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Till you die.  作者: 一倉弓乃
12/41

11 EZURA

 春季はひそひそ言った。

「けっこう可愛いセンセエですね、田中さん。かまいがいがありすぎですよ。…僕らが帰ったら、きっといつきさんにかまわれまくるんだろうな。」

 陽介もひそひそ答えた。

「…おまえまで『かまいがい』がどーのなんて言うなよ。かわいそうじゃないか。…いつきにハダカ見られて傷心なんだから。」

「先輩だっておもしろがってるくせにい。」

「…まあな。」

 陽介と春季は一旦部屋に戻り、菓子やつまみのつまった袋をバックパックからとりだしながら、ついでにかるく荷物整理をした。

「…京子さんも楽しい人だったけど、田中センセイはまたなんとも言い難いです。洗ったらミョ-にキレ-になったのもけっこうツボでした。」

「バリカンあったら刈り上げてやんのにな、あの髪。スキンヘッド似合いそうじゃん。」

「逆にもうすこしながかったら縛ってあげるんだけど。…なんか母性本能くすぐられる、ああいうタイプ。」

「ほー、男にも母性本能があったとは…」

 陽介が揚げ足をとると、春季は眼鏡をなおして言った。

「…尾藤家に育つとどうしても世話焼き体質になってしまうんですよ。その衝動は母性本能に喩えるのがもっとも近い気がするわけで。」

 陽介は笑った。

「…さいで。」

 二人は勝手なことをいいながら、おのおの自分の髪をちょいちょい整えた。

「…田中さんは亡くなった静さんのお友達だったんでしょうね。」

 春季がいっそう低い声で言うと、陽介もうんうん、と軽くうなづいた。

「仲よかったんだろうな。あんなドライな言い方してるけど、きっと内心はまだ辛いんじゃない。」

「思い出を偲びにまだ毎年来ているのかなあ。胃潰瘍なんかも押して。」

「胃潰瘍のときは多分これで最後と思ってきたら、なおっちゃったんだと見た。」

「あそっか。うん、そうですねきっと。…なんか…なんともいえない行動する人だからなあ…。」

「何が言いたいかわかるぞお。ちょっと猫っぽいよな。それも、ちびのころから人に飼われてるかんじの屋根付き猫。でも外歩きして、寺や神社で餌もらってたりして、なんか地味な柄でこきたなくてのみとかついてて痩せてる猫。でも飼猫。…ああいう人がいるなら手土産にビールを買ってくるんだった。」

「ほんとですよねえ。ここの沢につけておいたら冷えておいしかっただろうに。」

「京子ねえさんと4人で飲みたかったねえ。」

「京子さん、怒りますよきっと、未成年のくせにって。」

「それもそうだな。でも田中さんと気が合いそうじゃない?京子さん。会話のテンポがさ、なんか同じってーか。」

「それはちょっとそう思いました。餌食ですよね田中さん。もー面白い話むしられ尽くしますよ。」

「田中さんもためこんだネタ一般人と話すのはまんざらでもないとおもうけど。」

 二人はくすくす笑い、おやつの袋をさげて、もう一度田中の部屋へ引き返した。部屋は近かったのだが、途中でいつきに会った。

「田中センセイともりあがってるみたいね。よかったよかった。…ふとんしいといてあげっからね。のんびり話しな。」

「あ、すまん。手伝う。」

 陽介はそう申し出たが、いつきは「いーってことよ。きにしなさんな。」と言ってとっとと陽介たちの部屋のほうへ行ってしまった。春季がその背中にあわてて礼を言うと、いつきはちらっとふりかえって、にっこりした。

 田中の部屋に入ると、田中の部屋はもう布団が敷いてあった。田中は浴衣に着替えて、上に半纏を羽織っていた。…似合っている。

「…田中さん、浴衣自前?」

「いや、借り物。…洗ってくれたらしい。でも僕専用の可能性もあるなあ。…多分、むかし静さんが着てたやつだよ。ちょっと丈が長い。前に『サイズが特殊で他はだれもきられないんで、丈なおしてやるから全部もらってくれ』っておばあちゃんに言われたことがある。…10枚くらいもらったかな。全部は無理だった、ドームの部屋がせまくて。10枚でもきついよ、8畳1間なのに。それに物が良過ぎてどこにも着ていけない。」

「…妙ーーーぉに似合ってますよ。」

 春季がおだてるというか呆れるというか微妙な顔で言うと、田中はてへっ、と笑った。

「そう?…しっぱいしたよな。浴衣だけもらっときゃよかった。そうしたら気軽に洋服箪笥にいれとけたし。学祭でも着られたのに。…通信販売で桐の箱買うはめになったよ。」

「助手さんも学祭は顔だすんですか?」

「学部に仲のいい子がいる年は顔だすよ。」

「へー、…女は学部で調達ってことですか。」

「…だれもそんなことは言ってないよ尾藤くん。」 

 田中は眉をひそめて眼鏡をずりあげた。…ちょっと汗をかいているようだ。そしてじろーっと春季を見て言った。

「…君、あれだよね、和やかで明るい虫も殺さぬ顔で、けっこう金串みたいなのぶっさしてくる人だよね。眼鏡者同士じゃないか、仲良くしようよ。」

「えー、心外だなあ、僕は田中さんけっこう好感度高いのに~。…おやついっぱいありますよ、なんかたべましょう。」

「…餌付けでくるのか。」

「基本です。」

 春季は笑いながらおやつぶくろをひっくりかえした。陽介もいっしょに中をだす。

「…茶碗もらってきましょうか。飲み物わけるのに。」

「…きみたち真面目ですねえ、男子高校生二人で二人ともジュースとは。イカンですよ、そういうことでは。」

「俺酒弱くて。」

 陽介が言うと、茶碗あるよ、と田中は部屋のすみへ言って茶櫃をあけ、中から湯飲みを出してきた。

「…弱いとわかる程度には飲んでるってことか。」

「…好きなんですけどね、弱いんですよ。足にくる。」

「じゃ、無理強いするか。」

 田中はニヤニヤして3つめの茶碗のあとに、小さな瓶を出した。中にはすきとおった水のようなものが入っている。

「…日本酒ですか?」

「うん、ここの御神酒だよ。一の泉ってやつね。…酒造元がいつも寄付してくれるんだよ。お寺さんの檀家なんだけど、お寺は禁酒だから、張り合いがないのかもね。」

「ああ、向こうの下で会ったおじいちゃんが美味しいって言ってたやつだ。」

「飯食ったばかりで順番逆だけど、まあどうぞ。」

 酒はあまり味のしない、さらりとした飲み口のものだった。春季がそう感想を口にすると、田中はニヤニヤ笑って

「そうなんだよね~、それで酒の苦手な人がうっかり飲み過ぎちゃうんだよ~」とこたえた。

「…そうやって学部の女子を8畳間に泊めるんですか?」と春季が尋ねると、陽介が咳払いした。

「…ところで、また寝ちゃう前に、記録を見せてもらえませんか。」

 陽介がそう言うと、「ああそうだった」と言って田中はノートを引っぱってきた。

 3人でサラミやら干魚やらカキモチやらポテトチップスやら食べ散らかしつつ、江戸時代から石器時代まで地域史をさかのぼってそのまま2時間ばかり話していると、廊下をのしのしと歩く音がして、部屋の前で止まった。

「…お?微かに酒のニオイが。田中さんかい?」

「うん、僕ですよ。お客さん来てるンで。…あんまりないけど飲む?」

 田中が返事をすると、するすると襖が開いて、背の高いがっしりした男がひょこりと顔をのぞかせた。

「おきゃくさんて…。あ、ほんとだ。こんばんはー。」

 スポーツマンといったようすのやけにスッキリした顔をした、若い男だ。顔色も健康そうで、ある意味田中とは対照的なタイプだった。

 陽介と春季はぺこりと頭をさげて、こんばんはとそれぞれ挨拶した。

 田中が言った。

「江面くんて、下の名前なんてーんだっけ。」

「タケトだよ。ひでえなあ田中さん、まだ覚えてくんないの。」

「ごめんごめん、僕忘れっぽくてさ~。毎年ちゃんと覚えなおすのに、夏になると忘れちゃうんだよねえ。ま、入って入って。」

 田中が江面と陽介と春季をお互いに紹介した。江面は言った。

「…俺の妹がここで童子神楽の指導してるんだ。見た?今、妊婦でさ!いやあ参った参った。まー素早いってーの?俺が女と喧嘩なんかしてる間にちゃっかりどっかの男のアカンボ妊娠しちまって。先越されちまった!」

「秋に結婚すんでしょ。」

 田中がきくと、江面はうなづいた。

「一応、そういうことで話ついたらしい。…それが屋根付きの男でさ、いや、屋根付きなのは別に悪いことじゃないが、妻子は無理だっていいやがって、おろせのいやだのですったもんだよ。親父が殴り込みにいこうとしたが、滞在ビザがとれなくて…」

「けんか目的じゃおりないよね。…で、結局どうしたの。」

「弁護士。」

「…高くついたなあ。」

「まーね。だが仕方ない。親父にしてみりゃ初孫の命がかかってたしな。結局屋根別居ってやつ?籍は入れるけど、藍と子供は外におきっぱなしで、ダンナはドーム。実質通い婚、みたいな。…藍もどうせこっからはなれられねえだろうし。まあいいんじゃないの?」

「なるほどねえ。…ドームに遊びに行ってカレと知合ったの?藍ちゃんは。」

「向こうが遊びに来てたらしいよ。藍のバイト先の店によく来てたんだと。」

「はー、そうなのかあ。いくつくらいの男?」

「俺と一緒。」

「あー、どんな男?」

「んーなんてーかなあ、でけえ男よ、ラグビーかなんかやってたとかって。」

 春季はにこっとして聞いた。

「タケトさんも何かスポーツなさってるんでしょ?」

「おお、なさってるヨ。俺は水球。ここの育ちだと水については御加護があるってんでさ、下にある高校は水球がさかんなんだよ。実際強いしね。俺は今そこのパートタイムコーチ。」

「…いい体してるもんなー…」

「へー、江面くんは水球のセンシュだったのか。全然しらなかった。」

「田中さんは興味のないことは全然きいてくんないからな。センシュじゃなくてコーチだし。」

「ごめんごめん、さ、いっぱいドゾー。」

 田中が自分の茶碗を江面に渡し、酒をついでやると、江面はそれをくいっと一口で飲み干した。それから江面は二人に尋ねた。

「あんたらは何でここに来たの?」

「旅行です。」

 陽介が答えた。

「旅行って…こんなど田舎にか?どっから来たの?」

 春季がにっこりした。

「関東のほうです。」

「関東って、もしかしてエリア?! うひょー!」

 江面は奇声を発すると、そのへんに散らかっている菓子のふくろをかってに拾って、ばりばりと一掴み食べた。

「なんしにきたの、こんなところに。…あ、エリアってことは、ひょっとしてユウちゃん狙い?あの子は駄目だよ、シンジとラブラブだから。そーか、ユウちゃんの友達か。」

「あーいや、違うんですよ…」

 陽介が慌てて言ったが、田中が話をあらぬほうへ放り投げた。

「違うんだよ江面くん、いつきちゃんて子が来てるだろ。あっちだよ。」

「いやそれも違…」

「あーっ、あの子ね! いい子じゃないか! さっぱりしてて、竹を割ったような思いきりのよさ。うんうん。変に色気ないところがいいよね。健康だ。そうかそうか、あの子かあ! あの子チチの形すごくいいよな! あのタイプの顔の子は×××が××でさ、それで××が…」

 …迸る下ネタに、陽介も春季も説明をあきらめた。田中は「へーやっぱり顔で彼処がわかるってほんとなの。」とか呑気に下ネタに応じている。

 江面の面倒は田中に任せて、陽介はノートのほうにさり気なくも戻らせてもらった。やがて春季がよってきて一緒に覗き込み出すと、江面が再び話し掛けてきた。

「なにやってんの?」

 田中が言った。

「たまには僕の研究成果をたよりにしてくれる人もいるってこと。」

「?…そういえば田中さんて何研究してるんでしたっけ。」

「…きみだって忘れっぽさにかけては人のことは言えないよね。」

「どれどれー」

 江面はノートを覗き込んだ。

「なにこれ。…ああ、二の沢の巨大ヤマメの話か。ガキのころ誰かにきいた。なんかあれだろ、目がさめたらクマになってて、滝つぼのヤマメを捕まえようとする話だろ。それで結局潜り過ぎて気絶して、川の下流で目が覚めたら人間に戻ってたとかって話。…田中さんて、こういうのを研究すんの?どう料理するわけ?」

「うーん、まあ、とにかくたくさん集めて、分類する。便宜上の仮タイトルもつけるし、暇なときは分類基準考えなおしたり説明つけたり。あとは原稿関係かな。本つくる。」

「へー…んでおまえらはこんなの読んでどうするわけ。」

 江面は二人に尋ねた。陽介は少し考えて言った。

「どうするってこともないけど、こういういろんな話を見聞きしつつの旅行、っていう夏休みなんです。」

「面白いの?そんなこと。」

 江面が呆れたように言うと、田中はブーイングした。

「あっ、江面くんひどいなーっ。」

 すると江面はめんどくさそうに田中に手を振った。

「いやあ田中さんはいいけどさあ、こいつら、まだ全然若者だろ。サッカーでもしてたほうが楽しいに決まってると思うんだよねえ。」

 田中は憤慨して食い下がった。

「みんながみんな体育会系高校生じゃないよ。中には文化系もいんの。」

「田中さんも高校生くらいからこういうの好きだったの?」

「僕はもっと子供のころから好きだったよ。休日なんか近所の寺に入り浸りさ。住職が面白い人でね、地方史や伝承にすごく詳しかった。住職はよく近所の頑固ジジイと碁をうっていたんだけど、そのジジイがまた話好きでさ。どっちかと一緒にいれば僕は御の字な子供だったよ。サッカーなんか学校の体育以外でやったことない。逆に、碁ならそこそこ打てるけど。」

「ふうん。よくわかんねーな。…ま、でも田中さんは優しいから、俺好きよ。よそもんだけど、もうここの身内みたいなもんだしさ。別にけなしたわけじゃないから。…てゆーか、ガキ共が不審だなと思っただけ。」

 好き嫌いの話でなく…とか更に言いかけた田中はふと陽介を見て眉をひそめた。

「…そこでどうして久鹿くんが赤くなるかな。」

「だって…いえ、すみません。」

「…先輩どうしたの?」

「…いや、照れただけ。好きとかいうから。」

 それを聞いて、江面は吹いた。

「青いねーっ。」

「…」

「…ま、つまりさ、一応水守の氏子の筆頭なんで、面白半分に変なこといろいろ詮索されるの、正直言ってイヤなんだよ、うちとしては。」

「詮索なんて言い方は自意識過剰だよ。観光客にみやげ話をもたせてやるくらい、何が悪いのさ。」

 田中はまだ御機嫌ななめのようだ。江面はつらっとしてはいるが、内心困っているのだろう、返事がない。

 春季は話を変えようと思ったのか、言った。

「二の沢ってけっこう話いろいろあるんですね。この山のミステリーゾーンって感じ。」

 田中はうなづいた。

「…そうね、正確には、一の沢と三の沢の間の場所だね、ミステリーゾーンは。」

「お酒の名前になってる一の泉って、一の沢の上流とかにあるんですか?」

「ある、とは言われてるけど、誰も行って確かめるやつはいないわけ。山が深いし。それに崖があるからね、仮橋でも作らないと辿り着けない。…暴れんぼうのタケトくんでも行ったことないだろ?」

「うん、ない。行こうとも思わんよ、ただでさえ山なんかうんざりなのに。」

「へー、でも神秘的! 二の泉とかもあるんですか。」

「あるよ。…てゆーか、昔はあった、といったほうがいいのかな。今は名前しかの残っていない…のかな?」

 田中が江面にふると、江面は言った。

「二の泉ねえ…。ガキの頃、諸説あったよ、あっちだ、いやこっちだって。一の泉も、酒屋がラベルに書いて印刷し始めたから要するに一番奥の沢の源流ってことで決まったようなもんでさ…だいいち、沢の名だってそうだろ。氏子はこっちから一の沢、二の沢って数えるけれど、檀家さんは向うから数えるだろ。」

 陽介は気をとりなおして言った。

「へえ、そうなんですか。…お寺さんとここって、ひょっとしてあんまり仲良くないのかな…?あ、きいちゃいけないですか、こういうことは。」

「仲はいい。だが喧嘩もよくある。隣だから。」江面は素早く答えた。「遺跡の管理なんかはよくもめてる。寺は神様とはあんま関係ないだろ、だから昔からある信仰にかかわる遺跡の管理を水守にすぐ押し付けてくるんだ。だがもともと向こうの寺っていうのは山岳と密教のまじったような…なんてえの、山伏とかのいる寺だったんだよ。だから向こうの筋の遺跡もあるんだけど、つまり行場みたいなとことか聖地みたいなとことか…だが今は寺の宗派がかわっちまっててさ。今の住職じゃ何言っても話にならねえ。」

「え、宗派がかわっちゃってるんですか?」

「そ。もっと以前にも、神仏習合だかんとき、水守の前の宮司の家系もあそこの寺にころがりこんでたし。あの寺はもう滅茶苦茶だよ。」

「でもお寺さんは神社とちがって、独立ってわけにいかないでしょう?本山がきっちり管理してるって何かで読みましたけど。」

「廃寺ブームっていうのがね、あったんだよ、ドーム時代のはじめのころに。100年くらい前かな。」

 田中が眼鏡を鼻の上でずり上げて言った。

「…つまり、お寺さんも地域を捨ててドームに逃げ込んだ時代だったわけ。それで、どうしようもなくなって、廃止されたお寺が全国にたくさんあったの。…あそこもそうだったんでしょ?」

 江面はうなづいた。

「…で、荒れホーダイになってたところを、別のお寺さんに交渉して買い取ってもらって、適当に改築して、今はそっちの宗派におちついてるわけ。」

「へー…」

「…ドーム社会の成立っていうのは、かように過疎地域の文化や生活を滅茶苦茶にしたんだ。各本山も神社庁もその自覚があるから、田舎にきついこといえなくなっちゃったんだよ。モーレツに噛みつかれてるだろうしね。そのスキをついて、若い女の子の宮司が誕生したり、…まあ、いろいろかわったというわけ。」

 田中が簡単に解説をまとめてくれた。陽介はうなづいた。

「なるほど…。」

 江面は複雑な顔で陽介に言った。

「ふーん、君はこういう話が面白いのか。」

 陽介はおあいそがわりにちょっと戸惑ったようなふりを見せ、それから言った。

「…面白いっていうか…社会の仕組みのこととかいろいろ考えるのは好きです。」

「ふうん、そうか。…かわった高校生なんだなあ。…親はなにやってんの?」

 陽介はなるべくなにげない調子で、軽くこたえた。

「…父は引退した政治家です。」

「あーそうなんだ。どおりでね。門前の小僧・議員板だ。」

「えー?久鹿くんてじゃあ…」

 突然田中は素頓狂もない声をあげた。すると、江面も何かに気付いたらしく、急に顔色が変わった。

「…江面くん、月島さんとこは…久鹿先生じゃなかったっけか?」

「…だな。」

 江面はうなづいた。田中は陽介に言った。

「…久鹿くん、月島さんには…挨拶は…した、よね?お婆ちゃんになんか言われた…ろ?」

「は?…月島さん…とおっしゃいますと…?」

 すると江面が渋い顔で答えた。

「…きみのお父さんのもとの秘書で、今U市の市長補佐官なんだよ。」

「…」陽介は一瞬、息をとめた。「…いえ、知りませんでした。」

 田中と江面は急に心配そうに顔を見合わせた。

 江面が言った。

「…今日はもう遅いから、明日…あたりにでも、挨拶にいってくれると有り難いんだけど…。いや、久鹿くん自身がお忍びで来ていて、先生方からは隠れていたいなら無理にとは言わないけどね、ただ、…あの人ここの氏子で、祭りのときは必ず来るし、祭りでないときもたまに様子をみにきたりするんだ。そこでばったりきみに会ったりすると、『来てるんなら一言くらい…』って話になっちまうかなー…っと。」

 江面は今までとはまったく違う口調でおそるおそる言った。…その月島という人物が、難しい相手であることはその言い方で一目瞭然だった。

 どうやら陽介の仕事のようだ。夏休みにいやなことだが、いたしかたあるまい。他人に行けというわけにもいかない。陽介は了承した。

「…そうですか。わかりました。明日、父と、その先生と、両方に連絡して、必要なら挨拶にゆきます。」

「そうかい! 助かるよ。」

 江面はほっとしたような顔で言った。

「…どうせ明日には一旦山を下りるつもりでしたから。明日U市のホテルに荷物もつくし。受け取らないと。」

 陽介が言うと、江面は言った。

「じゃあ、俺の車でU市まで送るよ。通勤ビザがあるから、ドームの中までオッケーだ。客の食事は7時だし、出発は8時でいいかい?」

「ええ、どうせまた祭が近くなったらもどってきますし、明日は早く発つことにします。」

「わかった。じゃ8時な。…すまないね、せっかくの夏休みなのに。」

 江面の家はずっとここの総代を坂下という家と交代でつとめているときく。多分陽介の立場や気持ちがなんとなくわかるのだろう。陽介はにっこりして返事は避けた。

 …春季がじっと陽介を見ている。春季が言いたいことがなんなのか、陽介には分かっていた。


+++

 部屋に戻ると、いつきのオモテナシなのか悪戯なのか、布団がぴったり二つくっつけて敷いてあった。この状況でこれを見ると、ムカついた。

 歯磨きをしたあと布団に入ると、電気を消す前に、春季が言った。

「…先輩、月島さんという方は…先輩を黒い窓の車で例の『おとうさん』のところに運んだ人物なのでは…。」

 陽介は首を動かして春季の顔を見た。

 それから言った。

「…そうかもしれない。」

 その力ない言い方は、春季を幾分クールダウンさせたようだった。

「…ここの神様先輩の昔の男なのかもしれないし。」

「…それもそうなのかもしれない。」

 それも認めたので、春季はため息をついた。

 よく考えてみたら別に何も怒るようなことじゃなかった、というところなのか。それとも「やっと認めたかこの頑固モンが」というところなのだろうか。

 …春季は立ち上がって、電気を消した。

「…おやすみなさい。」

 電気が消えてから、陽介は言った。

「…春季、明日…その月島って親父が、めたくそ変態とかだったら、ごめん…。先にあやまっとく。」

「それは…うちの親兄弟も変ですから、お気づかいなく。」

「…おやすみ。」

 夜半になると社は全体的に冷え込んだ。

 気軽に寝巻なぞ着てねていたものの、寒さに寝付くことができず、起きて服を着なおし、そのまま布団に入った。

「…先輩、すんごく寒いから、一緒に寝てもいい?」

「…うん、こっちきな。」

 二人はもそもそとくっついて、布団を二枚がけにし、そうしてやっと寝付いた。

 一旦寝付いたあとは、陽介はぐっすり眠って、次に目が覚めたのは朝だった。

 目が覚めてみると、隣の布団のうえに、ちょこーんと春季が正座していた。

 毛足の長い、大きな白猫を抱いている。

 陽介は自分が寝ぼけているのかと思い、本気で目をぱちぱちさせ、さらにこすってみた。

 …春季はやっぱり猫を抱えて正座している。

 この山奥に真っ白なペルシャ猫。あり得ない。

 陽介は起き上がり、おずおずと春季に言った。

「おはよ…。どうしたの、その猫。」

 すると春季は何もいわずににっこりした。そして、かわりに、猫がうにゃうにゃとなにやら喋り出した。喋ったといっても、猫語なのでなにがなんだかさっぱりわからない。陽介は習慣的に手を差し伸べ、むずかる赤子を受け取る母親のように、その大きな白猫を春季から受け取った。猫は陽介にしがみつくようにして、一生懸命ウニャウニャとなにか訴えている。それにしても豪華な猫だ。目は青くて透き通っている。以前春季が飼っていて、先日亡くなったばかりのショウヤにそっくりだった。

「…いつのまにか部屋にいたのか?このこ。」

 また陽介が尋ねると、春季はにっこりした。

 …その笑いが、すこしおかしかった。

 陽介はひどい違和感を覚え、思わず猫を抱く手に力が入った。

 春季はそのまま近付いてきて、陽介の耳もとにひそひそと言った。

 …ごめんね陽ちゃん、この子の体、便利なので少し借りるよ。でもちゃんと返すから、心配しないで…

「なんだって?!」

 陽介が ばっと顔をあげると、春季はいなくなっていた。

 陽介は慌てた。いそいで部屋を見回すが、春季の姿はどこにもない。

 猫がぱりぱりと陽介の服に爪をたてた。

 陽介は、自分の胸にしがみついて、青い目でじっと見上げる白い猫としばし見つめあった。

 そして唐突に気付いた。

「…ま…まさか、春季?」

「にゃーん!」

 猫は全身全霊を傾けたような声で必死に返事をした。

「春季?」

「にゃーん!」

「ほんとに春季?!」

「うにゃ~~~」

「た…大変だ!!…いつき、いつきはどこだ!! お、おばあちゃーん!」

 陽介は猫をかかえたまま、部屋をとびだした。


+++

 おばあちゃんもいつきも、落ち着いたものだった。

 早朝一番に滝行の訓練をすませていたといういつきは、黙って陽介の混乱した話を全部聞くと、最後にぼとっと言った。

「まあ、なっちまったもんはしかたないね。しばらく様子みるしかないよ。返すってえんなら帰ってくるさ。中味はおいていったんだし、悪魔と神様は信じるしかないよ。」

 思わず陽介がおばあちゃんに助けを求める視線をなげると、おばあちゃんは言った。

「まあおちつきんさい。…猫はホテルには持ち込めないでしょう。とりあえずうちで預かってあげますから。…一人で予定をこなすなり、かえってくるまでここで待つなり、あんたさんの好きになさい。」

 騒ぎをききつけて江面がやってきた。

「お早うございます。や、久鹿くん。早いね、なんかあったの?」

 周囲が一斉に考えていると、ユウが白猫を抱き上げて言った。

「タケさん見て見て。すごいでしょう。朝起きたらこの子が部屋にいたんだって!」

「えー?! 何ですかこれ。白タヌキ?!」

 ユウはぷっと小さく吹いた。

「やだぁ、ちがうわよ。ペルシャ猫。きっと何十万もするやつよ。どうしたのかしらねえ。きっと飼い主がこのこ連れて来て、おいてどっかいっちゃったんだわ。そう思うでしょ?」

「あー…捨てねこか。そういや前にもあったよな。車で通りすがりざまに捨ててきやがった。…じゃ夜中にやられたのかな。可哀相に。」

 江面は猫をなでなでと撫でて、ふと陽介に尋ねた。

「あれ?相棒はどうした?」

「…」

 陽介が言い淀んでいると、ユウが言った。

「タケさんか田中センセ、どっちか春季クンに一の泉の話したでしょ。」

 江面も陽介もドキっとしてユウを見た。

「…いっちゃったわよ。とめたけど、どうしても見に行くって。」

 …江面のために作られた嘘なのは、陽介は頭では理解できていた。だが、ユウのこの迫力はなんだろう?それにどうして一の泉の話が出たとわかるのだろう?

「…一人で沢登るってことか?! 無茶だ、途中でロッククライミングになっちまうし!」

「無理とわかったらかえってくるでしょ。…それにしても半日くらいは粘りそうね、小夜の弟だもの。…あ、小夜ってわたしの学校の友達なんです。霊眼のある人なのよ。」

 江面はどうもこの「霊眼」の類いの話に弱いらしい。陽介のほうを向いて言った。

「…予定変更して、彼が戻るまで待っててみるか?」

 いつきが尋ねた。

「ん?タケトさんの車でおりんの?陽介。」

「…ああ、その予定だった。車回してくれるっていうから、…なんか親父の知合いもいるらしいんで、ついでに挨拶してこようかと思ってたんだけど。」

 するといつきはうなづいた。

「予定どおり下りて、挨拶して、荷物とって戻ってくるのがいいんじゃない?捜索出すにも半日くらいは待たないといけないし。イライラして待ってても時間の無駄だから。…ついでに帰りにハムとビスケットとチーズと牛乳買ってきてよ。あとキャットフードね。にゃんこタンあずかっとくから。」

 すると唐突に猫が「イヤーン」と鳴いて、じたばたあばれてユウの手を逃れ、ぱーっと走って陽介の足にしがみついた。「ニャ-ッ、ニャ-ッ」と必死のアピールだ。

 だれがどうみても、「おいてかないでーーーっ!!!」だった。

「…そんなに嫌わなくてもいいじゃんかよ。」

 いつきがみるみる不機嫌になって言うので、陽介は仕方なく猫を抱き上げた。…重い。まるで米袋のようだ。

「…江面さん、猫嫌い?」

「いや、平気だけど。」

「…連れていってもいいかな?」

「ああ、いいよ。ドームつれまわしてたら、飼い主わかるかもしんないし。…それにしても久鹿くんにやけになついてるね。」

「うーんさっき餌やったからかな。…荷物とってきたいから、ホテルもまわってもらえますか。」

「全然オッケー。で、帰りにスーパー寄ればいいわけね。」

「すいません。お願いします。」

 そういうことで話がまとまった。

 会合が散会したあと、部屋に戻ろうとした陽介を、おばあちゃんが呼び止めた。

「…月島さんですかの、ぼっちゃん。」

 挨拶の件だ。

「…ええ。」

 陽介が猫を下におろしてうなづくと、おばあちゃんは少し考えて、言った。

「…お父様には、御連絡は?」

「これからです。」

「そうですか。…叱られるかもしれませんのう。」

「…父にですか?」

「…件のことにつきましては内緒のお約束でしたからのう。…はて、ぼっちゃんはどうやってここを探し当てられたのだろうかとはじめ思っておりましたけれども、翠さんが呼ばれたとのことでしたから、そりゃ仕方のないことです。でも月島さんやお父様にはそういう理屈は通じませんでしょうなあ。どうしたものか…。」

 陽介は思いきって尋ねた。

「…おばあちゃん、俺はここで、母とお世話になっていたことが、やっぱりありますよね?…あの襖絵…見たことあるし。」

「…なんの、お世話いただいたのはこっちのほうで…。あのときもう静の御霊は死にかかっておりましたから、ほんにまあ、10年も余計にながらえたのは、お母さまとぼっちゃんのおかげさまでございますよ。…ぼっちゃんは、静のことは覚えてらっしゃるのだろうか。」

「…すいません、おぼえていないんです。」

「お小さいときですからの、無理もございません。…本当に静に優しくしてくだすって、ありがとう。静ももし生きていましたら、どんなにか懐かしがって喜んだことでしょう。

…それと、もうお気付きかと思いますが、ユウは昔ここにおられた『ようちゃん』のことを、今でも女の子だと思っております。なにしろ翠さんは男の子とみればすぐとってしまいますでの、男の子に舞はさせませんし、女の子の服を着せますから、ぼっちゃんも勿論そうしてらっしゃいました。

…ユウは父親と自分がうまくいかなかったことを気に病んでおりましての。自分の接し方がいけなかったのかもしれないと思っていて、…よその子の『ようちゃん』はうまくやっとったのに、自分は駄目だったと、気にしております。最近やっと落ち着いてきましての、うまくいかなかったことを受け入れられた、とでもいいましょうか…。」

「…わかりました。ユウさんの前ではこっちの口からは昔のことは言いません。どうせ俺ぜんぜんなにも覚えてませんし。」陽介はうなづいた。「それと…父や月島さんの件は御心配なさらないでください。なんとかします。」

「よろしくお願いいたします。」

「…いままでにもこんなことあったんですか?」

 陽介が春季の件を尋ねると、おばあちゃんは首をふった。

「いいえ。初めてだろうとおもいます。…ですが田中センセイのほうが詳しいかもしれませんのう、うちは新参ですから…。」

「…」

「…翠さんは、力のある神さんです。お連れさんはきちんとお戻りになられますよ。」

「…まさか10年後に戻るとか、そういうことはないですよね…?」

「ここは田舎でのんびりしていますが、翠さんは人間の時間にうとい呑気な方々とはまったくちがっていらっしゃいます。御心配は無用でございますよ。」

「わかりました。…俺がいない間に春季の体が戻ってきたら、引き止めておいてください。お願いします。」

「それはもう。」

 陽介はペコリと御辞儀して、土間をあとにした。ててててて、と小走りに、白い猫がついていった。


+++

 食事をすませたあと、陽介は猫を抱いて江面の車にのりこんだ。

 江面の運転はけっこうあらっぽかったが、進むのは早かった。

「…江面さん、先にホテルに行ってもらえますか。偉いお先生にあうなら着替えないと。」

「それ重要。…じゃ、ナン子は俺と一緒に車でまとうな。」

 猫は仕方なさそうに「なーん」と鳴いた。

 陽介はホテルに何はともあれ荷物をとりに入った。U市のホテルは、旅館もそろそろ飽きるころだと思ってビジネスホテルみたいなシンプルなところがとってあった。チェックインはまだできなかったが、荷物をうけとってトイレで顔を洗い直し、髪をきちんと整えて、ちゃんとした服に着替えた。ロビーに出て座ってノートを開き、電話キットをひっぱりだした。

 父親は不在だった。父の本妻と話をするのはいやだったので、挨拶だけですぐにきらせてもらって、秘書みたいな側近に電話をかけると、どこそこに出かけているよ、と番号をおしえてくれた。お加減のすぐれない長男と妻をエリアに残して自分はちゃっかりバカンスらしい。そっちに電話を入れると、こんどは若くて美人の女の秘書が出た。陽介はうんざりしたが、なんとか父親につないでもらった。

 いい加減機嫌の悪い顔になっていたのだろう、父親もバツが悪そうだった。そもそもお互い、バカンス中は極力干渉しあわないのが最近の慣習になっていた。父親のうざったそうな顔を見て、陽介も少し不機嫌をひっこめた。もし逆に向こうから電話がはいっていたら、陽介は尾藤家の末弟とイチャイチャ過ごしていることろを見られたはずだった。

「…午前から変な電話で申し訳ないのですが。旅行中うっかりU市に立ち寄ってしまいました。…来ちゃいけないところだとは知らなかったもので…。」

「おー。」

 父は頭をぐしゃぐしゃ掻いた。

「…水守神社のほうで、昨晩お世話になりまして、氏子さんの一人から月島さんにご挨拶を入れてほしいと言われました。」

「…そうだな。月島くんに、わしから挨拶をいれとこう。…おまえ昔のことは、そっちで人に言うんじゃないぞ。田舎はエリアとちがってめんどくさいから。」

「…すみませんでした。どこに行くか、お父さんにもいっとけば良かったですよね。」

「…百合子には言ってあったんだろう。百合子が言わなかったなら、仕方がない。」

「…お母さんはU市がどこなのか、水守さんがどこなのか、月島さんがだれなのか、知りませんでした。」

「…そうか。まあとにかく、もう10年以上たっとるし、一回挨拶いれとくのも悪くないだろう。」

 父は母のことはそれ以上とくになにも言わなかった。

「…お父さん、今、これから氏子さんの一人と月島さんのところへ行ってきます。電話、今いれてくれませんか。」

「ああ、わかった。…軽く愛想ふっとけばいいからな。なにか要求されても、にっこりして『僕にはなんとも』かなんかいっとけ。…こっちの挨拶がおわったら月島くんとこの番号をメールで入れておく。メールが入ったらこっちの電話は済んだと思え。」

「…わかりました。」

 …父ももてあますような我侭男なのだろうか。ちょっと気が重くなった。

 ここのホテルの予約は結局一旦全てキャンセルすることにした。カートで荷物を車まで運ぶと、車の中では江面が屑紐と菓子の空き箱をもとにしたにわか作りの猫じゃらしで一心不乱に白猫と遊んでいた。その姿をみると、陽介は急に緊張がとけた。息を抜いて窓を軽く叩くと、江面が下りて来てトランクをあけてくれた。

 駐車場で少しそのまま待っているとやがてメール音が鳴った。陽介が確認すると、父親からメールが届いていた。

 陽介は車のシートにかけたまま、無造作にその番号をコールした。電話はダイレクトで月島につながった。…月島は厳しい顔をした40過ぎくらいの男だった。そんなに大きいということもないらしく、どちらかといえばがっしりしているが、マッチョというほどでもない。陽介はその顔を見てすこしほっとした。「厳」はわりと得意分野だ。「漠」とか「柔」とかよりずっと楽できる。…たてて説教させて返事はハイでいい。

「こんにちは。久鹿陽介です。そのせつはたいへんお世話になりました。」

「こんにちは。今お父さんからお電話いただきましたよ。久しぶりだね陽ちゃん。おじさんのこと、おぼえてるかい?」

「…お車で随分御迷惑をおかけしたのでは?」

「はっはっはっ、そうだね。少しは覚えてるのかな。…こんな田舎まで、何しに来たんだい。」

「…えーと、自分の中にあるエリア人種としての下らない優越感を粉砕するために、とか、どうですかね…?」

「ははははは、どうですかってなんだい?きみ面白いな。…下らなくはないさ。君のお父さんは勝った、勝ってそれを手に入れた、そういう誇るべきことだよ。…だが、まあアウトエリアの実情を見て歩くのはとてもいいことだ。君にもいつかエリア人種であることの価値ってものが、わかるようになるさ。…水守のお山にはもう挨拶に?」

「ええ、昨日はあちらのほうにお世話になりました。」

「山奥でびっくりしただろう。」

「きれいなところですね。水がうまい。」

「…なにか懐かしいことでも思い出せたかい。」

「いえ、ぜんぜん。」

「何か得るところはあったかい?」

「…ゆっくり休ませてもらいました。」

「…若いときに時間をムダにしてはいけないよ。」

「はい。」

「…よかったら今日、昼飯でもどうだい?誰か氏子と一緒だときいたが。」

「はい、江面さんが送ってくださって。」

「タケトか。」月島は傲慢に鼻で笑った。「…じゃ、江面くんも一緒にどうか、聞いてみて、うんといったらB区の4にある『江川亭』というところにつれてきてくれ。…イヤだと言ったらタクシーひろって一人でおいで。私はそのほうがいいけど。」

「わかりました。」

「じゃあ昼に。遅刻しないでね。」

 電話が終わると江面がぼそっと言った。

「イヤ~なやつだろ。…金持ちなもんだからいい気になってて。すぐ勝ったとか負けたとかいいだすだろ。」

「そのイヤ~なヤツが、御一緒に昼食どうですか、だそうです。」

「いい。俺は遠慮する。あいつと飯食うぐらいなら公園でキャットフードでも拾ってくったほうが全然マシだね。…それにこの子どおすんの。飯にはつれていけないだろ。いいよ、俺が荷物とこの子つれて先に山に帰るから。久鹿くんは帰りは月島に送ってもらいな。あいつなんでかしらないけど、忙しいくせに水守さんが大好きで、なにかって言い訳つくっちゃ山にのぼってくるんだ。送ってくれっていったら喜んで送ってくれる。…ああ、ハムとかビスケットとかいつきちゃんが言ってたやつ、あれも買ってってやろうか?」

「あー、いや、あれはいいんですよ、…っていうか、まさかいつきのパシリ頼むわけにもいかないし、俺が…」

「山の上の飯とぼしいからな、いつきちゃんの気持ちもわかるよ。俺からさしいれといてやる。給料も出たばっかだし。」

「…すいません。なにからなにまで。」

「そのかわりせいぜい月島さんからまきあげてやってくれ。飯ははらいっぱいくってコーヒーとデザート食って野菜なんか残してやれよ。あー腹立つ。あ、それと、面白れえから『ちょっと酒屋さんとお米やさんによって下さい』っつってみな。バカ買いして神社に貢ぐから、あいつ。」

 後ろの席からもこもこと猫が渡って来て、陽介の膝にちょんと…というかのしっと乗り、「どうして、せんぱい、どうして」という顔でじっと陽介を見上げた。陽介は猫の背中をそっと撫でて、言い聞かせた。

「すまん、…江面さんとさきに神社に帰っててくれ。頼む。」

 猫はにゃーにゃーにゃーと鳴きまくった。どうして、僕と二人で過ごしてくれるんじゃなかったの先輩、どうして僕だけ行けっていうの?一緒にいてよ…そう言っているように見えた。

 陽介は猫を抱いて熱心に撫でてやり、もう一度言った。

「…ごめん。」

 すると猫は黙り、後ろの席へ行って背中を向けると、ふてくされたように丸くなった。


+++

 江面に送ってもらって、店の前で車をおりると、そこで別れた。猫は一度も顔を上げず、後ろの席で丸くなったままだった。陽介はそのとき、夏休みに入って初めて春季と行動がばらばらになったことに気がついた。気付いたとたん、たとえようもなく寂しくなった。

 山をおりると、町は真夏の炎天下だった。U市のドームは暑かった。多分空調がおいつかないのだろう。

 店の門を入ると、中は小さな庭になっている。篠竹がしげっていて、水音がした。料亭か旅館のような小さな建物だ。

「ごめんください。」

 中に入ると、和服を着た中年の女性が出てきた。建物の中は空調が効いている。涼しかった。

 名前を言うと、もうひとり奥から、きれいな着物の女性がでてきて、先生にはその節は大変お世話になりました、と丁寧な挨拶をした。どうやら父はここと知り合いのようだった。案内されて行くと、月島はすでに小部屋の席についていて、陽介を待っていた。

「ここのランチが旨いんだ。昼間も開いてるのは、知らないやつが多い。静かで良い。」

「…御馳走になります。」

「江面は帰ったのか?」

「忙しいそうです。祭りの準備で。」

「そりゃよかった。私はああいうバカは嫌いなんだよ。」

 月島が切り捨てるように言ったところで、陽介に茶が運ばれて来た。月島は勝手に二人分の注文を決め、陽介の承諾もはなから得る気はない様子で頼んでしまった。中居さんがいなくなると、月島は言った。 

「…お父さん元気そうですね。」

「はい、おかげさまで。」

「…その後、ぶっそうな騒ぎとかはないのかい。」

「はい、なんとか生きてます。」

「あのときはたいへんだったね。…兄さんはあいかわらず?」

「ええ。」

「…それじゃ君もたいへんだ。」

「ええ、まあ、そう…ですね。…月島さん、U市の市長補佐官なんでしょ。すごいなあ。いつもは市庁舎にいらっしゃるんですか?」

「庁舎に出勤はするけど、たいていすぐ外回りにでてしまうよ。毎日視察視察視察。…市長がめんどくさがりだから、どうしても私が出ざるをえない。」

「海外なんかもよく行かれるんですか?」

「ああ、たまに。」

「…どこか印象に残ってる町ってありますか。」

 なるべく自分がものを尋ねられなくてすむように、陽介はたあいない話題を次々に出し、話題提供後は聞き役に徹した。月島は案外と、雑談が嫌いというわけではないらしい。そのうち、こわばったように厳しかった顔もだんだん和やかになってきた。指示・命令調だった言葉も食事のおわりごろには穏やかになり、「アイスクリームでも食べるかい?もうおなかいっぱいかな?」というような選択肢つきの提案に変化した。陽介はほっとした。

 …江面とは、この人はよほど反りが合わないのだろう。そして多分田中などもってのほかなタイプなのだ。子供も嫌いだし、若い人全般があまりすきでなく、努力が成功と比例で、その係数は自然数なのだろう。…そして昔の上司からの電話で、こっちよりよほどイヤな思いをしていたのだろう。

 陽介はアイスクリームは辞退して、代わりにコーヒーをもらった。月島がコーヒーを飲みたがっているのが、なんとなく察せられたので。すると月島はやはり、「ここのコーヒーはすごく美味いんだよ」と言って、にこにこ笑った。初めての笑顔に、陽介は「お」と思った。

 昼食会が無事終わって表へ出ると、表はまた目眩がするほど暑かった。頼むまでもなく、「送って行ってあげよう。」と言われたので、陽介は送ってもらうことにした。それで、ふと思い出して本当に言ってみた。

「あ…そーだ。水守さんとこ、滞在するひとはみんな、お米もってくらしいですね。」

「ああ、そうだよ。」

「…俺も少しもって行こうかと思うんです。申し訳ないんですが、米買えるところにちょっとだけよってもらえませんか?」

「ああ、いいよ。ついでに私も少し買って持って行こう。祭のボランティアが集まっててあすこも大変だろうから。」

 月島はますます上機嫌になった。どうやら米も買いたかったらしい。

 …へんなオッサンだった。陽介的には、むしろなんとなく憎めないタイプといえた。

 ショーウィンドーに米俵のかざってある酒屋の前に車をとめ、降りるときに、月島は小さな声で、「ようちゃんも大人になったんだねえ」と感慨深そうに言った。何が言いたいのか詳細はよくわからなかったが、多分、いい形で月島の予測を裏切ったのだろう。

 米はどれがうまいですか、と相談すると、すぐに月島はあれかこれ、きみはこっちにしなさい私はこっちにするから、とテキパキ指示した。それからズラリと並んでいる酒をどんどん選び、カウンターに5~6本並べた。

「陽ちゃんもお酒もってくかい。」

「…持って行こうかな。」

「あそこは一の泉が奉納になるとこだからね、あまり半端なのもってくと格好がつかない。この棚のものからラベルの気に入ったやつをえらびなさい。…それと、江面におくってもらったんだろう、安いビールでも買っていって渡しておいたほうがいいんじゃないかな。…あそこにまだいるんだろ、あの小汚い学者。ほっとけばあれと2匹で仲良く酒盛りするだろう。私の陰口を肴に。」

「あー…小汚いのは、一応洗っておきましたよ。」

 陽介が苦笑して言うと、月島は本気で感心して言った。

「洗ったのか?! あれを?! きみが?!」

「…いや、一緒にいた俺の友達が。」

「よくやった!」

 陽介は月島に背中を「ばんばん」と叩かれた。

 陽介がやっと酒を一本えらび、冷蔵庫からビールを半ダ-スもってくると、月島はとっくにつまみを山盛りにして会計を通過していた。なぜか醤油やらみりんやらも一緒にある。

「つまみは私からおごりだ。成長期にあそこの飯はつらいだろう。たくさんたべなさい。…あとは自分で払いなさい。勝手に払うとわたしが先生に怒られるから。会計帳はつけているかい。きちんとつけなくては駄目だよ。とくにこういう出費はね。領収書をもらってゆきなさい。」

 陽介は「ハイ」とだけ言っておいた。

 帰りの山道でぼんやり外を見つつ、シートに揺られながら、陽介は月島に、どうやらユウがまだ自分のことに気がついていないらしい、と話した。月島はしばらく考えて言った。

「早めに言っておいたほうがいいだろうな。…あとへいくほど揉めることになる。」

 おばあちゃんは気付かせずにそのままそっとしておいてほしいようだ、と言うと、

「…ま、女というのはそんなもんだよ。…だが絶対にあとがこじれるぞ。」

と、月島は断言した。

 …それもそうかもしれない、という気がした。

「…おばあちゃんともう一度話してみます。ユウさんとは学校が一緒なので、あまり後々もめたくないし。」

 陽介が言うと、月島はうなづいた。

「…陽ちゃんは、静のことはどれくらい覚えてるんだ?」

 陽介は首を横に振った。

「ほとんど覚えていないんです。」

「…そうか。」

 月島は黙り込んだ。それから言った。

「…静はなんといおうか…人格障害というやつだったのではないかと私は思ってるんだ。体はどこにも悪いところはなかったんだが、とにかく奇妙な男だった。

 その変人が、…なんというか、きみや、きみのお母さんに妙に入れあげてしまってね。こっちはヒヤヒヤしたよ、先生から預かった妻子だろう?預け先のダンナとなんかあったなんてことになったら大変だ。

 だが、静はそういうところは律儀というか、真面目なやつだったんだな。なにせ、返す直前まで陽ちゃんのこと男の子だって気付かなかったというんだから、…いや、よかったよ。一時期はあいつペドだったんじゃないかって疑ったりしてたくらいだったから…なにもなくてなによりだった。

 …陽ちゃんは、静に懐いていたから、引き離すのが大変で。自分が大変な悪党になったような気分だった。車の中でずっと泣いていて、…泣きつかれて眠るまで泣いていた。熱まででてねえ。まったく大変だったよ。」

 陽介は黙ってそれを聞いて、じっと思い出そうとしてみたが、この男の声も思い出すことはできなかったし、その静という変わり者の男の雰囲気を思い出すこともできなかった。そんなに好きだったのにこうもキレイサッパリ忘れてしまうものかと思い、自分が冷血漢のように思われてならなかった。

「…すみません。」

「いや、子供だったんだから仕方がない。…今更責めているわけではないよ。」

 陽介が黙っていると、月島は手を伸ばして陽介の衿をなおしてくれた。なんとなく、その手に甘えたい気分になったが、まさかな、と思い、陽介はただじっとしていた。

 途中で一回車を止めて、「ちょっと休憩させてくれ。」と月島は言った。陽介は了承し、車はとまった。「気持ち良いよ、おりなさい。」というので、陽介は月島に従って車をおりた。月島が小道をおりてゆくのをみて気がついた。そこは春季がみつけた沢におりる小道だった。ついていくと、勿論すぐに沢になっていて、月島はそこで手を洗って水を飲んでいた。陽介も手を洗った。なんとなく、ここの意味がわかってきたので、口をすすいだ。

「ああ、膝が伸びたな。さ、行こうか。」

 月島は何事もなかったような顔をして、また小道を登っていった。

 月島の立派な車は、わりとすぐに鳥居にたどりついた。

 神社の裏側というか、横のほうなのか、車が数台とめられるようになっているところがあり、境内のほうに一台ならなんとか近付けるようになっている。そこのぎりぎりまで車は入っていた。

「荷物が多いから、助っ人をつれてきてくれ。」

 月島に言われて、陽介は走って鳥居の中へ入った。

「陽ちゃん」

 よびとめられて立ち止まったが、誰もいない。気のせいかと思って、また駆け出そうとすると、「走らなくて良いよ」とだれかに言われた。陽介はもう一度まわりを見回したが、だれもいない。だがさすがにばたばたしすぎかと思い、今度は歩くことにして、踏出した。今度はだれも何もいってこなかった。

 中に入ると舞いの稽古の小休止中らしい汗だくのいつきが、ごくごくと喉をならしながら水を飲んでいた。いつきの顔をみて、陽介は我に返った。

「いつき、お疲れ。」

「おー、陽介。おかえり。さっきタケさんからお土産もらったよ。あんがと。…どうよ、首尾は。」

「ああ、大丈夫。…それより米買って来た。運びたいから助っ人呼んでくんねい?」

「あーわかった、行くよ。…おばーちゃあん、ヨースケが米もってきたって~」

 いつきが叫ぶと、おばあちゃんが出てきた。

「おんやまあ、それはすみませんのう。」

「いえ、俺はほんの微量ですが…。あの、月島さんがお見えになられていまして…」

「あんれまあ、月島さんまで。そりゃ申し訳ありませんのう、これ、いつき、土間まで行っておかみさんたち呼んでおいで。」

「はぁい。」

 おばあちゃんと鳥居のほうに歩き出しながら、陽介はきいた。

「…春季の体、帰ってきましたか。」

「まだですのう。」

「…そうですか。」

「もう少し待ちましょう。今夜帰らなかったら、明日は少しさがしてみましょう。」

「…はい。…ホテルを引き払ってきました。春季がもどるまで、お世話になります。」

「わかりました。」

「…お手伝いできることは、しますので。いいつけてください。」

「おきになさらんで、いいですよ。田中センセイと資料の整理でもなすっててください。」

「でも…」

 話がそのあたりまできたときに、おばあちゃんが立ち止まった。陽介はどうしたのかと思い、おばあちゃんの見ているほうを見たが、なにもない。…だが、そこはさきほど誰かに呼ばれた場所だった。

「わかりました。」

 突然おばあちゃんは言い、それならまた何くわぬ様子で歩き出した。

「…おばあちゃん?」

 陽介が言うと、おばあちゃんは「あとで」と言った。

 車のトランクを開けて、月島が待っていた。

「月島さんいつもすみませんですなあ。」

 おばあちゃんが声をかけると、月島はにっこりした。陽介は「お」と思った。

「よりこおばあちゃん。息災ですか。」

「あい、おかげさまで。元気にしとりますよ。」

「久鹿くんがお米を買うというので、私も便乗して買って来ました。…酒やらも、少しお持ちしましたんで。たいした酒じゃないけど、まあ料理にでも使って下さい。」

「ほんとにいつもすんません。たすかります。ありがとお。」

「運びますから、車見ててください。」

「はいはい、ひきうけました。」

 おばあちゃんが言うと、月島はどっこいしょと米をかついで片手には一升瓶をさげ、歩きだした。陽介も慌てて米を持った。すると、どこかからにゃーん、にゃーんと声がして、足になにかがどす、とぶつかってきた。

「あ、…無事についてたか。よかったよかった。…米はこぶぞ。ついといで。」

「にゃーん、にゃーん」

 白猫は陽介の足下をするするっと駆け抜けて、先に歩き出した。

 米を運び終えると、月島は陽介のことなどどこ吹く風で、おばーちゃんおばーちゃんとおばあちゃんに付きまとっていた。…どうやら月島は『頼子ファン』らしかった。陽介は幾分呆れて、「こんな婆コン男にちっとでも甘えたいと思った自分が恥ずかしい」とばかりにでかい白猫をだっこすると、ビールとつまみを手に下げて、江面を探すことにした。

 途中の廊下で、お腹の大きな若い女に会った。…どうも同じくらいの年にみえたが、陽介は軽く会釈だけして通り過ぎようとした。

「あれえ、あんた何抱いてンの??」

 …呼び止められた。仕方なく顔をあげた。

「…猫だけど。」

「猫…?…変な猫!」

 カチーンときた。

「変で悪かったな。」

 陽介は吐き捨てるように言うとそのままとっとと歩き出した。すると女はくすくす笑った。

「ね、それビールでしょ! 田中センセと飲むの?」

「俺の勝手だろ。」

「…ウチの兄貴にも一本めぐんでやってくれない?ビール大好きなんだけど、あたしが妊娠中だから我慢してくれてんの、いつも一緒に飲んでたから。かわいそだから、ね、お願い。お金、あたしがはらうから。」

 そう言われて陽介ははじめて女の顔をちゃんと見た。

 …タケトに目元がそっくりだ。

「…さっき江面さんに車だしてもらったから、お礼に買って来たんだよ。」

 陽介が言うと、女はにっこりした。

「ほんと?よかった! きっと兄貴喜ぶよ。ありがとね。兄貴、2番目の6畳にいたよ。…ね、あんたさ、陽ちゃんでしょ?」

 陽介はさらに驚いて、まじまじと女の顔を見た。

「やっぱり。陽ちゃんだ。…久しぶりだね。わすれちゃったか。…うふふっ、陽ちゃんはぜんぜんかわんないねえ。すぐわかったよ。…あ、でも、ユウちゃんにはナイショだよ。あたしもしらんぷりしとくから。…ユウちゃんは陽ちゃんのこと今でも根にもってるからね。あたしがあの子男の子だよーっていくら言っても絶対信じないし。ふふふっ。…陽ちゃんは、いつきのカレシなの?」

「…いや、違うけど…。」

「ふーん、そうなんだ。…でも好きならはやくやっちゃったほうがいいよ~。できたもん勝ちだって。ほらほら。」

 女…江面の妹の藍はぽんぽんと自分の大きな腹を軽く自慢げに叩いた。

「じゃーね。」

 呆れる陽介を尻目に、藍はそのまま廊下を悠々と歩いて行った。

 陽介はその姿が視界からきえてから、憮然としてつぶやいた。

「…あんなんでいいんかね?まったく女っつーのは。…いつきなんかとやってたまるかっつーの。」

「ニャ-」

 白猫も素早くあいづちをうった。

 部屋を探し当てて、江面に礼をいってビールを渡すと、江面はことのほかに喜んでくれた。

「え、いいの?嬉しいナー! 冷しといて今夜田中さんと飲むよ。一緒にどう?」

「あ、俺すごく弱いんですよ。それに…春季がかえってくるまでは、いつでも動けるようにしておかないと…。」

「…そうだったな。なんか責任感じるなあ、田中さんと泉の話なんかしちゃって…。怪我とかしてなきゃいいけど…。なかなか帰ってこないな。心配だ。…ヤッパ俺も彼がかえって来てからにするわ。帰ってこなかったら、俺が捜索にいくよ。」

 すると陽介の腕から猫はすとんと飛び下りて、すたすたと江面のまわりをまわり、ふさふさのしっぽでぱたりと江面のあぐらをかいた膝を叩いた。それから陽介のところへもどってきて、陽介の足に片足をのっけて座った。

「いや、気にしないでください。…きっと関係ないですよ。きかなくても行ってたかもしれない。…春季は冒険家だから。」

 陽介も座って、猫を抱き上げた。猫は大人しく抱かれて、陽介の膝の上でうずくまった。まるででかくて丸いロシア人の帽子のように見えた。

「…懐いてるね。」

「…餌やったから。」

「俺もやったけど、全然だよ。」

「そうですか?…なんでかな。」

 陽介はとぼけて笑って、猫の厚い毛皮をゆっくり撫でた。

 しばらくして、田中がやって来た。

「やあ、久鹿くん。尾藤くんいなくなっちゃったんだって?…なんか沢をのぼったらしいとか…大丈夫かなあ、まだ帰ってこないんだろ、心配だよ。…スケジュールはいいの?」

 陽介は顔を上げて答えた。

「ホテル、引き払って荷物ももってきちゃいました。…春季がもどってくるまでここに滞在しします。」

「仕方ないよね…。退屈だろ、ノートのデータまわしてあげようか。」

「あ…そうですね、せっかくだから。…おばあちゃんに何か手伝うって言ったら、田中さんの分類でもてつだってやってくれって言われました。」

「うーん、…校正やる気ある?今かえったばかりなら、いやだよね、校正なんか。あとで気がむいたら手伝ってよ。」

「あ、はい、わかりました。」

「…日がでてきたな。」

 畳に寝そべっていた江面が起き上がった。

「みんなで水浴びいかない?」

「そうですね。」

「えっ、今日も水浴びするの?」

 一人だけ反対な田中をじろっと見て江面は言った。

「だって俺ら下行ったからね。もう灼熱のドーム! 死んだほうがマシ! 汗だーだー。…久鹿くんなんか、そのうえ月島に会って飯まで食ったんだぜ。あの月島と!」

「そういえばさっき来てたね。声がしてた。隠れてたけど、僕。」

「…そんなに悪い人でもなかったけど…」

 陽介が遠慮がちに言うと、

「あいつは金持ちには礼儀正しいんだ。」

 江面はそうきっぱり言い放った。

 田中はうーんと頭を掻いた。

「…まあ、ああいう人は成功するなり、出世するなり、どうでもかってになってくれればいいと思うよ。かかわりたくない。僕、命令されるの苦手だし。」

「あいつなんか、ここの氏子衆のなかじゃうんと下っ端のほうなんだぜ。北の外れに住んでてさ。あの実家の場所だけで格がわかるじゃないか。それがちょっと役人だかなんだかになっただけでまあ威張ること威張ること…と、うちの親父はよく言ってる。」

 北の外れの氏子、と聞いて、陽介は水をぶっかけられたような気分になった。

「え、北の外れに実家があるんですか?」

「うん、あそこのうちは最北端だね。月島って名字も、このへんのもんじゃない。多分どっかから移住して来た人だと思うよ。」

 田中は丁寧に答えてくれた。

 それは…東高の藤堂ジェイこと京子姉さんのモトカレ・現在行方不明のシュウと祭で会って物陰でエッチしたとかいうあの人物…かもしくはその家族なのではないか?!

 …やばかったかもしんない…陽介は思った。

「…どうしたの?…あ、別に、それで月島家がイジメにあってるとかそういうことはないから、安心しなよ。むしろ威張りまくっててみんなが困ってるくらいのもんで…。」

「うんうん、あそこのうち、親父やお袋は普通だったのに今のあいつが滅多矢鱈に威張るんだよな。なんでなんだか。…しんぱいすんな、水守の氏子も隣の寺の檀家も基本的にはみんな仲いいから。その顔見知り同士の内部でじゃれあってるような感じのもんなんだと思っててくれ。」

 とりあえず陽介はうなづいておいた。膝の上の猫を見たが、うずくまったまま目を閉じている。春季と話したいのに!

 さすがに陰口じみてきたことを反省したのか、田中が話を変えた。

「そういえば、その猫、凄い猫だよねえ。ふっさふさ。チンチラとかいうの?初めて見たよ。こんな豪華な猫捨てて行くなんてねえ。」

「大人しい猫だよな。最初はたぬきかと思ったけど。」

 江面もそういってうなづいた。

 陽介は少し笑った。

「…猫ってかわいいですよね。うち、母が猫好きで、10匹くらい常時家にいるんですよ。」

「えーっ、そりゃすごい。」

「猫屋敷ってやつだな。」

「もー、猫まみれ。座布団とか、猫の下から発掘するって感じなんですよ。」

「餌大変じゃない?」

「大変です。」

 白猫は撫でられて、自分の話になったのがわかったのか、ぱちっと青い目をあけて、3人をかわるがわる見た。それから「くわーっ」と欠伸をすると、くるりと向きをかえて、陽介の膝の上でごろんと仰向けになった。陽介はそっとわきのあたりを撫でてやった。白猫はうっとり目を細めている。

「…どっかで可愛がられてた猫みたいなのになあー、可哀相に。おばあちゃんとかが飼ってて、なくなっちゃったとかかな。」

 江面は白猫のことを心配しているようだ。陽介は言った。

「…俺が連れて帰りますよ。どうせうちはもう一匹くらい増えてもどうってことないし。こんなに俺になつく猫、うちにも一匹しかいない。」

 猫は陽介のひざのうえで「うなーん」と鳴いた。江面は安心したようだ。

「そうか。そうだな。それがいい。」

「いいなあ、僕も久鹿家の猫になりたいよ。すごい御馳走なんだろ。毎日。スペアリブとかかじれそう。」

 田中がそう言ったので、江面は大笑いした。 


+++

 水浴びの帰りに、いつきと鉢合わせした。田中はビビっていたが、江面は平気で「やー失敗した。立派な巨乳見損ねた。ちーと遅らせてきてりゃなー」といつきに言ってガハガハ笑った。するといつきはニヤリと笑って「あーら残念、あたしもも少し早くくりゃニイさんの道具にタオルかけられたのにさ。」と言った。陽介が「ガ-」な顔になって「そのタオルで顔ふくのかよ?!」とつっこむと、「だれがふくかいあんたじゃあるまいし勝手にしゃぶりあってろ。」とものすごい罵声をあびせられた。さすがに男たちがざざーっとひくと、いつきはちょっと「あらン」という顔で口をおさえて言った。

「…そういえば陽介、おばあちゃんが探してたよ。」

「…あ、そう。じゃ、これからいく。」

 沐浴所の味見にくっついてきていた白猫がいつきの足をぎゅうとふんづけてとっとと行ってしまうと、3人も歩き出した。

「…田中さん大丈夫?」

「…ど…動悸が…。」

「あーほんとだ、ばくばくしてら。俺につかまっていいよ。」

「江面くん平気なの?」

「…うちの妹はもっとヒドイし。まー妹ドモなんて、あんなもんだよ。田中さんて兄弟いないんだもんね。」

「うん、いない。」

 二人でなにやら胸にさわったり腕につかまったりベタベタ馴れ合っているので、陽介は猫にだけコイコイとやっておばあちゃんを探すことにした。猫はぽてぽてとついてきた。

「…な、春季、…京子さんて、このへんの男はあらっぽいのが多いっていってたけど…あれってやっぱりあっち斜面の話なのかな?…かわいい男多いけどな。あ、田中さんはよそもんか。」

「にゃ~」

「…それにしてもお前の体はどこで何につかわれてるんだろ。」

「な~」

「…そーいやクマになった男の話あったな。春季、猫になってどんなかんじ?」

「うま~」

「ウマーですか。」

「うま~」

 白猫は陽介の足にくるくるまとわりついて、最後に陽介の前でごろん、とひっくりかえった。陽介はにこにこしてかがみ、白猫の胸をなでなでしてから、どっこいしょと拾い上げた。猫は甘えた声で鳴き、陽介の肩に両手を載せて鼻をちょいと陽介の頬につけた。

 おばあちゃんを探し当てると、「ああ、ぼっちゃん」とおばあちゃんは言った。

「…いつきから、行くように言われました。」

「すみませんなあ、すぐ言おうと思ってたのですが、月島さんがなかなか帰らなくて。」

「あ、月島さん帰ったんですか。」

「はい帰しましたよ。」

 おばあちゃんはコキコキと首の運動をしながら言った。

 …お疲れさまだ。

「…さっき鳥居の近くでなんやらお尋ねでらしたでしょう。」

「あ…はい。」

「ぼっちゃんにはわからんかったかもしれませんけれどなあ、翠さんがいらっしゃって、ハルキさんのことをおっしゃっておられました。」

「え…そうだったんですか。」

「はい。…2~3日かかるかもしれないそうです。食べさせているから心配しないようにとのことでした。お元気だそうですので。その旨お伝えしておきます。」

「…わかりました。…江面さんには、一回帰って来てまたどこかへ出たってことにしておきましょうか。心配してくれてるみたいなんで…」

「そうですなあ、わしが言っておきましょう。」

「お願いします。…あの、それと…」

 陽介は月島と話したユウのことをおばあちゃんに言った。

「…ちょっと考えてしまって。たしかにあとにいくほど悪くなる気がしないでもないし。」

「…さようですなあ…。じゃ、折を見て、一度ぼっちゃんから話してみてくださいますか。…ただ、信じないかもしれませんが。」

「信じない?…あ、そういえば、藍さんは俺のこと覚えてたみたいで、…何度かユウさんに、陽は男だったと話してくれたらしいけど信じなかったって言ってたっけ…。」

「はァ、そうなんですわ。」

「…わかりました、でもなにか良いチャンスがあったら、言うだけでも言ってみます。」

「そうですな、ダメモトくらいで話してみてください。…不躾な孫で申し訳ありませんなあ。」

「いや、ぜんぜん。いつきにくらべりゃもう、模範生ですよ。」

「そんなこともございませんよ。いつきのほうが聞き分けがいいくらいですから。」

「それはおばあちゃんが相手だからですよ。おばあちゃんはいつきにとっては修行の先生だし、ユウさんにとっては祖母だから。」

「そうですかのう。」

「…じゃ、ええと、…また何か…えと、翠さん、からお言葉がありましたら、よろしくお願いします。」

「はいはい、それはだいじょうぶですよ。まかせておきんさい。…ぼっちゃんもあまり心配せんでなあ、のんびり暇つぶしでもなさってお待ち下さい。翠さんは信じてよい神さんですよ。」

「はい、そうします。」 

 陽介はぺこりと頭をさげた。

 そして白猫を抱きなおすと、自分が借りている部屋へ向かった。


+++

 水浴びからあがったいつきは服をきて、社殿の回りをほっつき歩いていた。貴重な自由時間のお散歩だった。毎日薬草をつむうちに、ここいらの道や地形もおぼえてしまっていた。

 奥まったところにある細い一本の小道をあがってゆくと、そこは禊やらなにやらを行なう水場となっている。いつきが水ごりをした場所だ。そこのさらに奥には小さな滝がある。おばあちゃんがときどき滝行をしているところで、いつきも今朝させてもらった。とてもきれいなところだった。おばあちゃんがいうには裏に、ちいさな祠があるのだそうだ。

 滝のわきは切り立っているので誰も登ろうという気にはならないらしい。確かに一見足場などはなにもないように見える。しかしさわってみると岩は固く、しっかりとしていた。これは登れそうだな、といつきは思い、はいていたスニーカーを脱いで、紐をしばって腰につるした。すると、後ろでクスっと誰かが笑った。

 ふりかえると、春季が立っていて、いつもの無邪気なニヤニヤ笑いをしていた。

「…あら尾藤くん。お疲れさま。用事はもう済んだの?」

 いつきは登るのをやめて言った。春季は顔の近くでかるく手を振った。…まだ、という意味らしい。

「…そんなところ登ってどうする気ですか。」

「どうって気でもないけど?…そこに崖があるからさってかー。」

「アハハ」

 なぜか春季はウケた。

「あんたこそこんなとこになんしにきたのよー。」

「美女の滝行がみられるかと思って。」

「よーゆーわ。冗談じゃないよこんな冷たい水、一日3回も入れるかいつーの。」

「…もしやってたら止めようと思ったんですよ。心臓に悪いからよせって。」

「そりゃどうも。」

 いつきは肩を竦めた。

「…ところでいつきさん、ちょっとお話が。」

「なに。」

「…まあ、靴をはいてこっちへ。あそこ、座れますよ。」

 春季が指したところをみると、なるほど、かけるのにちょうどよい岩がある。いつきは靴をはきなおして、春季とその岩に座った。

「…いつきさんはハイキングコースは歩いたことありましたか。」

「いや、まだない。」

「…そうですか。陽ちゃんと、この子は途中まで歩いたようなんですが。」

「…」いつきはちょっと眉を上げた。「…ふうん。」

「…三の沢の少しあっちに、供物台というところがありましてね。天狗に食事をさしあげる場だったところなのだけれども。御存知でしょうか。」

「…ううん、あたしはよく知らない。」

「…古い知人というか、まあ隣組みたいなもので、わりに顔見知りだったのですが…ながく音信不通でね。お隠れになったかと思ってますが…。実はこの子が、その供物台の近くで、数日前にされこうべをみつけました。勿論それは人間のものです。赤いシャツを着ていたようですね。」

「ええ?それも知らなかった。聞いてないよ。」

「話す暇もなかったのでしょう。…供物台の周辺は最近荒れ放題のようで…、ヒトの死体が出るとなると、さすがに気になりましてね。主がおかくれになったなら、なんとかしないといけない、と思っているのですが。まあその、同じ町内会みたいなものですから。」

「…ふうん。」

「…沢が3つありまして。」

「うん。」

「…そこが特別な空間というか力場というか…わたしは肉に自分を封じないとその区間が通過できないのです。」

「…なんで?」

「さあ。ただ、ずーっと前からそうなんです。」

「…そりゃ…参ったねえ。行くのすごく大変なんじゃない?」

 いつきが言うと、春季の顔をしたなにやらけったいなものはうなづいた。

「…すごく、というほどでもないですが。人間でもゆける道ですから。ですが時間がかかってしまう。…幸いこの子は着脱式のようで、しかもたいへん丈夫な体です、そういう事情でちょっとお借りしました。…供物台を少しいじって人が入らないようにして、今、調整してます。済んだら返しますから、2~3日待ってほしいのです。」

 いつきはうんうんとうなづいた。

「事情はわかった。」

「一応、頼子には言ってあるのですが…もし陽ちゃんがイライラするようなら、いつきさんからも言ってやってくれませんか?」

「いいよ。」

「ありがとう。…陽ちゃんを頼みます。」

「…自分で行けばいいのに、なんであたしんとこへきたの?」

「…今朝がた言おうと思ったのですが、陽ちゃんが思いのほかに怒ったので、…メッセージカードが消し飛んでしまいまして…。いや、陽ちゃんもいつまでも小さい子でないのを失念していました。」

「…」いつきはちょっと考えた。「…陽介とも昔なじみなんだ?」

 春季の顔は懐かしそうにうなづいた。

「…かわいかったんです。女の子だと思っていました。とても上手に動く子で。忘れ難い。」

「ふーん、そっかー。」いつきは軽く2~3回うなづいた。「…そういえば、男の子、なんでとっちゃうの?」

「そんなことはしません。」

「…そうなんだ。じゃ、みんなの誤解か。」いつきは少し目を見開いた。

「…だろうと思うのですが。」曖昧な返事だった。 

「ところで…あたしのことヘーキ?」

「…」ちょっと微妙な表情になった。「…言いたいことはわかります。…おそらくわたしはわりに平気なほうでしょう。どうしても駄目だ、という方もいるでしょうね。…今はこの子の肉をまとっているのでまったく問題はありませんが、そうでなければわたしも少しは難しいでしょう。」

「…やっぱりそうなんだ?!」

「…そのほうがいいんですよ。」

「そうなの?」

「勿論。わたしが貴方の肉をまとうことは絶対に不可能です。あなたは我々からの干渉を極端に受けにくいはずだ。でも、逆は…つまり、あなたは、我々に干渉できる。」

「…」

「…あなたを天敵だと思う方も、いて不思議ではない。…誰かに何か言われているんですか。」

「…うん、みんなに言われてた。血が汚いって。」

「汚いわけではないのです。強い、のです。…ヒトにはなかなかそういうことがわからない。放っておきなさい。」

 相手は春季の顔でうなづき、そう言った。いつきは言った。

「干渉、受けにくいってわけでもないんだ。」

「受けますか?どんな?」

「…夢を叩き込まれる。」

「…それは干渉されているのではない。あなたが干渉しているのです。」

「え、そうなの?」

「そうです。あなたが干渉しているのです。」

「…じゃあ、あたしの意志で、やめられる?」

「…意志とはなんですか?」

「え…だから、やめようって思ったら、やめられる?」

「…どこで思うのですか?」

 いつきは返答に困った。

「え、えーと、こころ?」

「無理です。」

 きっぱり言われた。

「…どこで思えばいいの?」

 いつきが尋ねると、相手も少し考えた。そして言った。

「…魂の、さらに奥にある、広い暗黒の領域で波紋を広げれば、あるいは可能かもしれません。」

「魂の奥?は…波紋?」

 思わず聞き返すと、くすくす笑われた。

「…ピンとこないうちは無理ですよ。修行が足りません。」

「…そ、そか。」

 春季の姿の人物は立ち上がり、いつきに手をさしだした。…つかまって立ちなさい、という意味だとわかるまでに、いつきは5秒ほどかかった。

「あっ! ああ、ありがとう…ございます。」

 そう言って慌てて手をとって立ち上がると、またくすくす笑われた。

「…では、陽ちゃんのこと、くれぐれもよろしくお願いいたします。」

「わかった。」

「手を出して。」

 いつきが手をさしだすと、春季の顔の人物はその手に、何かすきとおった金色のものをおいた。…ぺた、とくっつくような感触があった。

「…おあがりなさい。元気でますよ。…じゃあ。」

 そう言うと、春季の体の人物は手をふって、小道を下りていった。

 いつきは手をみた。

 小さなハチミツのかけらが載っていた。

 なめてみると、それは痺れるほどに甘かった。

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