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Till you die.  作者: 一倉弓乃
14/41

13 BON-2

「えー! これは…パンていうか、ナン?…洒落てるねえ。」

「ま、あたしも本気だしゃざっとこんなもんよ。」

「や~、僕、この種類のパンは大好きなんだよね、トルティーヤとかも。まさかここで食べられるとはなあ~。」 

 昼食は、田中といつきらしからぬ、勢いのいいやり取りではじまった。

 フードをガツガツ食べていた白猫がびっくりして顔をあげた。「なんかあったの?」という顔でじっと二人を見た。

 …どうも妙なところに二人の妥協点があったらしい。というよりは、単に「反月島同盟」としてまとまっただけだったのかもしれないが…。

 猫はまた小鉢に顔をつっこんで、がつがつと食事を再開した。

 陽介は普段の奢れる美食家舌をこのときだけ放棄するつもりで昼食に手をつけた。かなり純和風なお膳の上に、ナンをのせた竹の葉(!)、青菜のスープ、細かく刻んだ野菜の醤油炒め・細かく切った豆腐の油炒め・細かく刻んだ豆と青い唐辛子のミソ炒めの三色の具ののった皿、竹のスプーンと、ハーブのお茶などが並ぶ、いつにもまして質素な、…というか奇妙な昼食だ。だが、食べてみるとまあまあうまかった。

「…うまいじゃん!」

「ま、食えるは食えるってかんじっしょ?」

「…かと思ってたけど、予想よりちゃんとうまいと思う。」

「そーか。じゃ、会心の出来だな。」

 いつきはにこにこ答えた。

「このマメの辛いやつが僕は美味しいよ。」

 珍しくタイムリーに適確な褒め言葉を田中が言った。いつきは応えた。

「やっぱりマメは辛いのがうまいよね~?」

「うんうん、ナンとかにはやっぱり辛い豆が合うと思うよ。」

 …つまり田中も本気をだせばざっとこんなものなのだろう。

 食事をとっとと終えた白猫が「なおーん」と寄ってきたので、陽介はナンの端を千切ってたべさせてやった。猫は一生懸命食べて、いつきのところへいくと、ずりずりと頭のうしろあたりをいつきの膝にすりつけた。…多分本当ならば、一番お口に合ったのは、春季のはずだっただろう。春季は陽介の家にきているときでも、塩分の強いものを好んで食べる。外でもチップスやチキンといったジャンク系のしょっぱいものが好きだ。しかし猫の体にこのパンチの効いた塩は危険だ。パンはともかく具は食べさせるわけにはいかなかった。…陽介の配慮など知ってか知らずか、いつきに耳の後ろをかりかりされて「うきゅー」な顔になっている。

 月島は別に誉めなかったが、文句もまた言うことなく、黙々と食べていた。この人こそよっぽど「奢れる美食家舌」をひっこめる努力をしているのかもしれない、と陽介は思った。それでなければ「物がない場所なのにこんなに調味料使って…」と説教したいのを一応我慢しているのかもしれない、とも思った。

 と、その月島が顔を上げたので、みな一瞬注目した。月島はいつきに言った。

「…目木くんは、どこで育ったんだい?日本じゃないだろう。」

 食べ物でわかったのかな、と陽介は思った。

 いつきは不自然ににっこりして共通語で応えた。

「ええ、実家はパリです。」

「…ちがうだろう。少なくとも大西洋よりインド洋のほうが近い場所のはずだ。」

 …そんなことまで、食べ物でわかるのだろうか、と陽介は少し不思議に思った。

 田中は黙っている。

 いつきはにっこりした。

「母はそういうところで育ったようです。」

「…こんなところに何を修業しにきているんだい。」

 まったくもって短刀直入だった。陽介はチラッといつきの顔を見た。

 いつきは笑顔を崩さなかった。

「…おそうじと水ごりです。」

「なんで。」

 追及はやまなかった。田中も黙ったままだ。陽介は何か言ったほうがいいだろうか、と思ったが、下手に口を挟むとあとでいつきにボコボコにされかねないので、もう少し様子をうかがうことにした。

「ムッシューの気を煩わせるような事情ではございませんわ。」

 いつきはわざと馬鹿丁寧に言ってにっこりした。すると月島は顔をしかめた。

「…とりあえず、そのオカマみたいな態度はやめてくれないか。」

 …陽介と田中が真っ青になったのは言うまでもない。一瞬出遅れた二人の前でいつきの手がのびてさっとお膳をひっぱった。

「…無理して食べなくていいよ。あんたの自由だ。」

 月島は素早くお膳をひっぱり返した。

「…まあ待ちなさい。誰も食えないほど不味いとはいってないさ。どうしてそう意固地になるんだ。もっと素直になれないのか。」

 月島のほうこそなぜこうもケンカを売るようなことを言ってしまうのか。不器用そうな田中のほうがよほど小器用なのだと悟ったものの、陽介はとっさには打つ手が思い付かなかった。

 するとそのとき猫がスッと立ち上がった。そして二人が引っぱりあうお膳の上から1/3ほど残っていたパンをくわえるなり、ぱーっと走って逃げた。いつきは目を丸くして短く叫んだ。

「あっ…!」

 一方、月島のほうは一瞬で顔が変わった。

「…この泥棒猫めが!」

 …本気で怒っている。そんなに怒るほど惜しいなら、なぜ「食えないほど不味いとはいっていない」などと回りくどい言い回しをするのか不思議なのだが、一応本当にちゃんと食べる気はあったし、けっこう美味いと思っていたらしい。…素直になれないのは一体誰なのか。

 そんな月島を小馬鹿にするように見て、猫は駆け上がった柱の上の横木にすわりこみ、ふふふーん♪とばかりにパンをかじった。

「貴様、恥を知れ!」

 月島は指をさして怒鳴ったものの、猫のほうはどこ吹く風。あたしゃ猫でござい、ニンゲン馬鹿ネー、とばかりにすましている。パンは両方の前足で獲物よろしくしっかりと押えこまれているようだ。…あれだけ猫の足に踏まれたら、ニンゲン様としてはさすがにもう食えないだろう。

 いつきはお膳から手を放し、しばらく横木の上の猫が嬉しそうに獲物を食い散らかすのをぼけらっと眺めていたが、その食べかすがぱらぱら畳に落ちてくると、困ったように瞬きしてかすを拾った。

「…これ、きれいにたべな。姐さんに掃除させるとは何事だい、あんた。」

 猫はそれには「ニャー」と甘えた声で応え、パンを全部食べてしまうと、満足そうに自分の手をぺろぺろ舐めた。


+++

 食事が終わると雨が降り始めた。

 いつもなら日がさす時刻になっても、その日はなぜか雨のままだった。

 月島と田中はそそくさとお互いを避け、田中は自分の滞在している部屋で仕事に入り、月島は奥の広間を占領してくつろいでいるようだった。

 おばあちゃんは、むしろ暗に今日は休みなさいと言っていったように思うのだが、いつきは毎日の仕事だからと言って、土間で乾燥させた薬草を処理していた。陰干しにしたものや日干しにしたものがあるとかで、乾燥させたものをぶつ切りにしたり、揉んだり、すり鉢ですったりしていた。いつきは故郷にいたときもそういう作業に携わったことがあるとかで、手慣れた様子だった。できあがった粉末のようなものを、湿気のつかない茶缶やらジャムのあき瓶やらにさらさら入れたり、大きなものは紙袋にいれて名前を書き、茶櫃にしまったりしていた。普段はこれにくわえて、採集の仕事もしているらしい。御苦労さまなことだった。

 白猫は飽きずにその作業に魅入っていたのだが、(というか自分ももみもみしたかったらしく、手を出してはいつきに叱られていた。)陽介は途中で退屈になって、「散歩してくるぁ。」といつきに一言残し、土間をたった。いつきは「うぇ。」と変な応答だけした。猫は預かってくれるつもりらしかった。

 広い母屋をあてもなくほっつき歩いていると、自分がいかに日々必死で暇を塗りつぶしてせかせか生きているかがよくわかった。そして、自分はこういう手持ち無沙汰な時間がどうやら苦手らしいことも気付いた。いつきもそうなのかもしれない。だからやらなくてもいい仕事を熱心にやったりするのだろう。

 閉った襖が延々と続く廊下をだらだら歩き、田中の部屋の前を通りかかった。田中は仕事に没頭しているようだ。そういえば入稿が近いと言っていた。陽介はそのまま通過した。

 母屋(?)は一つ一つの部屋はそれほど広くないのだが、数が多い上、一部、部屋を通路代わりにつっきらなくてはならないところがあったりするため、その構造をしっかりと把握するのは困難をきわめた。陽介には未だによくわからない場所も多い。

 そういう部分を把握するつもりで歩いてみたのだが、「ここだ」と襖をあけると、なぜかハズレ。「じゃこっちだな」と思ってあけてみるとそこは押し入れというか、物入れになっていたりする。「ここはまちがいなく通路の部屋だったはずだ」と自信をもってあけたら、累々と天井まで積まれた小麦の袋で部屋は塞がれていた。陽介はため息をついて襖をしめた。そんなこんなのうちに、すっかり迷ってしまった。

 迷ったとしてもしょせんは家屋の中だ。広いと言ったってたかが知れている。ほっつきあるいていればそのうち知ったところへ出るだろう。陽介はそうタカをくくって、いくつかの部屋を勝手に横切った。

 理屈ではそのうち廊下にでるはずなのだが、これが一向にでない。これはひょっとして、自分の方向感覚がおかしくなっているのでは、と気付いたのは、部屋が6つ続いたあたりだった。どう考えても、やはりあり得ないと思った。多分「あけているつもり」の襖と「実際にあけている襖」が食い違っているのだろうと推測したものの、ではどうすれば修正できるのか、となるとまったく見当がつかなかった。…やばいな、と思った。

「…屋内で遭難なんて、カッコ悪すぎですよ。勘弁してください。」

 誰にいうともなくそう呟いてしつこく襖をあけると、唐突に縁側に出た。

 助かった、と陽介は思った。

 外気は雨のせいか冷たく、寒さに一瞬鳥肌がたった。

 この縁側の廊下を伝って右へ行って突き当たりを折れれば便所につき、折れなければいつきのいる土間の近くに出る。左のほうへずーっと外を伝って行けば月島のいる部屋へ出て、庭に下りられる。ちなみに5~6歩行って壁を突き破れば、自分の荷物を置かせてもらって寝泊まりしている部屋だ。ああよかった、と陽介はほっとした。

 春季をいつきに預けていたので、右にいくことにした。その廊下は一人で通らないほうがいいと言われている例の廊下だった。できれば通りたくなかったが、また引き返して迷うのはもっといやだった。陽介は半袖のシャツからむき出しに伸びている自分の腕を摩って鳥肌をおちつかせると、足早に歩き出した。

 左手には鬱々とした黒い池がひろがっている。日陰のせいかコケのせいか気温はさらに一段階低かった。昔自分をかわいがってくれたという静の遺体が発見された沼だ。極力目を逸らして歩いた。そこで不幸な事故があったのか、なにかの悲惨な結末があったのか、陽介は知らない。できることなら知りたくないような気がした。だから自分の足下の、廊下の板目だけを無心に見つめて歩いた。

 その板目に、白いものがひらひら落ちてきた。

 陽介は思わず立ち止まった。

 落ちてきたのは白くて薄い紙で、大胆にデフォルメされた人間型をしていた。

 陽介の滞在する部屋の外におばあちゃんが貼ってくれた守りのまじないの紙だ。…外れておちてきたらしい。

 やばい、と思った。

 おそるおそる、黒い池を見た。

 見なければよかったと思った。

 黒い池の右手の奥、薮のすぐこちらに、何か白いものが見えた。

 …白い手が、ハスの花のように、黒々と濁った水面からぽつりと一本だけ生えていた。

 まるで陽介を差し招くように、こちらに向かって手首から先を垂れている。

 陽介は金縛りに遭ったかのように動けなくなってしまった。

 あの手、あの手を知っている、と陽介は思った。

 その瞬間脳裏に爆発するような勢いで錦の柄のイメージが広がった。何だ?! と陽介は訝しんだが、それはとどまることなく広がって、あっというまに目裏を埋めつくした。生簀にみっしりと囲われた魚たちが激しく蠢くかのごとく頭蓋骨の内側を流動し、溢れ出し、陽介の息をつまらせた。

 誰かに助けを求めようと口を開いたが、そのとき、陽介は誰の名前も思い出すことが出来なかった。


+++

 廊下に倒れていた陽介を30分ほどあとになってから見つけたのは、トイレに行く途中だった田中だった。田中は陽介を陽介の借りている部屋まで連れ戻して布団を敷き、寝かせてくれたらしかった。

「…心臓が止まるかと思ったよ。本当に大丈夫かい。栄養失調じゃないの?きみんちとあまりに食べ物が違うし。」

 いつもどおり軽妙に喋る田中の前を、白猫がおろおろといったり来たりしていた。陽介が猫に手を差し出すと、心配顔で近寄ってきて、陽介の唇をぺろぺろ舐めた。

「今いつきちゃんに、何か温まる飲み物頼んでるから。もう少し横になってなよ。」

 ちょいと陽介のおでこにさわり、「うん、やっぱり別に熱とかはないね。疲れが出たのかな~」などとぶつぶつ言う田中に、陽介は言った。

「…田中さん、池から、…手が出てた。白ーいやつ…。」

 田中は少し間をおいてから応えた。

「…うん。…まあ、あそこは、いろいろ、あるんだよ。」

 …田中はあの通路を日常的に使っている。この返事から考えても、何か見たことがあるのは間違いなかった。 

「…庭にもおりられないようにしてあるし、久鹿くんのいる部屋の戸もつぶしたし…一人で歩かないようにって周知してあるし、…おばあちゃんもできることはしているみたいなんだけどね。」

「…ヒトガタがひらひら落ちてきて、怖かったよぉ。」

「や!それはいけない!危険ですよ久鹿くん!」

 田中は芝居がかったわくわくした様子でそう言い、それから態度を一変させて、しらっと付け加えた。

「…ま、気にしないことだよ、所詮はたかが紙切れだ。」

「…でもおまじないだったんじゃ…?」

「あのさ、オカルトを採用するのは、科学や医療に見放されてからでいいじゃない?だからまず今の所はまだ、紙切れってことにしとこうよ。」

 …なるほど、おっしゃる通りかもしれない。だが、今はまさにその科学とかといった種類のものから見放されている状態なのでは…。陽介はそう思ったが、考えてみれば田中に訴えても田中としてはどうしようもないことで、田中自身も自分にそう言い聞かせて強引に納得させているということなのかもしれない。

「はぁ、わかりました…。」 

 そう気の抜けた返事をしたところへ、廊下を足音が近付いてきた。陽介がのろのろ布団の上におきあがると、白猫がまわりをくるくると二回ほどかけめぐってから、陽介の膝にすとんと座った。

 襖の外でいつきの声がした。

「…入るよ。」

「ああ。」

 せいぜい取り繕って答えると、襖が開いた。

「…何かよさそうなものあった?」

 田中が静かに尋ねると、いつきは丸い木の盆に茶碗を載せたものを持って入ってきた。

「松葉のお酒があったよ。どうかな。冷えにきくって書いてあったけど。」

「いいんじゃない。…タマネギとかと同じような効用のはずだ、成分は違うけど。血行がよくなってあたたかくなる。」

 いつきはふすまを閉めて、陽介のところに茶碗を持ってきた。

「ちょっとべたべたするから、砂糖がはいってるのかも。」

「サンキュ。」

 陽介は受け取って、少し飲んでみた。アルコールの匂いがした。松葉の味と香りがあり、砂糖の甘味もあった。

「…うん、なんか効きそう。」

 田中はうなづいて言った。

「松葉を水に入れて日にさらすと、自然に発酵して松やにの溶けた酒になるんだよ。砂糖はいれなくてもいいんだけど、入れると発酵が早くなって、腐敗しにくくなるから失敗しにくい。味の好みもあるのかな、ここは女性が多いから。…昔仙人が飲んでいたとか、武士が飲んでいたとかいう古式ゆかしい伝統のドリンク剤だよ。」

「へえ。…ここはなんでもあるなあ。」

 陽介が感心して言うと、田中はちょっと口もとを歪めて冗談顔で言った。

「なんにもない、ともいうよね。」

 陽介は少し笑った。

「まあね。でも、松葉の酒なんて初めて見ましたよ。」 

 いつきが言った。

「…で、一体なんなのよ。この騒ぎは。まさかあたしの作ったもんにあたったんじゃあないだろね?」

「違う違う。…池のすみっこに手が生えてて…。そのあと…なんか酷い目眩がして…。」

「池のすみっこに手?…そういう植物でも植わってンの?」

 いつきがあっけからんときくと、田中は手を左右に振った。

「いやいや、そういう植物は、日本にはないよ。」

「…じゃアレじゃん。陽介の苦手な…。」

「…言わないでくれ。」

 白猫が「あーん」と鳴いて陽介を見上げた。陽介は大きな白猫を肩に担ぎ上げるようにして抱き上げた。白猫は陽介の肩に前足をたてて、そこから振り返って田中を見た。田中は言った。

「まあ…気にしないことだよ。いろいろ見たとかいう話はなくはないけれども、いままで怪我したりとかそういうことはないから。」

「何いってるのよ、一人死んでるじゃないの。」

 いつきが遠慮なく言うと、田中は眼鏡をずり上げた。

「…静さんが生きている間はとくになんでもなかったんだよ。ここの部屋も向う側に障子と雨戸がついていて、縁側から沼におりられた。沼だって、まあ、ちょっと変わった風情の池みたいな扱いだったさ。好き好んで入ろうとか、魚を飼おうとかいう話こそ出なかったけど。」

「ここの部屋はなんだって向こうを壁にしちまったの?」

 いつきが尋ねると、田中は言った。

「…うん、夢見が悪いらしい。僕は別になんともなかったけど、ここに泊ると、なぜか変な夢を見るって人が多くて…。だがそれも、壁にしたらぴったりおさまったよ。」

 田中はそういって、陽介に「別に見なかったよね?」と確認した。陽介はうなづいた。田中はうなづき返した。

「…ま、そんなわけだから。…そうだな、珍しい動物でも見たとか、珍しい紙芝居でも見たと思っていれば、それほど外れちゃいないよ。心配ないって。」

 そしてしがみつくように猫を抱いている陽介の肩をぽんぽんと叩いた。

「…もう少し寝る?起きるなら布団かたしてやるわ。」

 いつきがさばさばと言ったので、陽介は慌てて布団から降りた。ニャーとふとんにじゃれつく白猫をつかまえてぺりぺりとツメを布団からはずす。いつきはてきぱきと布団をたたんで、押し入れにしまった。

「…布団のあげさげ大変だろ。向うにはないだろ。」

 陽介が言うと、いつきは「うーん」と首をかしげた。

「ま、重いけど、足腰鍛えるのにはちょうどいい。」

「…そうか。」

「もう、スポーツ合宿って感じだわさ、気分は。」

「なるほど。」

「なにもしてないと暇だし。」

「…そうだな。薬草整理は、終わり?」

「うん、今日の分は終わり。」

 田中は言った。

「…雨もやまないみたいだし、今日は水浴びもできないね。」

 …ちょっと嬉しそうだ。

「そうね。ひまだから、お神楽のおさらいでもしようかな?」

 …いつきは案外と真面目なヤツだった。

 陽介は欠伸を噛み殺して言った。

「お神楽のおさらいすんの?…俺も暇だから、ついてこうかな。邪魔?」

「…うーん、べつにいいけど、きっとつまんないよ?」

「いいよ。つまんなかったら猫と遊んでっから。…あ、でも奥の間、月島さんがいるな。」

「追い出すからいいよ。」

 いつきのなにげない返答に、陽介はぎょっとした。

「…けんかはよせよ。」

「けんかなんかしないさ。丁重にお願いすればいいんだろ。ああいう馬鹿の扱いならまかせとけ。けっこう得意なんだ。」

「えっ…でも…」確実にケンカになるはずだと陽介は思い、オロオロした。「…得意って、なんで。」

「あたしの親父はあんなタイプだった。」

 田中ががばっと振り返った。

「…なんと!」

「もっとひどかったくらいさ。だからしんぺーすんな。向こうもあたしのことは苦手なはずだって。衝突しないためなら、たいていは譲歩してくれるよ。」

 田中は同情するような目で、陽介は不安でいっぱいの目で、いつきを見つめたが、いつきはどこ吹く風といった様子でさっさと立ち上がった。猫が慌てて一番についていった。


+++

 いつきの言ったとおり、丁寧に頼むと、月島は了解してくれた。どこか別の部屋でもいくかと思いきや、縁側の方に座布団を持ち出して、庭に降る雨を見ることにしたようだ。陽介はヒヤヒヤしたが、いつきのほうはといえば、もうあとはしったこっちゃないワといった感じで、稽古用の古い扇をとりだしたりしていた。

「陽介、太鼓たたける?」

「…たたけるように見えるのかお前には。」

「いんにゃ見えないけどさ、意外な特技もってたりして、とかちょっと期待したのさ。…じゃさ、頼んでいい?」

「何を。」

 いつきは竹でできているらしいカスタネットのような(?)打楽器を陽介の手にはめた。

「…まあ、何でもいいんだけどさ、茶碗とフォークでも。でもま、こんなもんで。」

 いつきがゆっっっっっっくりとしたリズムで手を叩き始めた。

「?」

「…このくらいの早さでリズム打ってほしいんだな。簡単デショ?子供んらのおかーちゃんだってやってくれるんだから。」

「わかった、やってみる。」

 陽介が打ち始めると、やれ早いの遅いのと少し注文がついたものの、わりとすぐに調子がつかめた。

 いつきはそうやって陽介に竹を叩かせておいて、自分の不得手なところをくり返し熱心に練習した。ゆっくりとした動きなので、かえって相当な筋力を要求されるようだ。10分もたたないうちにいつきの額には汗が浮かびはじめた。扇も重そうだった。

 30分ほど頑張って、いつきが「休憩すっか」と言ったころには、陽介のほうもすっかり手がいたくなっていた。猫はながーーーーくなって眠ってしまっていた。

「…ハードじゃね?練習。」

「うん、最初はハードだったけど、もう慣れた。」

 いつきは水差しからごくごく水をのみ、タオルに顔をおしつけた。

 すると、いつのまにかこっちへ来てみていた月島が、言った。

「うまく出来ているじゃないか。よく練習したようだね。」

 いつきはタオルから顔をめんどくさそうに上げてイッパツにっこりすると

「いいえ、まだまだです」と言った。

 …どこで謙遜して小言を逃れる術を身につけたのやら…。

「…回ったあとの、ふらつくところはもう半歩右足を引くとうまくいく。…そのとき息がうまくいかなくなるから、その前に扇を上げたときに息をすっておきなさい。ゆっくり吐いてそのあと膝をおるところまでもたせるんだ。」

 月島が突然言ったので、いつきも陽介もびっくりした。陽介は急いで尋ねた。

「…月島さん、お神楽やったんですか?」

「ガキのころに一回だけやったよ。静の野郎にどつかれながら。次の年は断った。まだ子供もほかにけっこういたから、別に問題なかったんだ。みんなけっこうやってたよ、私の世代は。」   

「童子神楽のほうですか。」

「そういうこと。…だが舞の中身は同じだよ。衣装くらいだろ、違うのは。」

「どんな衣装なんですか?」

 するといつきがニヤリとして言った。

「かーわいいんだよー、チビたちの本番衣装は~~~。それに、みんなこう、おかっぱ頭にすんの。」

 月島はイヤーな顔をした。

 …陽介的には美少年ぶって首をかしげ、無邪気に笑うしかなかった。

「へえ、どんなの?」

「すそがこう、膨らんだのを、足首できゅっと締めてね、そいで、ウエストもこうしぼって、…うまく説明できないよ。薄いすきとおった緑やピンクや水色のを上から着て、すごーくきれいなんだ。下の着物が着透けてみえんの。」

「すそを絞ってある…何。袴?」

「ハカマ。そう、袴。」

 陽介は何かを思い出しかけたが、はっきりとは浮かんでこなかった。

「ふーん、なんか古典の資料集にのってるような感じかな。」

「…ま、そんな感じだね。」

 月島があっさりと単純に締めくくった。早く衣装の話題から離れたかったらしい。

「月島さん、今もお神楽よく覚えてるんだ。すごいですね。だってうんと小さいときだったんでしょう?」

 陽介がそれとなく話の筋をずらしてやると、月島は言った。

「…まあ、毎年見てるからねえ。忘れる間がないだけだよ。」

「今でも踊れます?」

「…できなくはないが、…なんといえばいいのか、…まあ、つまり、やらないものだよ、大人になった男は。」

 陽介のぶりっこに呆れたのか、それとも単に興味があったのか、いつきは二人をほったらかして、問題の所作を一人でやりなおし始めた。陽介があわてて拍子を打ってやると、いつきが足をひいたところで、月島が鋭く言った。

「もう少し思いきってひきなさい。…」そしてさっと立ちあがるとつかつかと近付いて、いつきの足下に膝をついた。そしていつきの足を容赦なくつかむと、ぐっと後ろへ引っぱって、ぐいぐいと固定した。「…ここまで。」

 いつきは黙ってうなづき、もう一度そこをやり直した。

 今までとはまったく違う、ゆったりとした流れるような動きになった。

 陽介と月島はパチパチと拍手した。

「…筋がいい。静が生きていたら、きっと喜んだろうに。」

 月島はそう言うと、いつきから離れた。

 その言葉で、陽介は察した。

 多分、月島は、静とそれほど仲が悪かったというわけではなかったのだろう。

 …というよりむしろ、二人の間には、何か奇妙な…絆のようなものがあったのかもしれなかった。


+++

 雨降りだったせいもあって、日が暮れるのは意外と早かった。

 月島の調達してきた食料はピザとかそのあたりだろうと思っていた陽介といつきは、夕食に集まって、固まった。月島は大きなお重を二組も持ってきていて、それを並べてゆくと、まばゆいような日本料理が「これでもか」と現れた。陽介は思わずつぶやいた。

「…正月みてえ。」

 すると月島は言った。

「正月にこんな地味なお重作るのか、きみんちのお母さんは。」

 言われてみれば、正月は赤とかピンクとか、もう少し派手だ。

「…運動会みたい。」

「…運動会ならもっとタンパク質を増やしてモチも入れないと。」

 いわれてみればその通りだ。

「…でもうちの盆はこういう御馳走じゃないですよ。…穀飯とか…なんかそんなんでした。」

「うちは普通に白米だったよ。…目木くん、中くらいの皿を10枚くらいさがしてきてくれないか。…ああ、箸は割り箸がついてるみたいだ。」

「…」

 いつきは御馳走に目が眩んだような顔でふらふらと皿をとりに行った。…多分これをみて内心一番狂喜したのは、いつきだろう。黙々と働いていたのだし、神楽の稽古だって洒落にならない運動量だ。

 田中は予測していたようで淡々としていたが、美味しいもの好きの田中にしてはつまらなそうな顔だった。多分、月島が持ってきたというのが気にいらないのだろう。

「…これ、誰が作ったんですか?月島さんの奥さん?」

 陽介が尋ねると、田中が言った。

「久鹿くん、月島さんにそれ言っちゃ駄目だよ。」

 陽介が「は?」と聞き返すと、月島はじろーと田中を見たが、田中は知らん顔だった。急須をとり、焙じ茶らしい茶葉を計っていれたりしている。…茶汲みに逃げたらしい。しかたなさそうな様子で月島は陽介に言った。

「…いや、別にいいんだよ。…作ったのはこのあいだの小料理屋のおかみだ。」

「ああ、あのお店ですか。美味しいですよね。」

 どういう意味なのだろう、と陽介はチラっと田中を見たが、田中は熱そうな鉄瓶から急須に湯を注いでいるところだった。

 月島の顔を見たがさり気なく視線を逸らされた。

 いつきが皿を持って戻ってきた。

「はいみなさんーどーぞー」

 …魂が抜けたような声だ。よほど腹がへっているらしい。さもなければ食い物に目が眩んでしまったか、どちらかだ。

「…どーぞー、じゃなくて、おとりしましょうか、と言いなさい。」

 すかさず月島が言ったが、田中が顔をあげて言った。

「まあいいじゃない、各自で好きなものいただきましょうよ、月島さん。いつきちゃんはお腹がすいてるんだし。…久鹿くんがとりわけてくれれば風情があっていいけど、あなたは過去のしがらみ上、そういうわけにもいかないだろうから…なんなら僕がおとりしますよ?」

 かなり挑戦的な内容だったが、田中は静かに言ったので、月島はとくに反論しなかった。

「…女を甘やかすのはよくないが、あんたに取ってもらうのも風情がないから、自分でとることにしよう。」

 陽介はとっさに「ここで俺がボケなくては!」と義務感に駆られ、にっこりして言った。

「…やー嬉しいナー田中さん、じゃ田中さんには僕が何かおとりしましょうか?」

「アハハ、冗談だよ。…はい、お茶どーぞおぼっちゃま。」

「ありがとございマッス。」

 …そんなやりとりなどまるで耳に入っていないようすで、すでにいつきは「食べ」の姿勢に入っていた。というか、その事実に他の3人はもっと早く気付くべきだった。

「…あれ?」

 田中がかすかに疑問符つきの声を発した。

 …矢鱈にお重の中身が減っている。

 陽介はいち早く反応して、食べたいものをざーっと素早く皿にキープした。しばしば一緒に食事をするので、いつきの魔神的食欲のことはよく知っている。油断していたらくいっぱぐれてしまう。

 月島と田中は若干出遅れたように思う。

 案の定、陽介がちまくまと皿の上を片付けるころには、お重の中身は半分ほどになっていた。そのころになってようやく事の重大性に気付いた田中も慌てて盛れるだけの食べ物を自分の皿に盛った。月島もキープしつつ、小言を言った。

「目木くん、皆が平等にたべられるように少し気を使って食べなさい。」

「はあい。」

 いつきは元気よく返事をしたが、説教の内容は無視した。

 陽介はそんないつきに笑いをこらえつつ、

「…おまえさー、箸使うのうまいよね。二年目とは思われんよ、ほんと。」

 と言ったが、いつきは「うん」と当り前のように言っただけで、ぱくぱくと豪快なテンポで食事を続けていた。

「…大食い選手権とか、でられるよな。」

 そう言っても、いつきはやっぱり「うん」と言っただけだった。

 そしてややしばらくしてから急にうれしそうにニコニコして、言った。

「すごく美味しいね!」

 …だれしもが敗北を痛感した。


+++

 なんとなく物足りない男達を残していつきが鼻歌を歌いつつ洗い物とともに去ると、間もなく車が少し遠くで止まった。そしてやがて、

「あァついたわァ、疲れたァ。」

 とユウの声がして、

「お疲れ様です。」

 と慎二がのほほんと労う声もした。

 ユウが帰ってきたらしい。

「…あ、ユウちゃんが帰ってきたね。慎二も一緒みたいだ。…多分なにかもらってきているよ。食べ物があるといいね。」

 田中が言ったので、陽介もうなづいた。昨日にくらべれば沢山たべているくらいなのだが、いつきの豪快な食事っぷりに、食欲を誘われていた。月島は何も言わなかったが、多分異論はなかっただろう。

「ただーいまー…あら、月島さん、いらして下さってたんですね。ありがとうございます。」

 ユウはにこにこして言った。

「…お疲れさま。お邪魔しています。」

 月島は軽く会釈した。

「いつきの飯、食べられました?おなか壊してなーい?」

「ああ、結構美味しかったですよ。夕食は差し入れさせていただきました。」

「あらァ、いつもすみませーん。ほんとにまあ、月島さんがいてくださるおかげで、楽させていただいてぇ、いつきも喜んでるはずです。あいつ、おっかない顔だけど、ほんとにいい子で…。」

 ユウは一日ですっかり顔にはりついた営業スマイルでニコニコしつづけ、そのまま田中を見た。

「センセ、いつきどこいきました?」

「ああ、今洗い物持って、多分水場のほうかな?」

「そうですか。今西瓜とかもらったの、切ってきますねえ。あと、とうもろこしとかいただいたの、…あ、慎二さん、こっちに座っててくださいねえ?わたしがやりますから…」

 ユウは土間にお土産の野菜をはこんでいるらしい慎二に声をかけながら部屋を出て行った。

 なんとなく、陽介はほっとしたような、どっと疲れたような気分になった。

 少しして慎二が切った西瓜を載せた皿を持ってやってきた。

「あァ、今晩は~。みなさんこの部屋にいらしたんですねぇ。」

 のんびりした口調で言うと、田中がにっこりして皿を受け取った。

「慎二くんお疲れさま。」

「あれぇ、田中さん、二枚目ですねぇ。ひげもないし~。」

「あー、水浴びしたの。昨日かな。」

「なーんか田中さんが二枚目だとー、私はしんぱいだな。田中さん夏中ここにいるし。汚くしててください。」

「あはは、ユウちゃんには手ださないよ。僕の年じゃ犯罪だって。」

「男女の仲に年齢が関係あるかな~。」

「…だってストレートに好みじゃないって言ったら怒るんだろ?」

「あたりまえです!」

 からになったステンレスのトレーで、慎二は田中をボコッと叩いた。

「いたた…いたいよ慎二くん…」

「…そちらはどなたでしたっけ。」

 慎二がのんびりと陽介に尋ねた。すると月島が答えた。

「…久鹿先生の次男で陽介くんだ。」

 慎二はそれを聞いて少し考え、そして言った。

「あァ…そう、いつきさんて、久鹿先生の庶子だったんですね。」

「なに?!」

 月島が愕然として言った。陽介は慌てて手を振って否定した。

「ちがう、ちがう、そうじゃなくて! 」

「あ…違いますか。いやなんだかユウさんは今来ているぼっちゃんはいつきさんの彼氏のようなそうでないようなと言っていたので。兄妹なのかと。」

「ちがいますよ。俺ここ来たの偶然だし。」

 すると途端に慎二の人のよさそうな顔が曇った。

「…偶然こんな田舎に来るわけない。さては、ぼっちゃんは、ユウさん狙いですね?」

「それも違う…」

 陽介はがっくりした。

 月島が慎二を小馬鹿にしたように言った。

「慎二くん、あまり人を困らせるものじゃない。…陽介くんはドームのほうに宿をとっていたが、のっぴきならない事情でここに滞在することになっただけだ。君のマドンナに手出ししにきたわけじゃないよ。」

「のっぴきならない事情ってなんですか?」

「同行者が山で行方不明だ。」

 月島がさらりと言うと、慎二は流石に真面目な顔になった。

「警察には…?」

「言えない。…昨晩一度戻って、また消えた。24時間以上たたないと。」

「…」

 慎二は少し考えたが、すぐに言った。

「…月島さんは明日はまだ休暇ですか。」

「ああ。」

「ならあんたが頼みます。わたしは明日も車まわさなくてはならないから。」

 月島は一瞬視線を尖らせたが、すぐに目を逸らした。

「…言われるまでもない。」

 慎二はそれを聞くと、陽介ににっこりした。

「…心配しなくて大丈夫ですよ、久鹿さん。」

「…はい。」

 陽介がうなづくと、慎二は座には加わらず、また盆を持って部屋を出て行った。

 月島が鼻で笑って言った。

「…あいつ、面白いだろ陽ちゃん。もうここの婿さんみたいな気分なんだよ。」

 陽介は苦笑した。

「…ああいう彼氏いると、うっとおしくも心強いでしょうね、女は…。」 

「どうかなあ。ここの女衆は自立してるからねえ。」

 月島が言うと、田中が珍しく、同意するようにうなづいた。

 まるで聞き付けたかのように慎二は戻って来た。…盆には皿いっぱいの菓子と…大きなピッチャーに入った、ここではきわめて珍しいけれども、普段はよく見かけるものが載っていた。

「え、牛乳?」

「牛飼いの家が一件あるから。今朝しぼったもんです。…ついであげましょう。」 

 陽介はそれで突然春季のことを思い出した。

「…そういえば、あの、みなさんあの白猫見ませんでしたか…?」

「あれ、そういえば、夕食のときからいないね。」

 陽介は飲まないといち早く判断したらしい田中が牛乳を横取りして飲みながら言った。

「…じゃ、多分じきに戻るだろう。」

 月島は意味深にいいつつ、西瓜の皮をトレーに戻した。

 陽介はなんつー返事だ、と憤りかけたが、ちょうどそのとき、土間ががやがやと騒がしくなった。

「…?あれぇ、どうしたかな、鍋でも吹いたかな…今とうもろこしを茹でようとしているんですよ…。お嬢さまたちだけだから、ちょっと見て来ます。」

 慎二が西瓜の皮ののった盆を持って再び出ていった。

 3人のいる部屋から聞いていると、裏口に客があったような雰囲気の騒ぎだった。

「…誰か来たのかもしれないね。」

 田中も言った。

 3人で口数少なく過ごしていると、しばらくしてから慎二が刻んだシソと酢醤油をまぶしたトマトとキュウリの大鉢を持って戻って来た。

「あ、慎二くん、どうだった?」

 田中が尋ねると、慎二が答える前に、慎二のわきからひょいと眼鏡の顔がのぞいた。

 陽介は思わず立ち上がった。

「春季! …大丈夫か?!」

「ハー、いや、疲れました。…はい、これお酒。」

 春季はそういいながら入って来て、台所から預かって来たらしいビールや日本酒を田中と月島の間に無造作にどかどかと置いた。…ラベルのない一升瓶もある。酒造元からもらったものだろうか…?

「…まあ、いろいろお説教はあるけれども、とりあえず座って一本飲みなさい。」

 田中はにこにこ笑ってそう言って、ビールのセンを一本抜いた。春季は田中の隣に正座して、ビールをおしいただいた。陽介は春季のそばにいって幾分おろおろしていたが、そうしているうちに、春季があちこち泥だらけなのに気がついた。

「…だいぶ御活躍だったようだ。」

 同じことを思ったらしい月島が言った。春季はビールのコップをからにし、軽く肩をすくめた。そして月島に言った。

「…ナオト、勾玉はずさせたでしょう。やることがセコい。…持ってらっしゃい。」

 陽介は固まった。

 陽介は月島の下の名前を知らなかった。まして春季が知っているわけがない。

 春季は更に言った。

「…もう2~3日かかる。いちいち騒がないでください。毎日帰ってくるのだってけっこう大変なんだから。」

 月島は無言で立ち上がって、部屋を出た。…勾玉をとりに行ったのだろう。

 春季は陽介のほうを見て手を伸ばし、陽介の前髪をちょいちょいといじってにこにこした。慎二が咳払いをすると、「うるさいなあ」という顔でちらっと見た。慎二は春季に小皿をもたせて、そこにサラダを盛った。

「どうぞ。」

「…ありがとう。」

 春季は仕方なくそう言って、サラダを食べ始めた。

「…それで、どうなの、供物台は。」

 田中が別に何も気にしてませんという態度で尋ねた。春季が顔をあげると、あいてるほうの手にグラスを持たせ、またビールをついでやる。春季はサラダを置いて、ビールをごくごく飲んだ。…陽介だったらもう歩けなくなっている量だ。

「…あまりよくありません。だいぶたまっちゃってますね。あれを散らしてからじゃないと…。」

「昨日も今日もがんばって散らしてたんだ?」

「そういうことです。」

 田中はにっこりして言った。

「尾藤君、久鹿君も月島さんもタケトも僕も随分しんぱいしてたんだよ。何か言うことはないの?」

 陽介は田中の剛胆さにびっくりした。

 しかし春季は、あァ、という顔で言った。

「…御心配おかけしました。…今一つ僕自身もわからなくて。御迷惑おかけしてます。すみません。」

 陽介は頭が混乱した。

 ここにいるのが誰なのかわからない。

 陽介が混乱しているようすを見て、慎二がサラダを取り分けてくれた。

「おあがりなさい。」

「あ…有難うございます。」

「…少し残るんですよ。でも今はもう抜けています。」

「…」

 …そういうことらしい。陽介はうなづいた。

「…牛乳もお飲みなさい。…でないと酒をのまされますよ。下戸でしょ。見ればわかります。」

 慎二は牛乳もついで陽介にもたせた。

 酒席でミルクというのも恥ずかしかったが、ここの神社にウーロン茶はないだろう。いたしかたない。

「みなさーん、とうもろこしが茹で上がりましたよ~…て、あら、月島さんは?」

 ユウが盆に山盛りのとうもろこしとともにやってきた。

「…ちょっと外してるけど、別にケンカはしてません。」

 田中が言った。

「…なら結構ですけど…なかよくしてくださいねえ。…あ、尾藤くん、お湯がわきましたから、ちょっと土間へきて、泥を拭いませんか?」

「あ、そうですね、はい。…と、一本もらっていっても…?」

「…そうねきっとあっちのは…もういつきがたべちゃったと思う。」

 春季は皿からとうもろこしを一本拾い上げ、陽介にちょっと愛想をふりまいてから、ユウと入れ違いに出ていった。襖をしめながらとうもろこしに歯をたてているのがちらっと見えた。

「…帰って来てよかった。」

 ユウがため息をついて言った。

 陽介はまだ熱心にサラダを食べてい…るふりをした。ユウのことはどうも今一つ苦手だった。

 慎二が言った。

「よかったですね。…やはり、よその人だと心配ですからね。…ユウさんも牛乳飲みますか。」

「そうね、いただきます。」

 慎二がピッチャーをさしむけると、ユウはグラスをさしだして、丁寧に受けた。

 ごくごくと一気に飲みながら、ふとユウは陽介に目をとめ、…そして突然恐ろしい顔になった。

「…ちょっと!! 外すなって言ったわよね?!」

 陽介は「うっ」と思ったが、ちょうど大きめのトマトを噛んでいるところだったので、返事が出来なかった。

「あんた、言っとくけどあれはうちの家宝よ! どこへやったの?!」

 声がでかかったので、田中は露骨に耳を塞いだ。陽介は慌ててトマトを飲み込んだが、へんなところに入ってげほげほとむせた。

「…失礼、入ります。」

 月島の声がして、襖が開いた。ユウがじろっと見ると、月島は勾玉につけてある飾り紐を軽く振ってみせた。

「ちょっと月島さん、いくら月島さんでも、勝手なことをしていただいちゃ困ります。」

「はいはい」

「『ニ度目のはいは糞食らえ』。」

「…わかりましたよ。」

 月島は煩そうに答え、むせる陽介の背中をぽんぽん叩いて落ち着くまで待った。

「…どうしたんだい、大丈夫?…ユウちゃんに怒鳴られて胃の中身が逆流したのかい。あまりに鬼みたいだからびっくりしたかな?」

 だからあんたわそういうことを言うなというのに…と陽介はげほげほむせながら思ったが、ユウのほうは慣れているのか別に噛みつかなかった。

「…い、…いえ、げほげほ、トマトが…げほげほ」

「ああ、そのトマトおいしいでしょう?巽さんちは農家ですからねえ~。」

 慎二が呑気そうに にこにこそう言うと、月島は少しまゆをひそめつつ、陽介の首に勾玉の紐をかけなおした。

 表で物音がした。どうやら江面がおばあちゃんをのっけて帰って来たようすだった。


+++

 男達の宴会に出席しても楽しくないのはいやというほどわかっていたので、いつきは、土間で火と鍋の番をしていた。おかげさまでゆでたてのとうもろこしを3本ばかりキープできたし、今枝豆もゆであがったところだ。湯気のたつざるから一つとってくわえ、ぱち、と鞘を割って食べると、塩茹でしただけの大豆はことのほかに美味しかった。

「土間で豆の味見?…地味だなあ。いつきさんとも思えない。」

 声に顔を上げると、さっき外から帰って来て、「お湯がわくまでちょっと先輩に顔みせてきます」と宴席に行っていた春季がもどってきたところだった。手にはとうもろこしの芯を持っている。口の端に、とうもろこしの黄色い実のかけらが一つくっついていた。

 いつきは笑った。 

「…あら。アタシいつも地味よ?」

 そして自分の口の横を指して、春季に知らせた。春季は気がついて、手で口の周辺をさぐった。そしてとうもろこしのかけらをつまむと、口に入れた。

「…芯はそっちのバケツにいれときなよ。明日粉砕して畑に埋めてくるから。入れたらフタしめといてよね。コーンの芯は発酵が早いから。」

 春季は指示に従いつつ笑って言った。

「…どこが地味なんですか、湾岸で倉庫まるごと一つ吹っ飛ばすような人が。」

「ありゃ、不可抗力だって、あんたんちの兄と父がふっかけてきたから悪いんだからね。」

 春季はまだにやにや笑っていたが、自分で湯のわいた大鍋に辿り着くと、鍋を外の水道のほうまで持って行った。見た目は細い春季だが、力はすごくある。多分陽介をお姫さまだっこしてくるくるまわってみせろと言ったら、抵抗なくすぐにやってみせてくれるだろう。陽介のほうが抵抗するかもしれないが。

「…あ、いつきさん、すいませんけど、髪流すのだけ手伝ってもらえませんか。」

「オッケー。」

 いつきは少しまわりをみまわして、古ぼけたプラスチックのじょうろを見つけると、それを拾い上げて春季のところへ行った。じょうろで大鍋から少し熱湯を汲み、それに水道の水を足して、ぬるく調節した。

「ほりゃ、頭そっちに下げて。」

 地面の具合を選んで春季に頭をさげさせると、いつきはじょうろで髪を流してやった。春季はじょうろを使うアイデアにくすくす笑った。

「…ちょっとシャワーな感じ。」

「…今日、雨だったかんね。外仕事は大変だったっしょ?」

「…や、木の枝が密になってますからね、そんなに濡れたりとかはなかったですよ。でもやっぱ少し今日は泥ついたかな…。」

 じょうろの水がなくなったところで、いつきは台所に引き返した。そしてタオルと浴衣と洗面器を出して届けてやった。

 春季は礼を言ったあと、バスタオルを枝にかけて目隠しにすると、その陰で無造作に服を脱いだ。いかにもアウトエリア育ちらしい大様さだ。これが陽介だったら10回もいつきを追っ払おうとしたことだろう。いつきは覗きに行ってからかってやろうかな、と思ったが、大人気ないし、春季は自分の弟とは違うのだから、と思い直して、枝豆を盛る皿を出しに、食器棚のほうへ向かった。

 大きな深皿に枝豆を盛ると、いつきはそれを宴席に運んだ。

 殻入れに小鉢をもってこいと言われたので、さらにもう一度往復した。

 土間に戻ってくると、春季がバスタオルで髪を拭いていた。体のほうはもうすんだらしく、浴衣を不格好に着ている。いつきはなおしてやりたい気分だったが、自分もいまひとつ着方がわかっていなかったので、「えりはだけてるよ」と言うだけにした。春季はぐいぐいエリをひっぱってなおした。

 いつきが板床のふちに腰掛けて自分のために残した山盛りの枝豆を食べはじめると、なぜか春季はとことこやってきて隣にすとんと座った。…勝手に手を伸ばしていつきの枝豆を食べ始めたので、いつきは言った。

「…あんた宴席で食べなよ。これはあたしのだかんね。」

「まあいいじゃないですか、こんなにあるんだし。やー晩飯くいはぐれちゃって。…お茶でも飲みましょうよ。なんかあるでしょ。」

「…たくもう、手間増やしやがって。」

 いつきはぶうぶういいつつ、ここの山では貴重品の類いにあたるほんもののお茶を出して、茶碗二つに注いだ。いい加減たんぽぽの根とか、ドクダミとかには飽きていた。

「…供物台のほうではどんなことやってんの?」

「…んー、具体的には、なんか、パワーを周辺にぶつけて浄化するようなことやってるみたいです。うまくはいえないけど、なんとなくそういう記憶が残ってます。」

「なんとなくなんだ?」

「そりゃそうですよ、僕の本体はここでいつきさんが柱蹴ったりパンこねたり薬草もんだりするの見てたんだもん。…家壊れるかと思いましたよ。」

「こわさねーよ手加減してるつーの。…ま、それはともかく、本体は、そうだったね。…」

 いつきはお茶をすすりつつ、枝豆を食べた。

 春季も枝豆を食べた。

「…いつきさん的にはあの黒沼、どうですか。」

「黒沼って…あの裏の池?」

「ええ、禁断の、便所の近道通路にあるあの池。」

「…どうって、まあ、気味がいいとは言えないね。…それ以上はなんともいえないなあ。…ビトウくんとしてはどうよ?」

 春季は首をかしげた。

「うーん…先輩は白い手を見たっていうし。」

 いつきは、ああそれね…とうなづいた。

「…ビビって気絶ってとこなの?あれは。まったくまるで深窓の令嬢のように怖がりだな陽介は…。」

 春季は「深窓の令嬢」にしばらく笑っていたが、そのうち笑いおさめると、ゆっくり尋ねた。

「…どう思います?…てーか、いつきさん的には、幽霊つーのはどうなんですか。」

いつきは手を伸ばしてとうもろこしをとった。

「…死んだ人の…まあ、魂みたいもんが単独で在るか、みたいこと?…んー、あたしは見たことないからなあ。でもまあいくら陽介が他人の気を引きたかったとしても、幽霊ネタだけは使わないだろってことだけは断言できる。本気で怖がりだからねあいつは。」

 そこまで言って、とうもろこしのほぐした実を口に運んだ。

「…幽霊騒ぎはすべからく狂言だと言う人もいるけれど、いつきさん的にはそれ以外の可能性もあるとは思ってるんだ?」

「余地は残してるつもり。」

「…僕は幽霊って見たことないし、いたらいいな怪談好きだし、くらいに思っているんですが…ただ、そうした次元でなく、現象としてはおこりえるかとも思っているんです。」

「…どういう意味?」

 春季は枝豆を口に当てて、パチ、と豆を押し出して食べた。

「…つまりですね…気持ちの問題ということです。」

 いつきはとうもろこしをほぐして食べながらあいづちをうった。

「ああ、なんだっけ、陽介がいってたなあ、幽霊の正体見たり枯れ尾花、とかいう意味?」

「ああ、それも気持ちの問題なんだけれど…もう少し深刻な話で…。」

 春季は一旦黙ってから、また喋り出した。

「…枯れ尾花が幽霊に見えるのは、恐怖のために視覚認識に錯誤が起こるわけでしょう?つまりその恐怖をとりのぞけば、枯れ尾花は枯れ尾花であることが簡単に確認できるわけで…。」

「まあ、そゆことだね。」

「…もし、そこに枯れ尾花がなかったら、どうなるんだろう?」

「…まあ、そこに枯れ尾花がないっつーことが、つまり幽霊だってことだとも言えるわけで。」

「それは勿論そうです。…でも僕が言いたいのはそうじゃなくて、枯れ尾花もないけれど、魂だか霊だかもないって場合があり得るってことです。」

「…認識の錯誤か何かでってことね。」

「ええ。」

「…つまり、陽介が見た白い手は、陽介だけに起こったなんらかの認識の錯誤だったといいたいわけね。…しかもそれは何かを見間違ったとかそういうことではなくて、まあ脳内の幻覚の類いだと。」

「…誤解を恐れずに言えば、イエスです。」 

「…ま、そりゃ、あるはあるね。ただ、陽介は自分で、いわゆるそういう幻覚みたいなものだろうが、実際に霊魂の類いが見えるのであろうが、今までそういう体験はなかったと言ってるね。」

「…そこは信じてはいけません。」

「なんで?」

「あの人は幼年時代の記憶が欠落しています。」

「普通、子供のころのことなんて、そんなによくは覚えてないよ。」

 春季は眉をひそめた。いつきは肩をすくめ、とうもろこしの芯のほうに直接かぶりついて、実を一列食べた。

「…でもさあ、幻覚を見たとして、だよ、なんで突然そんな幻覚なんか見るかな。しつこいようだけど、陽介は幻覚を見る習性やら病気やらはないと思うよ。」

「…それなんですが…」

 春季は枝豆を噛む間少し黙ってから、言った。

「…それは幻覚ではなくて、記憶なのではないのかな、と僕は思ったんです。」

 いつきは顔を上げた。

「…記憶?」

「忘れている記憶です。それが思い出された…つまり再生されたのだけれど、自分の記憶だという自覚がなかったなら、それはちょうど幻覚のように感じるものなのではないかな、と。」

 いつきはとうもろこしの芯をかじったまま静止していたが、やがて口を離すと、うんうんうんうん、と大きく3~4回うなづいた。

「…とてもユニークだけれど、興味深い考えだと思う。…じゃ、陽介は黒沼から手がにょっと突き出しているのを小さい頃に見たことがあるといいたいわけね。…で、ビトウくんがそう言う以上は、陽介はガキのころにここにいたって事実があったりするわけね?じゃ忘れてるにしてもユウとは幼馴染ってことになるけど?」

「あれっ、聞いてなかったですか?」

 春季はびっくりして、陽介が子供のころに義理のお兄さんが誘拐されたことや、そのときお母さんと一緒にここにかくまってもらっていたこと、月島がそのときの実務をやったことなどを一通り話してくれた。いつきも、陽介が子供時代に兄貴の誘拐があって人生が狂ったらしいこと等々は聞き知っていたので、どれもなるほどそういうことですな、という話ばかりだった。それから春季は最後に、ちょっと言いにくそうにつけたした。

「…亡くなったここのまえの宮司さん、静さんて人なんですけど…小さい頃の先輩にかなり入れあげてたらしいです。」

「…あー?そういや、やけに自信ありげに『俺は小さい頃はなまじな女の子より可愛かった』とか言っとったわ。わざわざ自信をつけてやったヤツは何とここにいたってわけね。」

 いつきがそういって「ぷっ」と笑うと、春季はなぜかばつわるそうに頭を掻いた。…もしかしたら、春季は亡くなった静にそれなりにヤキモチをやいていたのかもしれなかった。

 ついでだと思っていつきは言った。

「…じゃ、陽介が怖がってるオカッパ頭の正体は、ユウかもしれないってことなんだね。」

「…それは僕にはわかりませんが、可能性はあると思います。」

「お父さんの愛情横取りして、ユウに恨まれて虐められてたの?きひひ。」

「…いつきさん…そんな無責任な愉しみ方しちゃいけませんよ。」

「そうだね。」

 いつきはもっともだと思い、お茶を飲んだ。

 しかし、陽介がユウを「こわい・おかっぱ」しか覚えていないのはともかく…ユウのほうはなぜ陽介が知合いだと気付かないのだろう、といつきは不思議に思った。盆がおわったら聞いてみっかな?と思った。

 春季が言った。

「…ところで、ここの山は盆の間は死者が歩くって怪談があるんですよね。」

 いつきはうなづいた。

「そうらしいね。」

「…どういう意味なのかなあ。…幽霊って、なんなんでしょうね?魂ってあるのかな?」

「…あんたとこの教団ではどうなのよ。」

「…つまらないこと、って判断で取り上げてもいないと思うなあ。…神殿はどうでした?」

いつき肩を竦めつつ、口をヘの字型にした。

「…別に、普通の人たちと同じだよ。信じてる人もいたし信じてない人もいたし。物語りの中だけにあるものだと思ってる人もいたし、何か別の科学的な、物理的な現象だと思ってる人もいたね。たまに出たとか大騒ぎするやつも勿論いるし。ただ、あたしらは日常的に死体の処理や加工してたから、幽霊は別にいたらいたで、珍しい生き物みたいなもんってことでいいし、いなければいないで、それはそれでいいって感じだったな。大騒ぎする子は馬鹿にされてたね。さっき狂言てことを言ったけど、つまり、注目を集めたくて騒いでると見なされてた。幽霊がいようがいまいがそれがなに、つーか、要するに、騒ぐようなことではないって考え方が大勢だったと思う。」

「珍しい生き物みたいなもの、か。たしかに実際にいるとなったら、…慣れればそんなもんですよね。」

「…何をして『実際にいる』という基準にすべきかは、難しいとは思うけどね。例えばさ、思うんだけど…幻覚というものは、複数にその体験が共有されれば、実際にあるといえるかもしれないわけで…。つまりここでだよ、わたしとビトウくんが二人いっぺんに、竈からコビトが出てくるのを見て、そのコビトの背格好や顔つきが一致していたり、またはコビトを含めて3人で会話がなりたったりしたら、そのコビトは幻覚ではなく実際にいたと判断したほうが妥当かもしれない。」

「…そのコビトを僕がつかまえて虫カゴに入れて、宴席にもっていって写真とったり触ったりできれば勿論『いる』でいいと思うんだけれど、3人の間で会話がなりたったという段階ではまだ微妙ですね。二人の共通な幻覚というのもありうると…。」

「そうなのよね。でも物質的な肉体をもっていないゆえに虫かごに閉じ込めることが出来ない存在かもしれないわけで…。そうしていくとつまり、まあ今仮にものすごくタナカちゃんが立派な…州立大の主任教授かなんかだったとしてよ、タナカちゃんが、うむ実在ですねと太鼓判をおすまではどんな科学的傍証があろうと実在しているとはいえないと考える人もいるわけだよね。」

「ああ、そうですね、つまり誰がなんといおうと金と地位だけは見逃さないお役人の月島さんがうんと言うなら認めるという人もいるでしょうね。」

「また、虫カゴみたいな直接的なやり方ではないにしろ、いくつかの実験で測定が可能なら、いると認める人もいるわけだよね。たとえば光の屈折が普通でないとか、電磁波とかね、…空気の流れとか、温度とか。」

「…」春季は枝豆を噛みながら考え、殻を皿に放り込んで言った。「…おかしな話ですよね、『いるかいないか』という単純な…そもそもは当り前で議論の余地もないような判断が、…何をどこまで承認するかという線引きの問題にすりかわってしまうなんて。

…サンタクロースとかも、いるといえばいるような、いないといえばいないような種類のものですよね。…実際に実物が自分の枕許にやってくるわけではないが、物好きなお父さんお母さんのいる家庭ではサンタクロースがちゃんと機能しているわけで。また存在としてちゃんとこまかく定義もされていたりするし、生態も決まっているし、それに合わせた資格試験さえある。資格試験というよりはコンテストに近いのかもしれないけれど。」

「…神様も同じ種類だよね。」

 いつきが口を挟むと、春季はチロっといつきを横目で見て言った。

「…神様ねえ。たしかにあれが神様かどうかという議論はあると思うけれど、あれはいますよ。僕はあれの存在を経験しましたから、断言します。」

 いつきは茶を飲んで、唸るような妙なあいづちをうった。

「うんむー。…では私達としてみれば、死霊はともかく、生霊はあると断言せざるを得ないね。…だってビトウくんは、あたしが柱をけとばしてたのも知っているわけだから。あのときいたものがあんたの魂なのかそれとも生霊なのかとかいう議論はあるわけだけれど、あんたがいたかいないかの判定は、まちがいなく、いた、のほうだし。」

 春季は考えながら茶を飲んだ。そして言った。

「…つまり僕ら的線引きの総括としては、とりあえず、…神様と、生霊はいる、ってことで…、いいですかね。」

「…ま、いいよ。」

「…ということは死霊に関しても確率が…となると黒沼の手は…」

「…どうかね、そこはとりあえず、一線ひいとこう。…あたしは陽介の記憶の再生だったってところに興味を感じてるから、そこを確認したいね。」

「ああ、僕もそれは…。…ただ、考えてみれば、記憶の再生だったとすると、先輩はあそこで誰かが…まあ死んだまでいかなくても、コケたのか何かを見ていたってことになりますね。」

「いやー、そうでもないっしょ。だって、記憶、でしょ?」

「…?」

 春季は奇妙な顔でいつきを見た。いつきはニヤリとした。

「…世界は、日が登ってから沈むまでしか存在しないってわけでもなかろ?世界が球体で太陽が一つならば、必ず夜の半球ってものがある。記憶の海にも夜は来るってわけ。…記憶の整理や再生のオートシステムは通常レム睡眠下に活動しているわけだけど…」

 そこまでいつきが言うと、春季はびっくりしていつきを遮った。

「…つまり過去に、夢で見た、と?」

いつきはこくこくうなづいた。「…どうよ?」

 春季は唸った。

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