10 TANAKA
田中は、痩せた無精髭の中年男だった。丸メガネの奥の目はどろりとしていて、夜更かしのし過ぎかなにか そういった軽く浅い不健康さと、幾分の不潔さを感じさせた。髪もほったらかしでだらしなくのびている印象をうける。背は高くもなく低くもない。日焼けしていた。
しかし陽介たちが話を聞きたがっているときくと、急に目に生気がでて表情も明るくなった。フレンドリーな態度で近付いてくると、自己紹介して握手を求めた。二人は愛想よくかわるがわる握手し、自分達も名前を言った。
「高校生なの?若いのに地域文化に興味があるなんて、偉いなあ。」
「いやー、観光客の少ししつこいやつって程度です。」
「大学で研究する気はないの?」
「…好きだけどそこまでは。」
「…うーん、まーね、学会はやっぱり、楽しむところではないね。趣味でやるのが一番かもしれないね。どの分野も似たり寄ったりだとはいえ、やっぱり学問てーのは食ってけないし。」
田中は見た目のむさ苦しさとは裏腹なドライさでそう言いきった。…軽やかに言い切ったといってもいいかもしれない。
「学会、大変ですか。」
「大変というか、オワってる。未来がないのは一世紀ぐらい前からはっきりしててさ。むしろよく一世紀もったというか…。われわれにとってはあの悪名高きドーム革命も正直言って有り難かった。あれでけっこう価値観や文化がかわっただろう。おかげ様でなんとか間がもってる感じかな。…やっぱり来いとはなかなか誘えない。でもまあ、ああいう世界でならなんとかカッコつけて生きていけるって親父たちも多いし、僕もそういう意味では他人のことはとやかくいえないし。同じアナのむじな的にはそれほど悪くないかもね。…いくとこがなかったらおいでよ、とりあえず死ななくてすむから、とか、そんな感じかな。ははは。」
大学生といつも話しているせいなのか、田中は早口で、言い回しも若かった。
田中を陽介と春季に引き合わせると、おばあちゃんとユウといつきは部屋を退出した。出て行きがてらユウがさらっと言った。
「…そうそう、少ししたら晴れて日がでるから、そうしたらそいつらを水浴びに連れて行ってやってくださいね、先生。場所わかりますよね?タオルも用意してありますから。あと、剃刀おいておきます、おひげのびてきちゃったみたいだし。」
「あー…はい、わかりましたー。」
「じゃ、あとはおまかせいたします。」
ユウも出て行って、襖をしめた。
田中はちらっと閉じた襖をうかがってから、ひそひそ言った。
「…ここの女衆、みんなおっそろしく強気できつい目してるだろ。ばあちゃんなんか怖くて怖くて。ユウちゃんやアイちゃんも鬼みたいだよね。いつきってコは新入りだけど、あのコも激しそうだね。あまり口きいたことないけど。」
「…ああ、いつきね…。知合いなんですよ、俺。きっっっついですよ。」
陽介が苦笑すると、田中は「お」と目を丸くした。
「彼女?」
「いや、ちがうけど。」
「あ~『未満』てやつか~。いいねえ、若い子は。うんうん。つーか、あのおっかなさじゃ、裸想像できんか。ぶん殴られそう。」
「…まあ、…たまには親切だったりとか、優しいところもありますよ。それに、信用できる人ですよ。」
春季が苦笑して言うと、田中は「おおお?!」と更に目を丸くした。
「こっちのメンチャコイのがカレシ候補?!」
「…違いますけど。姉が友達なんですよ。」
あははと春季は力なく笑い、手をはたはたと左右に振った。…一気に萎えた感じだった。確かにいつきという人物は、なぜか性の対象として想像しようとすると、強烈に疲れる。
「あ、がっくり疲れてる?もしかして。」
「はい。がっくり疲れています。」
「その状態がね、ケガレってヤツの語源ってハナシがあるんだなあ。」
「ケガレって…あの、穢れですか、少しずつたまるから、祓うやつ?」
春季が見上げると、田中はうなづいた。
「…気が枯渇するってことでしょ?」
陽介が言うと、田中はうなづいた。
「…もともとはマイナスされていくってことだったんだけど、いつしかマイナスがプラスされていくってことになっちゃったって考えなんだよね。パワーが目減りする、が、疲労が蓄積していく、みたいになっちゃって、結局なにか泥みたいなものがこびりついてたまって行くようなイメージになっちゃったというか。」
「…あのう、気ってなんですか。」
春季が基本事項を確認したため、陽介と田中二人がかりで、生体エネルギーの話やら気功治療の話やらで説明した。
「ああ、そうか、あの、それって、体の外にも出せますよね?」
「出せるらしいね、実際は見たことないけど。」
「けっこう威力あって、大男ふっとばしたりとか…」
「そういうのあるある。ショーをやってる人もいるよね。見たことあるんだ、春季。」
陽介が無邪気に聞くと、春季は少し沈黙してから、ちょっと嫌そうに言った。
「…父がたまに。神のみわざーとか言って。」
「あー」
陽介が曖昧な受け答えをすると、田中はまた目を丸くして春季に言った。
「お父さんは神主?」
「いえいえ、ちがいます。新興宗教のUFOマニアみたいなもんです。」
「だとしたらもっと凄いね。目覚めちゃったわけか。…今度機会があったらそれ見に行ってみたいよ。」
「…洗脳されて入信させられますよ、宣教師だから。会費高いですよ、多分。」
「あー」
今度は田中が微妙な返事となった。春季は陽介に尋ねた。
「…そうか、わりと極東アジアでは有名なものだったんだ…ひょっとして訓練方法なんかも…?」
「うん、本とかはけっこうでてるよ。たまに州営放送局の健康番組でもはいってる。」
「…」
春季が険悪な顔でなにごとか考えているのを見て、ヤバいと感じた陽介と田中は話題を変えた。
「…あの、神社の縁起とか、…他にもお話を御存知でしたら、いろいろうかがいたいんですけれども。」
「ああ、縁起ね。じゃ、看板のとこに案内しようか。」
田中は二人を連れて、部屋を出た。
いきがけに、建物の中を案内してくれた。
「…おばあちゃんに外の廊下歩くなって言われたろ?ここがそうだよ。まえは縁側になってたんだけど、人死がでちゃってさ、降りられないようにしたわけ。」
そこは小さな庭に面している。庭、というか、じめじめとした地面に苔が密集しているような場所だ。庭の半分ほどが、黒っぽい色をした沼になっている。竹を組んだ向うは森だ。いかにもな感じだった。
「…あんまり一人では歩きたくないかも。」
「それがさあ、この通路とおると便所が近いんだよねえ。」
「…勇気あるなあ、田中センセイ。俺絶対ダメ。」
「先生はやめてくれよ。嬉しいけどさ、田中サンくらいにして。ヤヴァイのよ、自我がインフレーションおこしちゃって。」
すこしおどけた様子で田中がそんなことをいうので、陽介も春季も笑って、以後は田中「さん」になった。
春季は尋ねた。
「人死って…おばあちゃんが言ってた、ユウさんのお父さんのことですか。」
「そうそう。静サンね。そこの沼にうつぶせに浮かんでたわけよ。深さは膝くらいの沼なんだ。いやなに、僕もひきあげるのてつだったから。」
「…凄く不審な亡くなり方なのでは。」
「そうね、でもここには静さん殺して得する人はだれもいないよ。…それに静さんは、わりといつもご気分の優れないタイプの方だったからね。一応、『ご自分で』と『事故で』との間あたりに落ち着いてる。」
「ご気分がすぐれないタイプですか…。」
「うん。あーでも、悪い人じゃなかったよ。僕にもいろんな話教えてくれたし、村の子供たちにもお神楽おしえたり、神社のことに関しては熱心だった。亡くなったのは残念だね。ユウちゃんもまだ若いし、かわいそうだよ。…ここでは多分おばあちゃんの他は、僕が一番まともに静さんと付き合ってたかもしれない。繊細な人だった。読書とか絵を見たりとか好きでね。雨が降ると、庭の緑が美しいといって涙するような…、とにかくバリバリな女衆とは対照的なタイプ。」
「…。」
それはかなりイッチャッテますね、と春季が言わなかったのは、まだ気功のことでも考えていたのか。
「…あの、じゃお母さんは?」
陽介が尋ねると、田中は声をひそめて言った。
「…逃げた。こんな山奥で暮らしも大変だしね。おばあちゃんはそこいらの半端な霊能者なんかハダシで逃げ出すようなすごいおばあちゃんだし、旦那は年中ナーバスだし、娘はおっかないし。居場所がなかったんじゃない?」
「…ありゃ。」
陽介は頭を掻いた。
自分の家もけっして幸せいっぱいというわけではないが、ここの家もまたけっこうなものだ。
3人は庭に出て、看板の前についた。
「縁起、これだよ。わかんない漢字あったらきいて。」
そう言われて看板を覗き込んだ春季だったが、すぐに眉がハの字型になった。
「ううっ、これは僕にはきついなあ…ちょ、ちょっと写真とっとこうかな??」
「あはは、そういえば、極東アジアでないところで育ったのかい?さっきもちょっとそんなようなこと言ってたね。」
「そうなんですよ~、真面目に漢字習い始めたの最近で…。それまでは意味中心に適当に読んでたから…」
「最初のほうはわかる?」
「平仮名はとりあえず。…」
うなってカメラを引っぱり出した春季とは対照的に、さーっと目をとおした陽介は、田中に尋ねた。
「…なんだってこんな半端なところに看板が…?」
「ここね、ほら、そこに道がある。…ハイキングコースの終着点なのヨ。」
「え、こんなとこに出るんだ。裏庭のど真ん中ですよね。…向こうから供物台のあたりまでは一応歩いたんですよ、あの道。」
「んー、あっそ。あの供物台ね、近よらないほうがいいよ。」
さらっと言った田中を、陽介はちらっと見た。
「…らしいですね。地元の人にしかられちまいました。」
「…よかったじゃない。叱ってもらえて。…僕は偉い目にあったよ。」
「偉い目、とおっしゃいますと…?」
「…見られちゃったんだよねー、供物持って願かけにきた人に。まあ、僕の行った時間も悪かったんだけど。」
「…夜中ってことですよね。」
「あたり。」
「…口汚くののしられました?」
「勿論。人に見つかっちゃいけないらしいのね、あそこの願かけ。…ほんで、こう、持ってた生魚でボコボコに殴られてさ。いや臭いのなんのって。…あれ以来向こうに行くのどうも気乗りしなくってさ。参ったよ。調べたいこといろいろあるのに。」
「…なんで夜中なんかに。」
「やっぱり見たくて、儀式が。…あの供物台はここの神様とはまた別の神様らしいんだよ。…向こう斜面には鬼の話も残っているから、ちょっとこっち斜面とは違う感じもあるね。
こっちはもとからバリバリの神社勢力下…というよりむしろこっちの勢力が建てた神社ってとこらしい、ここは。多分最初はそこらへんの集落の守り神か、あるいはズバリ氏神様祭ってたものとおもわれ。時代がたっちゃってて詳細は不明。神様の名前もわかんなくなっちゃってるね。女衆が徒名つけて呼んでるドナタカと一致しているのかどうかもよくわからない。
縁起にE川元とかE川端とかいう地名か家名かがでてくるでしょ。それがここの強力な氏子衆の村なのね。今の総代を交代でやってる坂下ってうちや江面ってうちも、そのあたりの村に住んでるわけ。みんな稜線からこっちね。
坂下って家は代々お神楽の楽人やってる一家。次男がユウちゃんに岡惚れしてて、いいように足にされたりまき割やらされたりしてる。長男は太鼓が上手だよ。祭にしか帰ってこないけど。…江面のうちは、妹がアイちゃんね。兄貴はなんていったかな。今来てるよ。そのうちあえるんじゃない。でかい体育会系の見た目だけど、話すとまあまあインテリ。酒飲むと楽しいよ、エロ男で。」
陽介は「ははは」と苦笑した。そういうタイプはいまひとつ苦手なのだろう。
春季はカメラで案内の看板を写して言った。
「…けっきょくこれは、トータルすると、あまりよくわかってないって意味なんですよね、神社のもともとのいわれが。」
「そう。そういうこと。」
「…で、今は水の神様として祭られている、と。」
「よくできましたー。」
「…」
「来ただけ損した、かい?」
「いや、そんなことはないけど。きれいなところだし。…ただ、ちょっと消化不良ってかんじ。」
「じゃ、このへんで聞いた話とか、中に戻って話そうか。」
田中の提案に二人はうなづいた。
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先ほどの襖絵の部屋に戻ると、誰が置いて行ってくれたのか、ポットやら急須やらがあった。
「あ、お茶だ。いただこう。ここのお茶は美味しいよ。お茶といっても薬草だけど。今年はあのイツキって子が毎日一生懸命つんでるらしい。」
「へえ。…薬草ですか。」
「うん。」
茶筒をあけて田中はちょっと香りを確かめた。
「うーん、今日はドクダミだな。」
「ドクダミ…」
「みたことないかい。白い可憐な花がさく日陰の植物だよ。名前の由来は、生の葉に特有の臭気があるものだから、なにかの毒が入ってるんじゃってことで、ドクダメ(毒溜め)と呼ばれるようになった、なんてハナシがある。そこからドクダミになったんじゃないかって。
『わが国の馬医これを馬に用いると、十種の薬の効能があるので、十薬という』ってのは『大和本草』だったかな。馬にもきくってことか。十薬って名はけっこう有名かもね。人間むけのほうも、万病に向く薬草として『日本薬局方』とかそのあたりにものってたはずだよ。
要するに、ニホン古来からの伝統的な民間療法につかわれてる植物なんだ。生で湿布すれば化膿止め、かるく煎じて飲めば高血圧からにきび・便秘まできく。ただ、寒いときは駄目。腎臓にひびくから。冷えてないよね?」
二人がうなづくと、田中は器用な手付きで茶を汲んでくれた。
「…便秘なおして美肌っていう、女衆に人気の薬草ってとこかな。」
「…田中さんがんばりますよね、女衆こわいこわいといいつつ、ここ何年もかよってらっしゃるんでしょ。向う斜面のこと、やっぱり気になるんですか?」
春季が冷やかすと、田中はニヤリとした。
「…うーん、そうね。気になる。…それもあるれど、でもまあ、かよってたのは、静さんが面白い人だったからだな。その静さんのご遺体ひきあげたのも、何かの縁かと、今もずるずる。…けっこうさ、当時もめて、それで僕も何度も呼び出されたんだよね。それで半分いついちゃったというか。」
「もめたって、死因ですか?」
「死因ていうか、まあ…自殺かどうかとか、そういうこと。」
「ああ、死因は溺死でしたもんね。」
「うん。」
「…田中さん的には、なにか腑に落ちないようなところもあるんだ?」
「…そんなことはないよ。」
田中はそう否定したが、顔はその言葉を裏切っていた。
「そう思ってるみたいにはみえないですよ。」
春季があっけからんと言うと、田中は慌てて笑いながら頭をかいた。
「いやあ、そんなことはないよ! ホントにさ! …だけど、いや、じゃ、はっきり言うね。いくらなんでもおかしいだろ、自殺にしろ事故にしろ、深さ30センチの小汚い池で死ぬなんて。周囲にはきれいな池や、深い泉や、滝だってあるんだぜ、なんで好き好んであんな一番気味のわるい水たまりなんかで…って、思うじゃないやっぱり。あんなきれいなのもの好きで清潔にしていた人がさ。静さんはまあオッサンだったけど、僕みたいな汚いオッサンとは根本的に違う人だったんだよ。二枚目っていうのもちょっと違うけど、人間離れした感じの人物でさ。なんつーか、精霊みたいな感じの人だったよ。
でも静さんを殺しても、だれも一文の得もないっていうのは本当なんだよ。ユウちゃんなんかは静さんとは仲が悪かったけど、静さんが早死にしたおかげで、あちこちの神社に研修にだされてさ、それで無理矢理宮司の資格とらされて、そりゃ大変だったんだよ。宮司の研修ってそもそもかなり面倒なうえに、もともと成人男性がやるメニューしか組まれてない、それを総代とおばあちゃんがなんとか頼み込んで無理矢理やってもらったような感じだったんだ。資格も第何項だかの特例申請でやっと出してもらったような形。この山奥の氏子も絶え絶えの神社を細腕に背負わなくちゃならないし、それに母親家出、父親死亡は書類かくときいろいろしんどいじゃない。」
「…ユウさんが一番あやしいんだ?」
またしても春季があっけからんと笑って尋ねると、田中は思わず口をおさえた。陽介は聞かなかったような顔をして、茶を口に運んだ。
薬草の茶は思ったより香ばしかった。だが美味しいというほどのものでもない。…陽介や春季は、そもそも「茶が旨い」という年齢でもない。
陽介はさりげなく話を変えた。
「…頼子おばあちゃんに、神様になにかしてもらっても、お礼は口だけにするようにして、取り引きはするなと言われたんですが…それって、どうしてなんでしょうか? 」
そう尋ねると、田中は「ああたすかった」という顔でメガネをずりあげた。
「ええとね…、」
田中はそう言って、茶碗を茶托に戻した。
「…ここから2時間くらいのところにいるニ沢さんのじいちゃんがまだ生きてたとき、本人から聞いた話があるよ。
まだドーム時代に入る前の時代のことになるけどね。ニ沢のじいちゃんが子供のころ、そのお父さんは森林組合にはいってて、林業をやってた。ところがある日、突然組合を抜けてきてしまったんだ。そして森の仕事にも行かなくなった。家族はいぶかしんだが、お父さんは『心配するな』といったきりだった。
どうやっているのかわからないけれども、食べ物や着るもの、必要な時は現金さえ、どこからともなく調達してくる。そんなこんなで、ニ沢のおじいちゃんも、ちゃんと高校を卒業できた。お母さんがみすぼらしいかっこうをしているのも、見たことがないと言ってた。
ニ沢のじいちゃんはやがて結婚して、一度山をおりて、T市で家庭をもった。仕事も紹介してもらって、子供もうまれ、なんとか人生が軌道にのったころ、例のお父さんが倒れた。仕事を休んで山に戻ると、お父さんはもうすでに昏睡状態だったそうだ。
その晩久しぶりに実家で眠った若き日のニ沢さんは、夢を見た。危篤のはずのお父さんが出てきて『俺が死んだらどこそこのこういった特徴の木を切れ』と言ったのだそうだ。
…その場所がどこかは残念ながら僕はおしえてもらえなかった。それはまあいいや、話の続きだ。
翌朝起きると、お父さんはもう亡くなっていたそうだ。夢のことを話すと、不思議なことにお母さんも同じ夢をみていた。そこで妻と赤ん坊を実家に残し、お母さんとその木を探して、言われたとおり切り倒した。すると倒れてきた木がまっぷたつに割れた。そして、その割目になんと真新しい墨で、おじいさんの名前がかいてあったというんだ。驚きあやしがりつつ、それを墓の卒塔婆代わりにしたそうだ。卒塔婆ってわかるかい、まあ木でできた墓標みたいなものだ。」
目を大きく開いてうなづきながら聞いていた春季は、そうふられて、口を開いた。
「へえ、そうなんですか。ソトバ…?は見たことないけど、…いろいろ不思議なお話ですねえ。」
「本当に不思議なのはこれからさ。」
田中はニヤリとした。
「…お父さんの初七日もおわって、これでやっと一息つける、と家族だけで、酒のテーブルを囲んだ。通夜のときには出てこなかった故人の話でもりあがった。じいちゃんはお母さんに尋ねてみた。親父は組合をやめたあと、一体どんな仕事をしてたんだい母さん、と。」
「お母さんなら知ってるかもしれないと。」
「そういうこと。…ところがお母さんは答えた。ええ、おまえもしらないのかい。おまえはよくお父さんと山にはいっていたじゃないか。あたしゃてっきりどこかで埋蔵金でもみつけたものだと…」
「…」
「…結局、お父さんはやっぱり山にしか行っていなかったことだけがわかった。山菜をとったり、薪をとったりは、普通にしにいっていたというから、つまりそれだけだ、ということになる。たまには何日か帰ってこないこともあったけれど、話をきいたらずっと向うの峰のほうにまで入り込んでいたりしていたそうで、さもありなんということだったらしい。」
春季は確認した。
「じゃ現金とかは…かなり無理ですね。」
「うん、かなり無理だ。」
「どういうことなんですか。」
田中はメガネをずりあげた。
「…謎は数年後に解けた。その年の台風で、この山にも大変な被害が出てね。きっかけはそれだった。」
「台風、ですか。」
「うん。…T市のニ沢家の子供は3人になっていた。一番上の子はもう随分大きくなっていた。その一番上の子がやってきて、親父、亡くなったじいさんが呼んでいるのを夢で見た。山へゆこう、と言う。」
「…それで。」
「まさか仕事もあるしホイホイ来られるところじゃない。ニ沢さんは渋った。そうしたら、次の日に、息子がいなくなってしまった。」
「えー」
「さがしまわっていたら、山の実家から電話があった。孫が一人で来ている、おくってゆくのも難儀だから迎えにきてやってくれまいかという。」
「一人であがってきたんですか、下から。」
「そういうことらしい。…慌てて実家のお母さんのところへとんでいった。仕事とかいってる場合じゃない。」
「…はぁ、そうですよね。」
なんとなく春季のあいづちの歯切れが悪くなった。
…確かに、ちょっとどこかで聞いたような話だと、陽介は思った。
「そうしているうちに、また息子がいなくなってしまった。やっと山にのぼってきたばかりのニ沢さんは、必死であたりを捜しまわった。そしてふと思い出した。親父がなんとかと言っていなかったか、と。」
「…」
「大急ぎで亡くなった父の墓へ行ってみると、台風で土手が崩れていた。…墓も、流されてしまっていたそうだ。けれども、いなくなった長男はそこにいた。」
春季のあいづちがなかったので、代わりに陽介が言った。
「…亡くなった親父さんが、墓のコトで孫の夢枕に立ったってわけだ。」
「そういうことなんだろうね。爺さんは息子をしかりつけてから、一緒に流された卒塔婆を探した。特別な卒塔婆だ、見つかって欲しいと思ったが、だめだった。しかたがないので、新しい卒塔婆をつくることに決め、息子にそれを言って一旦実家に帰った。
実家で眠りにつくと、久しぶりにじいちゃんの夢枕にも、お父さんが立った。」
「…死んだのに、なかなか活動的なお父さんですね。」
陽介の何気ないあいづちに、田中はぽん、と手をうった。
「おっしゃるとおり。…お父さんは、死んだとは思われないほど、若く精悍な姿で現れた。忙しそうな様子で、じいちゃんに言った。
おう、お前、更けたな、と。」
「…ほんとうに?」
「そう。じいちゃんは言われて気がついた。自分のほうが、お父さんよりたしかに更けてしまっている。お父さんはそれほど若いんだ。」
「…へえ。」
「仕方がないから、親父は若いねえ、と言った。
すると、お父さんは眉をひそめた。…いや、人間歳相応は、大切だよ、と。
親父、墓が流れちまった、ごめん、とニ沢さんが言うと、
いやかまわんよ、○○様が、もう古くなっていたからとりかえてやろうと言ったし、という。
思わず、え、誰?誰様だい?と尋ねたが、
お父さんは、ああ、俺の今の仕事先だよ、とだけ言った。そして言った。…明日新しいのを用意してやるといっていたから、山のどこそこへ言って、そこの黒い岩を転がしてみてくれ、と。
じいちゃんおっかなくなって、お父さん誰にお仕えしてるんだい、かなり忙しいのかいときいた。
すると、心配するこたねえよ、おまえの学費だってかあちゃんの服代だって、みいんな出してもらったんだから、それでいいんだよ、とお父さんは言った。それから真剣な顔でこういった。
だがな、俺みてえに、若返りさせられて、身を粉にして働くようなはめになっちゃ大変だぜ、だからおめえは、やめとけ。いやまったく、死んでからここまで忙しいと知っていたらあのとき少しは考えたんだが、なにしろ死ぬってことが見当もつかなくてよ、がはは、とお父さんはわらった。わかったな、ぜったい○○様と取り引きしちゃなんねえ。何か物をもらったら、ありがとうだけ言って素直に貰え。もらいっぱなしでいい。お礼に何かいたしましょうかなんて、絶対に言うな。
夢はそこまでだった。翌朝息子とともにでかけると、果たしてその場所には岩があった。少し押すと簡単にころがった。そしてあらわになった面に、亡くなったおとうさんの名前が刻まれているのが見えた…。」
「…」
陽介がだまっていると、それまで黙っていた春季が口を開いた。
「…つまり亡くなったお父さんは、死後に働くという約束で、…現世の富をうけとるという取り引きをした、ということなんでしょうか。」
「そうね、そゆこと。」
田中は軽く言った。
春季は少し考えて言った。
「…神様って、みんなそういうものなんですか? 何か契約を持ちかけてきたり…?」
「いやーどうかなー。みんなってことはないだろ。あまりそういう話は聞かないよ。」
陽介は感慨深げにうなづいた。
「…取り引きすると大変な代償を支払うはめになるかもしれないんですね。」
「そうらしいね。…ニ沢のじいちゃんの、その息子ね、その後失踪しちゃったし。」
「え…」「…え」
二人は前後して短く声をあげた。
「…それは一体…」
田中は尋ねられて、首を左右に振った。
「さて、ね。案外どこかのドームあたりにちゃっかり入ってるのかもしれないし。或いは…」
そこまで言うと、田中はニヤリとして、口をつぐんだ。
+++
しばらくたって日が射しはじめると、途端に気温がぐんぐんあがりはじめた。
よし、今だ ! と田中が言うので、三人は連れ立って屋敷内を再び移動した。先ほどとは違う廊下を通って、釜のある土間へでた。おばあちゃんがいて、山菜のごみとりをしていた。
「ああ、田中センセ、行水ですか。お客さんを宜しくたのみます。」
「…はい。」
田中は気が進まない様子で答えた。
「けっこう暑くもなるんですね、ここ。」
陽介がおばあちゃんに言うと、おばあちゃんはにっこりして言った。
「はいそうですなあ。…でも少し体を動かして、温めてから水はいったほうが、いいですよ。」
「わかりました。」
陽介はぺこりとお辞儀して、通りすぎた。
外に出て、細い道をおりてゆくと、沢の水を引っぱってきてあるらしききれいな池のようなところに出た。池といっても、また石の間からすり抜けるように流れ出て沢に合流しているので水は驚くほどきれいだ。深さもけっこう掘ってあって、腰ぐらいまでなら立っていても漬かるだろうか。広さも4畳くらいはある。石で周囲が固めてあって、温水なら露天風呂といった感じだ。
「…ここね、たまに、おもいっきり女の子とか来たりするから、手早くね。むこうはへっちゃららしいんだけど。」
そのあたりにはカゴとタオル、それに糠のはいった桶と、剃刀が置いてあった。
「…別にいいじゃん、みられたって減るもんじゃなし。」
春季が言うと、田中はいやそうな顔をした。
「まあ君らはいいよ、若いし。まだ先に望みあるし。」
「…そのへっちゃらなのって実はいつきのことですか?」
陽介の問いは図星だったらしく、田中の返事はなかった。
春季はそれを見て、複雑な顔になった。多分、田中を気の毒に思ったのだろう。いつきのことだ、男のハダカくらいで騒ぐとは思えない。それどころか凄く傷付くようなことを平気でコメントした可能性も…。
3人は手早く服を脱ぎ、水に入った。
「うわー冷たい。」
「1分も漬かってたら冷えきるよ。さっさと汗流して、ぱっと出たほうがいい。冷えるとよくないよ。さっき薬草のお茶飲んだし。気持ち悪くなるよ。」
「へーでもすごいや! なんかちょっと遺跡っぽい風情!」
春季だけは上機嫌で面白がっている。平気でとぷんと頭のてっぺんまで沈み、少し水中でゆらゆらと水を掻いてから立ち上がった。
「冷たい! 気持ちいい!」
きゃーきゃーいいながら、髪をしぼっている。田中はとっとと水から出てタオルを巻き、隣の水たまりみたいなところを覗き込みながら、汚い無精髭をそり落としていた。陽介は一旦かるく漬かってから頭や顔や耳の裏を軽く流し、汗をかいていた部分をあちこち流していたが、そんなこんなのうちに、もうはや震え出した。それを見て、田中はビシ! と剃刀で陽介を指した。
「もうあがるべし。つかりすぎ。」
「はい。そうします。」
陽介は素直にうなづいて、水から上がった。春季はまだ楽しそうに潜水したりして泳いでいる。 カゴからタオルをとって体をふくと、まるで南の国にでも来たかのようにふんわりと体があたたかくなり、とても気持ちが良かった。
ひげを剃り終わった田中が水に入って顔を洗うと、春季がおもしろがって水をかけた。
「田中さん、髪あらったほうがいいですよ! 」
「ギャ! やめろ! 冷たいじゃないか!!」
春季に無理矢理水につっこまれて、田中はしぶしぶ髪を洗った。春季は内心田中の身なりが気になっていたのか、田中の首や背中をこすって洗ってやっていた。田中は水の冷たさに耐えながらも春季に礼を言い、たてつづけにクシャミした。
行水をすませて服をきると、3人ともたいそうダルイ感じになり、おっとりとした歩調でもって、建物に引き返した。
「…ほんと、あったかいのってほんの三時間くらいなんだよねここは。」
「じゃ行水も混みますね。」
「…今日はいなくて助かったよ。」
ヒゲをそって髪を撫で付けると、田中は思ったより若そうな顔をしていた。メガネもとると顔の印象がぜんぜん違う。あやしい学者からソフトな感じの痩せたおじさんに早変わりだった。それになんとなく色が白くなったようにも見える。一体どのくらい水浴びをサボっていたのだろう?
そのあとは、田中のノートを見せてもらいに田中の部屋へ行ったのだが、行水の疲れみたいなものが心地よくて、そのまま三人でぐうぐう雑魚寝した。
+++
「おばーちゃんが、今日は陽介たちと一緒に御飯しなさいって言うから、ここで食べるね。…ええっ、誰?! うっそー田中センセイ?! なにさ急に好感度アップしちゃってええ!」
いつきは夕食の席で田中を見るなり、そういってバシバシと田中の背中を叩いた。田中は咳き込んでいる。
そういえばいつきの弟分は、いつきが面食いだといって嘆いていたとかいう話をきいたよな、と陽介は思った。
精進料理のほうがまだいくらか食うところがあるという夕食を慎んで有り難くいただきつつ、いつきに午後は何をしていたか尋ねると、舞いの稽古と、合間に水ごりの仕方を教わっていた、という。
「上のほうに泉みたいところがあるからね、そこで水かぶるの。気合いれつつ、うおりゃって感じ。いやあ、ひきしまったわア。明日は滝行の仕方習う。」
…あきらかに陽介たちよりハードな水浴びをしていたようだ。
「そっちはいろいろ収穫あった?」
「いくつか面白い話きいた。あとは寝てた。」
「時間ないのに寝ててどおすんのよ。」
「いやまったく。でも水浴びしたらすっかり気持ちよく疲れて。プールで1時間くらいぶっとおしでタイムとって泳いだような感じだな。はーもうなんでもどーでもいー…ぐう、ってかんじ。」
陽介が言うと、春季もうなづいた。
「そんな感じですね。ふわーっとあったかくなって気持ちよくって。やっぱり水が冷たいせいかな。」
田中がぼそぼそ言った。
「だから水浴び嫌いなんだよね。あとが仕事にならなくて…。」
するとユウがにっこりして言った。
「でも田中センセ髭がないほうがオトコマエですよ。」
「うんうん、若く見える~。センセイほんとはいくつなの?45くらいかとおもってた。」
いつきは乏しい食事をいつも通りにこにこぱくぱく食べている。一回の箸でつまむ量を減らすことで、口に運ぶ回数は維持しているようだ。結果として幾分、いつもよりは上品に見える。
田中は言いにくそうに答えた。
「…37だよ。」
「独身?」
間髪おかないいつきの問いに、陽介は呆れた。
「…んなこときいてどーすんだよ。嫁にいくのか?」
「いやー、そうじゃなくて、嫁さんいるならどんな人か知りたいじゃん!」
「…女目当てかよ。」
陽介はますます呆れた。
田中はハハハとめんどくそうに笑った。
「…独りだよ。嫁の税金まで払いきれないから、結婚するなら共働きかドーム出るかしかない。共働きだと僕のいるドームの場合は同居あつかいと同じになるから、籍入れるだけ手間だし、…ドーム出てまで嫁にくる屋根付きの女性はいないから、探すならアウトエリアだな。…まあ当分探す気もないけど。」
屋根つき、とか殻つき、というのはドームの中で育った人のことを意味する。それはともかく、どうやら「相手がいない」というわけではないようだ。おそらく仕事のある女の人と同棲してみたりやめたりまた別の人と同棲してみたり別れたり…といったところなのだろう。
「身綺麗にすんのってめんどくさいもんね。それはちょっとわかる。」
いつきが思わぬあいづちをうったので、周囲はびっくりした。…なぜかユウだけは平然としている。
春季が言った。
「いやあ、そういう意味じゃないと思うけど。…あんたとこの足長おじさんだって独身だけど、まあなんてーか、尋常でなくきれいにしてるでしょう?」
「あれは別! だって人間じゃないもん。」
そういわれると、なぜか春季は口をつぐんで妙に深刻そうな顔になった。
いつきは春季に言った。
「…なに急に真っ暗になってんの?」
「…いえ別に。」
「…まあなんだか知らないけど」ユウが口をはさんだ。「…運送屋から電話が来たよ。その足長おじさんとやらから小麦粉500キロとどいてますけど間違いないですか、って。あんた本気で小麦いれる気だったんね。」
いつきはうなづいた。
「本気にきまってんじゃん。」
「…婆がびびってたよ。とりあえず部屋にはこんでもらうことにした。シケったらもったいないから。明日届くって。」
「ああ、届いたら運ぶの手伝うから。」
「そうしとくれ。オマエのクソ力を役立てるのは今だってカンジ。」
田中が眼鏡をずりあげてぼそっと言った。
「…あのおばあちゃんでも、びっくりすることあるんだ。」
ユウはうなづいた。
「…言いたいことはわかります。」
春季はため息をついて言った。
「いやあでも…あの人から小麦500キロ届いたらやっぱり誰でも驚きますよ。」
するといつきはケロリと言った。
「そうかな?陽介のお母さんは不意打ちで1tいれても平気だったけど。」
一斉に視線が陽介に集まった。陽介はうんうん、とうなづいた。
「…喜んでたよ。すっかりパンうちやらケーキやらが上手くなった。薄力粉のパンてちょっと味ちがうのな。あれはあれでなかなかうまい。パウンドケーキは常備になったな。日持ちするから。」
「…やっぱり陽介のお母さんは豪傑だったんだね。」
「それは否定はしないが、小麦粉の件については…単にでかい単位に慣れてるだけかと。…バターも業務用のキロ買してるし。肉とかも自分で切ったりミンチにしたりしてる、地下室で。怖いぞお。豚とか半身単位で買っちゃうからな。塩もイタリアだかフランスだかの岩塩20キロとか個人で空輸。スパイス類はインドから。これも袋買。」
「…なるほど、それで陽介のうちへいって御飯がないってこと絶対にないんだ。」
「そのうち猫たちのドライフードも自分で作りそうで怖ぇよ。」
「久鹿のうちってすごくお金持ちなんだね。」
ユウがびっくりしていうと、陽介は手を振った。
「まとめ買いしたほうが圧倒的に安いんだ。冷蔵庫と地下室があれば。」
うまいこと話がそれたのに、そこで田中がぼそりと話を戻した。
「…いつきさんちの足長おじさんとやらは、どうして結婚しないの?」
ユウが「ばかねえこのひとせっかくかばってあげたのに」と言う顔で憐れむような視線をチラッとなげたが、田中はユウとは目を合わせなかった。
いつきは言った。
「…しないんじゃなくてできないんだよ。あのね、本人は恋愛結婚したいの。でもね、恋愛する能力が著しく欠如してるの。御人形さんだから。」
「…そうなの?あんな美人なのに、勿体無くね?」
陽介が意外そうに尋ねた。
「…めんどくさいことが嫌いなんだよ。てゆーか、対処できないの。難しいことはまわりが考えるでしょ、だから。」
いつきは言った。
「…めんどくさいことって?」
「うーん、例えばね、自分はどういうタイプの人にひかれるのか、とか。」
「…それがめんどくさいことなのかよ。」
「結論がもし年上の男とかだったらどおすんのよ。男と恋愛結婚すんのかい、政治家が。」
「…なるほど。」
陽介はうなづいた。それはたしかに、面倒な問題だ。
「…彼には恋愛結婚はやめて適当な人と所帯を、とかそういう選択肢は全然ないわけ?」
「ないみたいね。…いいとしして、ってみんなに言われてるけど、…なぜか側近も未婚者多いよね。やっぱ本性はホモなんだけど、自分で認めたくなくてバイセクシャルだとかかっこつけてるのと違うか。噂によると、男と寝起きしてるらしいし。」
「あー…疑似家族みたいなのが、実はいるわけね。」
「らしい。よくはわからんけど。流石に女子の耳には入らないようみんな気をつかってるみたい。…田中センセはなんで結婚相手探さないの?」
いつきが言うと、田中はやっと墓穴をほったことに気がついたらしく、眉をひそめた。
「…僕はホモじゃないよ。」
「…そんなこと聞いてないけど。」
ますます墓穴を掘り進んでいることに気がついたのか、田中はぎこちなく笑顔になった。
「…や、めんどくさいからだよ。…身潔いにするのが。」
「あー、ごまかそうとしてるー」
いつきが言うと、春季が言った。
「…ま、いいじゃないですか。別に沢山いる人間の中にはそういうひともいるってことで。うちの一番上とか、わりと二枚目で喧嘩もつよいし頭もいいしいざってときは責任全部かぶってくれる便利くんですけど、まだ独身ですよ。女の影が身辺にまるでない。」
「あんたんちのあの兄貴はホモだね。断言するよ。ニオイでわかる。あたしゃあの男は嫌いだよ。いつか仕返ししてやるからそう言っとけ。」
いつきは不満そうにそう言った。春季はけらけら笑った。
「負けたのがそんなに悔しいですか。無理ですよ。殺しは場数ですよ。勝ちたかったら田舎のほうで羊かなにかで練習させてもらうしかないですね。ちなみに女に限らず男の影もぜんぜんない、色恋に限って言えば聖人みたいな素行の人ですよ。」
「ひとから誤解ウケそうな物騒な会話はやめろオメーラ。それから神社で死んだの殺したのの話は必要ないならしない。失礼だろ。」
陽介にしかられてテヘッとなるいつきと春季を横目で見つつ、さりげなくユウは尋ねた。
「…だれに?」
陽介は少し考えてから言った。
「…神社に?」
ユウはちょっと気持ち悪そうに左肩を上げた。そして首を軽くコキッとやった。
「…まあね。」
田中は今度は大人しく黙って、さすがにそれ以下に墓穴を掘り下げたりはしなかった。
明日の昼過ぎに一旦山をおりて、祭が近くなったらまた上がってくるから、とかスケジュールの話をしたりしているうちに、いつきとユウはまた後片付けの仕事…別室に、別の客も数人いたし、子供達もいた…で出て行ってしまった。
「…いそがしいんだなあ。」
春季が言うと、田中は眼鏡をずりあげて言った。
「うん、なんでも人力だしね。皿洗いとか、炊飯とか全部。水はなんとか水道作ったらしいけど。自力で。」
「…山奥だからたいへんですよね。」
春季がうなづくと、田中もうなづいた。
「…昼寝しちゃったし、あとでもう少しノートでもあさるかい。」
「そうですね、是非。」
陽介がこたえた。田中は陽介に言った。
「でも彼女と話たいこともあるんなら、そっちを優先してもいいんだよ?」
「あー、別にいつきとはいつでも話せるから。それにあっちも忙しいだろうし。」
春季が言った。
「…目のほうも大丈夫みたいだし、順調みたいでよかったですね。」
「そうだな。」
陽介もうなづいた。
「目?…ものもらいでも?」
「…ええ、ちょっとおかしな調子になってたんですよ。でも大丈夫みたいです。」
「ここは水がいいからね、たいていの具合はなおっちゃうんだよ。…僕は去年実は胃潰瘍ができてたんだけど、ここに夏の間いたら、おりたら治ってた。」
「えー、そゆときは病院いかなきゃまずくないかなあ。」
「…金があれば行きたかったけどね。胃カメラ入れた段階で持ち金が尽きた。」
「保険おりますよ、保険。」
「…保険料はらってればだろ。」
「…」
「…」
3人は話を変える必要性を感じた。
「…えっとお、少し菓子とか持ってきてるから、ちょっととってきてからお部屋のほううかがいますね。」
陽介がにっこりして言うと、田中もにっこりした。




