12 BON-1
「いつき、衣装合わせしよう。そろそろ着て歩いて、裾とか、試してみないと。」
ユウがそう言ったので、いつきは奥の広い部屋で、立派できれいな本番用の衣装を合わせてみた。
「…ガイジンとは思えないね。あまりにぴったりだよ。」
「大丈夫みたいだね。」
「ちょいと歩いて、まわってごらん。」
いつきは言われたとおり歩いたり回ったりしてみた。
「…ほら、この扇子もお持ち。けっこう大きいから、風受けるよ。」
飾り扇子はとても大きく、重いものだった。いつきは普段鍛えているのでなんとか持てたが、普通の女の子ではとうてい無理だろう。ひとさし舞ってみせると、ユウは満足そうだった。
「大丈夫みたいね。いいかんじ。オマエがんばったじゃない。」
「がんばったともさ。」
「…似合うよ。4割増、美人に見える。」
「あんがとよ。…せいぜい裾ふんでコケないよう気つけるわさ。」
「それはそのとーり。ほんと気ぃつけて。あと、本番では化粧べたべた塗るから。顔掻いたりしちゃだめだかんね。」
衣装合わせはオッケー、ということで、いつきは着たばかりの衣装を脱ぎ始めた。
「…そういや、もう盆だね。なんか、火たいたりすんでしょ?おばちゃんたちが言ってた。」
「うんうん、ちょっと火たいて、祝詞くらいあげるかな。…てゆーか、あたしと婆は祝詞上げに氏子かけずりまわるから、3日くらいは日中不在だよ。タケトさんや慎二さんも、車まわしてくれるから、多分誰か来てくれるとしてもどっかのジジイとかオサーン。…おばちゃんたちと子供らも自分ち帰る。不便だろうけど留守番よろしく頼むわさ。田中センセや久鹿たちに昼と夜にパンでもうってやって。釜で焼ける?あとはフライパンと囲炉裏につる鉄鍋とかもあるよ。全部すぐ見えるとこに出てるし。なんなら裏のあいてるとこで、たき火して調理してもいいよ。火の面倒は自分でみられるんでしょ?」
「うん、火の始末はできるけど…それよりも…からっぽになるんだ。朝のおつとめとかは…?」
「ん、略式であたしがやっとく。…オマエできる?できるならまかせてもいいけど、べつに。」
いつきは衣装を脱ぎながら言った。
「うーん…なんか、やっぱり、素だと、ここの神さんでもあたしのことキツイんだって。だから、やめとく。悪いもん、よくしてもらってるのに。」
「えー、なんでそんなこと?誰がそんなデタラメ言ったの?」
「デタラメじゃないよ。さっき散歩しててさ、…ハチミツくれたよ。あれそうでしょ?」
「ウッソ-!!」
衣装や扇子をうけとりながらユウは目を丸くした。そしてみるみる顔が曇った。
「…ごめんね。翠さんそんな我侭言うなんて、思わなかった。…」
「別に我侭じゃないよ。仕方ないじゃん。気にしないでよ。」
「でもどうして?」
「なんかね、向こうがでなくあたしが、干渉するんだって、神さんに。だから、向こうはちょっとつらいらしい。普通そういうことないらしいから。」
「…そうなんだ。」
「うん、あたしそういうタイプなんだって。だからあたしをすごく苦手としてる神さんも、いるかもしれないって言ってた。」
「…そう…なんだ。」
「…でもむしろそのほうがいいんだって言ってた。だから気にするなって。…翠さん、親切だね。ちょっとびっくりしちゃった。男の子が好きだってきいてたからさ、女には冷たいかと思った。神様って性別よくわかんないね。」
「…うん、女にも優しいんだよ。…それにむこうさんの性別もあんまり気にしなくていいんだけど。でも…」
ユウは本当に申し訳なさそうな顔をした。
「…そんな答えだなんて。…こんなとこに、無理矢理連れてこないほうがよかったよ…。ごめんよ、いつき。」
あろうことかユウが突然涙ぐんだので、いつきは慌てて手をふった。
「や! なんだいアンタ~いきなり。」
「だってさ…」
「…」
いつきはじっとユウの言葉を待ったが、ユウはそれ以上言わない。
…もしかしたら、翠さんがいつきのことを助けてくれるだろう、という希望的な観測が、ユウの中にはあったのかもしれなかった。だとしたら、助けを求めたのに断られたような、見捨てられたような気持ちになってしまったのかもしれない。だがそんなことでこんなに落胆するものだろうか?そもそもユウのことでもあるまいに…。いつきは頭を掻いた。
「…別に、見捨てられたわけじゃないよ。自分のこと少しわかったし。よかったと思ってるよ?」
「…」
「神さんだってなんでもできるわけじゃないんだもん、仕方ないじゃない。」
いつきは困って言った。
ユウは言うべきことが思い付かないようすで、ただごめんよ、とくり返した。
なぜそんな反応になるのか、いつきにはよくわからなかった。
でもユウは見た目よりひょっとしたら優しい子なのかもな、と思った。そして、もしかしたらいつきの気持ちをとても女の子らしい種類のものだと勘違いしているのかもしれない、と思った。
+++
少し時間が出来たので、夕食のあと、陽介を探してみた。
陽介は割り当てられた小さな部屋で、大人しく何かを読んでいた。伸ばした片足に大きな白猫が頭をのせて、どろん、と長くなってくつろいでいた。
「…あれま。なんだか幸せそうだこと。」
「おう、おめーか。」
陽介はノートから顔を上げた。
「なにしてんの。」
「ん、自分のレポート整理したり、田中さんの原稿のチェック手伝ったりしてた。田中さんの原稿面白いぜ、見るか?」
「なんの原稿?」
「俺が預かったのは『時間旅行』の記事らしい。誤字がないかみてんの。」
「『時間旅行』って…なんか雑誌だよね。なんの雑誌だっけ。」
「まあいわゆるアウトエリア趣味の季刊誌で、傾向的にはやや金持ちで親父趣味というか…、インテリ親父のバカンス雑誌、みたいな。」
「へえ。」
いつきがのぞきこむと、すばらしくきれいな日本のアウトエリアの田舎風景の写真が入った、見開きページの版下原稿だった。
「…この写真とってるカメラマンが、学生時代の友達なんだってさ。二人で組んで、文は田中さんが書いてるんだと。」
「なーんだ、案外とカッコイイんじゃん、田中チャン。」
「だろ。…もう3年連載やってるって。」
猫が眠そうに頭をあげ、起き上がってくしくしと顔をこすっている。
「…あんたがおちついてるみたいでよかったわさ。」
「…騒いだって仕方ないっておめーとおばあちゃんが揃って言うからじゃねーか。騒いだほうがいいのかよ。」
「なぜそういう解釈になるかい。」
「ほんとは騒ぎてーけど我慢してんだっつーの。」
「なーにをを、」いつきはそこでぷふっと鼻を鳴らしてからつづけた。「…しろにゃんこ膝に甘えさせてのたまってんだかヨー。」
すると陽介は鼻に皺を寄せて豚顔になった。
「悪いかよ、あー幸せだよこんな旅先でにゃんこタンだきゅーできてそれがなんだっつんだよ。」
「ひらきなおんな。」
二人はひとしきり豚顔と「が-」顔でお互いに馬鹿にしあい、それで気が済むと話をもとにもどした。
「…まあそれはいいとして…さっきおばあちゃんがここの神様に、春季は2~3日かかるって言われたらしいんだ。」
「ああ、聞いたんだ。」
「うん、聞いた。だから、とりあえずにゃんこタンと2~3日ラヴラヴ過ごすワ。」
陽介がぬけぬけとそう言うと、猫が「にゃーん」と鳴いて陽介の肘のあたりに顔をすりすりした。陽介はあぐらをかいて、猫をどっこらしょとひざの上に抱き上げた。猫はぐるるる~と御機嫌音をたてている。
「…ま、それはいんだけどさ、あんた、死体めっけたって?」
「俺じゃねえよ。春季。」
「…なんでまた。」
「なんでってこともない。偶然。…ハイキングコースのあっちっかわに供物台てとこがあんのヨ。卓状のドルメンな。俺様はドルメンが大好きだから、見に行った。んで春季が、『お花咲いてる~』っつってちょっと道はずれて中にはいっていったらば、赤いシャツ着た白骨様が。…俺は見なかった、こわいから。それにとおりすがりのヒトにしかられちったし。」
「…ふーん。」
猫がせんぱいせんぱい~、といわんばかりに、陽介の胸をとんとん、と叩いた。
「ん?なに。」
「にゃ~」
「にゃ~と言われても…」
すると猫は陽介の膝からおりてぽてぽてと荷物の方にあるいてゆき、春季のバックパックをカリカリした。
「ん?なんかだすのか?」
「にゃ~」
猫がさわっているところを開けてみると、カメラが入っていた。
「あ…写真か。」
いつきが陽介の顔を見ると、陽介はしぶい顔をして言った。
「…春季が写真とってたけど。見る?」
「骨の?」
「ああ。」
「…どれ。」
いつきは手を伸ばしてカメラを受け取った。モニターを見ながら写真データを回してゆくと、果たしてそれはあった。
「…きれいなもんだ。…これは若いね。若くて健康な男。」
「わかるほどうつってんのか?…アッ!! 俺は見ない!!」
カメラを差し出されそうになって、慌てて目を覆う陽介に、いつきは「プ」と笑った。
「…まあ頭蓋骨だけでもね、見慣れるとけっこうわかるもんなのさ。」
「そうなのか…」
いつきが言うと、ねこはいつきのほうへ行って、わきからカメラをのぞきこんだ。いつきはその頭をナデナデしてから、勝手に写真をまた回した。
「あらっ、だれ、このねーさん?なんかちょっとサワヤカじゃない?」
「ああ、そのひと、山のあっちがわにいるウィズリー京子さんて人。小さな商店やっててさ、おしゃべり好きで楽しいねーさんだよ。…ちょっと警察よんでもらったり、世話になったんだ。車で送ってくれたり、親切な人だった。」
「写真なんかとっちゃって尾藤くーーん。」
いつきは面白がって猫の額をちょいと指で押した。白猫は不満そうに「むう」と鳴いたが、いつきが他の写真を勝手に見ても、別に怒らなかった。花や木の葉、説明の看板などにまじって、何枚か陽介の後ろ姿の写真があった。夏の緑のなかで、妙にはんなり立っている独特の、そして見慣れたその感じ。…春季は陽介の背中が好きなのだな、といつきは思った。
「そういえばさ…あんた、明日から盆のセレモニーに入るって知ってた?」
いつきは写真を見ながら陽介に尋ねた。陽介は言った。
「あ、そうだな。明日の晩は迎え火かな?…おふくろも多分やってるよ。おふくろんとこは浄土真宗だから、呼ぶのは坊さんだけど。…そうか、それで親父も実家方面にいたのか。忘れてたよ、家離れると、なんか忘れるな、伝統行事は。…神社も盆てやるんだな。寺だけかと思ってた。」
「氏子宅まわって祝詞あげまくるんだって。それに子供やオバチャン達もみんな家にかえっちゃうんだ。タケトさんと慎二さんはおばあちゃんとユウの運転手するらしいから、下手するとあたしらと客だけ、とか、そういう状態になるらしい。」
「…つーか、つまり、飯くえないってこと?」
「ブ-外れ。あたしが作るってこと。」
「つーかおまえって飯つくれんの?」
「パンがうてる。」
「ワ-オ。」
陽介が言うと、猫も「ニャ-オ」と言った。
「…期待してるよ。おれ、台所に関してはほとんどなにも手伝えんから。家庭科の時間、皆に笑い提供してっから。おまえ作る人、俺食うひと、つーことでまあよろしく。」
「せいぜい覚悟しとけや。餓死しない程度のもんしかつくれんでー。」
いつきはカメラのスイッチを切って、春季の荷物の中にもどした。
「…陽介、警察になんか言われた?」
「それの件?別に何も。…あ、そーだ、俺、そこで春季のこと待ってる間、供物台にうっかり腰掛けちまってよ…」
「…腰かけんなよ、んなもんに。食われたってしらんよ。」
「…うーん、通りすがりのひとにも腰掛けちゃイカンてめっちゃ叱られてさ。その人、俺の記憶では『坂上』って名乗ったと思うんだよなー。だけど、『坂下』の間違いだろってケーサツに決めつけられてヨ。」
「…ああ、坂下さんね。あの、ユウの好きな慎二さんち。」
「うん?なに?水森のカレシかよ。」
「か、そのにーさんじゃない。」
「…ふーん。そうなんだ。…んでその坂上さんだか坂下さんだかがよ、春季を探してくるからちーと待ってろつーていなくなったからまってたんだけど…戻って来た春季はその人に、会ってないんだよなあ。」
白猫がウーンとあいづちをうった。
「…背の高いひとでさ、顔はみえなかったんだけど…今考えるとさ、あれ、翠さんだったかなって気がすんの。」
「慎二さんは背はたかくないなあ、お兄さんは知らないけど。…鳥居んとこで会った人に似てんの?」
「うん、なんとなく。でも…凄く厳しい感じだったから、ちがうかもしんね。翠さんソフトな雰囲気だったし。」
「…」いつきはどこまで話そうか、と少し考えた。そして言った。「…あそこの遺跡ね、荒れちゃってるらしい。なんか、ちょうど行きにくいとこにあるんだって。」
「…だな。向うからもこっちからも。ただ、一つ近い村があるはあるらしいけど。」
「そうなんだ?」
「うん。その村からの登り口の近くにあんだよ。」
「…その死体、思いっきり不自然だとおもわない?」
「…」
陽介は黙った。
白猫がじっといつきを見上げている。
「…勿論あんたたちは んなもんにかかわり合いになりたくないんだろうし、そこんとこはあたしもまあ同じだけど、それはともかくとして…おかしいでしょ。見た感じ回りに自殺らしき痕跡ないし。」
まーう、と猫が鳴いた。…いつきは猫をちょっと撫でた。
陽介は言った。
「…だとしても、こっちには関係ねーよ。」
「…ここんちの親父も思いっきり不審な死に方してるって話はきいてる?」
「…それは、田中さんがこだわりあるらしくて、詳しく聞いた。」
「その供物台とやらに行きにくいのは人間だけじゃないらしいね。でも人間のほうが、行きやすいのは確からしい。…あんたが会ったの、多分翠さんじゃないと思う。」
陽介は眉をひそめた。
「…そうなのか。俺はそのへんはよくわからん。」
「…天狗っつーもんじゃなかった?」
そう尋ねると、陽介はさすがに唸った。この唸りはギブアップの唸りだ。
「天狗には見えなかった。…江面さんはあっちのほうには確かに昔は修験道の寺があったようなこと言ってはいたが。」
「…天狗ってどんななの?」
「ああ、全体的には山伏みたいなかっこうで。山伏って山岳系の修行やってるヒトな。修験者とか行者とかいう。鼻がでかいの。…古いパターンだと、顔が猛禽なんだ、確か。なんなんだろ。修験道のお山には話がのこってることが多いんだよ。」
「…そりゃかなり特徴的な姿だね。見間違いはなさそうだなあ。」
「うーん…でも顔は見てないから断定はできない。…だがほら、俺は基本的に、そーゆーもん見たのは今ンとこ17年生きてて翠さんだけだから。」
「…そうか。いや、その天狗もね、最近、誰も見てないらしいんだわ。」
「…ふうん?」
「…おかくれになった、って、どういう意味?」
「ああ、まあなんつーか、死んだの特別な言い方。」
「…そうか。…その天狗、がね、おかくれになったかも、て話もあるらしい。」
「…ふうん。」
「…そのせいで、供物台のあたりに不都合が出てるんじゃないかって。」
「…そうなのか。」
「…だから応急処置をほどこすらしいんだ。」
「応急処置?」
「うん。供物台に人が近付かないようにしてやるんだって。それで、…ボディがあるほうがここからは行きやすいから、尾藤くんのボディを急遽借りたってことらしい。」
「!」
陽介は顔を上げた。
「…そういう前後関係があったわけ。」
「そういうこと。…やっぱりさすがに、人死には深刻らしいよ。」
「人死にもそうだが、白骨になるまで見つからないっていうのがなあ、きついよ。」
「それもそうだね。」
いつきはうなづいた。
「…しかしそれにしても、ここは死人がよくでる山なんだね。まあ、山ってそんなもんなのかな。」
陽介はふと思い出して言った。
「そういや、ここの山って、沢に挟まれた地区が、ミステリーゾーンなんだとさ。…盆になると、そこを死者が歩くらしいぜ。」
「おわ! 怖がりの陽介にしてはこの時期にヘヴィなネタを…」
いつきがびっくりして言うと、陽介はハハハと笑った。
「…言われてみりゃ、けっこうこわいな。京子さんに聞いたときは春季とよくつくった怪談だねーなんつって笑ってたんだけど。」
「…ミステリーゾーンの話はあたしも聞いた。沢に挟まれた地区ね、空間が、なんかおかしいんだと。」
「あ、やっぱそうなんだ?」
「らしい。ずっと昔からおかしいらしいよ。…だからそのせいできっと向う斜面とこっち斜面の間に、いろんな意味の境い目ができちゃってんだろね。」
「はー、そうなのか…。」
猫は陽介のところにしずしずと戻って、膝にのしのしとのっかった。安定のいいところをかってに探して、ふっさりとうずくまる。陽介はそのふかふかの背中を撫でた。
「…なんかさー、ヤーな展開になってきたよね。」
いつきがボソッというと、陽介はうーんとうなった。
「…コロシ関係はヤッパちょーっとイヤかもな…」
むう~、と猫も同意した。
+++
翌日、朝食が済むと、何台か迎えの車が来て、子供達とおばちゃんたちを一足先に実家に連れ帰った。すっかりいつきとも仲良くなった田舎のおばちゃんたちはいつきの背中をばしばし叩いて「じゃ、留守番たのむよいつきちゃん!盆が終わったらいよいよ本番だから、がんばろねえ!」と言って、みな陽気に家族のもとへと帰って行った。
いつきは、おばちゃんたちと別れて、随分自分がここに馴染んでいたのだな、と不思議な感慨を覚えた。多分、故郷を離れてから、今まででもっともウマのあう女たちというのが、ここのおばちゃんたちや、すそにしがみついてくるかわいい子供達や、ユウなのではないかと思う。…藍ちゃんは、少し苦手だ。藍ちゃんはなぜかあからさまにいつきを嘲笑する。その理由はわからない。
もっともここでの暮しは、年嵩のおばさんたちや、エキスパートのおばあちゃん、それにユウの言うことを丸飲みして従うだけだ、学校やらラウールの用事でいくところやらとは根本的にちがう。ある意味、考えることも判断することもない。楽といえば楽だった。藍ちゃんだって、口をきかなければそれで済む。
その藍ちゃんを載せて、江面の車が鳥居を離れると、神社には、忙しく支度するおばあちゃんとユウ、それから白い猫をぼんやりうっとりだっこしたままの陽介、陽介にしがみついたまま幸せそうにものすごい尻尾をふっさりふっさりと緩く動かす大猫、役にたちそうもない田中、そしてあとはいつきが残っただけだった。
寝ぼけ顔の陽介に「眠れた?」と尋ねると、陽介はぼけらっとしたまま、「うん…」とうなづいた。これだけでかい猫がふとんにはいっていれば、まっとうな夏なら汗疹ができるところだ。寒い山中の夜もさぞかし快適にすごせたことだろう。
春季は昨晩一旦神社に戻って来たことになっていた。無論また出かけたことになっていたので周囲の不興もひとしおだったが、そこはいたしかたない。
おばあちゃんとユウの支度が整った頃、慎二が久しぶりに神社に顔を見せた。車には慎二よりも5~6才年上な感じの男が同乗していて、一緒に下りて来た。
「清一さん、今年もまたお世話になります。」
おばあちゃんとユウがそろって頭を下げると、セーイチさんとよばれた男も深く頭をさげた。
どうやら、阪下の長男らしかった。…慎二とはまた違うタイプで、まあまあスンナリした好男子といえた。日本人的な引き目で、卵型の顔だが、礼服がきちんと似合う。風格があるとでもいえばいいのか。
「…こちらこそ。さ、慎二がタケトのところまでお送りさせていただきます。ユウさんはまっすぐウチでいいんですよね?」
「はい、頼みますねえ。」
清一は車のドアを二人のためにあけた。
おばあちゃんが振り返って言った。
「そんなら、いつき、たのむよ。ああ、独りでお滝いただくのだけは、まだよしんさい、それ以外は自由にしてなさい。男衆に飯だけ頼むよ。」
「うん、わかったよ、おばあちゃん。いってらっしゃい。」
「夜には帰ってくるからね。きっとなんかお土産あるよ、食べ物とか。」
ユウも言った。
「うん、楽しみに待ってるよ。ユウもがんばれよー。」
いつきは手を振った。
二人を載せて車が去ると、陽介がぼそっと言った。
「…あれが阪下の長男?…ちがうな、俺が会ったの、あいつじゃないよ。あんな皇族みてーな感じじゃなかった。背ももっと高かったし。」
陽介の言葉をきいて、田中が言った。
「え、どこで誰に会ったの?」
+++
建物に引き返しながら、陽介は春季が死体を発見した件を一通り田中に話した。田中はうーむと唸った。
「…あそこか…そういえば、誰ぞに叱られたって言ってたね。そういうことになってたわけだ。」
「…そうなんですよ。」
陽介がうなづくと、田中は首を傾げた。
「坂上って家は確かにこのへんにはないよ。観光客とかそうそう来るものでもないし、考えられるとすれば州かドームの役人関係かな。でも役人が何しに来たって話もあるよねえ。…それで翠さんかも、とかそういう話になったわけね。」
「そういうことなんです。」
「…僕はそういうレベルの話になっちゃうとどうもねえ。まあ、不思議な人物がいたってことで、オチにするかもなあ。」
「…まあそうですよね。」
まあそうですよねといいつつも、何か面白いこと言わないかなあ、と陽介が期待しているのがわかったのか、田中はちょっと遠慮がちに再び口をひらいた。
「あとは…無責任な呪術ミーハー発言、しちゃっても許されるなら…」
陽介はすかさずそそのかした。
「…してみてください。許されなかったらきっといつきが怒ってくれます。」
「う、それも怖いな。」
「なによ。言いたいことがあるなら言ったら?」
いつきがじろっと田中を見ると、田中はちょっと心無しか距離をとって、それから言った。
「…いけ…いやいや、えーと、つまり、そのホトケさん、お供物だったんだったりして、みたいなー。」
「…へ?」
話が飛躍したような気がしていつきが首をかしげると、陽介が鋭い目を田中に送った。
「…まさか。…そんな話、あるんですか?」
「…いえいえ、ありませんとも。」田中は慌てて言った。「言ったデショ、呪術ミーハー発言て。」
「…俺が聞いた話では、魚や…食べ物をあそこに捧げるってことでしたけど。」
陽介が言ったので、いつきは、あー、あそこの話ね、と思って言った。
「…天狗に食べ物あげるとこだって聞いたよ。供物台でショ。…陽介は天狗はなんか山伏だかなんだかの修行の場にいる神サンみたいこといってたやん。人肉は食わないしょー。」
田中は眼鏡をずりあげた。
「…まあ確かに、ストレートな意味では、食べはしないとは思うけどね。…それとは別に、あっち斜面には、目玉の主もいたからさ。鬼は食うよ。」
「…目玉の主?」
いつきが聞き返すと、陽介が言った。
「ああ、目玉岩の?暴れまくってたら…泉の主にぶったぎられたとかっていう鬼…」
「うん。それ。」
田中は短く答えた。
いつきは言った。
「でもあそこは天狗用だって聞いたんだけどナ。」
「…この御時世、遺跡が常にもともとの意味で使われ続けてるとは限らないんだよ。…100年くらいまえに文化の断絶もおこってるし。」
「そうか…信仰してるほうが勘違いって場合もあるか…」
陽介が言ったので、いつきもなるほど、と思った。供物をあげるのは人間だから、相手の神様を勘違いして、違うものをそなえてしまった可能性もある。
陽介は続けて言った。
「もしそうなら、願掛けだってことでしょ?」
「うん。…だとしたら他所から願かけた本人が確認に来てたりってこともあるかもなって思ったわけ。」
「なるほどね願かけた本人ですか…。…てゆーか、田中サンて、実は呪術ミーハーなんですか?」
「そーなのよー」田中は照れて笑ってばたばた手を振った。「もう、目がないんだよね! 藁人形とか呪いとか。」
「…そんなもんかかわって大丈夫なんですか?」
陽介がちょっと怯えて言うと、田中はだいじょーぶだいじょーぶといってまた手を振った。
「まだ呪いやるまえのやつだし、ちゃんときれいにして保管してるから。」
陽介は「あつめてんのかい?!」と言いたそうな、いやそーな顔になっている。
田中は陽気に言った。
「あ、そんなら、おばあちゃんもいないし、ここの神社の面白名物見せてあげようか。」
「面白名物??」
こっちこっちと招くので、いつきと陽介と猫はついていった。
通ってはいけないといわれている縁側の通路を通った。
…沼は今日も黒くよどんでいる。
「ここ。」
ついたのは、どこかの部屋の外だった。
「ここね、久鹿くんが寝てる部屋だよ。」
「えっ、そうなんですか??」
「位置が複雑だからよくわかんないだろ。昔障子だったとこ、壁にしちゃってるし。…あれみて。」
促されて二人が見上げると、上のほうで何か白い紙のようなものがひらひらしていた。
「…なんでしょう?…シデですか?」
「ちがうちがーう、アレはね、ヒトガタです。」
「…は?」
「白い紙を人間型に切抜いたものです。」
陽介は思わずとびのいて、いつきの袖を掴んだ。
「なっ…なんで?!」
「…君たちが面倒なものに襲われたとき、あれが身替わりになってくれる、というおまじないです。」
陽介が怯えているので、いつきが言った。
「…きくんかい、それ。」
「尾藤くんが無事なら、きいてるのと違うの?」
「なるへそ。」
いつきはさりげなく陽介の足をふんづけて、陽介に喝を入れた。
そのとき、ふと見ると、足下の白猫が、黒い水のほうを見ていた。
…猫はよく、何もない空点をじっと凝視することがある。
まるでそこになにかが見えるかのような、緊張した態度で。
いつきは足でちょいと白猫の尻尾を触った。
「オイ、何見てんのよあんた。」
猫は振り返らずに、じーっと沼のほうをみている。
「…猫は人間にはみえないものが見えるというからねえ。」
あきらかに陽介を脅してからかっている声で、嬉しげに田中は言った。
陽介はもうすっかりびくびくで、いつきのかげに隠れんばかりだ。さすがに人類たるプライドで耐えたようだったが。
しかし猫のほうは、次の瞬間ぱっととびのいて、いつきの後ろにかくれた。そしていつきの足のよこから、まだそーっと沼を見ている。
「なんか見えるんかい?」
いつきが聞くと、陽介は手をのばしてささっと猫を抱き上げた。
「もうやめてくれ、頼む。…あっち行こう。な?」
陽介は熱心に猫に語りかけ、猫は「なー」と返事をした。
+++
「…田中センセイと遊んであげればいいのに。」
「…今日は俺が遊ばれてる。」
「じゃ遊ばれてやりゃいいじゃーん。」
「お前本当に俺の友達なのかよ?!」
「…でも退屈でしょ、パンこねるの見てても。」
「…いいんだ、春季たのしそうだし。」
土間におりる床のへりに腰掛けて、ぼけーっと膝の上に肘をついている陽介のわきで、白い猫はあっちへゆき、こっちへゆきして、いつきの手許を覗き込もうとしている。
「…どこでおそわったわけよ、パン作りは。」
陽介が尋ねるので、いつきはいった。
「…普通はお母ちゃんから教わるみたい。…でもあたしは神殿のババァ供とか…あとは軍隊でも習った。」
「へえ、軍隊でね。…なんか、イースト菌で膨らますんだろ?ここんちに、あんの?」
「イーストかどうかしらないけど、おまんじゅうふくらますたねに使うのを日々少しずつ残してもう50年以上うけついでるんだって。」
「げ…そりゃすげえな。」
「うん。つかえるかどうかやってみてくれって頼まれた。あんたら試食係ね。」
「へいへい。」
「…膨らまないと悲惨だから薄っぺらくつくってみる。それならなんとか食えるよね。」
「…食うよ。…田中さんはどうかしらないけど、俺は。」
白い猫はやっと見やすい落ち着き場所を発見したようで、棚の段に陣取り、そこから見下ろすようにしていつきの手許を覗き込んだ。…パンだねがもきゅもきゅ動くのがたまらないらしい。
「…にゃんこタンは食えるのかね、パンは。」
「…にゃんこはフードがあるから。」
いつきはしばらくたたいたりこねたりしていたが、てきとうなところでたねを丸くして、上に濡れ布巾をかけた。
「…あれ、もう終わり?」
「ううん、20分くらい寝かすの。」
「ふーん。」
いつきが桶の水に近付いたので、陽介は立ち上がって柄杓をとり、少しずついつきの手にかけてやった。
猫は布巾のかかったボウルを残念そうに見ていたが、気をとりなおして、陽介の足ににゃーんにゃーんと甘えて前足をかけた。陽介は柄杓を置いて、猫を抱き上げた。
ちょうどそのとき、田中の静かな足音がぺたぺたと近付いて来て(足音が猫より静かなのだ、多分階下の住人が厳しいマンションにでも住んでいるのだろう)、少し向こうから声をかけてきた。
「や、お邪魔して悪いんだけどさ、…客がきたんだよ。僕の手には負えない相手なんだよね、久鹿君ちょっと頼んでいい?」
「へ?」
陽介が返答に困っているうちに、田中はさささっと逃げてしまった。
「あ、待ってよ田中さん! …て、いっちゃったんだけど…」
「…あたしが行くよ。一応留守番だし。」
いつきは手ぬぐいで手を拭くと、草履を脱いで床に上がった。
+++
陽介はなんとなくいつきの後に続いた。陽介のあとを、白い猫がこれまたなんとなくついて来た。
表へつく前に、勝手に上がって来たらしい客と行き会った。
月島だった。
「…あ、月島さん。」
「…きみ、まだ居たのか。こんなところで時間をムダにしていてはいけないんじゃないのかい。」
のっけからイッパツ説教するとふと足下の猫に目をとめ、…そして奇妙に顔をしかめた。
「…なんだ、これは。」
「…えと…ペルシャ猫です。」
「…これが?」
「ご覧になられたことがない…?」
「チンチラをかね?市長の奥方が飼ってるよ。」
「…え…と、じゃ、どこか…変、でしょうか…?」
「…」月島は眉間に皺を寄せて黙った。それから何事もなかったかのように目をそらすと、いつきを見た。
「ああ、修行に来てる子か。目木君だっけ?このあいだ米を運ぶとき会ったな。留守番はきみか。」
「…そうだけど、月島さんは何しに来たの?」
「『月島さん今日はどうされたんですか』、といいなさい。」
ビシャリと注意されて、いつきは自分の養父がやるように、片方の眉だけを器用にゆっくりとつりあげた。
「あら失礼。今日は何の御用件ですか?」
「なにも。暇なら留守居につきやってくれとおばあちゃんに言われただけだ。」
陽介はびっくりしていった。
「え、暇って…だって市庁舎は?」
「業者が一斉に盆休みに入るから、我々も交代で休むことにしているんだよ。」
「そうなんだ…。」
…おばあちゃんに運転手でも申し出て、やんわり断られたというあたりなのか。
「田中くんと、目木くんと、陽ちゃんに…猫か。確かにいたほうがよさそうだな。食事はどうするんだ?」
「ムッシューのお口にあうかどうかは甚だ疑問ですけれども、一応私が仰せつかってますわ。」
いつきは嫌味なほどにっこり笑って丁寧な共通語で慇懃無礼にそう言った。
「そうか。ではひとり分追加で頼むよ。」
「もう仕込んでしまいましたから、幾分少なめだとはおもいますけれども、我慢して下さる?」
「それは悪かったね。勿論我慢しよう。」
「…じゃ、あたくしこれで。」
いつきはそう言うなりくるっと踵を返してとっとと台所へ引き返して行った。陽介は内心「あーっ…」と思ったが、どうすることもできない。あとで多分いつきに酷い目に合わされるのは陽介なのだが。
するとその後ろ姿に、月島が言った。
「…夕食は調達してきてあるから、準備しなくていいよ。」
いつきはくるっと振り返った。
「まあ! そうですか! 御親切いたみいります!」
それからまた失礼なくらいににっこり笑うと、くるっと頭を戻してすたすたと去った。
陽介は恨めしく思って月島を見上げ、言った。
「…もう、せっかく御機嫌とってたのに、ひどいですよ月島さん。…ちょっと不躾だからってあんなにキョーレツな指導いれなくったって。あいつはちゃんと話せばわかるヤツなのに…」
「…言葉づかいがだらしない女はあらゆる部分がだらしないものだ。」
月島はそう言い捨てた。するとそれまでじっとしていた猫が陽介から離れ、いつきの行ったほうにむかってぱーっと走って行ってしまった。陽介は心の中で「頼むぞ春季」と念じながらそれを見送った。ここでいつきにヘソをまげられたら、不安でおちおち眠れなくなる。こんな恐ろしい場所で、お盆で、ハイキングコースの先にはミステリーゾーンがあって、人も死んでいるというのに。 いつき以外の誰が頼りになるというのか。
「…あらゆる部分て…なんにも知らないくせに。」
「…あの猫は目木君についてきたのかい?」
「ちがいますよ。朝おきたら俺の部屋にいたんです。」
「…知り合いか?」
そう聞かれて、陽介はどきっとした。
普通、「朝そこにいた猫」を「知合い」とはいわないだろう。
陽介は考えたあげくにうなづいた。
「…連れです。」
「…いったいどうしたんだ、あれは。」
月島は深刻そうに眉をひそめて言った。
…やはりだ。月島は、あの白い猫が人間だということがわかっているらしい。
陽介はかなり迷った。
すると、月島が言った。
「…エリアから連れてきたのか。ああなって何日目だ?」
「昨日の朝からなので、2日目です。」
「…明日になっても戻らなかったら沢を登ったほうがいい。盆の最中で危ないが、きみが行くしかないだろうな。覚悟をしておきなさい。」
「…は?」
「…なに、死んだときはわたしが先生に上手く言っておいてやるから心配するな。」
「ちょ…ちょっとまってください、どういう意味なんですか?!」
「…あれを連れてエリアに戻って、あれの親兄弟になんと言い訳するつもりなんだ。しかるべきところに泣きついて戻してもらうしかないだろう。大丈夫、陽ちゃんなら100パーセント成功するさ。辿りつけてかつ帰ってこられればの話ではあるが。」
「しかるべきところって…」
「明日教える。」
「ま、まってください! 月島さん、ちょっと、お話しましょう…どこか部屋に…。」
陽介は慌てて月島の袖をひっぱると、手近な襖を開けて部屋に連れ込もうとした。しかし、当の月島に、素早く手を掴まれた。
「…あわてなくていい。そこの襖はおばあちゃんがいないときは開かないよ。…誰もいないんだろう?それなら奥の広い部屋で縁側をあけないか。あそこは一番眺めもいいし、広くて居心地がいい。」
おばあちゃんファンの月島は、どうやらこの神社のかくれたエキスパートらしかった。
+++
月島につれられて、いつもいつき達が神楽の稽古をしている大きな部屋に着いた。雨戸はあいていたので、二人で手分けして障子を開け放ち、日向の御簾をおろした。部屋は香を炊いたあとらしく、ひっそりとした芳香が微かに漂っていた。
空気を入れ替えて人心地着くと、二人は部屋のまん中に向かい合って座った。
陽介はさすがに歯切れは悪かったが、供物台で白骨死体をみつけてしまった話や、朝春季が猫を抱いて座っていた話や、翠さんが春季の体を借りていった、という話を一通りした。話している自分でも、現実離れした話ばかりでくらくらした。
月島は黙って聞いていたが、陽介の口調が次第に重くなり、ついに途方にくれて尻切れに終わると、ふんふんと2~3回うなづいて、足を崩してあぐらをかいた。
「…後半はおばあちゃんと目木くんに聞いたわけだな?だから陽ちゃんとしては確かめる術はない、と。そういうことなわけだ。」
「…はい。」
陽介がおずおずうなづくと、月島もそれを了解してくれた。
ところで…と月島は言った。
「…田中から聞いてるかい。ここのあの方は男の格好をしているが、実は男好きだ。神楽に男の子をつかうと、嬉々として…かどうかはわからんが、とにかく連れて行く。」
「…田中さんでなく、別のひとからききました。」
「そう。まあだれからでもいいが。…そんなわけで女衆には絶対に明かさない部分がある。…おばあちゃんは知っているようだが、見てみぬふりだな。」
陽介はびっくりして顔をあげた。
月島は真面目な顔をしていた。
「…月島さんはどうしてそういうことを御存知なんですか。」
「このへんで育った男ならだれでも知っているよ。江面でも知っているだろう。勿論彼の得意方面の話題じゃないからおいそれと口にはしないだろうけれども。…陽ちゃんの連れは正直なところ、かなりピンチだと思うよ。…陽ちゃんはどうしてそう落ち着いているんだい。」
それはいつきとおばあちゃんが落ち着くように言ったからだし、騒いでも始まらないということが分かっているからだしそれに…。
それより陽介は、江面が妙に春季のことを心配していたことを思い出して、不安になった。
「…ピンチって…どうピンチなんですか。」
陽介は尋ねた。月島は言った。
「もし女衆の言う通り陽ちゃんの連れがボディだけ失敬されたというなら、そのボディは何につかわれてるかわかったものじゃないぞ。…よくて強制労働なのは間違いない。彼らの基準で人間が動いたら、普通の体ならあっというまに使いつぶされてしまう。あるいは下手をしたら…」
「下手をしたら…?」
月島は答えずに、じっと陽介を見た。
それよりきみは何か言わなくちゃならないことを隠しているだろう、と言いたげな顔だった。
陽介はなんとなく後ろめたい気分になって目を逸らし、言った。
「…月島さん、…春季の体、今朝はやくというか、昨日おそくに、一度帰ってきているんですよ。…どこも怪我もなかったし…その、元気だったし…黙って待っていても大丈夫じゃないかなって、思ってるんですけど…。」
それは本当だった。陽介はおばあちゃんと、春季が一旦帰ってきたことにしようと口裏をあわせてはいたのだが、まるでその嘘をなぞるようにして、春季の体は本当に昨夜、陽介に会いに来ていた。そのとき白い猫は陽介の頭の向う側で、息もたてずに深く眠り込んでいた。陽介はまだそのことをおばあちゃんにも言っていなかったし、いつきにも話していなかった。…寝室がらみなので話しにくかったのだ。とくにいつきにはいいづらい。別にエロ話をしないカマトトな友情というわけではなかったし、いつきは実の弟はゲイだし実の父親はバイだ。養父は色事師で有名な美形さんだし、同性愛なんて珍しくもないと思っている。向うから切り出してくれれば話せるのだが。ちなみにおばあちゃんには電話で鳥居内H禁止を最初に言い渡されている。
「…陽ちゃんは呑気だな。」
月島はそう言ってため息をつくと、サッと手をのばして陽介のシャツをつかみ、首のあたりまで一気にめくりあげた。
「!…なにすんですか!やめて下さい!」
あわてて手を押さえたが、月島の腕はびくともしなかった。…鉄のように固い腕だ。陽介は動揺し、心拍数が一気に跳ね上がるのを感じた。
月島は陽介のシャツをつかんだまま、指をたて、陽介の胸を突いて言った。
「こういうことを彼がきみにだけやれると思ってるんなら大間違いだと言ってるんだ。彼は普段肉をもっていない、やむをえないときでさえ、移動に使う御霊の容れ物は蛇だ。
だが今は人間の体がある。きみだって親がでかけてチャンスが出来たら隠し場所からエロ本を出してこようかどうしようかと一応は考えるだろう。彼が人間の肉を着ているというのはそういうチャンスにめぐまれたことを意味する。彼がその気になったら被害者は一人や二人じゃないのが常だぞ。
つまり、もしきみの連れが生きて帰ってきたら、それは被害者が無事生還したって意味じゃないかもしれない。加害者がぬけぬけと帰ってきたという意味かもしれないんだ。」
赤くなっていた陽介は今度は青くなった。
「…なんで…そうなるんですか?…てゆーか、その前に、放して下さい…」
月島は陽介を解放し、陽介がシャツをなおすのを待って、それから静かに言った。
「…なんでもあさってもない。うっかり体を貸して興味のないアナルいやってほど掘るはめになった奴もいるし、目を離した隙に子供がいなくなって半日探していたら、ぼろぼろのかっこうで押し入れで泣いてたなんて話だって、いくらでもあるんだ。わたしが今のきみくらいの歳のころは毎日そんな話をクラスメイトのだれかにきかされていたよ。まったくうんざりするほどね。親父が地元の人間じゃないことを、本当に感謝したくなるほどに。」
「…」
「…勿論、必ずそんなことになると言ってるわけじゃない。だが、向うのその調整だかが済み次第、一刻もはやく返してもらったほうがいい。『倫理基準』というのは『人としてどうか』なのであって、そうである以上、彼らの行動には何ら関係がない。従ってそれによって行動を思いとどまることは残念ながらないだろう。」
陽介は汗をぬぐった。
「…わかりました。明日もどらなければ、方法を教えて下さい。…でも、なぜそんな方法を御存知なんですか。江面さんだって沢なんかのぼったことないって言ってたのに…。」
「…わたしは静からきいた。静がなぜ知ってたのかはわからん。水守の宮司なんだし、知っていても別に不思議ないと感じたから、いちいちきかなかった。」
「…だれのために登ったんですか。」
「…一度目は自分。…二度目は知合いのためだ。別に大切な相手でもなかったが、そのときそこにわたししかいなかったので。」
「月島さんには一体何が…」
陽介が恨みがましくそう尋ねると、月島は「いかにも嘘」というような変な笑顔を作ってこう答えた。
「知合いが熊になっちゃってね! イワナに夢中で!」
…聞くな、という意味なのだろう。陽介はため息をついて諦めた。
「…じゃ、つまり、沢をのぼってゆくと、奥の院があるんですね。」
「ああ。…クレーム受付所みたいなところだ。」
「…?誰かいるんですか?」
「…さてなんと言ったものかな。…まあ行けばわかる。交渉は別段 気張らなくても、正直に困るといって泣きつけばそれでいい。向こうもこっちと行動基準に断層があることはよくわかっているから。…偉い存在でも肉を着ると気が迷うことがあるらしいよ。その代わり干渉はうけにくくなるとか。」
陽介がわかりました、と言ってうなづくと、月島は言った。
「…それと、その勾玉、何でもないときは外したほうがいいよ。」
その勾玉、というのは、神社に初めてきたときにユウに外さないようにと言われて、水浴びの間もずっとかけっぱなしになっている物だった。翡翠でできた拳ほどもある大きなものだ。かなり重い。
「…どうしてですか。」
「…きみだって貧乏人から借金はしないだろうし、痩せた豚を食ったりはしないだろう。今の状況でそれを身につけてると、つまり『充電してあるバッテリーあります』の看板をかけているような状態になる。また充電に使われるぞ。昨夜みたいに。…充電してったんだろ?」
「…!」
「…まあつけてないときに充電にこられてへとへとになるのも困るけれども、とりあえずへとへとになるまでつけないことを私は奨める。…勿論きみが充電器がわりをつとめて彼の仕事をささやかに手伝いたいというなら話は別だ。」
陽介は勾玉を手にとって眺めた。
「…手伝ったほうが早く済みますよね?」
「本当にそう思うなら好きにしなさい。でもまた来て欲しいという気持ちが少しでもあるなら外しなさい。くせになる。」
陽介の気持ちを見すかしたように月島は言った。陽介はまた動揺した。
月島は陽介のそんな様子を見ても、別段とがめることもなく侮蔑的な態度も見せなかったが、だからといって同情的だというわけでもなかった。決心のつかない陽介の手をとって丁寧に指をひらかせると、勾玉をとりあげ、陽介の首から紐をはずしてしまった。その動作は強引でも乱暴でもなかったが、陽介は激しく折檻された子供のように消沈した。
「右端の襖を開いて箱をとっておいで。」
月島は静かに言い、陽介は従った。陽介から桐の白い箱を受け取ると、月島は勾玉から紐を外して、紐と勾玉の両方を箱に納めた。
「…滞在している部屋にでもおいておきなさい。必要なときは使うといい。」
差し出された箱を、陽介はうけとった。月島が促すので、立ち上がって、箱を持って、広い部屋からのろのろ出た。
襖をしめてすぐ、陽介は驚いて立ち止まった。
すぐそこの柱によりかかって、田中が立っていた。
+++
声を出そうとすると、すばやく制止された。
先に田中が歩きだしたので、陽介も続いた。
部屋まで来ると、「置いといでよ」と田中が小声で言ったので、田中にそこに待っているように強く言って、陽介は箱を部屋に置きに入った。用事が済むとすぐに廊下に戻った。田中は自分の借りている部屋の襖の前にちゃんと立っていて、陽介の顔を見ると手招きして自分の部屋に入った。陽介は足早にその襖の隙間にすべりこんだ。
「…野郎、前から怪しいとは思ってたんだ。やっぱりな。」
陽介が襖をしめるなり田中がそう言ったので、陽介は立ち聞きをとがめそびれた。田中は先に畳に座り、それからおもむろに気が付いたような態度で陽介にざぶとんをくれた。陽介は座布団を受け取って、少しとまどいつつそれを置き、その上に座った。
「…怪しいって、何が。」
「…」
田中はそれには答えなかった。
その代わり思い直したようにてへっと笑うと、言った。
「や、久鹿くんがガミガミ親父にひどく折檻されてるようなら、面倒おしつけて申し訳なかったなと思ってさ、ちょっと様子みにいってたわけ。電話かかってきたとかいう程度の嘘なら僕でもつけるしね。やーごめんごめん。だいぶ難儀した?したよね~あの月島さんだからねえ~」
…しらじらしい。
「…そういえば、田中さんは実家の盆とかはいいんですか。」
田中がとぼける気なら、陽介もわざわざ寝室事情を自分で暴露するつもりなどなかった。
「…んー、やってるだろうけどね。…でもほら、僕失踪息子だから。」
「…は?」
「ははは、つまりあまり裕福でない家がさ、無理して子供を一人だけドームに入れたっていう家なわけ。だから実家としてはのこのこ帰ってこられると、いろいろ不都合があるわけよ。親戚同士とか御近所の間とかで。…多分死んだとか療養とかそういう名目ついてると思うよ。借金してドームに入れるでしょ、お金あつめるのに言い訳必要だから。」
「…すいません、変なこと聞いて。」
「いいよ。僕もいろいろ人に失礼なこと聞いて回るのが仕事だから。こういう役は持ち回りってもんだよね。ははは。…きみんちだって本当はめんどくさいことになってるんでしょ?言わなくていいけど。お金持ちもまたそれなりに大変だよね。」
「…。」
「僕は盆暮れ実家にはかえらないけど、父や母はよくドームに遊びにくるし、クリスマスには例の子供の頃世話になった住職の寺にケーキ持って遊びに行くよ。寺はまちはずれだから、車借りて行けば町の人にも会わなくて済むし。変な行事もちこむなって叱られるけど、クリスマスは年末とはいえ比較的寺は暇だし。代替わりして息子がやってて、孫もいてさ。かわいいんだ。」
…子供のころの御恩返しに、寺の孫にクリスマスを教えてやっているという意味なのだろう。
「…僕のクリスマス話はおいといて、だ。…口煩いタケトもいないことだし、ちょっとヤバいネタをきみに仕込んでおこうかな。ひょっとしたら、明日か明後日、重労働になるんだろ?」
「…」
田中はそういいながらノートを起動すると、地図を出して、陽介に見せた。
「…見てご覧。ここが現在地だ。それからこっちがU市、山並はT市を掠めて、裾はY市のほうにも伸びている。…この山の中に青い線で書いてあるのがハイキングコースだ。」
のぞきこむと、ハイキングコースは、ほぼ山の稜線と並行しているか、一致している部分が多いことがわかった。
「…教育委員会のパンフレットに初心者向けと書いてあったろ。あれは『やる気のある山岳初心者』の意味であって、だれでも歩けるという意味じゃない。とくに3本の沢周辺…このあたりかな、ここらへんはきついよ。僕も何度か歩いたけど、高低差がすごく激しいんだ。…沢のあたりは、盆には死者が歩くなんていう怪談が子供の間に流布しているのだけれど、死者はともかくとして、…なんて言うか…何かが違う。」
「…何かって。」
「…温度・湿度は勿論、臭いも違うし、風の重みが違う。音の響き方も違うから、自分の声が自分の声でないように聞こえる。…とにかくすごく変なんだよ。ただ、だからといって悪いというわけじゃない。…むしろ長くいるとハイになってくるよ。イイ、んだ。
それはどうも昔からそうらしいんだ。この山並を縦走する話は沢山あって、それはまさに、走るんだよ。駆け抜ける。女だろうが子供だろうが、走るんだな。追いかけられて走る話、逃げる話、獣になる話、さまざまだけど、とにかく走るのが特徴だ。
多分ある種のエネルギースポットというか、まあ、そういう特別な磁場でもあるんだろう。…こっちを見てごらん。」
田中が地図を切り替えた。…古いものにかわった。どのくらい古いだろう。縮尺がメチャメチャで、山の姿が奇妙に歪んで見えた。目をこらして読み取ると、どうも沢のあたりだけが異常に広く書かれているようだ。
「…この地図を覚えてゆくといいよ。歩いた実感としてはまさにこんな感じだ。あとで君のノートにまわしておこう。」
「…沢を登るって、一体どの沢を登るんだろう。」
「僕は知らない、残念ながら。…何年かまえにしらべまくったけど物理的には水源まで登れる沢なんかないはずだよ。新しいほうの地図をみるとわかるけど、崖があるんだ。流れは割目にそって少し横にずれて、地下に潜って、べつのところからまた出てる。滝になってる沢もあるね、水の量も多いし足場も悪すぎるよ。
奥の院なんて話も初耳だな。きみには感謝するよ。僕は月島になにかを聞く気にはなれないからなあ。2代目だから先祖からうけついだものがまだ新しくてめぼしいものがないだろうっていうのもあるけど、それ以前に気があわない。」
「…」
陽介は田中から目を逸らし、ノートの地図をもう一度見た。
そして、気がついた。
「…ハイキングコースは昔からあった道なんですね。」
「うん。勿論昔はハイキングコースではなかったんだけどね。…まだ調べたわけじゃないから断言はできないけど、90%以上の確率で、修行のための道だったんだろうと思うよ。」
「…修験ですか?」
「うん。山伏とか、ああいうのね。荒行もいろいろあってさ。神社さんが修行やってる場合もあるし、修験のお寺さんもある。密教系というか、いろいろまざってて、仏教といえば仏教だけど…みたいな、ちょっとかわった感じの団体だね。あと日蓮さん系でも荒行する人いるね。近代化してからは新興宗教でもやってるとこあったし、霊能者もいちおうやるし。宗教と哲学の中間くらいの、昔でいうニューエイジの団体とか、スポーツ選手や芸術家もやる人いるね。」
…そういえばいつきもやっている。
「…たしか向こう斜面の昔のお寺が…」
「そう。あそこは天台宗系だったらしいよ。話にちょっときいたところでは、ドーム直前くらいまでは向こう斜面では山伏が御葬式やってくれることもあったらしい。…当時既にかなりご高齢だったらしいけれども。」
「山伏が御葬式ですか?」
「うん。天台宗というとあたかも仏教みたいだけれど、天台宗『系』なるニュアンスは、別の流れが合流しているか、もしくは天台宗からやや離れていることを暗示している。…修験は、日本古来の神秘主義実践団体が各種手広くやってたというのが内情だろ。当然、葬式も幾分特徴がある。僕は出席した体験はないけれど、葬式屋の宗派一覧をみるとちゃんと書いてある会社もあるよ。…まあそれはともかく、ここの山の沢の波長みたいなものが、古くから修行に利用されていたのは確かだし、それは修験者のような実践家でなくても、普通の人間にも充分に作用する種類のものなんだ。いいかい、赤子を産んだばかりの奥さんが、15キロの山道を、全速力で泣きながら走ってしまうんだからね?」
「…」
「…だから沢で誰かに会っても、挨拶以上の言葉を交わすな。それから、振り向くな。あそこにいる間は、ノミソがいわゆる『魔境に落ちてる』状態だから。…目的以外は、すべて切って捨てなさい。」
…陽介は自分が怖がりであることを、強く再認識した。




