのだ。もういちど地面を叩くと、手の痛みは消えた。
急いで猫のところへ戻った。猫は忙しく深い息をしている。苦しそうだ。いつきはその体を上から下までさらさらと撫でた。なんどもくり返すと、猫は次第に静かになり、やがて目を開けた。
「大丈夫?…何があったの?」
猫はぷるぷると頭を振った。
そして何気なく、猫といつきは襖のほうを見て、双方そろってびくっとなった。…濡れた髪をタオルでふきながら、田中が立って見ていた。
「…田中センセイいつからいたの?」
「…襖あけたらきみがここから紙をひっつかんでそっちにすっとんでったところだったけど。」
「あわわわわわ」
いつきは慌てた。こんなことをしているところは陽介にも見せたことはない。
「…地面が割れたのみちゃったよ。どうしよう?殺す?」
「ころしゃしないけどさ!た…他言したら死ぬよか酷い目にあわすからね!」
「そりゃ怖い。…猫大丈夫?」
田中は歩み寄ってきて猫をのぞきこんだ。猫はよろよろと立ち上がって、力なく「にゃー」と鳴いた。
「…よこになってなさい。」
田中は真顔で猫に言った。
しかし猫はそのままよろよろと歩きだした。
「…どこ行く気?」
いつきが言うと、猫はふりかえって、声を出さずに鳴くしぐさだけした。そしてまたよろよろ歩き出した。
「ちょっとお待ち。」
いつきは厳しく言うと、猫の首の後ろをつかんで引き戻した。それから、猫の頭を掴むと、水差しにもう一方の手を突っ込んだ。
『みずはながれる力はながれるさらさらとながれる』
神聖言語で念をかけてから放してやると、猫はしゃっきりしてすたすた歩き出した。
「田中センセイ、いこう。」
「うん。」
猫のあとを追ってゆくと、猫はすぐ庭におりて、看板のほうへ歩いていった。いつきは田中にそこにあった草履をまわしてやり、じぶんは裸足で庭に下りた。
「裸足じゃ怪我するよ。」
「…なんとかなるよ。」
「…多分ハイキングコースだ。僕が追って行くから、ちょっと向こうへいって靴はいておいでよ。ついでに僕の靴ももってきてくれればグ-。茶系のトレッキングシューズだから。」
「わかった。」
いつきは返事もそこそこに奥の間を飛び出した。大急ぎで靴を持ち帰ってハイキングコースに飛び込んだ。さいわい猫の足はそう早くなかったようで、すぐに追いついた。田中が靴をはくあいだはいつきがおいかけ、ほどなく田中も追いついた。
そのとき、意外な人物が水場のほうから現れた。
ずぶぬれの陽介だった。寒いのだろう、がたがた震えていた。顔は真っ白だ。
「…! 陽介無事?!」
「ああ。…どこ行くンだ?」
「春季ちゃんが大変なんだよ!」
「大変て…」
「わかんない! これから見にいってくる。」
陽介は震えの止まらない紫色の唇を噛み締めてから言った。
「…頼んでいいか?…俺も行きたいが、どう考えても、もう歩けん。」
「うん、あんたはすぐきがえたほうがいいね。まかせとき。」
陽介はずるずるとハナをすすった。
「…月島さんどこ?話さなきゃならないことが…。」
「え…一緒じゃないの?」
田中も立ち止まってむこうのほうから振り返った。陽介は少し固い表情になった。
「…途中まで一緒だったが、途中で別れた。俺のほうが早く神社につくかもしれないとはいってたが…俺けっこうおりてくるのにてこずったんだよね…。何時かわかるか?」
「たぶん今2時半くらいだよ。」
陽介は鼻をすすってから、少し考えて言った。
「…ハイキングコース行くなら、一の沢と二の沢の間に月島さんがいるかもしれない。もし会ったら俺が神社にもどってたって伝えてくれないか。」
「わかった。」
「…頼むぞ。」
「任せろ。」
田中が先に歩き始めた。猫は随分遠くなっている。いつきも歩きだそうとして、再度立ち止まった。
「…電話鳴ってない?」
「…ああ。俺がでとく。行ってくれ。」
いつきはうなづいて、走って田中のあとを追った。陽介もふらつきながら、母屋のほうへ急いだ。
+++
田中といつきが猫を追ってゆくと、猫の歩みはどんどん早くなり、しまいには小走りでおいかけるはめになった。いつきは田中が心配だったが、田中は意外に平気な顔をしていた。
「田中センセイって、やせてるけど体力あんのね。」
「学生時代は駅伝をやってた。今はたまーに市民マラソンに出てるよ。」
「えっ、すごく意外。」
「人間関係なんざ、誤解の集積さね。…僕んとこの教授なんか、しわくちゃの枯れ木みたいなジジイだけど、トライアスロンやってるよ。誘われて大変。…ちょっと苦しくなってきたから、喋りのほう休んでいい?」
「ドゾ。」
猫と二人はやがて沢についた。田中が言った。
「多分このまま沢3本越え、だよね。」
「…田中さん、ここでマラソンする気ある?ハーフほどもないとはおもうけど。」
「…いやだけど、しないとマズイかもしれないね。…きみはどうなの、魔女さん。」
「あたしはヨユーよ。」
猫は聞き届けたとばかりに走りだした。二人も後を追って走った。
最初の橋をこえると、まるで別世界に迷いこんでしまったように、もったりと濃い空気のなかに飛び込んだ。
「! なにこれ…すごいや。」
「…うん、今に気持ちよくなってくるから。」
「…風餌だわ。」
いつきは驚愕して言った。
「…なにそれ?」
「…ここ、ものたべなくてもしばらくは動けるよ。」
「…うん、知ってる。…下手をすると病気も治るよ。」
「しってるの?」
「…うん。まえに試したことがある。」
「なんでそんなこと?」
「…死にたかったんだよ。」
いつきは田中の顔を見た。田中は前を歩く猫を見つめたままだ。
「…どうして?」
「…あんな汚い沼で静さんが一人で死んだからだよ。」
「…」
いつきはちょっと嫌な予感がして、言った。
「…田中センセイは静さんのこと好きだったの?」
「好きってどういう意味さ。僕は男とはセックスはしないよ。」
…いっそしたほうがよかったんじゃありませんかい?といつきは思ったが、さすがにその発言は…とりあえず今回は…心の中にしまうことにした。
すると、田中はぽつりと付け足した。
「…でも好きだったよ。」
前を走っていた猫が急に立ち止まった。二人が追いつく前に、猫は木の根元に近寄って、にゃーにゃー鳴き出した。
「あそこに何か…」
いつきはスピードをあげて駆け付けた。
「あっ…! 月島さん?!」
猫は木の根元に座り込んでいる月島によじのぼり、顔に手で触って起こそうとしていた。…猫が乗っているあたり、ちょうど胸の辺りがどす黒く血で汚れている。それを踏んだ猫の足がぴっ、ぴっ、と痙攣していた。
「月島さん生きてる?!」
いつきは猫をわきへよけて、月島をゆさぶった。すると月島は
「うるさい」
と言って顔をしかめ、目を開けた。
「…ああ、君か…。どうした。」
いつきはほっとした。
「ああ、よかった、…どうしたの、この血。」
「…血じゃないから気にするな。」
「何があったの?!」
「わからん。突然動けなくなって吐いた。…二日酔いかと思ったが、なにやら変な吐瀉物が出てきて…。少し休めば治るだろう。」
月島は眠そうに答えた。…体力が根こそぎにされているのが、見ただけでわかった。
「変な吐瀉物って、赤黒いゼリーみたいなものですか?」
追いついた田中がはぁはぁ言いながらたずねた。
「…きみまで神社を離れちゃいかんだろうが。…ようちゃんが…」
「久鹿くんはさっき神社に戻りましたよ。あんたのことを探してた。」
「…無事だったか?怪我は?」
いつきが言った。
「ずぶぬれだったけど、怪我はしてなかったと思う、多分。…それより月島さん、ゼリーみたいの、吐いた?」
「…ああ。」
「さっきこの子もそれを吐いたんだ。それであたし達、これから春季ちゃんの体の様子見に行くの。」
いつきは猫をさして言った。
月島は眉をひそめた。そして言った。
「…ユウちゃんから何か連絡ははいってないか?あの子、今日慎二と一緒にいるだろ。」
「…でかけに電話が鳴ってたけど、陽介がとるっていうから、あたしたちはそのまま来た。」
「…まずいな…」
「何?」
「…あとで説明する。君たちはそのまま供物台まで行ってくれ。わたしはなんとか神社までかえってみる。」
「わかった。」
田中が口をはさんだ。
「…いくらここがハイになる場所でも、その体調じゃ神社までは無理ですよ。誰か人をよびましょう。」
「猫がそれだけ走ってるんだ、なんとかなるさ。」
「あ…そうだね。」
いつきはそういうと、うなづいた。月島の襟首を掴み、ぐいっと持ち上げて、座りをなおした。月島も田中も仰天したが、いつきはそんなことなどどうでもいいとばかりに今度は月島の額に掌をあてると、後ろの木の幹にその頭を押し付けた。みしり、と音がした。
「…ああ、月島さん、こりゃ、無理だわ。多分3日か下手したら一週間くらい寝込まないとこの乱れはおさまらないと思う。とりあえず回復はさせるけど、一時的なものだから、神社についたらすぐによこになって。横になっても口は動くでしょ。陽介をこきつかえばいいよ。無理しちゃ駄目だからね。」
いつきそう言うと、月島のみぞおちに手を当てた。
二呼吸ほどで、月島が急にはっきりとした表情になった。
「…何をしたんだ…?」
「…見てたデショ。手をあてたんだよ。…おっさん通りのいい体ね。猫よりよく通るわ。」
「…」
「立てる?」
月島は立ち上がった。
「…ああ、立てる。」
「じゃ、あとでね。向こうから連絡できたら、するから。あと、できるだけ早くその服脱いだほうがいいよ!…田中センセイ、行こう。」
「月島さん、お大事に。」
田中はクスっと笑うと、猫を追い立て、それを追って走り出した。いつきもそのあとを追った。
+++
濡れた服は重く、体は思うように動かなかった。それでもここは道だ。岩山じゃないし、小川でもない。草を綯って滑り止めに縛ったままのスニーカーを、土間で、ずぶぬれのくつしたごと脱ぎ捨て、這うようにして電話をとった。
「…水森です。」
「ユウです。だれ?久鹿?」
「…ああ。」陽介はヨレヨレでこたえた。
「誰かいない?月島さんは?!」
「…まだ戻ってない。多分一の沢の近くにいるはずだ。」
「もう!留守番たのんでるのになにやってんのよあの親父!!…じゃいつきはいない?!」
「…今田中先生といっしょに供物台まででかけた。」
「今頃供物台?!何考えてんのよ日が暮れるじゃない!!じゃそこにはあんただけ?」
「多分。」
「慎二さんが大変なの! 変な物吐いて倒れちゃって…それで車でこられるひとの、とくに男手がいるの!」
陽介は受話器を握りなおした。
「水森は慎二さんと今一緒なのか?電話は衛星の携帯か?」
「ここいらの峠や山は衛星回線も使えたり使えなかったりなんだ。ここはY市側のふもとだよ。慎二さんはまだ峠の車の中にいる。氏子さんで、ウィズリーさんて人の家なの。今日3時から祝詞をあげる予定だったんだ。あたしは峠から走ってきた! 今ついたところ。」
「京子さんちか?!」
「そうだよ、しってんの?」
「知ってる。…向う斜面だな?…どこの峠だ?」
「滝見峠。」
「…どうしようもなけりゃ救急車かドクターヘリまわすから。」
「駄目だよ! そんなお金坂下の爺だって出せない!」
「俺がだすからつべこべ言うな! 我侭言ったって今ここには俺の他には誰もいねえし、俺はいつきじゃねえんだ、そんなとこまで走っていくのなんか絶対に無理だからな!!」
「…でも…!」
「…ちょっと京子さんに替れ。」
…救急車は原則ドームの中しか来てくれない。フィールドはドクターヘリを使うのが普通だが、莫大な費用がかかる。陽介は髪から滴りおちてくる水を濡れたそでで拭った。…震えがとまらない。
京子は電話に出るなり言った。
「事情は今の電話でだいたいわかったわ。…死者の祝詞より生者の救助よ。あたしが近所のじさま誰かつれて車で行ってみる。なんとかなるでしょ多分。」
陽介はほっとした。
「…ありがとう! 京子さん!」
「いいんだよ。うちの神社さんのことなんだし。…それよりちょうどよかったわ久鹿くん。…あの…尾藤くんのことだけど、なんていうか…ヤバい感じでおかしいわよ。」
…京子は気がついていたのだ!
陽介は画像を切っているのも忘れてうなづいた。
「わかってます。なんとかします。…だいぶ…暴れてますか。」
「…みたい。別にあたしが確かめたわけじゃないけど…ちょっとこっちで噂になってるわ。」
「今朝は会いましたか?!」
「ううん、あったのは昨日の夕方の御飯が最後かな。…今って水守さんに滞在してるの??彼、大丈夫なの?帰ってるとしたら、真っ暗なハイキングコースを走ってるとしか思えないんだけど…」
「ええ、それは大丈夫みたいです。昨日もちゃんと夜に帰ってきました。…それより京子さん、今日、いまさっき春季に何かあったらしいんです。俺のダチの女子でいつきってやつと、それから田中さんていう人がそっちに向かってます。」
「!…あっちもこっちも大変だね。いいわ、わかった。坂下さんの件が片付いて、まだ日がおちてなかったらあたし供物台までいってみるね。日がおちたら天気によっては無理かもしれない。でもなるべく行くわ。」
「お願いします!」
「…久鹿くん大丈夫?だんだん声がかすれてきてるんだけど…」
京子は気遣わしげにたずねた。陽介は首をふった。
「大丈夫です。…連絡は神社にお願いします。俺しかいないですけど。」
「わかったわ。あまり心配しないでね。じゃ、あとで。」
電話を切ると、陽介はそのままべしゃりと座り込みそうになるのを堪えて、足を引きずって自分の部屋に向かった。とにかく、なにはさておき、着替えだ。着替えないことにはこれ以上頭が動かない。
部屋に戻ると、誰が用意してくれたのか、よくかわいたバスタオルときれいな和服が一揃、乱れ箱にいれて置かれていた。陽介はとくに深くは考えず、濡れた服をこそぎおとすように全部脱いだ。それからタオルで髪や体を拭き、…それだけで手がわなわな震えてものを掴むのが困難なほどだったので、早々に和服を着込んだ。和服は薄い水色ががった白で、ちゃんと足袋まである。帯はたしか…とうろ覚えの知識総動員でなんとかかっこうをつけた。濡れた服と使ったタオルをまとめて乱れ箱につっこみ、その中から勾玉と月島に借りた小柄をひろいあげた。
乾燥した衣服の温かさにどっと眠気がおそってきたが、せっかくの上等な着物に変な皺をつけてはいけないと思い、陽介は押し入れからさきほども世話になった毛布をだし、脇に抱えて、電話のところまでひきかえした。電話のそばの部屋を勝手に開け、座布団をだして正座すると、毛布を着込んだ。そのままのかっこうで、月島の帰りといつきからの電話を待つことにした。
毛布の温かさについ正座したまま眠りこんでしまう。2回、3回と船を漕いで「いかん」と目をこじあけ、首を振った。思考が動かない。大変な疲労だった。冬山で凍死しかけている気分だった。
陽介がしばらくそうして眠気と戦っていると、表の玄関のほうで、何か物音がした。誰か来た、と思って陽介は立ち上がろうとしたが、体が半分眠っているのだろう、力がまったく入らない。金縛りにあったかのようだ。
ずしり、ずしり、と重い足音が近付いてくるのが聞こえた。足跡、というか、何か低く響く遠い轟音のようなものだ。間隔が長い。月島どころか、普通の人間ではないな、と陽介は思った。誰か氏子の老人だろうか、と思った。足音はそうしている間にも、どんどん近付いてくる。陽介がようやく薄目を開くと、足音はすぐそばで止まった。
「をい」
足音の主は言った。
陽介は黙ったまま、目も上げなかった。
陽介のようやく半分だけあいた視界には、とても人間の足とは思えない、巨大な逞しい足があった。足はけむくじゃらで、真っ黒に日焼けしており、大きな爪は黒く歪んでいた。
「…話したいことがあるならきいてやってもよい。」
足音の主はそう言った。
陽介はその巨大な足を見つめて言った。
「…俺は罰を受けますか。」
「我には答えられない。」
陽介が沈黙すると、足の主は陽介の膝の近くに何かを投げ落とした。
それからゆっくりと、引き返していった。
…いつもならどっと冷汗がでるところだ。しかし、疲れ果てていて、それどころではなかった。
陽介はそのまま…足の主が落として行ったものを確認することもなく…力つきて目を閉じた。
しばらくして、誰かに激しく揺さぶられて、目が覚めた。
「…ちゃん! ようちゃん、大丈夫か?!」
月島だった。陽介はかくりとうなづいた。
そして驚いた。
月島の胸が血でまっくろになっていたからだ。
「月島さん、これは…」
「ああ、これは大丈夫だ。…それより、ちゃんと着替えただろうね?」
「ええ…でも月島さん、これは血でしょ?!」
陽介は月島の胸に手をあてて言った。錯覚なのか、手をじわりと焼かれたような心地がした。
「いや、違う。…なんか夜中に食ったもんの色だろう。気にするな。」
「…なに食ったんですかこんな…生の豚でも?!」
「いや、トマトとか…」
…出てきた食べ物がやたら可愛かったので、陽介は顔をしかめた。
「え?」
月島も一瞬「まずった」という顔になったが、えへんと咳払いして誤魔化した。
「ちょっと吐いただけだ。二日酔いだったし。…それより、途中で目木くんと田中に会った。」
「ああ!…そうなんです。春季の…体のほうに何かあったとかで。」
「ああ。猫がなんか妙ちきりんなものをげろげろ吐いたらしい。猫が先頭を歩いていた。供物台まで行くらしい。」
「…月島さん、もしかしたら、それに関係あるかもしれないんですけど…お話しなくてはならないことが。」
月島は少し眉をひそめて言った。
「…大丈夫かい?死にそうになってないか?」
陽介はうなづいた。
「死にそうですけど、でも今聞いてほしいんです。」
「わかった。…ちょっと座っていいかな?」
「ええ。」
陽介は奇妙に感じながらも、うなづいた。月島は陽介のそばに腰をおろしたが、…正座できなかった。そして腰をおろすときに、かすかに呻いたように思えた。
「…月島さん…?あなたは大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。…それで?」
陽介は月島のひそめられた眉根に少し戸惑ったが、すぐに懐から小柄を出して、月島に差し出した。
「…有難うございました。」
「…ああ。それ、少し持っていなさい。刃物を持っていると、それだけで勇気が出るから。今のきみにはそれが必要なんだよ。だから持たせた。」
「…そうだったんですか…。」陽介は差し出した手をひっこめた。そして言った。「…すみません、使ってしまいました。」
月島は顔を上げた。
「使った?…何に。」
「…」
陽介は月島と別れたあとのことを、話すことにした。
月島に言われた通り、陽介は小川をさかのぼった。ひどく滑ったので、途中で岸の草を綯って細い縄をつくり、それをスニーカーに縛り付けて滑り止めにした。水は冷たく、濡れた足はあっというまに感覚がなくなり、まともに動かなくなった。
やがて、月島の言っていた崖に辿り着いた。流れはその崖の下の方…陽介の腰くらいの位置から流れ出ていて、小さな滝をつくっていた。それを見て、「ここ、座禅するとちょうどぴったりミニ滝行できそうだな」と思った。
良く見ると数段の階段めいたものがあり、陽介はそこに足をかけて登った。見上げると、目の前に古い太い鎖が揺れていた。陽介は覚悟を決めるとその鎖を掴み、月島に教わった古い名前を唱えながら、岩に足をかけた。
岩はよく見るとそれなりに足掛かり・手がかりになりそうなところがあり、落ち着いて集中すれば、登るのもそれほど無茶ではなかった。ただ手も足もかじかんでいたし、着ているものは濡れてすっかり重くなってしまっていたので、一歩一歩がまるで針の山を登るような苦行だった。陽介は祈るような気持ちで教わった古い名を唱え続けた。その苦行はいつまで続くのか、頂上など到底見えなかった。「10分ほど」という月島の言葉だけが頼りだった。
途中まで登ったところで、鎖が木の根に絡まっているのを見つけた。根だけが崖から突き出していて、それが複雑に鎖に巻き付いていた。どおりで安定がいいと思った。陽介はその部分を通過しようとしてふと目をやり、びっくりしてあやうく落ちそうになった。
そこに、一羽の猛禽が足を挟まれてぶら下がっていたのだ。…しかも、生きていた。
そんな至近距離で鷲鷹の類いに対面するのは初めてだった。目を合わせては危険かもしれないと思ったが、その大きな鳥は、もう力つきているのか羽撃きもせず、身じろぎもしなかった。ただ、ジロリと黄色いきれいな左目で陽介を睨んだだけだった。…右目は根に突かれたのか、怪我をしていた。
陽介は迷わなかった。片手で懐から小柄をとりだすと、鞘を口で噛んで、抜いた。…
「…いいことをしたじゃないか。そんなことは別にかまわない。…たとえ落ちてそいつが死んだとしても、そんなところにぶら下がっているよりずっとましだ。」
月島は、なーんだ、そんなことかい、という顔になって言った。陽介は昏い顔になって、先を続けた。
…陽介は抜いた小柄で、鳥の足を捕えていた木の根をざっくり切った。
すると、その根から音を立てて血が吹き出た。
陽介は驚いたが、鳥はばさっと巨大な翼をひろげるなり、ピイーーーッと長く鋭く鳴きながら飛び去った。
月島はそれを聞くと、難しい顔になった。
「……あそこは何がおこっても別に不思議ではないが…。」
そう言って考え込んだ。…月島も、血がかよった木が生えているとは知らなかったようだ。
「…なんにせよ、御神木ですよね?」
「…上に木なんかあったか?…上まで行ったんだろう?」
「行きました。上に木はありませんでした。」
「…そうだろう。私は少なくとも覚えがない。…もっとも私が上がってからだいぶ時間がたってはいるが。」
陽介は更に言った。
「…月島さん、上には泉があったのではないんですか?」
月島は目を上げた。
「あったというか…泉の方がいらしただろう?」
「…どんな泉でしたか。」
「どんなって普通の。」
陽介は首を左右に振った。
「…真っ黒でした。ちょうど、あの黒沼みたいな感じでした。」
「黒沼って…ああ、鏡池のことか。静がコケて死んだところだろう?」
「鏡池っていうんですか?あそこ。」
「ああ。のぞけばわかるよ。きれいに顔が映るんだ。静はよく急ぎのとき化粧するのにあの池を使ってた。あいつ、かなづちでな。…まあ静のことはどうでもいいか…。それはともかく…泉が黒かったって?それはおかしい。」
「…泉の方って、どんな方なんですか?」
「…会えなかったんだね?」
陽介はうなづいた。
月島はしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。
「どうやら何かおこっているようだね。…とりあえず、緊急事態のようだ。きみの恋人の件は、後回しにせざるをえないな。」
それから、ふと気付いて、床から何かを拾い上げた。
「ようちゃん、これはどうしたんだい?」
陽介は月島の手を見た。…そして、あ、と思った。
「さっきどなたかいらして、…俺にくれました。」
陽介は手を出した。月島は陽介にそれを渡しながら言った。
「…どこかでみたことがあるんだが。思い出せない。」
手渡されたものを見ると、それは親指の先ほどの、小さな、黒い勾玉だった。
陽介がそれを見つめてぼんやりしていると、月島はなぜか唐突に畳にごろりと横になった。…なんとなく、苦しそうだった。陽介は毛布から抜け出して、月島ににじり寄った。
「…月島…さん?」
月島は体をよじって横向きになると、唸るように言った。
「…ようちゃん、ユウか慎二から連絡がはいらなかったか。」
「!…はいりました。慎二さんがへんなもの吐いたとかって……て、月島さん?!」
月島は「あんたたちまさか同じ物吐いたんじゃ…」と言いたかった陽介を軽く無視した。
「……だれか行ってやったのか?」
「向う斜面の氏子さんでウィズリーさんて方がいろいろしてくれているところです。」
「ウィズリー…ああ、商店の…。そうか…なんとかなったならいいんだ…。よかった。」
だんだんと月島の声はため息のようになってゆく。陽介は焦った。
「月島さん、大丈夫ですか。少し休んでてください、いま、着替え探してきますから…」
慌てて、自分が着ていた毛布を着せかけた。
「…ああ、無理しなくていいよ。わたしは大丈夫だから…ただの二日酔いだ。…きみも休みなさい。」
月島はそこまで言うと、気を失った。




