六九話 運命の先
あまりにも唐突な再会に、龍久は戸惑っていた。
南雲家で働いていた使用人――お時が、そこに立って居る。
あの時、家の勝手口から出て行った時のまま、着物も年恰好も何一つ変わっていない。
そのままの笑顔で、微笑んでいた。
「あっああ……、そうか」
それでようやくここがどこなのかも、なぜ闇の中なのかも分かった。
息を吐くと、一緒に肩の力が抜けた。
「俺……死んだのか」
彼女がここに居る、その事が何よりの証拠であった。
自分の姿やお時の姿が、薄ぼんやりと光っていて、もう現世の物ではない事が分かる。
だが不思議と恐ろしさはなかった。
ああそうなのかと、それくらいで済ませる事が出来た。
元々雪の為に死ぬつもりだったのだ、十分覚悟を決めて蝦夷へと向かったのだ。
だから、彼女の為に全てを投げ出すなど、今更どうと言う事などない。
「そっか……死んだんだ」
『随分、物分かりがええんやなぁ』
お時がそう少し意外そうに、こちらを見ている。
それもそうだろう、彼女が死んでどれくらいの時間が経ったと思っているのだろうか、それくらいの時間が経てば、いくら龍久と言っても大人になるという物だ。
「お時……、俺ずっとお前に謝りたかったんだ……」
『ええんよ、あれはウチが斬られたんがわるいんや、もう気にせんでええ』
「お時、お前……」
『全部こっちで見取った、ずーっとずーっと、ウチは二人の事見取ったから』
お時は少し寂しそうな顔をする。
全てを見ていたという事は、雪がどうなったかも知っているという事なのだろう。
龍久はなんだかどうしようもなく、悪い気がしてならなかった。
『それよりウチこそ、ウチが死んだせいで雪はんがあんな風になって、二人の仲を悪くしてしもうて……ごめんな』
「なっ……何言ってるんだ! お前に謝られたら俺はどうしたらいいんだよ、悪いのは俺の方だ、俺は本当にどうしようもない馬鹿だったんだ!」
雪を傷つけたのも、お時を死なせたのも全部自分のせいだ。
しかし、彼女は自分に罵声を浴びせる所か謝罪をしてきた。これでは龍久が酷くみじめになってしまう。
「ごめんなお時、俺はお前が雪と仲がいいのがとても羨ましくて、妬ましくて、お前に酷い言葉も掛けた…………今考えれば女同士の仲に男が割って入れるはずがなかったんだ、馬鹿だよなぁ俺」
酷く落ち込む龍久に、お時は小さな微笑みを送る。
それだけで、憑き物が取れた様な、清々しさを感じられた。長年の取っ掛かりが消えて、心が随分と楽になった。
もう思い残す事はない、後は此処で雪の幸せを祈るばかりだった。
『でも、雪はんはいつも龍久はんの話ばっかりとりましたえ』
「えっ?」
なぜかお時が思ってもみなかった事を言った。
それはまだ彼女が雪光と名乗っていた時の事。
だがそれはもう昔の話なのだ、龍久は雪の降るあの日に、雪の気持ちをちゃんと聞いた。
「それは……お前が生きていた時だろう、お前全部見てたんだろう? あの後俺は雪に出会った事を後悔されたんだぞ……嫌われたんだよ、それにな、死んでくれって言われた事もあった……もう雪は俺の事どうとも思っていないんだよ」
『……そうかなぁ?』
「そうだよ、俺は雪と同じ方向を向いてやれない……同じ志を持つなんて無理だよ、俺は馬鹿だから男女の差別なんて言う問題も、この先の日本の未来って奴も、異国の事も何もかも理解できないんだ……だからもう……」
ずっとこの国で育ち、異国の文化に触れた事が無く、男女の間に差別がある事さえ分からなかった龍久が、雪と同じ事を考えるなんて出来るはずのない事だった。
「もう俺は……ここでお前と一緒に雪の幸せを見ているよ、異国に行って、異人と幸せに暮らす雪を」
もう全て終わったんだ。
彼女を泣かせる者は何もかもいない、もう誰も彼女をいじめたりなんてしない。
だから、後は此処で雪の幸せだけを祈ろうと思っていた――のだが――。
『……嫌や』
そうきっぱりと言われてしまった。
そこまで言われるとかなり傷ついてしまう。
「あっ……やっやっぱり怒ってるんだな……そうだよなぁ、そう簡単に許してもらえる訳ないもんなぁ……」
『ちゃいます、龍久はんは此処におるべきやない……そういう事です』
「な……何言ってるんだよ、俺もう死んだんだぞ……ああ、そうかお前がここに居るって事は、ここは極楽か……俺はこれから閻魔様の所に行って裁きを受けて罰せられないといけないって事なんだな……そうだよなぁ、当然の報いだよなぁ」
『ちゃいます、そもそもここは極楽でも地獄でもありゃしません! もう、本当に鈍感やなぁ』
なぜかお時は怒っているし、どことなく呆れている様にも見える。
なぜ自分が怒られたのか、龍久にはちっとも分からなかった。
『何時雪はんが、あんさんに向かって「嫌い」ってゆったんです? 面と向かってゆうてないでしょう?』
「……でっでも、出会わなければ良かったとか、死んでくれって……」
『もう、あんさんは本当に乙女心がわかってないんやなぁ』
お時はもう怒りを通り過ぎて、呆れていた。
そして物分かりの悪い龍久に向かって、まるで稚児に言葉を教える様に話し始めた。
『会わなければ良かったっていうのも、あんさんが同じ志を持ってくれなくて、同じ考えを持ってくれなくて哀しくて、胸が苦しくなるからどす! 哀しいから嫌いなんやない、死んでゆーたのも、こっちを向いてくれへん哀しさや寂しさからどす!』
「そっそんなぁ……」
そんな物、お時の推測だ。
実際雪がそう思っているなど考えられない、いやむしろありえない。
「そんな事無い……そんな事無い!」
龍久は自分に言い聞かせる様にそう言った。まるで暗示の様に呟く彼を見ながら、お時は呆れていた。
『……龍久はん、本当に嫌いな人が死ぬ時に、泣く人なんておりまへん、雪はん泣いとったでしょう? ぎょーさん涙流して……』
「それは……ただ……」
龍久は言葉に詰まってしまった。
そうだ、雪はずっと泣いていた。これから幸せな未来が訪れると言うのに、涙を沢山流して泣いていた。
彼女をいじめた陽元はもういないのに、なぜか彼女は泣いていた。
もう雪が涙を流す必要なんて、どこにもないはずなのに――。
『ウチはもう、二人に前の様なすれ違いはして欲しくない』
お時は、凛とした表情で龍久を見つめる。
それはとても芯がしっかりとしていて、言葉に表せぬ迫力があった。
戸惑う龍久に、お時はその答えを口にした――。
『雪はんは、ずーっとあんさんの事好きなんよ』
その言葉は、どれほど嬉しい物だっただろう。
それはどれほど望んだ事だっただろう、龍久の眼に凛と輝く一瞬の光が灯る。
しかし、その光は直ぐに薄れてしまう。
「そんなの……駄目だよ」
『なんで?』
「俺はこの先の『運命』を、未来を見たんだよ……そこでは雪は異国で異人の男と幸せになる、幸せそうに……笑ってたんだよ」
玉藻から見せられた未来の光景、それは龍久が他の何よりも望んでいた事だ。
あの未来こそが最良の未来なのだ。
例え今が苦しくても、辛くても、雪は必ず幸せになれる。
『でも、雪はんは――』
「良いんだよ! もう、良いんだ!」
龍久はお時の声を遮る様に、そう叫んだ。もう、彼女の言葉を聞きたくなかった。
「雪の気持ちなんて、全部お前の推測だろう! 本当に雪がそう思ってるなんて分からないじゃないか……例え、例え雪がそう思っていても、俺にはもう関係ないじゃないか、俺は、俺はもう死んだんだぞ!」
龍久は死んだ、妲己の一撃と陽元の銃弾によって――。
だからこうしてお時と話しているのだ。それなのに、なぜそんな事を言うのだろうか、それでは後悔してしまう。
「俺は……雪が必ず幸せになれる未来を贈ったんだよ、その為に、その為に俺はこうやって死んだんだ、どうしてそれを踏みにじる様な事を言うんだよ! どうして、俺の覚悟を惑わすんだよぉ」
龍久は顔を手で覆ってしまった。
目の前に佇む、お時の顔を真っ直ぐ見られないのだ、見ているだけで心がざわついて、落ち着かない。
お時はそんな彼から、少しを目を離さず、言葉を掛けた。
『ウチ、言いましたよね……もっと自分が思う様に生きへんと後悔するって、ウチの言葉で惑わされるって事は、龍久はんは後悔しとるんでしょう……自分の人生に』
自分が好きな人から想われている、そんな幸せな事など他にはない。
もしかしたら、雪は自分と同じ気持ちを抱いてくれているかもしれない。
それならば、どんなに幸せな事なのだろうか――。
「……でも、仕方がない事なんだ、雪はいずれ別の男を好きになって、俺の事を忘れるだろう、そして幸せに暮らすんだ、だから――」
『もう、いい加減にし!』
お時は声を張り上げた。それに驚いた龍久は、手を避けて彼女を見る。
『本当にあんさんは、これだと思ったらそれしか見ない、これやと思ったらそれしか信じない……頑固通り越して、もう阿保や、このど阿保ぉ!』
「なっなっな……」
なぜ自分がこんなに怒られて、罵詈雑言を言われているのか、全く分からなかった。
お時は小さくため息をつくと、落ち着いた様子で言った。
『見てみ』
そう言って龍久の事を指差す。しかしそれはよく見るともっと後ろの方を向いている。
龍久は戸惑いながらも、お時が指差す後方の方へと視線を向けた。
「……?」
眼前に広がるのは、闇だ。
先ほどまで龍久もその一部だった闇、それしか見えなない。
「……?」
しばらく見つめていると、闇の中から小さな光が滲み出て来た。
その光は、徐々に強く眩しく輝いて行く。
まるで闇を切り裂く様な眩い光の中に、一つの光景が見えて来た。
「……これは」
眩い光の中二つの人影が見えた。
一つは金髪の異人で、西洋の男物の服を身に着けている。
もう一つは背が低く、西洋の女物の服を身に着けている。
二人が着ている物と街の景色から、それが異国の光景だという事が分かった。
仲睦まじく歩く二人。ふと女が男の方を向いて、その顔が見えた。
それは満面の笑みで微笑む、雪だった。
そこにはどんな哀しみも無い、心の底からの微笑みだった。
それは、龍久が何よりも望んでいた光景だった。
何が何でも手にしたい『運命』だった――。
「…………ははっ、なんだよ」
龍久はその光景を見て、力んでいた肩が落ちた。
一体どんなものを見せられるかと思えば、それはこれからの未来だ。
龍久が望み、掴み取り、そして雪に贈った幸福だ。
「今更すぎるよ……俺は、もうこの未来を知ってるんだよ……」
こんなもの見せられても、龍久は全て知っている。
龍久には、お時がしようとしている事が何一つ理解できなかった。
「もういい……もう分かってるから」
龍久は眼を背けた。もう見る必要は無い、お時の方へと視線を戻す。
「お時、これを俺に見せてどうするんだよ……、もう全部分かってるよ」
『いいや、何も分かってへん』
お時は首を振って、再び龍久の後ろのその光景を指差す。
龍久はお時の真剣なまなざしに負けて、再び後ろを向いた。
隣を歩く異人の男に向かって微笑む雪、彼女がふとこちらに気が付いて、振り返る。
一体どれくらい先の未来なのだろうか、雪はとても大人びている。
「……あっ」
いや、龍久に気が付いた訳ではない。確かにこちらを向いているが、龍久を見ている訳ではない。もっと先の方を見て何かを言っている。
口が動いているのは分かるが、声が聞こえない。
「……ゆ……き」
なんと言っているのだろう。あの笑顔で、一体何を言っているのだろう。
龍久は、その言葉を知りたいと強く思った。
もう自分には関係のない未来のはずなのに、それが知りたかった。
龍久はもっと良く聞こうと足を踏み出そうとした時だった――。
ずっと背を向けていた異人の男が、ゆっくりとこちらに振り返って来た。
男の顔を見たくなどなかった、雪を幸せにする男の事など、知りたくなかった。
だが体は反応してはくれなかった、眼を逸らしたいのに、どこか違う方を向きたいのに、動く事が出来なかった。
まず見えたのは、耳まで伸びた髪。次に見えたのは、異人にしては低い鼻と浅い彫り、最後に見えたのは、真っ黒い瞳。
そしてようやく、それが誰だか分かった。
それは、龍久だった。
「……あっ」
驚きのあまり、龍久は言葉を失っていた。
ただ目の前にあるその光景に、眼も思考も何もかも奪われていた。
大人になった雪の隣に居るのは、同じだけ歳をとった自分自身だった。一丁前に整えられた口髭を蓄えて、まるで当たり前の様に雪の隣を歩いている。
「……な、んで?」
どこにか言葉を捻り出したが、それでもその光景を理解する事は出来なかった。
なぜ雪の隣にいるのが自分なのか、なぜあんな風に楽しそうに歩いているのだろうか、何もかも分からなかった。
ただ、その隣に居る雪が、とても幸せそうに見えた。
『これで分かったやろ? あんさんは此処にいちゃあかん』
お時が諭す様な優しい声で、そう語りかけてくる。唖然としてい龍久は、どうにかお時の方を向いた。
『これが未来や、これが『運命』や……』
「でも……でも、俺はもう……」
『ごちゃごちゃうるせぇなぁ!』
龍久の言葉を遮ったのは、お時の声ではなく男の声だった。
お時の後ろから、淡い光を帯びた人影が見えた。
身の丈が低いがきりっとした目つきで、見た目なら大変美麗な少年だが、細身ながらもしまった筋肉を持っている。
それは龍久も知っている懐かしい人――。
「平助……」
七条大橋で玉藻に殺された、大切な親友の姿がそこにある。
着ている物も、年恰好もあの時のまま、あの日の平助がそこに居る。
『全くお前はいつまでもごちゃごちゃごちゃごちゃ、お前みたいな馬鹿野郎がこっちに来たらなぁ、あの世が騒がしくなるっつーの』
『確かに南雲はいつも騒々しいからなぁ』
平助の言葉に同調する、もう一人の声が聞こえた。
淡い光を帯びた影が、平助の隣に並ぶ。
それはまるで忍びの様な黒い装束を纏った、三〇代ほどの男――。
「山崎さん……」
男山で撃たれた時のままの恰好で、小さな微笑みを浮かべている。
『泣いたり笑ったり、悩んだり開き直ったり、お前は本当に飽きない奴だった』
『いやいや、それが彼の良い所だよ』
そう言って山崎の後ろから淡い光を帯びた影が出て来て、その隣に並ぶ。
人のよさそうな笑顔に似つかない、逞しい体つき男――。
「近藤さん……」
『素直で良いじゃないか、嘘が無くて正直な所が、彼の良い所だよ』
『正直は正直でも、馬鹿正直って奴ですよ、龍久君の場合』
棘のある言葉と共に、近藤の後ろから淡い光を帯びた影が現れて、隣に並んだ。
秀麗な顔立ちと、愛嬌のある笑顔を浮かべる美青年――。
「沖田さん……」
『君みたいな馬鹿正直な人一緒に居ると疲れるんだ、一生こっちに来ないでほしいね』
『そうだねぇ、しばらくは来ちゃ駄目だねぇ』
優しい声と共に、お時の後ろから淡い光を帯びた影が出て来て、その隣に並ぶ。
長い髪と、まるで女と見紛うような顔立ちの、二・三〇代の男――。
「菊水さん……」
龍久の眼から、熱い物が毀れた。頬を伝い顎から垂れ落ちて行く。
そんな彼と向き合うのは、出会い別れた者達。
偶然出会った者、あるいは必然で出会った者、様々居るが、どれも望んで別れた者達ではなかった。
龍久に向かい合う彼らの表情には、何の恨みや憎しみもない、そこには小さな微笑みだけがある――。
「でも、俺はぁ……」
『龍久君、後ろを見てごらんよ』
菊水が分らず屋の龍久にそう促す。その優しい声に誘われ、龍久は後ろを向く。
そこには笑顔でこちらを見る雪と、そんな彼女を見て微笑む自分が居る。
雪は何かを言っているのだが、やはり聞こえない。
龍久はその光景を暫く見てから、零れ行く涙もそのままに皆に向き直った。
「一体なにが――」
彼が振り返り、そう皆に問うたちょうどその時だ。
彼の小脇を、小さな影が過ぎ去って行った。
「えっ?」
お時も、平助も、山崎も、近藤も、沖田も、菊水も――、皆そこに居る。
ならば自分の横を過ぎ去って行った物は一体なんだ。
全てを確かめる為に、龍久は後ろを向いた――。
それは小さな子供だった。
黒い髪はまだ短くて整っていない、まるで棒切れの様な細い手足は簡単に折れてしまいそうだった。
青色の子供が着る着物を着て、足には小さな草履をはいている。
まだ五つにもなっていないであろう稚児が、その細く短い手足を動かして、必死に駆けている。
雪は腰を落としてその子供を両手を広げて迎え入れてやる。
抱き上げると、溢れんばかりの笑顔を浮かべながら頬を摺り寄せてやる。
そして龍久は、雪とその子供を大切そうに、左手で抱きしめていた。
その光景はまるで――。
「……あっああ」
龍久は上手く言葉を話す事が出来なかった。いや、言葉を出す事さえも忘れていた。
目の前にあるその光景は、雪の幸福ではない――。
龍久自身の幸福だった。
「良いのか……、こんなぁ、こんな事があっていいのかぁ?」
これでは自分が幸せになってしまう、雪を不幸にしたのは自分なのに、それなのにそんな事があっていいのだろうか――、戸惑う龍久に皆が声をかける。
『龍久はん早う戻って、雪はんに謝るんやで』
『龍久、今度はお前が爺さんになったら会おうぜ!』
『南雲、病気や怪我には気を付けるんだぞ』
『龍久君、君は誠の志を持っている、どうかそれだけは忘れないでくれ』
『龍久君、しばらく君の顔見たくないから、四・五〇年こっち来ないでね』
『龍久君、あの子をどうか幸せにしてやってくれ』
皆思い思いの言葉をかけてくれる。
自分は、ここに居てはいけないのだ。帰らなければならない――でも足が動かない。
「でも……、俺が雪を幸せになんて……」
あれだけ傷つけて来たのに、今更幸せになど出来るのだろうか、急に不安になってきた。
不安は恐怖に変わり、龍久の足が動けなくなった時だった――。
ばんっと、大きな音と共に龍久の背中に激痛が走った。
「いてえっ!」
驚く龍久は直ぐに後ろを向くが、そこには誰もいない。後方には、光り輝く未来があるだけだ。
皆に向かい合おうと、視線を元に戻した時だった。
「あっ――」
龍久はその光景を見て、そんな間抜けな声を上げた。
ただでさえ流れ出ていた涙が、更に込み上げて、頬を伝って行く。
そして――彼に向かって叫んだ。
「土方さん!」
涙で潤む眼に飛び込んできたのは、一人の武士の後姿だった。
大きくて広い背中を、まるで見せつける様にこちらに背を向け、あちら側に歩いて行く。
龍久に名前を呼ばれても、彼は振り向かずにただ右手を上げて、小さく左右に振る。それはあちら側に居る皆へ向けての再会なのか、それともこちら側に居る自分へ向けての別れなのか、龍久には分からなかった。
だが、先ほどまであった、不安も恐怖はもうない。
龍久は両手で涙を拭うと、泣くのを止めた。
そして最後に、目の前に居る皆に向かって、言葉を投げかけた。
「ありがとうっ!」
心からの感謝の言葉を言って、龍久は向こう側に居る皆に別れを告げた。
振り返って、眩く光る未来へと向かって走り出した。
(――雪、今戻るよ)
そして龍久は――光の中へと溶けて行った。
***
蝦夷の手つかずの森に、まるで隠れ潜む様に一軒のあばら家が建っていた。
そこで、一人の女が洗濯物を干していた。
白髪白皙の女――天原雪である。
「あっ葛葉君」
「ただいま戻りました、雪様」
彼女が洗濯物を干していた所に、ちょうど葛葉が大魚と大きな帆立を持って、あばら家に戻って来た。
「やっぱり葛葉君は魚を捕るが上手だねぇ、いつも大漁だもん」
「いえ、俺に出来るのはこれ位ですから、雪様こそあいつの事を任せっきりで……」
「良いんだよ、私に出来るのはこれ位だから……」
そう言って雪はあばら家の中を見る。
大して広いとは言えない小屋は、土間と床が半々ずつあり、人が暮らすにはかなり狭い。だがそんな床に、煎餅の様にぺったんこな布団が敷かれている。
その布団の中に、小さく吐息を立てながら眠る龍久の姿があった――。
弁天台場の戦いより一月。
新政府軍と旧幕府軍の戦いが、新政府軍の圧勝であった頃。
たくさんの兵士が死に函館の地が血で染まり、一つの時代が終わったあの時より、流れ流れて一月あまり、雪と葛葉は、隠れ潜む様に森の中で暮らしていた。
奇跡的に一命をとりとめた龍久だったが、あれから今日に至るまで眼を覚まさない。
息もしているし、心臓も動いている、しかし眼だけ覚まさない。
「……龍久はお寝坊さんだからねぇ」
「……雪様」
雪は哀しそうに小さく微笑んでいた。そんな彼女に掛ける言葉が無い自分を、葛葉は酷く無力だと感じた。
「あっ……葛葉君、悪いけど今度は水汲みを頼んでいいかな? 瓶が底を尽きそうなんだ」
「……はい、雪様」
無理矢理話題を変えて顔に笑みを張り付けると、雪は洗濯桶を持って小屋の中に入った。
雪は桶を置くと、未だ眼を覚まさない龍久の元へと向かった。
「……龍久」
そう呼びかけてみるが、彼は眼を覚まさない。ただ小さな呼吸音だけが聞こえる。
雪は腰を落として、龍久の横に座った。
「……もうとっくに朝だよ」
そう言って龍久の頭を撫でるが、彼は眼を覚まさない、だがそれでも雪は彼の頭を撫で続けた。
「…………龍久」
もう一度声を聞かせて欲しい、また名前を呼んでほしい。
雪は小さくため息をつくと、夕餉の支度をしようと思い、竈へと向かった時だった。
「……はぁ」
自分の物ではない息遣いが聞こえた。
まさかと思い、雪は龍久を見た――。
「ゆ……きぃ……」
からからに乾いた、小さな声が聞こえた。
それが自分の事を呼ぶ龍久の声だと気が付くのに、時間はかからなかった。
「たっ……龍久ぁ!」
雪は龍久にしがみ付く様に駆け寄った、草履が上手く脱げずに、そのまま床に上がってしまったが、そんな事気にしている余裕はなかった。
ただ龍久の顔を覗き込む事で、精一杯だった。
「龍久ぁ……龍久ぁ」
うっすらとだが、龍久の眼は確かに開いていた。
眼を離した隙に閉じてしまいそうな、それぐらいの物だった。だから雪は必死に龍久に向かって呼びかけた。
「龍久分かる? 私だよ、雪だよぉ」
必死に呼びかけた。もう一度瞼を閉じてしまったら、龍久は二度と目を覚まさない様な気がして怖かったからだ。
「……あっあぁ」
龍久は必死に何かを言おうとしているのだが、一月も眠っていた為喉が渇いていて全く声が出ていなかった。
「たっ……龍久ぁぁ!」
瓶を取りに来た葛葉が、そのあまりの光景に驚いて居る。親友の眼ざめを心から喜び、両眼に涙の粒を浮かべている。
「葛葉、早く水を持って着て!」
「えっあっ、はっはいぃっ!」
喜びの余韻を味わう暇もなく、葛葉は瓶ではなく桶を持って、水を汲みに出かけた。
「龍久、すぐに水を持ってくるからね、待っててね」
「お……き……」
龍久は枯れた喉で雪に何かを伝えようとしている。
だがそんな喉で声を出せば潰れてしまう、雪は必死に制する。
「良いよ龍久、すぐに水を持ってくるから」
「…………」
龍久は、それでも何かを伝えようとして残された右手を伸ばし、雪の頬に触れた。
その右手の温もりが、雪にゆっくりと伝わって来た。
そして龍久は言った――。
「お時に……あったよぉ」
それは、ずっと前に死んだ親友の名前だった。
突然の言葉に驚く雪だったが、驚きは直ぐに微笑みに変わる。
「菊水さ、んも……居た」
雪の眼にもいつの前にか涙が流れていた。右眼から流れた小さな涙が、頬を伝って傷をなぞって行く。
「み、んな……許して、くれたよ」
「うん、うん」
雪は流れ出る涙を拭うが、それでも止まらなかった。
まるで雨の様な、川の様な、そんな涙が幾つも眼から流れてゆく。
「み、んな戻れって、こっち……に来るなって」
「うん、うぅん」
雪はその言葉一つ一つに頷き、溢れる涙を流し続ける。
涙が龍久の手を伝い、いくつもの粒となって流れ落ちて行った。その雫の一つ一つの暖かさを感じながら、龍久は雪の事を真っ直ぐ見つめていた。
「……雪」
龍久は、乾いた喉で必死に言葉を紡いだ、心の底からの言葉を――。
「俺、雪の事が好きだ」
何年も前から、ずっと前から言いたかった、伝えたかった言葉。
ずっと思っていた事を、龍久はようやく口に出来た。
この思いを伝えていいのか悩んだ、自分にはこんな事をいう資格などないと、そう思っていた。でも、伝えずには居られなかった。
もう断られてもいい、どんな罵声を浴びせられてもいい。
龍久がそう思った時だ――。
「……馬鹿」
そんな罵声が飛んで来た。覚悟していたが、こうも簡単に言われると流石に傷ついた。
「馬鹿だよぉ、龍久ぁ」
「……あ」
雪の声が震えているのを耳にして、龍久はようやく気が付いた――。
そこには、満面の笑みの雪が居た。
それはずっと龍久が望んでいた笑顔だ。
口角が上がり、顔に二本の線が出来ている。ずっとこういう風に笑って欲しいと思っていた笑顔だ。
「お、れ……雪の隣に居てもいいかな? 俺ぇ……雪と一緒に幸せになってもいいかな?」
龍久の眼に涙が滲み出て来て、それが枕の方へと流れ落ちて行く。
どんなに格好悪くとも涙は拭わない、残された左手で少しでも彼女の温もりを感じていたいから――。
「当たり前だよぉ、龍久ぁ」
雪は龍久の頬に手を当てると、ゆっくりと顔を近づける。
「……で、水を持って来た訳なんだが」
葛葉は一人、水が入った桶を持ちながら、戸のすぐ横の壁に寄りかかっていた。
中へは入らず、困った顔をしてそこに突っ立っていた。
「…………全く、お熱い事で」
そう言いながらも、葛葉の口元はうっすらと微笑んでいる
小屋の中には口付けを交わす二人の姿があった――。




