六話 殺意の刃
一二月二二日。
お時の遺体は、龍久の父の好意によって近く寺に埋葬された。
本来なら生まれ故郷の京へと埋葬してあげたかったのだが、お時の実家で葬式を上げる事は出来なかったからだ。
葬式には藤田もやって来てくれた。実に簡素な葬式はあっという間に終わってしまった。
だが雪光は棺桶が埋められても、涙を止める事は出来なかった。
大好きなお時の死。
大切な親友の死。
身近な人の死。
お時の死は、雪光の心に抉りぽっかりと穴を開けた。
簡素な石に戒名を彫り、それを墓石にしていた。此処に彼女がいるとは雪光には思えなかった。
ただ何時までも彼女の死に涙を流して、声を上げながら泣くしかなかった。
「おい雪光……、もう葬式は終わったぞ、家に戻ろう」
藤田がそう言って、肩に手をやるがどうしても立ち上がる事ができなかった。それ以上彼は何も言えず、ただ傍に佇んでいた。
だがそんな光景を見て、龍久は途方もない嫉妬を覚えた。
例え二人がそう言う関係でなかったとしても、雪光は本気でお時に惚れていた事を今ここで確信した。
だからそんな雪光にさえ怒りに近い感情を抱いてしまった。
「雪光! いい加減にしろ」
龍久は雪光の腕を掴むと、無理やり立たせた。
もう何日も泣いて腫れた眼が、龍久を見る。その涙の量が、お時への愛情の量だと思うと、涙さえも憎々しい。
「武士が何時までも、たかが使用人が死んだくらいで泣いてるんじゃない!」
感情に任せて怒鳴る龍久に、雪は赤く腫れた鼻を啜りながら酷く驚いた顔を向ける。
だが彼の言葉はそれだけではおさまらなかった。
「大体辻斬りに斬られるなんて、あの女も注意が足りなかったんだ! 大方田舎娘が何か粗相でもしでかして斬られたんだろう!」
流石に言いすぎだと感じた藤田が止めようとするが、その言葉を聞いた雪光が先に口を開いた。
「……龍久、君はお時が死んで悲しくないの? 君がお時に使いを頼んだせいで彼女は斬られたんだよ! なんとも思わないの!」
「ああ思わないね、あいつの仕事はコレだ、使いを頼んであいつが斬られた所で俺には関係ない、全部あの女の不注意のせいだ!」
声を荒らげる龍久。その言葉雪光に突き刺さる様な衝撃を与えた。
「本気で言ってるの……龍久、お時は君の為に使いに出たのに……なんとも思わないの?」
雪光は驚きのあまり目を見開き、そう尋ねた。何もかもを訂正してくれると、心のどこかで祈る様に思いながら――。
「ああ思わないね、女なんか斬られて当然だ!」
その信じられない言葉が、どれ程の衝撃だった事か、きっとそれは雪光以外には分からないだろう。
雪光の中の何かが、今、唐突に変化しようとしている。
頭の何処か、遠い所で鐘の様な物が鈍く重く鳴っているのを感じた。
「君は、女が……斬られても良い存在だと思っているの……」
女が道具だと言った父と、何一つ変わらない言葉だった。
それを龍久が口にした、もうこれだけで、雪光の何もかもが崩れ去って行った。
『雪光』の中の『雪』が怒号を上げながら嘆いていく、怒りながら何かを悲しんでいる。
(なんだ……違う、龍久も藤田も、世界もみんな…………私と違う!)
男と女の疎外感とは違う。
自分と世界の齟齬、価値観の違い。
頭の中の鐘がどんどん大きくなって、最後は全てが崩れ落ちた。
雪光の中の世界が、今、変わった。
「うっ……うう、ああああああ!」
感情が逆流する思いだった。ただこの激動をどうやって処理すれば良いのか分からず、雪光は龍久に殴りかかった。
ただ無我夢中で頬を殴り、胸倉を掴んで押し倒した。
「雪光! 止めろ」
藤田の制止の声も龍久の怒号も何かも聞こえなかった、ただ拳を何度も振り下ろすしか出来なかった。
馬乗りになって龍久を見下ろす。もう一度拳を振るおうと握り締めたが、彼の顔を見ていると、お時の顔が浮かんだ。
笑顔で彼に自分の思いを伝えろと言った彼女の顔が――、それがとても哀しかった。
「うっ……うううっ」
握った拳を振るう事は出来なかった。ただ、この場から逃げた。
今まで大切だった物が壊れた事を感じながら、雪光はただ両の眼に沢山の涙を抱えながら、走った。
(違うんだよお時、みんなが違うんだ! 私とは、みんなが違う!)
さっきまであった雪光の中の世界で、『雪』が声を上げて哭いていた。
だがその嘆きの声は、外の世界には響かない。
まるで鬼哭の様だった――。
***
一二月二三日。
「……お世話になりました、おじさん、おばさん」
南雲家の門の前では、すっかり支度を済ませた雪光が、頭を下げていた。
雪光は今日、この家を出て行くことにした。突然の事で皆驚いたが、龍久の両親は彼がお時と仲が良かった事を知っていたので、無理して引き止める事は出来なかった。
「……でも残念だよ雪光君、私は君を本気で息子にしたかった」
「……有難うございますおじさん、この恩は絶対に忘れません、何時か必ず返します」
この場に龍久は来ていない、結局あのまま仲直りする事はなかった。
事情を詳しくは知らない二人だったが、何かあった事は分かっている様で酷く哀しそうな顔をしていた。
「雪光さん、これは少ないけれどお金です、どうかお体を大切になさってね」
そう言ってかなりのお金が入った袋を貰った、悪いとは思ったが突き返すのはもっと悪いと思い貰っておく事にした。
「……おじさん、おばさん、お元気で」
雪光はもう一度深々と礼をすると、刀を正し、笠を深く被って上野の町へと消えて行った。
龍久は、雪光の見送りには到底行く気にはなれなかった。
あのまま別れるのは嫌だったが、どうしても腑に落ちなかったのだ、自分は何も悪くないと思っていたし、何時までもあの女の事を考えている雪光も嫌だった。
(雪光の馬鹿野郎……これからどうやって生きて行くんだよ)
どうせ何日かしたら頭を下げて戻ってくるはずだ。彼に行き場が無い事ぐらい分かっていた。もうこのまま会えないなんてそんな事無いだろうと思っていた。
(そうさ、すぐに戻ってくるに決まっているんだ)
子供っぽい意地だと事は分かっていた、だが自分は男であり武士だ、自分から謝るなどそんな真似出来なかった。
けれど、体はなぜか正直で雪光の部屋の前に居た。
「…………ちっ違う! あいつがいなくなってどれぐらい広くなったか見に来たんだ!」
そう自分に言い聞かせて、部屋に入った。
綺麗に片付いた部屋で、所々に雪光が使っていた痕跡が残っている様な気がした。それが今は無性に虚しかった。
「……雪光」
「素直に謝れよバカ久」
「うわあああっ」
突然襖が開いたと思ったら、藤田がまるで幽霊の様に不気味に入って来た。予想もしなかったそれに尻もちをついた龍久だった。
「見てるこっちがじれったいんだよお前らを見てると!」
藤田は自分を見落としながら、まるで仁王にでもなったかの様な覇気を纏いながら言う。
「なんでお前らは、あんなに仲が良いくせに小さい事で違えるんだ! お前はただ雪光に泣かないで欲しかったんだろう、なのに余計な嫉妬心であんな事を言って、アレで雪光が傷つかないとでも思ったのか! あんなの俺でもカチンとくるわ」
確かに、ちょっと言い過ぎた所はあるかもしれないけど、決して間違った事は言っていないはずだ。
「良いか今すぐ雪光を追って謝って来い! いいか今謝らないとお前は一生後悔するからな、絶対にな!」
「なっなんでそんな事分かるんだよ……、そんな恥ずかしい真似出来るもんか」
そう言ってそっぽを向く。だが同時にある事に気が付いた。
雪光のこの部屋が、何処か粉っぽいのだ。手足が妙にざらざらとする。
「……なんだ、これ」
畳の上に、とろっとした物がある。無色透明で液体だった。
「……これ打ち粉と油か?」
「雪光の奴、珍しく刀の手入れなんてしたんだな、何時もやれって言ったってやらなかったくせにな」
藤田がふとそう言った。その通りだ、彼は何時だって刀の手入れを拒んだ。前に理由を聞いたが、『人を斬る事はないから自分は竹刀で十分だ』と言っていた。
「何時も俺と龍久がやってたもんなぁ、まああいつの刀なんて俺の愛刀に比べれば――」
「なぁ……藤田、雪光はなんで刀の手入れなんてしたんだ?」
自慢の愛刀の話を遮られ、少し気分を害したが、仕方がないとその問いに藤田は答える。
「そりゃお前、これから旅に出るんだ武装の一つでもしっかりとだな……」
「……いや藤田、例えそうだとしても、雪光だったらその辺の棒きれで十分だ、あいつは強いから刀なんて本当は要らないんだ!」
「おっおい……何言ってんだよ龍久」
二人は内心言葉になど出したくはなかった、だが、どうしてもその可能性が拭いきれなかったのだ。
だから、あえてそれを口にした――。
「雪光、辻斬りを殺すつもりなんじゃないか?」
その言葉に、藤田は固唾を呑んだ。
それを否定できなかった。あれほど仲が良かったお時が殺されて、行く宛が無いくせに家を出て行った。それを考えると、どうにも可能性を削除出来なかった。
二人は、そんなことないと言う事も出来ず、ただ互いに顔を見合わせた。
一つも否定できずに――。
一二月二四日。
龍久と藤田は、上野界隈でひたすら聞き込みをしていた。
この辺りで浅葱裏を見なかったかと、浅葱裏などそう珍しい物ではなく、特定の人間だけ見つけるのは不可能だった。
「くそっ、雪光がどこにいるか分からねぇし、肝心の辻斬りもどこにいるか分からねぇなんて、これじゃあ打つ手がねぇじゃねぇか!」
「でも見つけるしかねぇよ、辻斬りか雪光を!」
辻斬りを先に岡っ引きに引き渡せば、雪光が馬鹿な真似をする事は無くなる。もしくは雪光自体を止めるしかなかった。
とにかく今は、足を擦り減らしてでも探すしかなかった。
「なあ、一回奉行所の方に行って見ねぇか? もしかしたら何かめぼしい情報があるかも知れない……」
「そうだな……このまま宛てもなく聞きこんでも雲を掴む様なもんだ」
藤田の意見に賛成して、二人は奉行所へ向かって見た。
だがちょうど、浅草の浅草寺の辺りに来た時に、あの岡っ引きに出会ったのだ。
「お前達はこの間の……」
どうやら顔を覚えていてくれた様で、あちらから声を掛けて来てくれた。
「この間はろくに名乗りもしねぇですまなかったなぁ、俺は『を組』の種村ってんだ」
岡っ引きの自己紹介もそこそこに、龍久は本台を切り出した。
「すまないが、ウチの奉公人を斬った辻斬りについて、何か新しい情報はないか?」
そう聞くと流石に苦い顔をした。それは決して捜査状況が悪いとかそういう物ではない、部外者にあまり詳しい事は言いたくない様だった。
「どうしてそんな事聞くんだ、犯人だったら俺達が必ずひっとらえてやらぁ」
「違うんだ、別にあんた達の捜査がどうのこうのって言いたい訳じゃないんだ」
「ならどうしてそんなこときくんでぇ?」
言葉が詰まる二人だったが、種村はきっと言わなくては何も教えてくれないだろう。
仕方がないと、龍久が事情を話し始めた。
「なるほどなぁ……、あの子が辻斬りを探してるんだな」
三人は場所を浅草寺のすぐわきにある団子屋へと移した。他にも幾人かの客がいたが、構っている暇はなかった。
「よし、そう言う事なら協力しようじゃねぇか」
流石に雪光が辻斬りを殺そうとしているとは言えなかった。人を殺せば極刑は免れない、雪光が首切りに処されるなど絶対に合ってはならない事だった。
「まずここだけの話だが、辻斬りをやった奴らの正体が分かった、そいつらは長州から来た浅葱裏で五人いる、だが誰がおめぇらの奉公人を斬ったかは分からねぇ」
「そいつらの居場所は分かったのか?」
種村は頷くと、周囲を見渡し誰にも聞かれていないかを確認するが、傍には白い襟巻を旅姿の女と老人が茶を飲んでいるだけだった。
「ああ、このすぐ傍の三井国屋という宿屋に潜伏している事が分かった」
「ならすぐに捕まえねぇと! なんで野放しにするんだよ」
「そう簡単にはいかねぇんだ、どうやら裏に誰か付いている様でな、宿泊費なんかを用立てているらしいんだ」
種村の話では、浅葱裏達を匿っている人物がいる様だ。
なぜ辻斬りなどをする恐ろしい連中を庇護するかは分からないが、良い理由でない事は確かだ。
「俺達はそいつも捕まえようと思っているんだが……お前達の話を聞いて先に浅葱裏達を捕まえた方がよさそうだな」
どうやら今日中に奴らを捕まえる事になった。これなら雪光が手を下す前に奴等一掃できそうだった。
「おっとすまねぇ」
種村の足が、ふと後ろで茶を飲んでいた女に当たった。女は軽い会釈をすると笠を被り直して歩いて行った。種村は座り方が粗すぎる、もう少し姿勢を正した方が良いだろうに。
「うるせぇ、おっととっ……まぁおめぇらが邪魔しねぇってんなら、傍に居ても良いぞ」
「本当か! 有難う種村さん!」
龍久は頭を深々と下げた。
(これで、雪光を止められる! あいつを人殺しなんかにしてたまるか!)
乗り込むのは酉の刻をしばらく過ぎた頃だった。
十分日が暮れ、なかに浅葱裏達がいる事を確認して隣町からの応援も駆けつけた。準備は全て整い、後は乗り込むだけとなった。
みな、息をのみながら恐ろしく静かな三井国屋を見つめていた。
「いいかお前達二人は、間違っても先陣切ろうなんて馬鹿な真似をするんじゃあねぇぞ、俺達がまず中に乗り込むから、てめぇらは俺が良しと言うまで此処に居るんだぞ」
「まるで犬みたいだな」
「馬鹿野郎、犬の方がまだ言う事聞くぜ」
藤田は種村に怒られた。だが乗り込むつもりははなから無かった。
ただ浅葱裏を全員捕まえられればそれで良かったのだ。
「大変ですぜ種村の旦那!」
部下の一人が声を荒らげてこちらに走って来た。もうすぐ打ち入りだと言うのに一体どうしたと言うのだろうか。
「実はさっき隣町で例の五人組の一人を保護したんでさぁ」
「保護ぉ? なんだってしょっ引いてやらなかったんでぇ」
「へぇ、そいつはそりゃあ酷い暴行を受けてましてね、全身殴り傷やら擦り傷やらで誰かに襲われた様なんでさぁ、喉まで腫れれて詳しくは聞けなかったんですが、仲間が何人いるのか、誰がどこで斬ったのか詳しくはかされたっていうんでさぁ」
その言葉に龍久達に戦慄が走った。もしや雪光がやったのではないだろうかと――。
「それが妙なんでさぁ、そいつは女にやられたって言うんでさぁ」
女という言葉を聞いて、一安心した。雪光では無かったと、胸をなでおろしたが果たして女のどこにそんな力があると言うのだろうか。
「それにその女、白い襟巻をして旅姿っていう妙な奴だったんですよ旦那」
白い襟巻に旅姿の女。
その姿が明確に龍久の頭の中に再現されるのに時間はかからなかった、なぜならほんの二刻前にその姿を、あの浅草寺の団子屋で見かけたのだから――。
「……雪光だ」
龍久の脳裏に、その格好をした雪光の姿が事細やかに描写された。
なぜ気が付かなかったのだろうか、あの時既に雪光は傍にいたのだ、そして自分達の話を聞いて先廻りをしたのだ。
「まさか雪光の奴、俺達をずっと付けてたって言うのかよ!」
「いや、きっと種村さんの方を付けてたんだ! それで今日浅葱裏達が捕まる事を知って、そいつから、誰がお時を斬ったか聞きだしたんだよ! 畜生なんで気が付かなかったんだ、あの時あいつは傍にいたんだ!」
不安と焦りと何もかもがごっちゃになって、苛々が抑えられない。
まさか女装までして情報を聞き出すなんて、もはや正気の沙汰とは思えない、もう雪光は壊れ始めているのかも知れない。
「畜生!」
すぐに三井国屋へと走った、それに藤田が続いた。後ろの方で種村の声が聞こえたが関係なかった。
暖簾のかかっていない戸をくぐると、静まりかえった宿が迎えてくれた。
「……可笑しいだろう、なんでこんなに静かなんだよ」
藤田はそう言うと、何時でも抜刀出来る様に右手を柄に添える。自分もそれに続く、雪光だけではない、此処には辻斬り達もいるのだ。
慎重に歩を進めながら、まずは一階をくまなく探す事にした。ゆっくりと一部屋ずつ確認していると――。
「龍久、こっちに人がいるぞ」
藤田の呼びかけで台所の方に言ってみると、そこには板前や芸者女将達が縄で縛られ、猿轡までされていた。数人を解放して事情を聴いた。
「実は、女なんだか男なんだかようわからない人が来て、斬られたくなかったら大人しくしていろって、全員を縛らせて、もう怖くて怖く……」
「それで、そいつはどこに行ったんだよ!」
「へっへぇ、上です」
それを聞くと、階段へと走った。どの部屋にも明かりは付いておらず、薄気味が悪い。藤田と顔を見合わせると、何時でも抜ける様にすると、ゆっくりと階段を上がって行った。
板が軋む音が心の臓を圧迫して、今にも破裂してしまいそうだった。
一歩一歩進む事に重圧が大きくなり、潰されてしまいそうだ。
「……開けるぞ」
藤田がそう言うと襖に手を掛ける。自分はいつ敵が出て来ても良いよう柄を握った。
ダンッと勢いよく襖が開いた。すぐ様踏み入る二人、そして同時に全てを見た。
そこは何もかもが血に濡れた部屋だった、
天井、床、襖、障子、全てに血が付いていて元の色を探すのが苦労だった。
そんな血のまみれの部屋に、一人の男が横たわっている。
全身を切り刻まれて、お時と同じ様に顔を完全に潰されている。
二人は直感的に分かった。
お時を殺したのは、この男だと――。