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Till you die.  作者: 一倉弓乃
15/41

14 SAWA

 おばあちゃんやユウが早寝のために早々に宴席を解散すると、めいめい食品と酒を確保して、男衆はそれぞれ部屋に下がった。月島はこれから夜道を車で下ると言い、びっくりしたユウにもおばあちゃんにも泊ってゆくように言われたが、夜半に約束があるとかで、山を下りていった。盆の夜中に何の約束だかね、まあどうでもいいけど、と田中は江面と笑っていた。

 陽介は二人の誘いをことわって、自室に戻った。部屋には春季といつきがいて、いつきが布団をしいてくれているところだった。

「おう、いつき、おつかれさん。」

「あーまったくおつかれさんだわよ。…ここにかけ布団置いておくから、あとてきとーにして。…あ、そだ。ビトウくんになんか食べ物やっといてね。キャットフードじゃ駄目よ。」

「あ。そうか。飯くってないか。」

 いつきは掛け布団をそのへんに「ぼさっ」とほったらかすと、「皿洗わなきゃ」とつぶやいて部屋を出ていった。…こんな調子であと2日もつのだろうか?いささか心配だった。

 いつきを見送ってから、掛け布団を一枚ずつ敷き布団にのせて、陽介はおそるおそる春季に話かけてみた。

「…春季、サラミとかクラッカーとかあるよ。食べる?…あと、春季飲むかなとおもって、酒もらっておいたけど…」

 春季はにっこりしてうなづいた。陽介は荷物の中から食料袋を取り出して、腹のたしになりそうなものを選んで出してやった。食べ物を並べてやると、春季は遠慮なくぱくぱく食べた。飼っている猫が家出から戻って餌を元気に食ってくれているような気分というか何というか、とにかく陽介は少しほっとした。

 見ると、やけに春季の浴衣の着方がみっともない。いつきもなおしてやればいいのに、あいつは一応女の端くれのくせにまったく、と少し不服に思いながら、陽介は近付いて春季の襟元をなおしてやった。しかし座ったままでなおしたので、あまり改善はされなかった。陽介はそのまま春季のそばに座った。

「…ね、春季、…春季、だよな?」

「…僕ですよ。」

「…よかった。」

 春季はナイフで薄く切ったサラミソーセージをかじりながら、ちょっと笑った。

 陽介はそんな春季の肩に額をくっつけた。

「…なんかすごく久しぶりに会った気がする。」 

「…ずっといたじゃないですか。先輩にずっとマッパでだっこされて撫で回されてたし。いつきさんのパンも盗み食いしたし。」

「うん…でも…なんか今ほっとしてる。」

 陽介が言うと、春季は陽介の前髪にちゅっとキスをして、そのままもぐもぐと食料を胃につめこみつづけた。

 陽介は身をおこし、自分も少し枝豆の残りをつまんだ。

 廊下の向こうで江面と田中が楽しそうに笑っているのが聞こえた。多分、今日おばあちゃんをのせて各家を回った江面が、いろいろなうわさ話やエロ話を仕入れて来たにちがいない。うまい酒もあるし盛り上がっているのだろう。とはいえ陽介は田中の部屋の二次会に出席する気にはなれなかった。女の股や乳首の話なんざ学校と安西達だけで沢山だ。

 春季が、ちいさなぐい飲みサイズの茶碗に、陽介の分も酒をついでくれた。酒は透明な日本酒で、まるで果実酒のような芳香があった。

「…ま、二人ですし。いいでしょ。飲みましょうよ先輩。」

 春季がそういってすすめるので陽介も飲む気になり、心地よい香りを楽しんでから少しなめた。…味は軽めで、酒というよりは、ミネラルウォーターの少し個性のあるもののような感じがした。

「…春季はさ、むこうでは、何して働いてんの、今は。」

 月島の言っていたことが気になってしかたがない陽介は、遠慮がちに尋ねた。春季はナイフで陽介の分もチーズを切り、おいしいですよ、と陽介の唇に勝手にはさみながら答えた。

「…うーん、今はなんかをはねとばす作業みたいなのしてます。ひととおりすんだら、どうやら木の枝同士を結んですっぽりドームみたいなエネルギーの網をつくるらしいです。それで、最後に、供物台の石にふれると作動する防衛装置みたいなのを仕掛けるらしいです。…どれも人間の深層心理に働くトラップみたいものらしいです。興味や情熱をそぐような効果だと思います。」

「…そうなの?…一日、早朝から日暮れまでずっとそれ?休憩とかはしないの?」

 陽介はチーズをたべながら、春季と自分の盃の両方に酒をついだ。春季は干魚の珍味の袋をあけ、それも一つ陽介の口に運んでから、自分でもむしゃむしゃ食べた。

「…休憩してますよ。そういえば京子さんに会いました。」

「え。」

「元気にしてましたよ。明日、お盆の祝詞あげてもらうんだって。でもほら、京子さんちってイギリス人だったんですよ、お祖父様が。プロテスタントだったんだって。だからお父さんの供養、ほんとに神社でいいのかどうかときどき悩むんだって。お父さんは実に現代日本人らしい、信仰心の曖昧な人だったらしいですけど。」

「…じゃ祝詞でいいんじゃない?」

「…彼もそう言ってあげてたみたい。」

 春季がさりげなく「彼」というので、陽介はどきっとした。

「…京子さん、なんか気付いたみたいだった?」

「全然。朝会って、昼にお弁当作ってくれましたよ。」 

「朝?なにしに来てたんだろう…」

「…うーん、見回りってことみたいでした。どうせ見回りなんて神社と教育委員会が半年にいっぺんくらいすればいいほうだから、自分も見るって言ってました。…死体が出たでしょ、それで、やっぱり向う側の下の町の人たち気にしているらしいです。あと、京子さん自身は最近運動不足が気になってるんだそうで。」 

 陽介は感心した。

「そういう機能がまだ地域で健在なんだ…。でも朝昼会って、なにしてるか怪しまれなかった?」

 春季はうなづきながら、干魚の皮を剥がして身を小さくむしった。

「『お昼に会えるならお弁当作っといてあげる』っていってたから、じゃ食べに行くって言ったら、張り切って作ってくれましたよ。」

「うまかった?」

「…きれいな配置でしたよ。味は思い出せない。いつきさんのナンの印象が強過ぎて。いや、あれはうまかったです。」

 春季はそう言ってけらけら笑った。

「具も食べたかったけど、先輩がさり気なく手で牽制してたから、ああ、ヤバいのかなあって。具は不味かったですか?」

「いや、うまかったよ。でも味が濃いから、体重ないときはきついかと思って。」

「そうなんだ。また食べられる機会があるといいな~。」

「…明日、いれば、食べられるよ…?」

 陽介が遠慮しつつ言うと、春季は少し目を細めた。

「…そりゃ無理ですよ。もう少しかかるし。」

「…」

 陽介はその答をきいて、少し沈んだ。

「…先輩どうしたんですか、すっかり可愛くなっちゃって。変ですよ。」

「…変かな。」

「別にかまわないけど、…でもいつもと違いますよ。」

 変だとしたら、それはここの滞在時間を、一人でしかもただ待つことだけで埋めるのが苦痛に感じられるからだ。けれどもそんなことを春季に言っても仕方がない。

 春季は食べ物の袋を片付け、酒を垂らして魚くさくなった手を丁寧にタオルで拭った。盃にのこった酒を飲み干し、また瓶からついだ。

「…それに…聞かないんですか?昨夜のことは。」

「…」

 陽介は困惑した。

 昨日の夜、春季の姿をした人物が陽介の布団にはいたし、枕の向う側には白い猫が眠っていた。

 どうなっていたのかは勿論ききたい。だが白猫だった春季が感知しない場所で、春季の顔をした別人と寝ていたということなら、陽介の立場は大変まずいのではないだろうか。

 困っているのがあからさまに態度に出たらしく、春季は面白そうに少しにやにやした。

「…春季、人が悪いぞ。」

「…僕正直さっきまで知らなかったんですよ、そういうことになっていたとは…。でも体にもどってきたら、記憶が体のほうには残ってて。」

「…だって春季だと思ったんだよ。…そりゃ途中でちょっと春季っぽくなくておかしいなあとは思ったけどさ…でも見れば見るほど春季の顔だったし…。いや、わかった、本当のこと言うよ。気持ちよかったからちょっと変だとは思ったけど、最後までやっちゃった。すまん。このたびは…俺が悪うございました。ごめんなさい。」

 陽介はそう言うと、正座して手をつき、頭を下げた。

 春季はプッと笑って、陽介に顔を上げさせた。

「…まあ、そこんとこはしょうがない。先輩は僕と寝たんだし。僕はそりゃちょっと面白くないけど、でも先輩が裏切ったとかそういう話ではないですから…。ただ…。」

 陽介は大人しく正座したまま次の言葉を待った。

「…ほかにないですか?」

「…俺がそそのかしたってわけじゃないよ?」

「それはわかってますよ。そうじゃなくて…」

「…翠さんの勘違いだよ。」

「…そんな答えであとで後悔しないですか?」

「…あの勾玉だけどね、色々効果があるらしいよ。ここんちの家宝で…例えば底値まで行った体力値をあげたりとか、いろいろあるらしいよ?だってほら、あんなに頑張っても俺もおまえも翌日に残らなかったじゃない?」

「ふうん。」

「…人の話を聞けよ。」

「うーん」春季は首を傾げた。「…じゃ、体にきいてみよう。」

「えっ?!」

 驚く陽介にサッと近付いて、春季は陽介のわきに手を入れるとぐいと持ち上げた。

「よいしょ。」

 愛嬌のある声からは想像もつかない怪力で陽介をずるずる布団までひきずると、こてん、と転がした。

「…っこらしょっと。」

「は…春季、あの…」

「…脱いで脱いで。僕また早朝出勤ですから。ユウさんたちより早いですよ。」

「だって、春季、いいの?…」

「…昨日彼に言われたでしょ。あれは娘らの修行の邪魔すなって意味だって。」

「あの…でも春季…春季俺のほうもまだお前にききたいことが…」

 春季は電気をけしかけた手を止めた。

「…なんですか?」

「…翠さん、手くせ悪いんだって。…お前、どっかで…誰かを食ってない?」

 春季は突然の逆襲にパチクリと瞬きした。

 それから少し天井のほうを見た。

 陽介が黙ってじっと返答を待っていると、春季は陽介の顔を見てにっこり笑い……答えなかった。

「それより今は先輩を美味しくいただきたいなあ。」

「…今あまりにもしらじらしいごまかし方、したよな?」

「いえ、してませんよ。」

 …やったにしても僕じゃありませんからねえ、まあ儲けたってことで…と、顔が言っている。

 更に何か言おうとした陽介を無視して春季は電気を消した。それから言った。

「…なんだ、黒沼でいつきさんの足の陰からなに見てたのかって聞かれるかと思ったのに。それか、ナオトと翠さんの関係のことかと思ったのに。」

「春季、その話題は電気をつけてから口にしてくれ。…電気つけろよ。月島さんのことは、若い頃翠さんがらみで友達になんかあったらしいとは聞いてる。それより黒沼で何見てたんだ。」

 春季はくすくす笑っただけだった。

 それからいつもの春季らしい、猫のような無邪気さと可愛さで、陽介に抱き着いてごろりと転がった。春季を抱きとめて、陽介は明日の沢登りを決意した。


+++

 いつきが仕事をすべて終えて自分の部屋に戻ると、ユウが勝手に二人分の布団を敷き、大の字になってひっくり返っていた。装束はすでに脱いで、浴衣を着ていた。

「…お疲れさん。」

 いつきが隣にすわると、ユウはほにゃほにゃと言った。

「…あー…オマエもね。…へばっていられないわ、明日は遠い地区まわらなくちゃだし…。でもいいのよ、あたしは一日慎二さんと二人で、けっこうデート気分なんだ。慎二さんのんびりしてるみたいに見えるだろうけど、けっこうこまやかな人なの。音楽ディスクとか一日分選んできてくれたり…食べ物とかだって…飲み物も何種類かもってきてくれてた…」

 ユウはそう言ってのろけつつ、のろのろ起き上がり、目をこすった。

「…でも月島叔父は大変だったでしょ。ケンカした?」

「しないよ。別に、美味しい御飯いっぱいもってきてくれて、いい人じゃん?手こずってた『くるん』てまわるトコも息継ぎと足の位置教えてくれたよ。」

「あら意外だわあ。あんた絶対あの親父とケンカすると思った。…さしでがましくて、説教くさいでしょ。…あの性格と、御近所付き合いの下手さのせいで奥さんと息子に逃げられたのよ。…まあ、うちの静と別の道筋で似た結果ってわけ。いつか事故死か自殺するわよ、あいつ。くくく。」

「…あ、そ。」

 せっかく無理して取り繕ったのだが、ユウが糞味噌に言うので、いつきは困って頭を掻いた。ユウはぷっと笑った。

「でもケンカしなかったのは偉い。修行の成果かな?」

「…ありがと。」

 いつきが口をヘの字に曲げて応えると、ユウもひとしきり笑ったあと、ためいきをついた。

「…婆がね、昔からかわいがってんの。…ほら、あの人の家も、お父さんが他所の人だからね。ヨソモノの痛みがわかっちゃうんじゃないかな、婆は。」

「なんか事情のある家だったんだ?月島家は。」

 いつきがたずねると、ユウはうーん、といってこたえた。

「…どっかの立派な一族で、ナオトさんの爺さんにあたる人は、氏神祭ってたらしいよ。普通本家がやるけどね、月島のうちは違ったらしいよ。でかい一家で、祭る係が世襲制っていうか、もうどこの分家がやるって決まってたみたい。…耐えられなくなって、逃げてきたんだって。」

 意外な家系史だった。

「え、そうなの?それじゃ…」

「そ。うちとか、あんたとこと似たような感じ。」

 耐えきれなくなったというのは…一体なんなのだろう。いつきの脳裏を一瞬横切ったのは、春季や小夜の顔だった。尾藤の家庭は小さな宗教団体の内側にあり、春季も小夜もとくに今年に入ってから大変な思いをしている。

「…耐えきれなくなったって…どういう意味?」

 いつきはたずねたが、ユウは首を振った。

「…しらない。でも月島んちのお爺は…ってもう死んじゃったナオト叔父のお父さんね…逃げてきたんだって言ってた。ナオト叔父と違って、爺はいい人だったよ。優しくってさ、物静かで、いつも静かににこにこしてたなあ…。頭もよくてさ、物知りで、なにより紳士だったよ。」

 そう話すユウは懐かしそうだった。

 いつきは気にかかったので、またたずねてみた。

「…流れてきて、仕事は何してたの?」

「…古武道教えてたよ。あと、骨接ぎができたから、けっこう重宝されてた。」

「骨接ぎって…関節はめたりとかってことだよね?古武道って? 」

「うーん、武道は武道なんだけど…。有名な流派とは別の地味な流派が極東にはいろいろ伝わってンの。一子相伝門外不出とかいうのもあんのよ。そういうのの一つだと思う。剣術の類いじゃなくて、空手とか柔道の類い。だからあの親子けっこう舞も上手かったんさ。武道やってると、舞は上手いのねなぜか。あんたの上達が早かったのも、ケンカ拳法のせいだと思うし。

 …ナオト叔父は穏やかで辛抱強い自分の父親が歯がゆくてイヤだったらしいよ。それでああいう対照的な人物になっちゃったわけ。」

「叔父って…叔父なの?」

「ちがうけど、うちではなんとなく叔父って呼んだりもする。」

「お父さんと仲よかったの?兄弟っぽく。」

「悪くはなかったと思う。ケンカばっかしてたけど。ほら、ナオト叔父がさ、婆のことを母とも叔母とも慕っていたから、いろいろ衝突したのよ。でも、嫌いあってたわけじゃないみたいだよ。ここ一番のときはあうんの呼吸があったみたい。行事とかになると黙々と手伝ってくれたのさ、昔っから。

 それに、ナオト叔父は、なんてーか、あの性格にしてはびっくりだけど、あの静のこと、妙に信じてたというか手放しというか普通扱いというか、なんて言えばいいの?『静?べつにあたりまえだろ。まあ変ちゃあ変だがな。それが何だ。』って不思議そうに言われたことがあるんだけど…。…まあ、幼馴染みたいなもんだしね、慣れてたのかも。

 しかしだからといってベタベタな仲ってわけでもなくて、静が死んだときは『あっそ。じゃ明日葬祭ね。車出すよ。』みたい感じだった。

 むしろ田中センセイのほうが静とはベタベタだったわあ。静も田中センセイのことほのかに好きみたいだったし。田中センセイは静が死んだときも、人目をしのんで、どっかの部屋のすみっこで、一人で泣いてたね。…そういう人だからなんとなく追い出しにくいのよ。うちで静が死んだとき、泣いた人って他にいなかったから。」

「まってまって。…ということは慎二さんちのおじじと月島さんは…」

「ライバル。」

「やっぱり…。」

「でもほら、慎二さんちの爺と、月島の爺とは、別に普通だったからさ。それに、歳がちがうから、オナト叔父が一方的にかみついてた感じじゃないかな。あたしが物心ついたころにはすでにけんかはしなくなってたよ。」

 ついでだから聞いてみた。

「…月島さんち、お母さんは…?」

 ユウはちょっと口をとがらせたが、答えてくれた。

「うん、ここいらの人だったんだけど、早くに亡くなっちゃった。…まあなんてーか、呪い殺されたんじゃないかって婆は言ってる。」

「呪い殺された?!」

「…まあ、婆が言うんだから、シャレじゃないと思うよ。月島の爺は優しくてモテたからね、二枚目だったし痴情のもつれかな…。くわしくはあたしは知らない。

 …ナオト叔父はとにかくそんなで…若い頃は大変で…大変だったから、いろいろ修行とかもしてたらしい。静もよくナオト叔父のことは殴ってたらしいね。殴る以外にどーしようもない状態になっちゃうときがあったらしいのよ、あの人。まああのか弱い静が、よくやったと思うわ。おかげさまで、ナオト叔父は文句たれたれわたしの言うこともきいてくれるってわけ。」

 …グレてて更正かけられてた、という意味なのだろうか。いつきはなんとなく自分の弟と父親のことを思い出していやな気分になった。ユウは続けた。

「…一旦外に出て、今は安定したけどね。あれでも随分ましになったんだよ。しばらくエリアのほうにいたらしい。3年くらいかなあ。そのときの上司が懐深い人だったような話、誰かからきいたわさ。…確か修行んとき知合った武術関係のどなたかのつてでナントカ先生とかいう代議士のところで秘書に入って…そのあとその先生の紹介で今の仕事についたはず。そのへん詳しく知らないんさね、あたしは。」

 …それは陽介の父親絡みの話かもしれない。

 いつきが勝手に納得していると、ユウは一回伸びをしてから、ごろりと横になって、ぶつぶつ言った。

「…昔ね、オナト叔父がすごく美しい女の人をつれてここへ来たことがあるの。ほんとに、みたこともないようなきれいな人で…わたしびっくりしてさ…。すごくいい着物きていて、ああどこかのお姫さまみたいな人なんだなって…。絹の着物がとっても柔らかくて…さわったらお母さんに叱られた。そしたら、いいのよ、女の子なんですもの、着物好きですよねえ、…って。優しい声だったな。…あのころはまだうちもお母さんがいたの。あのひとだれだったんだろう。しばらく、うちにいたんさ。子供もつれてたな。」

 あ、といつきは思った。それは陽介親子に違いない。ユウはちゃんと覚えていたのだ。

「…たしか女の子で、ようちゃん…だから、ヨーコって子だったと思う。」

 …いつきはあやうく床に顔面をうつところだった。ユウは気がつかずに続けた。

「…歳はあたしや藍ちゃんと同じくらいだったけど、小さくて細い子で、すぐ風邪ひいて、大変だった。でも、泣かない子だし、なんにも喋らなくて…。多分、口のきけない子だったんじゃないかな。

 うち、たまに出るじゃない?…ほら、翠さんもそうだけどさいろいろと…。見るとびっくりしちゃうじゃない?よく青くなってそこいらで震えてた。それでもやっぱり泣かない子でさ、何見たって聞いても、涙ぐんで首をふるばっかりで…。

 変わった子だったなあ。静になついてたよ。でも静も子供に懐かれるなんて、生まれて初めてでしょ?あたしや藍ちゃんは全然なつかなかったし。どうしたらいいかわかんなかったみたいね。ふふふ、結局、一生懸命、お神楽教えてた。

 その子、静に可愛がられたくて、すごく一生懸命練習してたよ。ちゃーんとお母さんの目盗んでさ。やっぱり子供ってお母さん大事じゃない。だから、浮気してる気分だったんだろうね。静、嬉しかったんだね、本当は本番以外では絶対に出さない童子舞の衣をだしてさ、赤と黄緑と空色、いつも代わる代わる貸してやって。

 静は意気地なしだからさ、お母さんのほうに衣渡してね、なんとかばらそうとしてたんだけど、そのお母さんがまたトボケた人で全然気付かなくってさ…。きっと優雅に暮してる人だったんだよ。うちのお母さん、御飯の炊き方おしえてた。最初のうちは着物も一人で着られなくてさ、洋服着ようとしてたから、あたしが和服の着付おしえてあげたの。だって、和服がすごく素敵だったんだもん。そしたらありがとうってなでてくれたなあ。そのうち子供にも自分で和服着せられるようになってたよ。子供は空色のが似合ってたな。お神楽もしまいにゃ随分うまくなっちゃって。可愛い子だったと思う。あたしはよく覚えてないけど、みんな、お母さんにそっくりだって言ってた。…帰るときだけ、泣いてたな。あたし、見送りにいかなかった。前日にケンカしちゃったんだ。だってその子、静をかばうんだもん…何さ二人して…あたしが悪者になっちゃったじゃないかよ…。ようちゃんなんか…いつも屋敷で迷子になってわたしがみつけるまで青くなって震えてたくせに…わたしがいなきゃ台所も見つけられなかったくせに…」

 …どおりで陽介の今と昔がむすびつかないはずだ。ユウは陽介を女の子だと思っていたのだ。

「あのさ、ユウ、その子のことなんだけど…て、あれ??」

 大急ぎで説明しようとしたいつきの隣で、ユウは疲れ果ててぐっすり眠りこんでいた。

 いつきはしばらく口を開けて呆れていたが、仕方ないので電気を消した。

 自分も明日、また一人で留守番だ。そう、動くのは女だけ、つまり自分だけなのだ。ほかの連中は、ただいるだけ。…早く寝たほうがいい。

 それにしても、陽介とユウは奇妙な縁だと思った。


+++

 翌朝は前日より遥かにバタバタと、ユウとおばあちゃんは車で出かけていった。

 寝ぼけまなこのいつきの前には大量の洗濯物が残されていた。肌じゅばんの洗い方など見当もつかない。幸い衿等はきれいだったので、ネットに入れてテキトーに洗うことにした。

 洗濯物の仕分けをしていると、テディベアを抱える子供のような足取りで、大猫を抱いた陽介がぼけーーーーーっと通りかかった。しばらくいつきがぼやぼやと衣装を投げているのを見ていたが、やがてぼそっと言った。

「洗濯すんの?」

 いつきは「ウン」とだけ言った。

 すると、

「…俺も洗濯しようかな。月島さんが来る前に、終わるよな、きっと。」

と言った。

 いつきが見上げると、陽介はぼけーっと引き返しながら、「わりぃ、3分待ってて。」と言った。

 そしてきっかり3分で、猫の代わりに洗濯物を抱えてもどってきた。…昨日春季が着ていた泥んこの服や、山にのぼってきたとき着ていたシャツなどが、シーツやタオルに紛れて見えた。猫はどこかではぐれたのか、ついてこなかった。

 いつきは洗濯物を篭に入れなおして、陽介を連れて沢に下りた。男衆や客が水浴びに使っているところをとおりこして、少しおりた所だった。

「…いつも自分であらってんの?」

「家ではたまに。…旅行中は春季がやってくれてた。俺がトロいかららしい。つーか、ほんとはホテルに頼めばタダで、俺はそれでよかったんだったけど、トランクスとか靴下は恥ずかしいでしょー、と春季が。」

「…プ。」

「…笑うな。…ここってアイロンあんの?」

「あるよ。」

「じゃ遠慮なく洗おう。」

「アイロンなんて高等技術、使えんのあんた。」

「…わかんない。でもシャツくらいならなんとかできそうじゃねえ?パンツは形状記憶だろ、多分。」

 二人は流れに衣類を広げて、一枚ずつ丁寧にあらった。洗剤は使用禁止なので、米ぬかを少しだけ使ったりした。…使わないよりは多少マシ、という感じだったが、春季の泥服以外はそんなにひどく汚れているわけでもない、充分ではないが、なんとか足りた。

「…ブラシがあるよ。春季ちゃんのシャツこれでやってみ。」

「んあ。」

 いつきはブラシを陽介にやって、自分は何枚もあるシーツを川にさらした。ついでに陽介がもってきていたシーツをひっぱりだして一緒に川につっこむと、なんとなく陽介がすまなそうな顔をした。あっ、こいつ、といつきは思った。これはつっこんでやらなくてはなるまい! いつきはちょっとわくわくして言った。

「…エッチしたろ、陽介。」

 陽介はガクリと頭を垂れた。

「…すまん。」

「悪いやつ! 神社でそんなことしやがってえ!…キャハハ!」

 いつきは思いっきり笑うと、足で陽介にぴんぴんと水をひっかけてやった。

「謝ってるだろ!!」

「心配すんなって。うちのおかーちゃんなんか、男子禁制の結界やぶっておとーちゃんと子供つくったし。神様はほんとはそゆとこ鷹揚なのよ。H禁止は人間の都合だって。」

「って、おまえんち、その後大変なことになってるじゃねーか!! バチあたったんじゃねーだろうな?!」

「なにさー、許してやってンのにそゆこと言うわけ。はいはいうちは罰当たりな家庭ですよ。おかーちゃんはH好きの不良だしおとーちゃんは巫女さんに手ェだすようなならず者ですとも。それからなに?うちは穢れた血ですけど、それがなにか。」

「…」

 陽介はそれを聞くと黙った。さすがに悪かったと思ったようだ。悪かったと思ってるなら別にいい。いつきは洗濯作業に戻った。

 陽介はブラシを石に載せて、はー…と弱々しくため息をついた。見ると、手が真っ赤になってちょっと震えている。水がつめたくて、洗濯にくじけているのだ。いつきは心の中で苦笑した。か弱い男だなあ、と思った。

「なにため息ついてんのよ。新婚さんの憂鬱とか?」

 シーツはたくさんあるので流れないように、上にもどかどか石を置いた。そうしておいてから浅瀬の石の上で、くしゃくしゃとまとめて、裸足の足でぎゅうぎゅう踏み付けた。 

「何だよ新婚さんの憂鬱って…。」

「…んー、そうね、幸せな寝不足とかさ。あるいは逆に…やってみたら相手の思わぬ一面を見てしまったとか。あと、相手が一方的で全然気持ちヨクナイとかさ~、どっちも女志望で男役がきまんないとか~」

「耳年増かおまえは。」

「耳年増というか、まあ、常識です。」

 陽介は額を押さえた。

「そうじゃなくて…春季がさあ、翠さん入ってるとき、どっかで…食ってるみたいなんだよね。」

 いつきはがばっと顔を上げた。

「そういうのってわかるもんなの?! 野郎同士で?!」  

「いや、…月島さんがさ、教えてくれたんだよ。翠さんて、そういう手癖の持ち主らしい。春季に昨日確かめたら案の定で…それで…まだ供物台のほうは、うまく行ってないらしいんだけど、もう春季を返してもらおうかと思ってンの。」

「…かえしてもらうって、どうやって。」

「なんかお願いできるとこがあるらしいんだ。ここの奥の院みてーなとこで。だから、俺今日、月島さんが来たら、そこ行ってくるから。」

「…えー…」

 いつきは返答に困った。

 陽介は不安そうな顔になってたずねた。

「…何かまずい?」

「…えー、そりゃ、勿論春季ちゃんは陽介の恋人だからさー、どっかで他の男と寝てるとなりゃ、ヤキモチやけるのはわかるけど…。でも、翠さんはついでにやらかしてるだけで、本題のほうはさ、供物台の処理してくれてるんでしょ…?途中でやめたら、まずくない?」

 陽介はムッとした様子だった。

「しらねーよ、俺達ただの旅行者で、ここの土地とは関係ないんだぜ。なんで春季の体貸してやんなきゃなんねーんだよ?」

「…えーと…まあ、そうだけどさ…。…でも、みんなの為に、一肌脱ぐって考えは、ないわけ?」

「関係ねーよ、なんで俺たちが…」

「関係なくはないでしょ、春季ちゃんから聞いたよ。あんた子供のころここでユウのおとーちゃんにすごく世話になったそうじゃない。」

 陽介はますます不機嫌になった。

「…あいつなんでそんなことお前にばらすんだよ。」

「…ユウのおとーちゃんにヤキモチやいてたからでしょ。あんたが中年好きなのくらい、あの子気付かないわけないし。あたしに言ったのは、他にしゃべれる相手がいなかったからじゃん。」

「しゃべれる相手がいないなら、だまってりゃいいんじゃねーの?」

「あたしに言ったって知らないわよ。」

 いつきもいささかムッとして答えた。

「だいたいあんたはねえ、ユウの親父を口説いたり、ユウの親父と徒党くんでユウを虐めたりするから、ユウみたいなおかっぱの女の子が怖くなったのよ。仕返しされるんじゃないかと心のどこかで思わずにいられないのよ!」

「俺がいつ水森の親父と組んで水森虐めたつーんだよ! いっとくけどなんの覚えもないからな! 水森の親父のことだって俺は何も思い出せねーんだよ! どんなに可愛がってもらったかしらねーが、何も思い出せねーんだよ!!」

「じゃあ神楽の練習でもしなさいよ思い出すから! あんたの体力じゃここの川で洗濯すんの土台無理! あたしの代わりに上行って奥の間で扇子でも回してな!」

 売り言葉に買い言葉で陽介から洗濯物を取り上げると、陽介もさすがに頭に血が昇ったらしく、そのまま勢い良く立ち上がって本当に行ってしまった。

 …余計なことをあまりにも言いすぎた、それに、黒沼の手の件が話せなかった、といつきは後悔したが、後の祭りだった。


+++

 陽介が大股で土間に引き返すと、ちょうど月島がやってきたところだった。

「…おはよう。どうした、怖い顔して。」

 陽介は月島の顔を見るとなぜかじわーっと涙ぐんでしまい、しかたないのでそのまま抱き着いた。月島もなんとなく、仕方なく抱きとめたかっこうだ。陽介の手が冷たかったのだろう、月島は言った。

「…沢へ行ってたのかい?水浴び?」

「…洗濯です。」

「洗濯なんざ女どもにやらせておけよ。…あーあー、こんなに冷たくしちゃって…。震えてるじゃないか。」

 月島はそう言って、陽介の指先を軽く握った。…あたたかい。

 陽介はそれでなんとなく落ち着き、月島から身を離した。月島は陽介の肩を軽く抱き、方向を修正して、廊下を歩き始めた。

 落ち着いて見ると、月島はどうも徹夜明けの風情だった。しかも何となく酒くさい。昨日夜中に誰かと会った、というのはどうやら本当らしかった。

「…月島さん、今日、沢にのぼろうかと思います。」

 陽介が言うと、月島は陽介の顔を見てちょっと考えた。そして言った。

「…そのつもりだったが、これはちょっとね。」

 と、陽介のまだ冷たく痛む指先をつまみあげた。

「温まってからにしたほうがいい。死ぬほど冷たい目に会うから。…どこかの部屋でしばらく毛布にくるまってたらいいんじゃないかな?」

 …考えてみればその通りだ。陽介は黙ってうなづいた。

 陽介は自分が借りている部屋に月島を連れて行った。…猫はいない。田中のところかな、と陽介は思った。

「…ここの部屋にいるのか。」

 月島はぼそりと言って、押し入れから毛布をひっぱりだした。そして陽介に着せかけてくれた。

「…ここの部屋、昔夢見が悪かったそうですね…」

 陽介が言うと、月島はこたえた。

「…悪かったというか、良過ぎたというか。微妙だな。わたしも変な夢をみたことがあるよ。」

「…どんな夢ですか。」

 月島は少しだまっていたが、やがてぼそりと言った。

「…慎二くんになる夢を見た。あとで確認したら、わたしはどうも慎二くんの目から慎二くんの現実を見ていたらしいんだ。」

「…へえ。」

「慎二くんも逆はあったらしい。静が生きていたころはそういうことはなかったんだが…。」

「どうして慎二さんと?」

「うーん、…神社のことには熱中するからな、私も慎二君も。」

 …それにしたっておかしな取り合わせだった。

「…そんなこと言って、本当は二人は深い仲だったりして。」

 陽介がからかうように言うと、月島は吹いた。

「慎二とかい?! そりゃあ…まだしも田中と、のほうがいくらか風情があると言ってもいいくらいだな!」

「田中さんはタケトさんと深い仲でしょう。」

「はーっはっはっはやめてくれよ、ようちゃん、ひー。」

 …月島が本気で笑うのを陽介はこのとき初めて見た。…こんなに大ウケしてもらえるとは。もっと早く言ってみればよかった。

 ついでに言ってみた。

「…でもタケトさん田中さんの胸とかオサワリしてましたよ。田中さんもなーんかベタベタしてたし。タケトさんは俺田中さんすきよーとか言ってたし。」

「あの胸にさわってどうしたいんだ、タケトは。つまみたいのか?」

「つまんでどうするんですか。」

「俺がきいてるんだよ。」

「しりませんけど。」 

 思いのほかに月島が喜んでくれたので、陽介はちょっと気分が良くなった。 

 …いつきとケンカするのはいつものことだ。だが自分といつきの間には友情とか信頼とかいったものがあると思っていた。まさかちょっと出てきた水森ユウなどにひっくりかえされるとは思わなかった。

 静に愛されていたのをいいことに、父親とうまくいっていなかった女の子を虐めたなどと言われたのは、陽介にとってはこのうえもなく不名誉なことだった。それがほかの誰かならまだしも、いつきに言われるのだけは絶対にいやだった。なんとか違うんだと証明してみせたかった。けれども、陽介は静やユウのことを本当に何もおぼえていないのだ。

 でも違う、俺は絶対にそんなことしない、陽介はそう思った。

「…ねえ、月島さん?」

「なに。」

 まだなんとなく冗談の余韻の中にいた月島だったが、陽介が呼び掛けると、いつものようすにすぐに戻った。

「…俺、子供のとき、ここにいて…もしかして、ユウさんのこと、虐めてました?」

 すると月島は呆れて言った。

「ようちゃんが?…逆だろ、藍とユウとできみをからかって遊んでたよ。歳は同じだが、きみは彼女らより二回りほど小さかったんだ。子供のころは女の子のほうがでかいからね。あいつらきみに女の子の服着せたりして、かわいいわねーとか言って頭に花を飾ったりしていたぞ。ひな祭りのままごと道具ひっぱりだしてきてきみにもたせて使用人役させたり、踊り子役させて下手くそ下手くそ言って尺で打ったりしてた。きみのお母さんに言ったら、あら、かわいいからいいじゃないですか、本当になかよくしていただいて、とかアホなこと言い出したから、滞在の終り頃わたしが静に厳重注意した。静のやつさすがに平謝りだったよ。」

 陽介はあいた口がふさがらなかった。その気分を一言で言うなら、「…女どもーーー!!」…だった。

 月島は眉毛を上げて額に皺をよせて、口はヘの字にして言った。

「どうした、ユウちゃんに何か言われたのかい?」

 陽介は眉をひそめて言った。

「…あいつ、いつきに何か吹き込んでるらしいです。」

「…いつきちゃんは、カノジョなの?」

「違いますけど。」

「違うよねえ。さすがに尾藤くんといつきちゃんを二股かけてるというなら、私でも驚く。」

 陽介はそれをきいて、思わず赤くなった。

「えっ…え、俺、春季のこと月島さんにいいました?!」

 月島は首を横にふった。

「…いや言わない。」

「…なんでわかったんですか?」

「何でといわれてもな。…なんとなく。」

 月島は不機嫌そうにそう言った。

 月島のカンがいいのか、自分が間抜けなのか、陽介は悩んだ。

 そう言えば…と、思い出したことがあった。月島は、いつきのパンを食べていつきの母親の出身地を言い当てていたな、と。

「月島さんて、カンいいの?それとも俺がわかりやすすぎですか?」

「…いやわかりやすすぎというか…あのお母さんの息子だから、とぼけてはいると思うけどね。」

「月島さん、ちょっと怪しい。」

 陽介が口をとがらせて言うと、月島はますます不機嫌そうに眉をひそめた。

「どういう意味だ?」

「…アフリカに視察行ったことなんかないでしょ。なんでいつきのおふくろさんの出身地言い当てたりできたんですか?」

「…くだらないことつべこべ言うな。」

 吐き捨てるような言い方だった。陽介は一瞬びくっとした。

 その陽介の様子を見ると、月島はため息をついて、陽介の頭をなでなでした。そしてまるで「あーもー泣かないで~頼むから~」と言わんばかりの態度で言った。

「…わかったわかった、私はね、行をつんだから少しだけ神通力ってやつがあるんだよ。せいぜいこの子ザンベジ川みたことあるな、とか、そういうことがほんのりわかったりって程度だけどね。…おばあちゃんらに比べたら、全く俗人の範疇。」

「え…行って…?」

「…うん、山奥を歩き回ったり、…そういうのだよ。…そうそう、ようちゃん樋口知ってるだろ。お父さんと同郷の。」

 樋口は居合の道場をやっている男で、陽介の父とは古い知己だ。陽介も月に3回以上、樋口のところへ行くように父親から言われている。おかげさまで日本刀で人を切るときのやり方などはよく知っているし、藁束ならざすっと切れるようになった。人体で実践したことは勿論ない。樋口には「…陽介はセンスは悪くない。ですが本当に強くなりたければまず手始めに一日10キロ走りなさい。センスだけでは、敵には勝てない。」と言われている。…つまり、あまり強くない。

「…はい、知ってます。」

「あいつとはさるお山の奥駆で知合った。同じ先達に導いてもらって修行してたんだ。」

「え、奥駆って…修験?!」

「…そう。でも本職じゃない。出家せずに、頼んで修行だけさせてもらってたんだ、お金払って。まあ、カルチャースクールのすさまじいやつとでも思ってくれれば。樋口も山岳修行に興味があって参加してたらしい。あいつとは色々話が合うというか、…それでようちゃんちのお父さんのところの職、紹介してもらったわけ。」

「…修行するとひとの出身地とかほんのりわかるようになるんですか?」

「…本気にしないでくれよ?」

 …その目の逸らし方が、なかなか微妙だった。嘘だと口では言っているが、本当なのかもしれなかった。陽介は少し焦れた。少なくとも樋口と知合いなのは本当だろう。だとすると、修行へ行ったのも本当だろうか?…では神通力は?

 月島はとぼけて言った。

「…ユウちゃんのことは、あまり気にしてもしょうがない。彼女自身がまだ静のことを整理できていないんだ。だからあちこちに恨みつらみが飛び火したりもするんだろう。友達とは、あとでゆっくり話しても遅くないさ。」

「…だといいけど。」

「ところで…ようちゃんは今年いくつになるんだっけ。」

「17です。」

「そうか…。早いなぁ。本当に、こんなに小さかったのになあ…」

 月島はそう言って、手で子供を抱く仕草をしてみせると、少し疲れたような顔で笑った。

 陽介は毛布にもこもことくるまって、月島のそばへ寄り、座りなおしてたずねた。

「…月島さん、俺、静さんに神楽おそわってたらしいんですけど、月島さんはそのことは知ってますか?」

「知らない。わたしはここにきみとずっと一緒にいたわけじゃないからな。たまに様子をみにきていただけだ。浩一くんのことであのときはバタバタしていたから…。だが、静なら誰に神楽を教えていても不思議はないよ。…少しは覚えてるかい?」

「あいにく全然です。」

「ふうん。昨日目木くんの見てても思い出さなかった?」

「はい。」

「…やってみる?体も温まって、ちょうどいいかもしれない。」

 月島は興が乗ったらしく、陽介は毛布を着たまま立たされて、足幅を指示された。少し気合をいれて立つと、別に姿勢はなおされなかった。

「…ちゃんと立てるんじゃないか。樋口のとこで居合でもやってるのかい?」

 陽介が肯定すると、月島は「ふーん」と言って、少し感心した。

 それから月島は、正座して最初のほうを丁寧に教えてくれた。上半身は手ぶりで、足位置は畳を指で指して指示した。

 陽介は不思議なことに30分続けても、いつきほど汗をかかなかったし、筋肉もそれほど無理はなかった。月島にそれを言ってみると、月島は笑った。

「馬鹿だな、女の筋肉と比べるなよ。あの子は確かにかなり鍛えてる子だが、ようちゃんは一応体が型を覚える程度には武道をやってる男だぞ。」

 陽介は月島に、運動は何一ついつきに勝てない、走るのもだめだし、あったばかりのころ、殴り合いにならないばかりか抵抗する余地もなく一方的にボコられたこともある、と言ったところ、月島は眉をひそめた。

「…そうだな、ケンカは場数だ。型ではないからね。なんともひどい女だな。…しかしそれにしても、一体なんでそんな盛大な掴み合いになったんだい。」

「…なんでだろ。なんとなくかな。覚えてないや。」

「…そりゃまた、仲がいいんだな。明日にでも結婚できるぞ。」

「…冗談やめて下さい。そんな暴力家庭ごめんですよ。…すぐ怒鳴りあいになるんです、あいつ人の気持ちわからないし、言いたい放題だし、すぐカッとするから。女とか男以前に、人間として却下です。」

 月島は苦笑した。陽介がさっき涙ぐんでいた理由に、思い当たったようだった。

「…でもだらしなくはないんだろ?昨日そう言ってかばっていた。」

「…」

「…日本の武道の型がどれかできれば、ここの神楽の型はそれほど難しくはないんだよ。ここの神楽は昔は男が刀もって踊ってたものだし。使う筋肉が鍛えてる筋肉と同じなんだろう。」

 月島は軽く話題を修正して、立ち上がった。

「でもけっこうやれるな、きみは。頭では忘れても、体は覚えてるのかもしれない。沢を下りてきたら、目木くんの稽古を手伝ってやりなさい。思い出せなくても、すぐまた習得できる可能性が高い。30分で1/4終わった。」

 そして陽介の毛布をはがすと、畳んで押し入れにしまった。

「…温まったなら、行こうか。」

 陽介はうなづいた。


+++

 陽介は月島に連れられて、庭からハイキングコースへ出た。山の空は曇っていたが、ここにしては、良い天気の部類だった。月島は非常に軽い足取りで、陽介の前をさーっと歩いて行く。それほど急いでいるようには見えなかったが、ついてゆくのに難儀した。

 田中が昨日まわしてくれた地図を頭の中で展開しながら進んだ。この道の先には春季の体がいるのだな、と思うと、なんとなく不思議だった。そういえば猫に声をかけずにきてしまった。少し心配になったが、春季のことだ、自分でちゃんとしていることだろう。…猫の「ちゃんと」とは、つまり、昼寝したり毛づくろいしたり、いつきの邪魔をして洗濯物に足跡をつけたり、田中のノートの上に仰向けにひっくりかえって邪魔したり、ということだ。まあそんなふうにしているだろう。…そう思うとなんとなく寂しくなった。陽介は自分が猫から必要とされていない、と感じると、いつも寂しくなる。

 小走りに追いかけながら、陽介は前を軽やかに歩く月島の名前を呼んだ。何だ、と月島がこたえた。

「…月島さん、いつきに言われたんです。翠さんは、そりゃ道草を食ってるかもしれないけれど、本筋は供物台の件なんだから、今、少しだけみんなのために、俺が我慢することはできないのかって。」

「…」

 月島は一瞥くれただけで、立ち止まりもしなかった。陽介は必死で追いかけた。おいかけながら、月島が返事をくれるのを待った。その歩みはあまりにも速く、陽介はあっというまに汗びっしょりになった。月島はまったくもって涼しげに歩いている。徹夜あけの二日酔いのくせに、だ。

「…月島さん! 待ってください!」

「…」

 陽介がひーひー言ってるのを聞いて、月島は黙って少し立ち止まった。だが陽介が追いつくと、すぐにまた歩き出した。

 答がないまましばらく進むと、すぐに最初の沢についた。神社が言うところの一の沢だ。陽介は愕然とした。ここまでで15キロのうちの5キロくらいはあるのだ。…時計こそないが、ものの数分しかかかっていない気がする。恐ろしいスピードだった。橋を渡る手前で月島はまたたちどまり、陽介が追いつくのを待った。

「…少し止まりなさい。」

 月島は落ち着いた声で言った。陽介とちがって息の乱れはまったくない。

「…ようちゃん、田舎では、気をつけていないと、簡単に殺されてしまうよ。」

 月島が突然そんなことを言ったので、陽介はびっくりして、青くなった。月島はうんうん、とうなづいて、こう付け足した。

「…いや、別にナタで襲われるとかそういった意味ではないんだ。…そうではなくて、…生活が大変だから、お互いに助け合って生きているじゃないか。みなぎりぎりのところでやってる。だから何かイレギュラーな出来事が起こると、誰かが無理をしなくちゃならないんだ。…そう、だれかが。」

 陽介は月島を見上げた。月島は言った。

「…だが、個人は共同体のために犠牲にされてはならない。人間のために社会制度があるのであって、社会制度を支えるために人間があるのではないからだ。」

 月島は更に言った。

「…たとえド田舎でもその理屈を押し通すんだよ、ようちゃん。たとえ神様相手だろうが、それを、頑に、叫び通すんだ。そうしなければ、…正義やら自己犠牲やら、美しい響きの大儀のもとに、君の恋人は永久にきみからとりあげられてしまうことだろう。…下手をすれば、きみの乱暴者のポニーテイルのお友達もね。…誰かが無理をするのではいけないんだ。苦難は分散されなくてはならない。頑固にそう言い続けるんだ。それでかまわないんだ。正しいんだから。」

 陽介は迷った。迷いながら言った。

「…でも…もし、それが春季の体にしかできないことだったら…?…もし…耐えることが俺のすべきことだったら…」

「…耐えることがきみのすべきことだったら、きみは彼が中学生や高校生を誘惑して食いまくる色魔になっても耐えると言うのか?それが本当にみんなのためなのかい?」

「ちがいますね。」

「アホ言うのは休み休みにしてくれたまえ。」

「…すみません…。」

 月島は気をとりなおして橋から向こうを見て言った。

「…じゃ、ここからよく見なさい。ずっと向うに二つ目の橋が見えるだろう。あの橋とこの橋の間に、小さな脇道がある。獣道で見つけづらい。しめ縄を巻いたつつじの大木が目印になっているが、一般人は知らない。そこから山の下に向かって歩く。…道は急にカーブしていて、小川に出る。その小川を登る。少し増水しているかもしれないが、どうということもないだろう。しばらくゆくと、崖に段があるところへ出る。流れはその下から出てきている。その石の段を上がる。10段ほどで途切れる。そこに鎖がたれている。その鎖をつかんで、崖をのぼりなさい。」

 陽介は愕然とした。…無茶だ! 装備もなしにロッククライミングではないか!

「…小川まで送ろう。そこで君に、泉の方の名前を教える。ただその方の名前だけを唱えて、一心不乱に登りなさい。その方の名前以外のことを口にしたり考えたりしてはいけない。けっして気持ちを逸らさないように。…気持ちをそらさなければ、その方が引き上げてくださるので、すぐに上につく。かかっても精々10分ほどのはずだ。高いから気をつけたまえ。あとは昨日言ったとおりだ。尾藤くんをかえしてもらえるように、一生懸命たのみなさい。」

「…」陽介は呆然としていたが、話が途切れたので慌てて言った。「あの…じゃ、下りてくるまで待っててくださいますか?」

「待たない。…わたしは小川で君とわかれたらすぐに神社に引き返し、神社で待つよ。」

「でも帰り道が…」

「上から見ればわかるから、心配しなくていい。下手をしたらわたしの方がおそく戻ることになるだろう。…ほかに聞きたいことは?」

「…」

 陽介は我知らず情けない顔になった。すると月島は厳しく言った。

「ようちゃん、何を甘えているんだ。君はなんでも一人でできる。…わたしが甘やかしてしまったのかね?」

 陽介は慌てて気持ちをひきしめた。確かに、自分は月島に甘えている。

「…質問がないなら行こうか。この橋を越えたら、君はもう喋ってはいけない。また、橋を越えた後は目で見るより恐ろしく遠いけれども、わたしがさきほどのように少し引っぱってゆくから、頑張って遅れないようについてきなさい。大丈夫、きみはついてこられるよ。」

 月島はそういって、信頼をこめて陽介の肩を叩いた。陽介はぐっと口を引き結んだ。

 それから月島は不思議な仕草を陽介に教えてくれた。指を立ててサッサッと切るように手を動かし、そのとき息を細く鋭く吐く。陽介ができたのを確認してから、月島は先を歩きはじめた。

 橋を越えると、まったく昨日田中にいわれたとおりの不思議な空間が広がっていた。空気の匂いからしてまず違う。不思議な芳香、といっても良いのではないだろうか。温度・湿度は今まで歩いてきたところよりはやや高めだろうか。サラサラと鳴る沢の音の悪戯なのか、自分の足音があらぬほうから聞こえてくる。木々の緑がみっしりと深く、風は弱い。吹いてもそよ風といった感じだった。確かにだんだんと心地よくなっていった。目的以外は全て切って捨てろ、と田中は言っていたが、陽介は幸いなことに、ただ足速な月島のあとを追いかけてだけいればよかった。それ以外のことをする余裕などまったくなかった。下手をしたらすぐに月島を見失ってしまう。息が上がり、足が疲労した。それでも陽介は必死で月島の背中を追った。

 どれくらい歩いただろう。月島は一本の大木の前で立ち止まった。そして陽介がそばに来るまでまち、静かにその木の朽ちかけた古いしめ縄を指し示した。つつじだと月島は言っていたが、つつじは背の低い茂みをつくる植物だ。こんな大木になるなど、きいたことはなかった。

 そして月島は次の瞬間、木の向こう側に姿を消した。

 陽介は慌てた。思わず名前を呼びそうになったが、我慢して大木を回りこんだ。すると、月島の上着のすそが低木の葉陰に見えた気がした。陽介はいそいでその枝をくぐった。月島はそこにいた。そして、陽介の姿を確認すると、また歩き出した。

 道、と月島は言っていたが、陽介にはそこが道だとは到底思えなかった。下草が陽介の肩に達するほどの丈にまで伸びていて、著しく歩きにくかった。月島が踏み分けた足跡をすかさず踏まないと、どこに足をついたらいいかもわからないほどだった。しかししばらく歩くうちに、陽介は周囲がだんだん見えるようになってきた。周囲はさらに深い、低木の茂みで、細かな枝や蔓植物がからみあっていて、鉈か大きなナイフでもなければ入ってゆくのは不可能だった。とすると、確かにここは道なのだ。

 どれくらい歩いただろう。やがて月島は立ち止まった。陽介がはあはあ言いながら汗を袖口でぬぐい、見ると、月島の足下には50センチほどの幅の小川がさらさらと水音をたてていた。向こうは再び背丈ほどもあるかと思う程の雑草が茂っている。

 月島は、陽介の耳にひそひそと、日本の古い名前を囁いた。そして陽介を川の側に立たせ、自分は入れ代わって、もと来たほうへ立った。

 陽介が見上げると、月島はうなづいて、懐から小柄を取り出した。20センチほどのもので、鞘は漆のかかったきれいなものだった。それを陽介の懐に入れると、ついでに翡翠の勾玉を確認した。そして、もう一度うなづくと、小川の水が流れてきているほうを指差した。陽介はうなづきかえして口を結ぶと、冷たい川に踏み込んだ。

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