六六話 陰陽師の戦い
「龍久ぁ! 龍久ぁ!」
雪は悲鳴を上げていた。
その視界の先には、杭に腕を貫かれて地面に張り付けられている龍久が居た。
一目見れば分かる、あれは命にかかわる重症だ。
「たっ……たつひさぁ」
葛葉は遠くへ吹っ飛んで行った龍久を見ながら、弱弱しくその名を呼んだ。一体何が起こったのか、上手く理解できずに居たのだ。
「ふふん、あっけない物だなぁ」
そう言って龍久を嘲笑う妲己。その姿は、とても憎たらしくて堪らない。
「針の法師ぃ、最も弱い所から攻めるのは当然の事だろう? 陰陽の術を使える訳でなく、剣技に長けた訳でもなく、これから変わりゆく時代にもついていけない男に、一体何の存在価値があると言う――」
妲己の言葉を最後まで聞く事は出来なかった。
なぜなら、葛葉が彼に飛び膝蹴りを喰らわせたからだ。
痛みはないが、衝撃は妲己の体を走って行き、彼を吹っ飛ばした。
あまりに突然の事で、避ける事も防ぐ事も出来なかった。
「おっ、陰陽師殿ぉ」
陽元が慌てて妲己へと駆け寄って行った。
「ぶち殺す、お前だけは殺してやる!」
葛葉は水を両手に収束させると、それを妲己に向けて放つ。
水は槍となって、妲己へと襲い掛る。
「ひっひぃぃっ」
情けない声を上げながら、陽元は腰を抜かした。しかし妲己はいたって冷静で、再び袖から液状の金属を出すと、それを盾の様に展開する。
ただの水では盾を貫く事が出来ず、水は盾にぶつかりただの水へと戻り、地面へとしみこんで行った。
「ふふふっ、法師ぃお前の術では私を倒す事は出来ぬわ」
そう言って手を握ると、盾は数本の刀へと変形していく。
「串刺しと行こうか? それとも切り刻んで、原型を分からなくしてやろうかぁ?」
「その口を閉じろ、この糞野郎!」
葛葉は妲己に向かって飛んで行くと、その懐に潜り込んで胴回りを掴んだ。
「このっ、くそぉ離せぇ!」
「待ってろ龍久、こんな奴三分でぶっ殺してやるからぁ!」
そしてそのまま空へと舞い上がった。
あっという間に見えなくなった二人の影、雪はそれを見てはいたが、頭では何も考えられずに居た。
ただ目の前でまた大切な人が死んでしまうあの恐怖を、雪は再び味わっていた。
もう二度と、あんな思いはしたくなかった。
「……そうだ、早く手当てを……」
今すぐ処置を施せば、助かるかもしれない。いいや、助けなければならないのだ。
雪はがくんと折れてしまった膝に、再び力を込めると、龍久へと駆け寄った。
「龍久ぁ! たつ――っ!」
しかし、突然何かに掴まれて前に行く事が出来なくなった。
振り返ると、陽元が雪の手を掴んでいた。
「よっ、陽元、離せぇ」
「父親に向かってその様な口を聞くか!」
「違う、お前は父親なんかじゃない、離せぇ!」
雪は陽元の手を振り払うと、龍久の元へと駆け寄ろうとしたのだが、陽元が雪の頬を思い切り叩いた。
それは数年ぶりの暴力で、雪の脳裏に幼い頃からの陽元の非道な行為が過る。
その時の恐怖も蘇って来て、体が上手く動かなくなった。
「お前を一五年も養ってやったのはこの私だぞ! その恩を忘れたのか貴様ぁ!」
「うっううっ……」
叩かれた頬を押さえながら、睨みつけた。しかしその眼は陽元の癇に障る。
「またその様な眼でぇ、この儂を見るのかぁ!」
「うあっ!」
陽元は、再び雪を叩いた。先ほどよりもずっと強い力で地面に倒れてしまった。
頬が赤く腫れて、痛む。だがそれよりもずっと痛いのは、龍久が死んでしまう事だった。
「たっ……つひさぁ」
雪は這い蹲ってでも龍久の元へと行こうとする。服が土で汚れても、顔に泥が付こうとも、今の彼女には関係なかった。
ただ龍久を助けたい、その気持ちしかなかった。
「このぉ愚図が、こっちに来い!」
陽元は雪の真っ白な髪を掴むと、それを思い切り引っ張った。
頭皮が剥ける様な痛みに襲われ、髪が数本抜けるが、陽元は構わずにそのまま雪を引きずって行く。
「うっあああっ、うっ、龍久ぁ! 龍久ぁ!」
「五月蠅い、大人しくしろぉ!」
「お願い、龍久を手当てさせてぇ! このままじゃ、このままじゃ龍久が死んじゃう!」
雪は髪を引っ張って引きずられながら、陽元に向かって懇願する。
これからの自分の心配などどうでも良い、雪には龍久の生命しか見えていなかった。
「黙れ、あんな男、こうなる『運命』だったのだ、良いから来い!」
「お願いだよぉ! なんでもするから、もう逆らわないからぁ、龍久を手当てさせてくれ」
「あの怪我で助かる訳がないだろう! いい加減にしろぉ」
陽元は暴れる雪を殴った、それはとても痛くてたまらなかった。
雪の眼からは大粒の涙が沢山出て来るが、それは痛みからではない、龍久を失うかもしれない事への恐怖からだった。
雪の哀しそうな泣き声だけが、響き渡っていた。
戦場より離れた、一本の草木さえ生えていない荒野。
何もないはずのその場所で、巨大な水しぶきが上がった。
「はあっ……はぁ、はあ」
そこには息を荒げる葛葉と、余裕の笑みを浮かべる妲己の姿があった。
「ふふふっ三分経ったぞ、針の法師ぃ?」
「うるせぇ……やいっ!」
強がりを見せると、葛葉は水を収束させてそれを放った。
高速で放たれたが、水で金属を貫く事は出来ない。妲己の盾にぶつかると、水はしぶきとなって周囲に飛び散った。
「いい加減諦めたらどうだぁ、法師お前の術では私を倒す事は出来ない!」
「黙ってろぉこの野郎!」
怒鳴ると、再び水を収束させる。しかし今度は大きさが三尺はあろうかと言う水の球、葛葉はそれを妲己に向けて放った。
だがそれは先ほどと何も変わらない、水の攻撃だ。妲己は特に構う事も無く、金属を操作し、盾を成形する。
しかし水の球は、妲己に当たる寸前で軌道を大きく外して、空高く昇って行った。
「散っ!」
葛葉が右手を握ると、球はまるで握りつぶされた様にはじけ飛んだ。
そして水を周囲にまき散らした。
「なにぃ!」
予想していなかった方向からの攻撃に、妲己は焦った。
飛散した水は、地球の重力の元落ちて来る。放つよりもずっと威力があった。
「ちっ!」
妲己は前に展開していた盾を一度崩して、真上に展開した。
そのすぐ後に、その盾に向かって水が落ちて来た。分厚い盾だが、水はまるで穴でもあける様な勢いだった。
「くっくううっ」
このままでは鉄板に穴が開くかもしれない。より鉄板を厚くすればいいのだが、そうすると守る面積が減ってしまう。
妲己はこの雨の中から逃げる事にした。体を宙に浮かせると出せる限りの速度で、後ろへと下がった。
しかし、まるで桶をひっくり返した様な雨で、髪も服も、体もずぶぬれになった。
「おのれ、法師め!」
妲己は雨を掻い潜ると、すぐさま葛葉へと反撃を試みるが、先ほどまで彼が居たその場所にはもうその姿はなかった。
一体どこに行ったのか、妲己がその姿を探していたその時だった。
妲己の真後ろに葛葉が現れた。
先ほどの雨に乗じて、妲己の後方に移動して来たのだ。
「ぶっとべぇ!」
葛葉は妲己に向かって蹴りを放つ。首に炸裂して骨が折れる音がするが、妲己は首が折れ倒れた頭をそのままにして、あの不気味な笑みを浮かべた。
「――っ!」
「無駄だぁ」
妲己は葛葉の頭を掴むと、そのまま地面へと叩き付けた。
小さくなった葛葉の体は、地面に叩き付けられると大きく跳ねる。
「痛覚のない私に攻撃は利かぬぞぉ、針の法師ぃ」
痛みに悶える葛葉を蔑む様に見下ろすると、妲己はその光景を見て笑っていた。
だが、その通りだった。葛葉に妲己は倒せない。
「五行相剋、水は火に克ち、火は金に克ち、金は木に克ち、木は土に克ち、土は水に克つ、水は火を消し、火は金を溶かし、金の刃物は木を伐り、木は土に根を張り、土は水を塞き止める……陰陽の理に置いて、私が操る金と相性が悪いのは火のみ、お前の水だけでは私の金を倒す頃は出来ないのだよぉ!」
そう、陰陽の理と言うのは、自然と大きく結びついている。
自然で起こる現象ならば、どんな事でも起こす事が出来る。しかし、それ以外の事をする事は出来ない。
「我々陰陽師には、術者それぞれに操れる属性が決まっているが、それ以外にも操れる分野にも個々違いがある」
例えば葛葉は水の属性を操る事が出来る。属性は一人に付き一種類と決まっているので、炎や金属を操る事は出来ない。
だが水と言う属性の中にも、幾つかの種類がある。
炎ならば、雷や溶岩。水ならば、氷や海水や泥水。金ならば鉄や鋼や鉱石。
その他幾つかの物を操る事が出来るのだが、それはあくまでも個々の能力に比例する。
雷を操る事が出来ても、溶岩を操れる事が出来ない者もいれば、氷を操る事が出来ても、泥水を操る事が出来ない者もいるし、鉄を操れても銀や銅などを操る事が出来ない者もおり、もちろんその逆も居る。
「五行の術を止めたければ、その物質を『形状変化』させればいい、お前の水ならば土を加えて泥水にしてやればいい、木ならば燃やして炭にしてしまえばいい、私の鉄なら熱を加えて溶かせば無力化する……だがそれも個人次第、変化させても物によっては操る事が出来る場合もあるがな」
この様に陰陽の術と言うのは、才能や資質に大きく左右される。
葛葉が操る事が出来るのは、水と氷と海水、直接的な戦力にならない水素の計四つ。これは陰陽師としてはかなり多い方だが、どれも金属を『形状変化』させる事が出来ない、つまり、葛葉の水では玉藻の金を無力化出来ないのだ。
「あの糞アマはその馬鹿の様な才能で、本来相性の悪い水と互角にやりあっていたが……それはあくまでもあのアマの話……お前にあの桁違いの才能がある訳がない」
「……放って置けぇ、それはお前も同じだろう、お前は金属しか操れねぇんだろう?」
その問いに、妲己は答えようとしなかった。だがそれ自体が十分なほど答えとなった。
「姉の方は高温の炎の他にも、雷を操る事が出来るが、お前は鉄やら鋼やらの金属だけだ、術を極めれば金剛石やら瑠璃なんかの鉱物なんかも操れる様になるはずだ」
「何が言いたいのだ、貴様は」
「お前は姉に嫉妬している、だが同時に強い憧れがあるんだ、そしてもう玉藻には追いつけないと分かっているんだろう、だからどうしようもねぇ悪知恵が付いた」
「五月蠅い、黙れ」
「お前は結局の所、姉に認めて欲しいだけなんじゃねぇのか?」
「黙れと、言って居るだろうがああああああああああっ!」
妲己は鉄を操ると、盾として展開していた物を崩し、それを二本の刀へと変形させる。
刀は回転して左右から葛葉へと襲いかかる。
「破っ!」
葛葉は後ろに後退しながら、水を壁の様に展開して右手を握った。すると水はすばやく凍てつき、氷の壁が出来上がった。
「甘いわぁ!」
しかし刀はその氷の壁に激突すると、粉砕しながら後方の葛葉へと迫る。
防ぐ事が出来ないと悟った葛葉は、懐から針を取り出すとそれを二本ずつ両手に構える。
「うりゃああ!」
向かって来た刀を受け止めて、弾き飛ばした。同じ様に二本目も弾き飛ばす。
そして妲己との距離を一気に詰めて行く。
(首を狙えば!)
『式神』の体は、首を斬り落とすと操る事が出来なくなる。
これは『式神』を操る術者の意識を感じる取る器官が頭にあるからで、そこを失った時点で『式神』の体を捨てるしかない。
葛葉は針を投げる事を止め、確実に首を狙いに行く。針で首を斬り落とす事は出来ないが、頭と体を繋ぐ神経を破壊すれば、それと同等の効果がある。
妲己が再び鉄を操るその前に、葛葉は彼の首を針で突き刺す。今出せる最速の走りで葛葉は妲己の後ろへ回り込んだ。
「しまった!」
妲己は酷く焦った様子で、葛葉の攻撃に全く着いて行けない様子だった。
『式神』の体から痛覚を抜くと、その分繰りが甘くなり動きが鈍くなる。完全に意識を共有している葛葉の動きに、妲己が着いていけるはずがなかった。
「これで終いだ!」
葛葉は針を妲己の首に向かって突き立てた。
「なぁんてなぁ」
しかし、妲己はあの気味の悪い笑みを浮かべた。
それに葛葉が驚く暇も無く、紫の水干の間ちょうど襟首の所から、鈍い光沢を放つそれが、射出された――。
葛葉の肩に、金属の矢が突き刺さった。
矢と言うにはあまりにも武骨で、ただの鉄の棒の様に見えた。
だがそれは葛葉の右肩を貫く、小さな彼の体を吹き飛ばすには十分な威力を持っていた。
吹っ飛ばされ地面に力なく横たわる彼を、妲己は心底楽しそうに見つめる。
「あははっ鉄を全部使う訳がないだろうぅ、この阿呆めぇ」
楽しそうに葛葉を見下しながら、二本の刀を操り二つを一つの鉄の塊に戻すと、それを近くへと寄せる。これで彼は再び武器をえてしまった。
「法師何度も言わせるな、お前の水では私の金には勝てないんだよぉ」
「うるせぇ、お前だって姉に勝てねぇ癖に……」
妲己の笑みが消え、眉が吊り上がる。玉藻の事を引き合いに出されるのがよっぽど嫌らしい。
「……どうやら、苦しんで死にたいらしいなぁ」
そう静かに怒ると、妲己は葛葉の肩に突き刺さっている鉄の矢に人差し指を向ける。
「ならば望み通りにしてやろう」
そう言うと矢が一瞬生き物の様に脈打ったかと思うと、幾本もの鋭い棘を生やした。
その一本一本が葛葉の体に食い込み、言葉に出来ぬ激痛を与える。
「まだだ、お楽しみはこれからぁっ!」
妲己はそう言いながら腕を振り上げた。
矢は、肩の肉をえぐり取った。
突き出た刺が返しとなり、葛葉の肩の肉を抉り取りながら抜けた。
『式神』には血液は存在しないので、血は流れないが肉を抉られた痛みは、遠い場所に居る術者へと伝わる。
「うぐああああああああああああっ!」
右肩を押さえながら葛葉は、痛みに耐えきれずのた打ち回る。
その様は酷く滑稽で矮小だった。
「くくくっ、どうした法師ぃ? これくらいで気を失うなよな、もっと痛みで悶え苦しませてやるからなぁ」
「うっぐっ……うううっ」
右肩が欠損した為、右手が動きにくい。だがそれでも彼は立ちあがった。
《属性は水、方角は東、星は水星、色は黒》
「何をするかと思えば、今更そんな物」
五行最強の術、例えそれを使用した所で手負いも属性不一致の葛葉が、妲己に勝てるはずがない。だがそれでも葛葉は言霊を唱える。
《我が問いかけに応え、汝の力を示せ――玄武》
言葉に反応する様に足元に光る星形の方陣が現れ、大気中の水が集まる。
《黒点無双》
全て唱え終えると、水の亀【玄武】が現れる。しかしその大きさは随分小さく、以前現れた物の三分の一程度の大きさしかない。
それでも葛葉は水を集束させて、幾本もの水の槍を作り出す。
「……ふん、馬鹿の一つ覚えだな」
妲己はそう言うと、自分も同じ術で葛葉をひねりつぶす事にした。
《属性は金、方角は西、星は金星、色は白》
妲己の足元に光る星形の方陣が現われる、彼の周囲に風が吹き、黒髪と水干が靡く。
《我が問いかけに応え、汝の力を示せ――白虎》
そして金属が結合して、形を整形していく。
《白点無双》
全て唱え終えると、金属の虎【白虎】が現れる。
水の亀と金属の虎は、まるで威嚇の様に吠えあっていた。
「【白虎】に八つ裂きにされるがいい!」
妲己が腕を振るうと、金属の虎は葛葉に向かって走る。
重い体躯が地面を蹴りあげる度に、振動が伝わって来た。
「破っ!」
葛葉は虎に向かって水の槍を放つが、水で鉄を貫く事など出来ない。槍は虎に当たると、ほどける様に崩壊して、虎を濡らすだけだった。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
葛葉は白い息を吐きながら狂った様に叫んだ。そして何発もの水の槍を虎に向かって放つが、それは見苦しささえ感じるただの悪あがきだった。
虎の猛攻を止める事は叶わず、あっという間に葛葉の目の前にやって来て、その巨大な前足が振り上げられていた――。
虎は葛葉を引っ掻いた。
引っ掻いたと言っても鉄の爪、葛葉の肩から腹の肉を引き裂いて内臓を抉るには十分すぎる物だった。
「があ――っ」
最早悲鳴など上げる事すらできなかった、体中の全ての細胞が痛みを感じていて、どこが痛むのかさえ分からない。
葛葉は吹っ飛ばされて、仰向けでぶっ倒れた。
「だから言っただろう、水では金に勝てないとなぁ」
白い息を吐きながら葛葉の元へと歩み寄ると、彼が出した水の亀【玄武】を見つめる。
威嚇する様に吠えているが、これはあくまでも意思のない力の象徴の様な物。自分から攻撃してくる事はないし、葛葉が操らなければただの木偶人形と同じ事。
妲己は水の亀を払う様に右手を振るうと、金属の虎が前足を振り下ろすと、まるではじけ飛ぶ様に、ただの水に戻って行った。
「【玄武】も無くなり、自分は満身創痍か……そこまで来ると最早哀れみさえ感じるぞ」
そう言うがこれを行ったのは彼自身。口先だけではなんとでも言えるが、心は微塵もそんな事思っても居なかった。
「さて、胴を引きちぎられて腸を出されるのと、四肢を捥がれてから頭を噛み砕かれるの、果たしてどっちがいい?」
「ぐっぐう……」
苦しそうに倒れて、ただ息をする事しか出来ない葛葉。吐く度に白い息が出て、空に溶けて行った。最早万策尽き、妲己に対抗する事は出来なくなっていた。
「ふははっ、最早息をするのがやっとか! 針の法師が衰えた物だなぁ、最早息を吐くのがやっとか」
勝利を確信し大笑いする妲己。白い息がまるで煙の様に見える。
「お前の『式神』を破壊した後に、南雲龍久に止めを刺してやろう、そうだなぁ全身細切れにしてやろうか? それともひき肉の方がいいか?」
葛葉は妲己を睨みつけるが、最早反抗するだけの力も残っていない。
「くくっ、さらばだ法師ぃ」
そう言うと『式神』を破壊する為に、虎を操る。
今にも閉じてしまいそうな眼、その小さな隙間に鋭い爪が映る。
鉄が光を反射して、眼に突き刺さる。
赤や青が目の中で蠢いて、何も見えなくなった。
何も――見えなくなった。
(――陰陽の術は科学ですよ――)
脳裏に、そんな言葉が響いた。
頭の奥で響いて、ゆっくりと拡散していった。そしてその言葉が消えた頃、ゆっくりと瞼を開けた。
目の前には虎の爪、あと一寸振り下ろせば葛葉を引き裂くという所で止まっていた。
「……なっ、なんだ……どうしたのだ!」
妲己は腕を振り下ろして虎を操ろうとするが、虎は全く動かない。
術が不発したのかと思ったのだが、それならば虎は消えているはずだ、操れないと言う事はない。一体何が起こっているのか、妲己には分からなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ」
苦しそうに白い息が出していた。
「法師、貴様一体何をした!」
妲己が葛葉に向かって叫ぶ、息を吐くのに合わせて白い息が出る。
彼はその息にようやく気が付いた。
「なぜ……白い息が?」
息が白くなるのは、外気が一〇度以下であるときだけだ。
いくらここが蝦夷と言えども、とうに春になった今、息が白くなるなどありえない。
一体、なぜこんな事になっているのか全く訳が分からなかった。
「はぁ……はははっ」
苦しそうに笑いながら、葛葉が起き上がった。先ほどまでとは違い、何か強い意志の様な物を感じた。
「……陰陽の術はなぁ、科学なんだよぉ」
「なっ何を言って居る」
どんなに超常現象の様な事が起こっても、自然の理を超える事は出来ない。
それは全ての陰陽師が最初に学ぶ事でもある。
「お前は、『式神』から痛覚を抜いただろう……、でも痛覚だけを抜けないんだ」
それは玉藻の炎と雷撃を喰らった時、あの時龍久も葛葉もあまりの熱さで、悲鳴を上げていたが、妲己はあの時熱さを感じる所か、汗さえ掻いて居なかった。
「お前は痛覚だけではなく、熱を感じる事も出来ないんだ」
それを妲己があえてやったのか、それとも欠陥だったのか分からないが、玉藻に対する時、それはさぞ有利に働いただろう。
体は自然と熱すぎる物、冷たすぎる物から身を守る様に出来ている。熱い湯呑みを持つ時、人は熱さを感じてそれを持つことが出来なくなる、湯呑みの熱で手を火傷しない様にする為だ。
痛みもそれと同じ事、危険であると言う事を体が理解し、それから逃れようとする。だが痛覚が無いと言う事は、その危険を理解できないと言う事なのだ。
「だから何だと言うのだ、温度など何の意味もないだろう!」
葛葉は炎は使えない。だから今更温度など感じられても意味はないはずだ。だが葛葉は小さく微笑んで見せた。その笑みは傷だらけのはずなのに、とても強さを秘めていた。
だが同時に妲己は気が付いた。笑みを浮かべる葛葉の髪やら眉が凍りついている。
「なっ……んだと」
いや、それだけではない、自分の体も動きが鈍い。痛覚を抜いた反動ではない、これは妲己という『式神』の体が凍り付いているのだ。
何が起こっているのか分からない妲己に、葛葉は静かに語り始める。
「……お前は気が付かなかっただろうけどな、俺がお前にぶっかけたのは水じゃない、氷温に限りなく近い水だ」
葛葉がなぜ水で攻撃していたのか、氷では見たままで性質が分かってしまうが、水は違う。水は視覚だけではそれがお湯なのか冷水なのか分からない、知る為には触れなくてはならないのだが、彼は温度を感じる事が出来ない。
「確かに俺の水じゃお前の鉄を壊す事は出来なかった……でも超低温ならどうだ?」
「まさか貴様ぁ!」
金属については妲己の方が詳しい。
だからその説明で全てが分かった、いや分かってしまった。
「そう……低温脆性だ」
低温脆性。
ある一定以下の温度で金属が脆くなる事を言う。
硬い金属でも低温化に晒されると、へき開面の断裂が誘発されて脆くなる。
へき開というのは、結晶や鉱石などが力を加えられた時に、ある特定の方向に割れやすいという特性の事である。つまりどんなに硬い金属でも、低温化に置かれればへき開という割れやすい部分から、破壊されるという事だ。
「お前は水では金に勝てないと言う事に捕らわれすぎだ、陰陽の術は科学だ、自然の理の範囲内であればどんな事でも出来る」
「貴様は……初めからこれを狙っていたのか! この、このどうしようもない可能性に賭けたのかぁ!」
もしかしたら失敗するかもしれない、その前に『式神』が破壊されるかもしれない。にも拘わらず、葛葉はこの瞬間に全てを賭けたのだ。
「お前の鉄は凍りついて居る……お前の鉄はもう『形状変化』した、こんな脆くなった状態で衝撃――つまり力を加えられたら、どうなると思う?」
「やっやめろぉ!」
葛葉は動けなくなった虎へと近づく。その足取りはほんの少し押しただけで倒れてしまいそうな、それほど弱っていながらも彼には力が満ちていた。
「俺はお前が玉藻に勝てない理由がよく分かった……お前は人を見くびりすぎだ、お前は人の中にある可能性を何一つ信じていない、そんなお前がこれからのこの国を導けるはずがない」
懐から針を取り出すと、強く握りしめて振り上げる。
そしてまるで断罪の刃の様な、それが虎の額に振り下ろされた――。
「これから先の未来は可能性に満ちているんだ!」
瞬間、虎が割れた。
まるで氷の様に硝子の様に、額から罅が入ったかと思うと、あっという間に音を立てながら割れて行く。
鋭い刃物に斬られた様な断面の金属片が地面へと崩れ落ちて行く。小さな破片、大きな破片全てが光を反射しながら崩れゆくその光景は、なぜかとても美しい物に見えた。
「あっあああっ」
妲己は唖然としていた。それもそうだろう、彼は自らの能力に高を括り、絶対に勝つだろうと確信していた、それがどんなに愚かな事かも知らないで――。
「お前が笑った者達は、皆小さな未来を信じて居たんだ、どんなに辛い『運命』にぶち当たっても、より良くなる未来を、より幸福になれる未来を信じたんだ、そんな馬鹿で素直で小気味の良い奴らを、嘲笑う資格などお前にはない!」
「だまれぇ、このっ、このぉ」
妲己は体を動かそうとするが、その意思に反してピクリとも動かない。
既に彼の体は、そのほとんどが凍り付いていた。
「温度を感じないお前には分からないだろうが、今この場の気温は、とうに人間が生きられる温度を超えているんだぞ」
『式神』の体は、ある程度の環境下におかれても活動する事が出来る。それこそ氷点下をはるかに超えた極寒の中でも――。
「こっのぉ……」
妲己は一度葛葉の水を浴びてしまった。それも氷温に限りなく近い冷水。あの時既に、彼の体は芯まで凍てついていたのだ。
更に【玄武】を呼び出し冷水をまき散らす事によって、周囲の熱を奪い気温を下げた。冷めた外気により体温が奪われ、葛葉よりも妲己の方が凍てつくのが早い。その小さな差が、二人の勝敗を分けたのだ。
「お前の負けだ妲己、力に溺れた哀れな陰陽師よ」
「うあああああああああああっ!」
彼自身が凍る音と共に、断末魔の様な悲鳴だけが大地を揺らす様に響いたそれは、反響して空に溶けて行く。
そして、その音が全てしなくなった時――妲己は動かなくなった。
「……終わったか」
葛葉は『式神』妲己の完全な活動停止を見届けた。
体の芯まで凍った妲己、するとその体に罅が入った。それがどんどん大きくなって崩壊してゆく。
「…………」
全て崩壊した妲己の体は、砂の様な灰の様な物体へと変わって行った。
それこそが、葛葉が完全に勝利した証であった。
「…………はぁ」
全ての力を使い果たし、葛葉は地面に崩れ落ちる様に倒れた。妲己の攻撃で最早意識を保たせるのが限界だった。
霞む視界の中、龍久達が居る弁天台場の方角を見つめる。
早く行かなくては、そう約束したのだから――。
「龍久……すぐ、いくから……な」
思いとは裏腹に、葛葉の瞼は重く開ける事が出来なくなっていた。
ゆっくりと瞼が閉じて、彼は動かなくなった。
その場には、何の音も無くなった。




