六八話 船の上
二月後 日本近海。
日本より一艘の船が、海原を進んでいた。
異国の蒸気で動く最新鋭の船が、まるで海を割る様に白い尾を引きながら進んでいた。
快晴の空の下、船は穏やかな海を異国の港へ向かって走って行く。
その船の甲板に一人の女が立って居る、白髪に白皙の女――天原雪だ。
青い西洋の女物の服を纏い、スカートを風に靡かせて、船側から海原を見つめていた。
「……ここに居られたのですか、雪様」
そう声をかけたのは、いつも通りの童水干に高下駄を履いた葛葉だった。
辺りが異人ばかりの中、彼の恰好はとても目立っていた。
「うん、少し海が見たくてね」
「まさか、私が異国へ行くなんて……あの国の外に出るなんて、思ってもみなかったよ」
今となっては何もかもが懐かしく思える。
婚約を破棄されて、男の恰好で上野に向かった事。
大切な友達が出来て、一緒に馬鹿騒ぎした事。
異人に出会い、異国の文化を教えてもらった事。
国を変える為に、志士と共に活動した事。
志を失い、闇に落ちてしまった事。
戦争でたくさんの人を殺めてしまった事。
父に頭を撫でて貰った事。
犯した罪を許してもらった事。
そして――大事なものを失い、未来を得た事。
今ではもう、何もかもが遠い昔の事にさえ思えてくる。
「時間って直ぐに流れちゃうんだね……あんなに哀しかったのに、もうその気持ちが残ってない」
「…………雪様」
雪はほんの少し哀しそうに水平線の彼方を見つめると、葛葉へと視線を戻した。
「今私がここに居るのは、私が出会った人全てのお蔭だと、そう思えるんだ……」
「……雪様」
「私は何も出来なかった……女性の平等な社会を作る事が出来なかった、それが私の生きがいだとそう思ったのに、私は簡単にあの国を捨ててしまった」
日本という国を根本的に変える事が、雪が攘夷志士になったきっかけだった。
だがその夢は何時しか呪いに変わり、それが結局彼女自身を苦しめた。
「私一人の力なんかじゃ、社会を変える事なんて出来る訳なかったんだね……」
「…………」
葛葉は彼女に掛ける言葉がなかった。
人の思想や価値観を変えるには、とても時間が掛る事を、彼は知っている。
だから生半可な言葉を掛ける事は出来なかった。
「葛葉君、私の帽子はどこに置いたんだっけ? なんだか日差しが強いんだぁ」
「無理もありません、その白い肌では……確か我々の部屋に置いてあったはずですので、持ってまいります」
「ありがとう、葛葉君」
葛葉は雪の帽子を取りに、客室へと向かった。
雪はそんな彼の後姿を見送ってから、今度は船の進路の方を見た。
限りなく続く水平線が、この先の未来の可能性を示している様だった。
そして雪は、もう見えなくなった港に向かって呟いた。
「…………さようなら、ありがとう」
これが、語られなかった『運命』の物語だ。
こうして数奇な運命の物語は幕を下ろした。
一人の男の献身的な自己犠牲によって、たった一人の女は幸福を得た。
その為だけに、一体どれほどの犠牲があっただろうか。
誰かの幸福の下には、必ず誰かの犠牲がある。
だから幸福と言う物は、価値のある言葉なのだと思う。
一つの犠牲によって、一つの幸福が生まれた――。
それがこの物語の結末なのだ。
えっ? なんでこんな終わり方なのかって、そりゃこれはその辺にある昔話の様に、こうして幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし、なんていうありきたりな大団円はありえない。
あれは所詮空想の産物、なんたってこれは現実の物語なんだ。
今これを読んでいる君に伝える教訓があるのならば、現実は厳しい、これに尽きる。
それと教訓がもう一つ、手洗いうがいと毎食の歯磨きは――。
「こらぁ、葛葉ぁ!」
怒号と共に、一つの正拳が振り下ろされた。
それは物凄く居たそうで、酷く鈍い音を立てた。
「うごおっ! いっつ、いっだぁ!」
あまりの痛みに頭を押さえてのたうち回る葛葉。
その光景は滑稽以外の何物でもなかった。
「何するんだよぉ、俺のこの美形の顔に傷でも残ったらどうするつもりなんだぁ」
自分を殴った奴を見ながら、腫れ上がった額を押さえる。
そして最大級の悪口を、続けて言った。
「このバカ久ぁ!」
葛葉を殴ったのは、短く切られた白髪に、赤茶色の西洋の服を着た男。
それは見まごう事無く、南雲龍久だった。
「何するはこっちの台詞だ、お前何落書きしてんだ!」
「龍久お前、俺のこの文学美に溢れた文字列を落書きと言うとは、なんという馬鹿なんだお前は」
葛葉の言葉など無視して、龍久は左手で書物を取り上げた。それはまだ書きかけで、途中で文章が途切れていた。
「あ~あ、途中で筆跡が変わっちまったじゃねぇか……てっあ~~、他の所にも! どうしてくれるんだよぉ、これは俺が書いてるんだぞ!」
「何が俺が書いてるだよ、一丁前に作家気取りやがって……大体なぁ誤字脱字だらけで全然面白くねぇからな!」
「良いんだよ、これは売る訳じゃねぇんだから! 大体これはなぁ!」
「あ~分かった分かったよぉ、わるぅごぉざぁい~まぁしぃたぁ」
葛葉はそうふざけて謝ると、寝心地の悪い船のベッドへと寝ころんだ。
ここは二段ベッドが二つ置かれた四人部屋で、二つのベッドの合間にあまり良い物とは言えない机が置かれていた。
その前には小さな窓があって、そこから限りなく広がる海が見えた。
「まったくもう」
龍久は椅子に座ると、書を見ながらその続きを綴り始めた。
葛葉はそんな彼を見ると、喜びと哀しみが混ざり合った何とも言えぬ顔になった。
「……龍久、ごめんな」
「なんだよ分かってるなら、もう落書きなんてするなよ」
「違うよ……右腕だよ」
葛葉の言葉に、筆を持った彼の左手は止まった。そして視線を右腕へと映した。
本来右腕が通っているはずの袖は、ただだらんと肩からぶら下がっているだけで、そこには何もなかった。
「気にするなよ、これは俺が自分で選んだ事だよ」
「……でも」
「良いんだ……良いんだよ」
そう言って、龍久は水平線の彼方を見つめる。
***
二月前 蝦夷・函館。
銃声や大砲の地響きが聞こえる中、蝦夷の地に一人の女の泣き声があった。
「葛葉ぁ……龍久がぁ……」
両の眼から沢山の涙をこぼしながら、雪はそう訴えた。
葛葉の眼に飛び込んできたのは、今にも生命を失いそうな親友の姿だった――。
「…………たっ龍久ぁ」
なんとかひねり出した言葉はとても弱くて、風の音だけで掻き消えてしまいそうだった。
右腕が無く、そこから沢山の血が流れている。その状態でも状況が悪いと言うのに、更に胴からも致死量に十分すぎる出血――最早手の施しようがなかった。
「あっああ……龍久ぁ……」
葛葉は龍久に駆け寄る。呼吸が弱く、息なんてしていないのと同じだった。
もう医者など必要ない、龍久は――死んでしまう。
「くそぉ、なんで俺はぁ俺はぁ!」
医療系の術がなぜ使えないのか、自分の力の無さを思い知った。
こうして死んでゆく友をなぜ救う事が出来ないのか、自分自身に怒りが込み上げてくる。
だが例え彼が医療系の術を使えたとしても、龍久を救う事は出来ない、それほどこの傷は深く、手の施しようがなかった。
ただ何もできずに、それを見ている事しか出来ないのが、なによりも苦しかった。
「また……また、死んでしまうのか? 俺だけを残してぇ……」
葛葉は膝を地面に着いて、涙を流した。
死んでしまう、その哀しみが何倍にも膨れ上がって彼へと襲いかかった。
もう頭が真っ白になって、何も考えられなくなった時――彼の手を温もりが包む。
「雪様……」
「お願いだよぉ、葛葉君…………龍久を助けてぇ」
雪は葛葉の手を握り、縋り付く様に懇願する。その姿はあまりにも『神』からかけ離れすぎていて、ただの無力な人間にしか見えなかった。
「私なんでもするよぉ……だからお願いだよぉ、龍久を助けてよぉ」
「……雪様」
龍久を助けたい、それは葛葉だって同じ気持ちだ。
でも彼には、その願いを叶えるだけの力が無い、なんの力もないのだ――。
「……申し訳ありません…………雪様」
深々と頭を下げる葛葉を見て、雪は彼が死んでしまう事を理解した。
それは身を引き裂かれる事よりもずっと痛くて哀しい物だった。
「い、いやぁ……嫌だよぉ」
「雪様……」
「嫌ぁ……嫌だぁ、もう嫌だよぉ、もう誰かを失うなんてやだよぉ」
お時も龍馬も菊水も土方も――そして今度は龍久までも、『運命』は連れ去ってしまおうとしている。
大切な人は、大好きな人は皆死んでしまって、結局自分一人だけになってしまう。
それでは何の幸福でもない、何の幸せもない。
雪が本当に幸せなのは――――龍久と居る時だけだ。
「うっああああっ」
雪は感情を爆発させる様に叫ぶ、それは葛葉にでも龍久にでもなく、この世界や『運命』、あるいは『神』の様な物に向かってだった――。
「龍久が死んだら私も死ぬ! 一緒にあの世に逝ってやるからなぁ!」
それは世界の果ての方まで届く様な、良く響く声だった。
次から次へと、大切な人を奪って行く『運命』への、世界への、『神』への、雪からの怒りの言葉だった。
どうしても自分を一人ぼっちにさせたがる、この大きな流れに対する怒り。
「……雪様」
葛葉は彼女の心を理解して、何も言う事が出来なかった。
彼女が『天帝』に喧嘩を売っていても、咎める事も出来なかった。
「うっうううっうええ」
雪の眼からは、再び大粒の涙が溢れ出した。その内の一滴が頬を伝って、葛葉の手に零れ落ちた。
「――――っ!」
葛葉の頭に激痛が走った。
それは眼を開けて居られないほどの痛みで、反射的に眼を瞑ってしまった。
だがその瞼の裏に、次々に見知らぬ映像が流れて来た。
葛葉はそれがなんであるか知っている。
薬草を煎じ、薬を作る光景。
刃物を持ち、人体を開腹する光景。
硝子の器で、細胞を培養する光景。
過去から未来への、進化していく技術と文明を垣間見た。
ありとあらゆる映像が、現れては消えてゆく中――光り輝く一つの未来を見た。
「あっ……ああ」
葛葉には分かった。
その光景がなんであって、今自分がどうしなければならないのかを――。
そして頭の中の映像が消えた時、葛葉は白目をむいて倒れた。
「くっ葛葉ぁ!」
一体何が起こったのか分からず、うろたえる雪。
だがそれは無理もない事だ、全ては葛葉の頭の中で起こった事なのだから。
「……葛葉!」
雪が体を何度か揺らすと、葛葉はようやく意識を取り戻した。
酷く疲れているのか、息が荒い。
「どうしたの……葛葉君?」
「……雪様」
一体なにが起こったのか分からない雪を真っ直ぐ見つめて、何か言おうとするのだが、上手く言葉に出す事が出来ずその言葉を飲み込んだ。
今彼女に、葛葉が視た光景を話すだけ時間の無駄だ。
ただ一言、彼女が最も望む言葉を掛けた。
「龍久を、死なせはしない!」
***
「今思えば、あの時良くお前を助けられたと思うよ」
葛葉はほんの二月前だと言うのに、酷く昔の事でも語る様に、懐かしんで言った。
「お前には感謝してもし足りないよ葛葉」
「いいや、俺じゃない……アレは雪様のお力だ」
あの時、葛葉の頭の中に流れ込んで来たのは未来の光景だ。
『運命』を視る力は陰陽師が受け継いで来た力だった。だがその力には限度が存在する。
術者の資質に大きく左右されて、遠い未来を視られる者もいれば、全く視られない者もいる。七視える者も居れば、三視える者もいる。
「俺はあの時、俺の資質以上の遠い未来を視た……きっと何百、いや千年も後の未来の医療だった……きっと雪様のお言葉が『天帝』の心を動かしたのだろう……そうでなければあんな先の未来を視る事など出来なかったよ」
あの時、葛葉は大きな力を感じた。人間が立ち入る事の出来ない、理の根源の様な物。
それがまるで、龍久を生かせと、そう言っている様に感じた。
「もう『神』の血族は、雪様しかおられないからなぁ、雪様に死なれでもしたら、『系譜』が途絶えてしまう、『天帝』はそれを危惧なさったのだろう……だからお前を生かす方法を示して下さったんだ」
あくまでも葛葉は、『天帝』がその様に導いたのだと、そう考えていた。
『天帝』つまり天照大御神の『系譜』は、最早雪しかいないのだ。その子孫のたっての願いとあって、きっと叶えてくれたのだ。
「お前は『運命』に抗ったんだ、本来の未来を変えて、望む未来を手に入れたんだ、これは本当にすごい事なんだぞ、龍久」
「…………そうかな」
折角命が助かり、こうやって異国へと行けると言うのに、龍久はどこか素直に喜んではいなかった。
いつもなら真っ先に喜びそうなものなのに、葛葉は不思議そうに首を傾げた。
「実は、俺まだお前にも雪にも話していない事があるんだ……」
「なんだ? お前が隠し事なんて……」
「いや、話していない訳じゃあなくてな……どう話せばいいのか分からなかったんだ、あの時、俺が死にかけたあの時の話なんだ」
「……あの時の?」
「ああ、あの時の話だ……」
驚く葛葉を見つめながら、龍久はどこか冷静で、落ち着いた雰囲気で語り出した。
あの時の事を――。
***
(……雪)
そして瞼を開ける事が出来なくなり、視界は闇に包まれた。
だがその瞼の裏に映るのは、満面の笑みの彼女の姿。
もう何も必要ない。
もう何も要らない。
この笑顔だけで、十分だった。
もう他の物は、何も要らなかった――。
(――――幸せになってくれ)
意識が闇に沈んでゆく。ゆっくりとどこかを漂っている様な気もするし、その場にじっとしている様な気もする。
何も考える気力もなく、ただ意識があちこちに分離してしまっていた。
自分が闇の中にいるのか、自分自身が闇の一部となってしまったのかも分からない。
ただ闇だけがそこにある事しか、認識できなかった。
もう自分がなんであったのかも分からない、ここがどこかなのも分からない。
ゆるゆると、意識が無くなって行くのを感じた時だった。
『……ち』
小さな声が聞こえた。何とか声と分かるほどで、ほとんど音だ。
『……っち』
今度はさっきよりも大きく聞こえた。とても綺麗な声で、なぜかもっとはっきり聞きたいと、そう思ってしまった。
『こっち』
今度ははっきりと聞こえた。自分を呼んでいる。
(いかなくちゃ――)
朧な意識の中、声のする方へと進んだ。
なぜか意識がそちらに向くと、散り散りになっていた意識が集結して、だんだんと自分という存在を認識出来る様になった。
先ほどまでほとんどなかった感覚が、徐々に戻って来た。
足を動かし前に進む。下の方にある滞留している闇を踏んでいる感触が伝わる。
『こっち……こっちや』
声はさっきよりも大きくはっきりと聞こえた。
柔い様な固い様な闇を踏みしめて、声のする方へと進んで行くと、闇の中だと言うのに自分の両手がはっきりと見えた。
他にも足も見えるし、時々白い髪の毛も視界に入って来る。
そして徐々に全ての事が蘇って来た、自分の名前も、姿も、何があったのかも――。
「雪ぃ!」
龍久は思わずそう叫んだ。
だが不思議と先ほどまでの闇の中の心地とは違って、何もかもしっかりと理解できる。
闇の中でも自分の姿をしっかりと捉えられる。辺りの景色もよく分かる。
「ここは……一体」
辺りを見ても闇ばかり、夜の闇とは違って、自分の姿見はしっかりと認識できる。
そうなるとこれは夜ではない、もっと根本的に違う闇なのだ。
ここがなんであって、どうすればいいのか、考えてみるが何も浮かばない。
『こっち、こっちやで』
今度はかなり近い所で聞こえた。
ふと横を見ると、二間は離れた所に人が立っている。
安物の麻で出来た着物を身に纏い、長い黒髪に黒い瞳の少女。
何よりも特徴的なのは、その訛りだ。
彼女が誰なのかを、龍久は知っている。
『久しぶりやね、龍久はん』
そう彼女はほほ笑んだ。
龍久は驚き戸惑いながら、彼女の名前を呼んだ――。
「……お時」




