六七話 雪華散りゆき夜叉となりて…
弁天台場付近では、本来そこに響くはずの無い音があった。
甲高い女子の悲鳴、それも胸に突き刺さる様な、悲痛な叫びだった。
「うっうう、龍久ぁ! 龍久ぁぁ!」
「黙れ、さっさとこっちに来い!」
雪は陽元に髪を引っ張られながらも、必死に抵抗していた。
その視線の先には、右腕を金属の杭で貫かれ地面に打ち付けられている龍久が居る。
その腕からは血が少しずつ滲み出ていて、一刻の猶予もない。早く処置をしなければ龍久は死んでしまう。
「お願いだ、手当てをさせて、このままじゃぁ、このままじゃ龍久がぁ!」
「黙れと言うのが分からぬのかぁ!」
懇願する雪に向かって、陽元は怒鳴る。だがそれでも彼女は泣き止まなかった。
「お前はいつも反抗的な態度をしていたなぁ、それもこれも皆桜子のせいだ、あいつがお前を甘やかしたんだ!」
「うううっうあああああ」
「あの女ぁ器用も大して良くなかった癖にこの儂を利用しおってぇ……儂があの女を貰ってやったのだぞ! それにも拘わらず、この儂をお前の身元を隠す為の隠れ蓑に使ったのだ! あんな女などなぁ、死んで当然だ!」
愛する母の悪口を言われて、雪の涙は余計に量を増してゆく。
陽元は雪の頭を掴み上げると、顔を寄せて睨みつける。
「お前のその眼ぇ、あの女そっくりだ! 本当は儂を蔑んでいるのだろう、儂を可哀想だと嘲笑い、見下しているのだろう!」
「うっうううっ……そんな事、ない、うううっ」
「嘘を言うなぁ!」
陽元は雪の頬を叩いた。それは女相手とは到底思えないほど強い力で、頬が赤く腫れる。
雪はもう痛みと悲しみから、涙を止める事が出来なくなっていた。
「これから儂はこの国を支配するのだ! 儂がこの国を動かすのだ! お前はぁその為の道具なのだ!」
ただ怖くて、大きな声を上げて泣いていた。
そんな彼女を見下ろしながら、陽元は叫んだ。
「女などなぁ、道具なのだ! 男の所有物なのだ!」
***
灰色の澱んだ空が見える。
先ほどまであった青い空はあっという間になくなって、今は雲ばかりが見える。
ただただ、そんな空だけを見上げていた。
(……あれ、俺なんで空を見てるんだぁ?)
龍久は、なぜか横になって空を仰ぐ様に見上げている。ここがどこで、今自分がなぜこんな事になっているのかさえも分からなかった。
自分の頭の中を隔てる壁の様な物があって、それが意識を分断していた。
頭の表面の部分でしか物事が考えられない。
(……誰だ……、声が聞こえる……)
遠くからささやく様な小さな声が聞こえる。それがまるで鐘の様に響いて、頭全体を揺らしている。
「……龍久ぁ! 龍久ぁぁ!」
名前を呼ばれている。それはとても痛いたしくて聞きたくない。
「うううっうあああああ」
(……ゆ、き)
そうだ、雪の声だ。雪が泣いているのだ。哀しくて痛々しい声を上げながら、彼女が泣いている。
(誰だ……雪を泣かせてるのは、雪はこれから、幸せになるんだぞ)
『運命』で見た彼女が微笑む姿、あれがこれから先の未来なのだ。
それを邪魔する者が居る、彼女を哀しませている奴が居る。
(雪の幸せを邪魔するなぁ!)
分断していた隔たりが無くなり、龍久の意識が繋がった。自分が何をしなければならないのか、全てを理解した。
村正は根元から折れている。柄とほんの少し残った刃だけになっていて、随分離れた所に落ちている。
武器もなく、右腕を打ち付けられて動く事すらままならない。
それでも、龍久にはやらなければならない事がある。
たった一つの、小さな願いをかなえる為に――。
***
「女などなぁ、道具なのだ! 男の所有物なのだ!」
「うっうああああっ、うあああああああ」
途方もない恐怖で、胸が破裂してしまいそうだった。
「たつひさぁぁ、たつひさぁぁぁ!」
雪はただ泣き叫ぶばかりだった。そこには狂気に満ちた『夜叉』の顔も、貴き『神』の顔も何一つない――惨めに泣き叫ぶ、一人の『女』の顔しかなかった。
ただ胸を突き刺す哭き声ばかりが、響いていた。
しかし、そんな声をかき消す別の音が聞こえて来た。
「あああああああっ」
叫び声。
まるで獣の様な、全くの知性を感じない、ただの雄叫びだった。
雪は陽元の手を振り払いそちらを向いた。
「……あああ」
彼女の眼に飛び込んできたのは、大きな声で叫ぶ龍久の姿だ。
生きている、龍久が生きている、それだけで雪の表情に笑みが戻る。
「龍久!」
しかし喜んだのも一瞬の事だった。
大地に右腕が打ち付けられていると言うのに、彼は転んだ稚児が起き上がる様に、立とうとしているのだ。
だが龍久の二の腕を貫いてる杭は、彼の身の丈よりも三尺ほど大きい。どうやっても、彼が自分の力だけで右手から杭を抜く事は出来ない。
「駄目ぇ……駄目だよぉ龍久ぁ」
雪はそう彼を止めようとするが、そんな小さな静止の言葉など、耳に届く訳がなかった。
「がああああああああああああああっ」
まるで雄叫びの様な怒号を上げて、龍久は立ち上がった。
杭はまだ龍久の腕を打ち貫き、彼が動く度に傷口から血が漏れ出している。
「龍久ぁ、止めてぇぇぇ!」
雪は強く叫んだ、だが、それさえもその雄叫びにかき消されて、彼に届く事はなかった。
怒号を上げながら、龍久は前へと足を進め、体をよじる。
皮とほんの少しの肉でつながっているだけの右腕、それが引っ張られて、剥がれてゆく。
血管が破け、筋肉が断たれ、肉が引き裂かれる。
それでも彼は、決して止めなかった。
「うがあああああああああああああああああああっ」
たった一つの願いの為に――彼は足を踏み出した。
そして右腕が引き千切れた。
支えを失くした右腕が、力なく落ちて行く。
地面に落ちて小さく跳ね上がってから、動かなくなった。
「あっ……あああああ」
雪は言葉を失っていた、眼前で起きたその事柄を上手く飲み込めなかった。
右腕の断裂面からは、脈打つ度に血が出て来る。
今まで杭を抜かずに居たから少なく済んだ出血が、今は飛沫の様に出ている。
それはつまり、龍久の生命が費える事を意味していた――。
「はっ……ははっ……おっ愚かな、自分から命を捨てるつもりか」
陽元はそう言うが、その顔はどこか脅えている。そう、怖いのだ。
雪の様に真っ白な髪、深淵を絞った様な黒い西洋の服に、風に靡く白い襟巻。
乱れた白髪から見える双眼は、この世の生物とは思えないほど鋭い目つきでこちらを睨み、腕を失っていると言うのに平然と立って居るこの『化物』に――、彼は恐怖を感じているのだ。
「そっそんな体でどうすると言うのだ……こっちにはこれがある!」
陽元は恐怖に慄きながらも、懐から短銃を取り出した。
だがそれは雪が知っている物とは形が大きく異なっている。
「これはなぁ自動拳銃と言う未来の銃だ! 撃鉄を引かずとも八発連続で撃つ事が出来る! お前がこちらに向かって来ようとも、その前に止めを刺してくれるわ!」
妲己が彼に渡した武器。遠い未来の産物をこの様な男が扱う。雪は腹立たしく思ったが、その危険性は十分分かった。
「龍久ぁ!」
雪は悲鳴にも似た声で彼を飛ぶ。来てはいけない、だがこのままでは全身の血を流しつくすだろう。もう何をどうすればいいのか分からなくなった時だった――。
「ウガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
咆哮。
まるで獲物を威嚇する様に、大きく体の芯まで震わせる様な叫び声だった。
それが合図だった様に、龍久は走った。
右腕が捥げている事など忘れさせるほど、強く速い。
「ひっひぃ!」
その恐ろしさのあまり、陽元は引き金を引いてしまった。
狙いをつけていない弾丸は、全く見当外れの所へと飛んで行った。
「こっこのっ、このぉ!」
二発目三発目は、白髪と右頬を掠めた。だがそれでも彼は止まらない。
大地を強く蹴って、ただ陽元へと向かって疾走する。
「ええい、死ねぇ! 死ねぇ!」
四発目五発目は、左肩と左脇腹に命中した。だがそれでも止まらない。
右腕から血をまき散らし、襟巻をなびかせながら疾走する。
「ひっ、ひぃぃぃ!」
六発目七発目は、どちらも腹に命中した。
そして最後の一発を撃とうとした、正にその時――。
「がぁ……」
苦しそうな弱弱しい声を上げると、突然足に力が無くなり崩れ落ちて行った。
うつ伏せで倒れて、もうピクリとも動かなかった。
そこは陽元まであと数歩と言う所であった。
「龍久ぁ!」
雪は龍久の元へと駆け寄ろうとするが、陽元がそれを許さない。雪の髪を引っ張ると、まるで投げ捨てる様に後ろへ引っ張った。
「今からあの男に止めを刺してやる……よく見て置くんだなぁ」
「嫌ぁ、嫌だぁ!」
陽元は銃を自動拳銃で狙いを定めながら、近づいて行く。
最早虫の息で、生きているのかさえも疑問だったが、それでも陽元は銃口をその真っ白な頭に向ける。
「ふん、この死にぞこないめぇ……」
「やめて、龍久を殺さないでぇ!」
雪は這いつくばって進むと、陽元の腕に絡みついて邪魔をする。
「邪魔をするなぁ!」
「きゃああっ」
陽元は腕を振り払い、雪を突き飛ばした。恐怖から力が出ない彼女は、簡単に突き飛ばされてしまう。
「こんな放って置いても死ぬ様な奴に、わざわざ止めを刺してやるのだ、ありがたいと思うんだなぁ!」
今度は眼と鼻の先、陽元の射撃技術でも、確実に急所を撃ち抜く事が出来るだろう。
「やめてええええっ!」
「死ねぇ、この糞餓鬼がぁ!」
雪の悲鳴を無視して、陽元は引き金を絞ったその時――――突然腕を掴まれた、彼の手を掴んだその手は、血まみれの左手だった。
陽元は驚きすぐに振り払おうとするのだが、その前に龍久は立ち上がる。
だがその口には、刃が折れた村正が咥えられていた。
「な――」
陽元の首を、村正が刃が貫いた。
「あっ――」
その光景に、雪は眼を奪われていた。
喉を貫くその光景は、まるで人を喰っている様だった。
乱れる白髪、風に靡く白い襟巻、闇を絞った様な黒い異国の服――その姿はまるで一匹の『夜叉』そのものだった。
「があ――――」
陽元が声になっていない言葉を出している。
喉から空気が漏れ、音を立てていた。
村正が引き抜かれると、首から血が吹き出して龍久の口元や白い襟巻を赤く染め上げた。
生命を失い陽元の体が崩れ落ちていくと、龍久は口から村正を落とした。
「……ゆ、き?」
雪の視界に、風に舞う白い物が映った。蝦夷と言えども今は春、雪など降るはずがない。それは弁天台場から風に乗って来た灰だった。
だがまるで雪の様にひらひらと舞うその光景は、雪の華が散っている様に見えた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ」
天を仰ぎ雄叫びを上げるその光景は、今この世に誕生した事を告げる産声にも似ていた。
まるで雪の華が散って、『夜叉』になった様だった――。
そして『夜叉』は、その喉が枯れるほど叫ぶと、声がプツンと途切れ、崩れ落ちて行く。
まるで――――命の糸が切れた様だった。
「あっああ」
崩れる『夜叉』に向けて、雪は手を伸ばした。
指の隙間から見えるその顔には、小さな微笑みがあった。
「龍久ああ!」
力なく、地面に倒れて行った『夜叉』に向かって、雪は叫んだ。そして、もつれる足をどうにか立たせて、彼の元へと足を踏み出した。
「龍久ぁ、龍久ぁ!」
雪は駆け寄ると、その血まみれの体にしがみ付いた。
陽元の血ですっかり口元が染め上がっていた。手に血が付く事も構わずに、雪は彼の頬を包み込む様にして顔を覗き込んだ。
「龍久、すぐに手当てするからね、大丈夫だからね……ねっ!」
雪は不安そうな顔でそう言う。だが右腕や腹から、沢山血が流れ出していた。
もう彼女一人の手ではどうしようもなかった。
***
(……雪……)
龍久の視界に雪が入って来た。
どういう訳かとても哀しそうな顔をして、自分の名前を呼んでいる。
(どうして、泣くんだよ雪……もう全部終わったんだよ)
雪を泣かせた陽元はもういない、もう彼女をいじめる者なんて何もないのだ。
そうだ、これからの彼女の人生には幸福が約束されているのだ。
龍久が見た未来で、雪は笑っていた。
例え今ここで泣いていたとしても、これから先の未来で、あの笑顔が約束されているのだ、だから、何も気にする事などないのだ――。
(……雪……)
龍久は雪の頬に触れる為に右手を伸ばすのだが、もうその手はなかった。
視界が狭くなり、雪の顔が霞んでゆく。
(……雪)
そして瞼を開ける事が出来なくなり、視界は闇に包まれた。
だがその瞼の裏に映るのは、満面の笑みの彼女の姿。
もう何も必要ない。
もう何も要らない。
この笑顔だけで、十分だった。
もう他の物は、何も要らなかった――。
(――――幸せになってくれ)
「龍久ぁ!」
葛葉はよろよろと宙を飛んでやって来た。
そして傷ついた体を引きずりながらその名を呼んだ。
だが、その視界に飛び込んできたのは、涙を流している雪の姿だった。
「……葛葉ぁ」
葛葉の眼に飛び込んできたのは、腕を失い力なく倒れている龍久の姿だった。
出血が酷く、彼の周りはまるで血の海だった。
そんな中でも、雪は龍久の手をしっかりと握りしめていた。
葛葉は言葉を失い、ただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
そして雪は、胸に突き刺さる様な哀しい声を出した。
「龍久がぁ……」




