六四話 すれ違い
「龍久! 龍久ぁ!」
蝦夷の地に、雪の声が響いて溶けて行った。
だが、それはこんな所に来て行けない人の言葉だった。
「なんで……なんで」
染み一つない白髪を靡かせて、彼女はこちらに向かって歩いて来る。
龍久は立ちあがると、雪の方へともつれる足で歩いて行く。もう土方の事など見えていない様に、ただ彼女の元へと――。
「龍久ぁ!」
そして雪は両手を広げて、龍久へと抱き付いた。
真っ白な髪も、か細い手も、顔も、匂いも、それは間違えなく雪の物だった。
見紛うはずがない、雪が、雪が蝦夷にいる。
「なんで……だよぉ」
今すぐにでも抱きしめたかったが、龍久はそれをしなかった。
自分がすべき事は、彼女を抱きしめるる事ではない。彼女の為に、彼女を異国へ行かせる事なのだ――。
「なんでここに居るんだよぉ!」
龍久は雪を突き飛ばした。その力は強くて、雪は何歩か後ろに下がってしまう。
そして龍久の視界に、葛葉の姿が映った。
少し申し訳なさそうに、葛葉はこちらを見ている。
龍久はそれで全てを理解した、雪をここに連れて来たのは葛葉だ。
「なんでだよぉ葛葉ぁ! なんで雪を連れて来たぁ! 雪は、雪はぁ」
異国へ行かなければならないのだ、こんな所に居ては陰陽師に見つかってしまう。
龍久の悲鳴の様な訴えを聞いて、葛葉は哀しそうに謝った――。
「……すまん、すまん龍久」
***
一ヶ月前・会津若松。
葛葉はこの日、何時もの切り株の場所へと向かっていた。
約束通り、最上級の上生菓子を手土産に持って――。
「……龍久?」
何時もの切り株に着いたのだが、龍久の姿は無い。
少し早すぎたかとも思ったが、もうすぐ夕暮れ、遅いくらいだ。
「……うん?」
切り株の上に、紙が置いてあった。丁寧に風に攫われない様に石の下にある。
葛葉はそれを手に取ってみると、表に『葛葉殿』と書かれていて、裏には『南雲龍久』と少し乱暴な字で書かれていた。
なぜ今更文などと思いながら、葛葉はそれに眼を通し始めた。
しかし彼の表情は徐々に曇って行き、遂には菓子を投げ出して走り出した。
(嘘だろう、嘘だよなぁ!)
『本当はお前に何もかもを話そうと思ったんだが、やっぱり無理だった。
だから代わりに文を書く事にした。
まず俺がどうしてこんな事をしたのか、お前に伝えておく必要があると思う。
俺は玉藻から『運命』を見せられた。
異国で笑う雪の姿と、隣に居る異人の男。雪を幸福にしてくれるのはこの男だ。
雪は異国へ行けば幸せになれる、もう陰陽師に脅えて山の中で暮らす事は無いんだ。
葛葉、お前は雪を異国へ連れて行って上げてくれ。
俺には雪を異国へ連れて行く力がない、この国以外でどうやって生きて行くのかさえ分からない。
でも雪は、この国の外へ出るべきなんだ。
葛葉、お前は言ったよな、人の意識を変えるのは時間がかかるって、この時代には雪が満足できるような社会の仕組みがないのかも知れない。だけど俺はあの時見た『運命』を信じたい、異国で微笑む雪は少なくとも幸せを感じられているはずなんだ。
だから、この小さな可能性を信じたい。
この答えに辿り着きたい、もう間違えたくないんだ。
俺は蝦夷へ行く、そこで陰陽師の眼を少しでも逸らす。
葛葉は雪を連れて、少しでも遠くへ逃げてくれ。陰陽師に見つからず、雪が幸せになれる場所へ連れて行ってやってくれ。
こんな事を頼むのは、あまりに身勝手なのかも知れない。
でもこれは、葛葉にしか頼めない事なんだ。大切な親友のお前だから頼める事なんだ。
俺の望みは、雪が幸せになってくれる事、これだけだ。
お前は『運命』を求める様になると言ったよな、俺はお前に未来を求めている、雪が幸せになれるあの未来を、お前に託すよ葛葉。
雪を頼んだよ葛葉、あいつを異国へ連れて行ってやってくれ。
それと、話さなくてごめん。
本当はずっと前から話そうと思っていたんだ、でも無理だったんだ。
お前はきっと俺がしようとしている事を止めるだろう、他にいい案なんて無いのに、引き留めるだろう。
でもこれは、俺を思っての事だと思う。お前はそう言う奴だから。
でもな葛葉、俺はお前に止められたら、この決心が鈍ってしまいそうだったんだ。
だから言えなかったんだ。
お前が俺を引き留めるのと、俺が話せなかったのは、きっと同じ気持ちがあったからだ。
許してくれ葛葉、俺はお前を他の誰にも代えがたい、腹心の友だと思っている。
だからこんな頼み事をするんだ。
葛葉、お前は初めは俺を利用するつもりだったのかもしれないけど、俺はこの出会いに感謝している。
有難う、そしてさようなら、葛葉』
「龍久ぁ!」
葛葉は、二人が暮らしていた小屋の前に来ると、乱雑に戸を開いた。
赤い、血の色をした夕日が縁側から差し込んで、居間を照らしていた。
そこにまるで取り残された様に、雪が座っていた。彼女だけが、座っていた。
「……はぁ、はぁ……はぁ……はあっああああっ」
それが意味する事を理解して、土間に崩れる様に膝をついた。
何もかもが遅かった。
「くそう、くそうぉ!」
葛葉の眼からは涙が零れ落ちていた。なぜ気が付かなかったのか、なぜ分からなかったのか、龍久はどこか可笑しかったのだ、酷く落ち着いていて、どこか腹を据えていた。
それを葛葉は成長と勘違いしたが、本当は覚悟し、悟ったのだろう。
どうして気が付かなかったのだろう、なぜ疑問にさえ思わなかったのだろう。
「…………葛葉君、龍久は……龍久はどこなの?」
親友を止める事が出来ず涙を流していた葛葉に、雪がそう尋ねた。
本当は龍久が何をするのか、どこへ行ったのか全て分かっているのだろう、だが不安から聞かずに居られなかったのだろう。
「……雪様」
葛葉はその問いに答える事が出来なかった。代わりに龍久からの手紙を手渡した。
雪はそれを受け取ると、一言一句見逃す事無く読んだ。
だが読み進めていくと、雪の眼から雫が細い線となって毀れてゆく。
「あっ……ああっ、うっううう」
肩を震わせ涙を流す雪を見て、葛葉は吹き出て来る涙を拭った。
「……雪様、龍久は貴方の時折見せる哀しい顔を見て、自分を責めていました、陛下が亡くなったのを自分のせいだと思い込んで、それを勝手に罪だと思って……それを償おうしているんです……でも、これは雪様にも責任があるのではないのですか?」
「……葛葉君」
「……あいつはどうしようもない馬鹿だ、人の心持ちなんて何一つ考えなくて、これだと思ったらそれ以外に何も信じない、救いようのない馬鹿だから、貴方の本当の気持ちに何一つ気が付けないのですよ……貴方が本当に笑っていないから、笑って欲しいから、あいつはこんな馬鹿な事をしでかしたんですよ、どうして……どうしてもっと正直にあいつに話して下さらないのですか?」
龍久は度を越えた馬鹿だ。
回りくどい言い方では、龍久は全く理解出来ないのだ。ちゃんと言葉にして言わないとあの馬鹿は分からないのだ。
雪は手紙を読み終えると涙を拭いて、葛葉に向かい合った。
「私を、龍久の所へ連れて行って」
「……しっしかし」
それはあまりにも危険だった。龍久が向かったのは土方の居る蝦夷だ。
誰だってそこに雪が現れると予想して、眼を光らせているだろう。
そして何より、それでは龍久の行動を全て無駄にする事になる。雪の事を思えば、龍久がとった行動は確かに最善策だ。彼女をわざわざ危険にさらすなど、葛葉には出来ない。
だが彼女をここに置いて、葛葉だけ蝦夷に行けば、その隙に陰陽師がこちらに来るかもしれない、そうなると葛葉にはもう成す術がなかった。
「……それは出来ません、御身をわざわざ危険に晒すなど――」
「龍久の所へ連れて行って」
今度は先ほどよりも強い口調でそう言った。その表情はどこか凛としていて、迷いや不安など感じられない。
「……雪様」
縁側から漏れる光に雪が照らされて、彼女の輪郭を包み込んでゆく。それはまるで神仏から発せられる後光の様で、神聖さを持っていた。
「私を、龍久の所へ連れて行きなさい」
葛葉はこの時ほど彼女を神聖視した事はなかった。
まるで『神』からのお告げでも聞いた様な、逆らっていけない、その様にしなければと心の底から思わせる、何かがあった。
だから、葛葉は首を縦以外に動かす事が出来なかった――。
***
「どうして……なんでなんだよぉ」
龍久はただ困惑していた。
信じていた葛葉からのまさかの裏切り。彼なら必ず雪を異国へ連れて行ってくれると確信していたので、この現状を、龍久は受け入れられなかった。
「龍久、が……龍久が一緒じゃなきゃ嫌だぁ!」
雪は大粒の涙を流しながら、龍久に向かって叫んだ。
「龍久ぁ! 私は龍久と一緒に居られて幸せだった……一緒に過ごした時間はとても幸福だったんだよ、でも……でも、この幸せが無くなっちゃいそうで、怖かったんだよぉ!」
何度だってそうだ、『運命』は雪から幸福を奪って行った。
幸福だと感じる度に、最悪な形で何もかも奪い去って行くのだ。だから、次は龍久ではないかと雪は脅えていたのだ。
「私のせいで龍久が自分を責めていたのなら謝るから、一緒に居てよ、傍に居てよぉ」
雪が一番一緒に居て欲しいのは、他の誰でもない龍久なのだ。
それが、雪の心からの言葉――。
「……だめ、だ」
「えっ?」
「駄目なんだよぉ! 俺じゃないんだ、お前の隣に居るのは、お前と一緒に居られるのは、俺じゃなくて……別の奴なんだよ!」
龍久は雪の言葉で心が動いた。だがそれは違う、それは彼女の為にはならないのだ。
「俺は視たんだよ、『運命』を、未来を! お前の隣に居たのは俺じゃないんだ、お前を笑わせて、幸せにしてくれるのは、俺じゃないんだよぉ」
先の『運命』で、異国で異人の男と幸せそうに笑う彼女の姿を、龍久は視たのだ。
あの未来こそ、雪が辿りつくべき未来なのだ。他の未来では駄目なのだ。
「龍久ぁ……」
彼はもうこの先の答えを視てしまった。その未来がそれ以外に代えがたい、素晴らしい物だったら、誰だってそれにこだわってしまうだろう。
本来視てはならなかった未来に、彼は捕らわれてしまっているのだ。
雪は知っている、龍久が頑なで頭でっかちである事を、だからいう事を聞くはずがない。
「でもぉ……でもここで龍久が死ぬのは間違ってるよぉ!」
雪はそう叫ぶと土方の元へと歩み寄った。
それに警戒する土方をよそに、高杉から貰ったあの短銃を遠くへ投げ捨てた。
「……!」
そして雪は驚く彼を真っ直ぐ見ながら、その言葉を口にした――。
「鬼、私を斬れ」
「なっ……何を言ってんだ雪ぃ!」
絶叫の様な声を出したのは、龍久だった。
「龍久は関係ない、お前が殺すべきなのはこの私だ!」
「違う、雪は何も悪くない!」
龍久は雪の腕を掴んで、土方から引き離そうとする。しかし雪はそれを振り払って、土方に向かって声を荒げて言う。
「お前の仲間を斬り殺したのはこの私だ! お前の命を狙ったのはこの私だ! 龍久は何も悪くない、殺すなら私を殺せ!」
「違う! お前をそうしたのは俺だ、俺がお前を傷つけて、『夜叉』にしちまったんだ、だから全部俺のせいなんだよ!」
「龍久は何も悪くない! 私があんな風になったのは、本当は自分のせいなんだよ、私が自分の理不尽を受け入れられなかったから、自分だけが哀しいと思い込んでたから……」
「そんな訳ないだろう! 雪にだって幸せになる権利がある、それを奪ったのは俺なんだよ! お前は異国へ行けば幸せになれるんだよ、俺はそれを見たんだよ、だからこんな所で斬り殺される必要なんてないんだよ!」
「その為に龍久がここで死ぬのは可笑しいよ、私の代りに龍久が斬り殺されるなんて、そんなの可笑しい! これは私の罪なんだから、私が斬られるべきなんだよぉ」
そう言って、雪は龍久を突き飛ばした。あまりの強さに、龍久は尻もちを着いた。
このどうしようもない気持ちを、龍久はどうすればいいのか分からなかった。
どうすれば雪は異国へ行ってくれるのか、どうすれば幸せになってくれるのか、何かいい方法は無いのか、龍久は無い頭を必死に働かせる。
「……分かった」
だが、土方が短くそう言った。
それは龍久にとって死刑宣告と同等の意味だ。雪を殺すなど、絶対にあってはならないのだ――。
「止めてくれ土方さん……」
しかし、土方は兼定を振り上げる。
それを見て、雪は自分から眼を閉じた。その断罪の刃を受け入れる覚悟をしたのだ。
龍久に死んで欲しくないから――。
「止めろおおおおおっ!」
龍久は村正を握り締めると、土方に切っ先を向ける。
だがその刃よりも速く――――兼定は振り下ろされた。




