六二話 鬼の拳
明治二年(一八六九年) 五月一一日 蝦夷・箱館。
「この柵より退いた奴はぁ、斬る!」
土方は馬に乗り、抜身の兼定を振るいながらそう叫んでいた。
彼の眼下に広がるのは、蝦夷の大地と新政府軍と共に散ると決めた仲間達の姿だった。
土方は陸軍奉行並という地位に着き、榎本を総裁とする蝦夷共和国で幹部になった。
新選組と言う治安組織の一員であった彼が、幕府の重役と肩を並べる様な地位に着けたのは、異例であった。
そして厳しい冬が終わった四月、新政府軍は本格的な侵攻を開始した。
共和国側は乙部と言う港から攻め入る新政府軍を、二手に分かれて迎え撃った。
土方は二股口で戦った、冷静な判断と少ない戦力を有効に使い、彼は確実に勝利をおさめていたのだが、大鳥が守っていた松前口が陥落。撤退を余儀なくされた。
そして一月後には、最早籠城戦に持ち込む他ないほど追い込まれてしまった。
しかし、籠城戦では必ず負ける。土方は敵に囲まれてしまった弁天台場の救出へ、少数の兵と共に向かった。
「…………」
ふと戦いの最中だと言うのに、土方は空を見ていた。
重い北国の雲の合間から、ほんの少しだけ青い空を望む事が出来た。
(北の空は……狭いなぁ)
近藤や沖田と共に居た故郷の空の方が広く、龍久や平助や新八たちと共に過ごした京都の空の方が華やかだった。
だがこの空には、澱んだ雲があるばかりだった。
(いけねぇな……俺も焼きが回ったか……)
近藤から預かった新選組、それを率いてこんな所まで来てしまった。
思うと懐かしい顔ぶれなんてほとんどいない、もう皆居なくなった。
「近藤さん……見てるか?」
土方はそう空に向かって小さな微笑みを浮かべる。だが、もう誰も何も返してはくれなかった。
「…………ふっ」
そして、そろそろ自分も出向こうと思い視線を下に降ろした時だった。
弁天台場の方から、こちらに向かってやって来る人影があった。
まさかあれほど退いたら斬ると脅したにもかかわらず、のこのこと逃げ帰って来たのだろうか、土方は喝を入れてやろうと兼定をより強く握った。
「……?」
だが着ている物が仲間の物ではない。そうなると、あの人影は敵という事になる。
部下が討ち損じたのか、土方はそいつを倒す為に馬を走らせようとする。
しかし、彼の眼にようやくその姿がはっきりと見えた――。
染み一つない真っ白な髪に、西洋の仮面。
宵闇を絞った様な黒い西洋の服に、腰に下げる刀は徳川殺しと謳われた妖刀村正。
そして首には真っ白な襟巻をしている――。
それは、一匹の『夜叉』であった。
白い襟巻を風に靡かせながら、『夜叉』は静かにこちらに向かって歩いてくる。
その姿を見て土方は驚いた。しかしすぐに笑いが込み上げて来た。
「……俺も好かれたもんだなぁ」
そう呆れかえて、小さく微笑んだ。まさかこんな所まで追ってくるなど、思ってもみなかった。
土方は馬から降りると、『夜叉』を迎え撃つ様に正面に立った。
「お前も暇だなぁ、こんな北の果てまで追いかけてきやがって……」
「…………」
何も答えず、『夜叉』は土方の姿を認めると、にんまりと微笑んだ。
「何も答える気はねえってのか……」
腰に吊った村正を左手で引き抜いた。
村正の刃が、寒い空気を切り裂いて音を立てる。震える金属の音が、その刃の鋭さを物語っている。
『夜叉』はその切っ先を土方に向けて構えた。
「……お前、龍久はどうしたんだ?」
彼女が居る所には、必ず龍久が居る。よもやこんな所へ来させる様な真似はしないだろう、あの性格を考えると彼女を止めるはずだ。
「…………あはっ」
たった一言、そう笑った。
それが意味する所は、ただ一つ――。
「おめぇ……龍久を殺したのか!」
その問いに、『夜叉』は答えようとはしなかった。
しかし土方にはそれだけで十分わかった。龍久がこんな所に雪を行かせるはずがない。あれほど彼女の事を思い、その為だけに生きていた様な龍久を殺したと言うのだ、土方にこれ以上ないほどの怒りが込み上げて来た。
脳裏に必ず会いに来ると言った龍久の顔が横ぎった。
「てめぇ、ぶった斬ってやる!」
土方は腰に吊った兼定を引き抜くと、その切っ先を『夜叉』向けた。
「――きゃはぁ!」
それを見た『夜叉』は、まるで踊りでも舞う様に楽しそうに笑うと、土方に向かって疾走する。
体を低くして、土方に向かって左から右への真一文字に村正を振り抜く。
「うおりゃあ!」
彼女の弱点は力で押し負ける事だ、女の腕ではこの斬撃を受け止める事は出来ない。鍔迫り合いに持ち込んで、弾き飛ばす。
そして村正と兼定がぶつかり合った。
二人のすさまじい力がぶつかり合い、刀同士が振るえている。
「……なっ」
噛み合えば分かる。
土方の力に、『夜叉』は互角に張り合っている。以前は吹き飛ばされたはずなのに、今はしっかりとその攻撃を受け止めていた。
「ちっ――うおりゃあ!」
これ以上の鍔迫り合いはまずいと判断し、土方は『夜叉』の右足を思い切り蹴り飛ばした。突然軸足を失い大きく体勢を崩した。
土方はそこに追撃とばかりに、全力の蹴りを放った。
しかし、その蹴りを『夜叉』は受け止めた。
体勢を崩し、右手を地面に着きながらも、村正を持った左手で土方の蹴りをしっかりと受け止めていた。
以前は殴っただけで吹っ飛んでいた彼女が、片手で土方の蹴りを受け止めている。
(……一体どうなってやがる)
土方の強さと言うのは、頭脳というべきだろう。
確かに純粋な強さだけならば、新選組にはもっと強い奴が居た。だが冷静に分析して、確実に弱点を突く事に関しては、土方ほどの才を持った人間は他にはいない。
しかしそんな彼でも、力で女子に負ける様な事はない。
自分が弱くなったのかと思ったが、それは違う。
雪が、『夜叉』が異常なほど力が強くなっているのだ――。
(くそっ……龍久を殺して本当に化物にでもなったってのか!)
変わったのは力だけはない、よく見るとどことなく背が伸びた様にも感じる。
『夜叉』としての変化が、体にまで現れ始めたのだろう。
「――っ!」
だが『夜叉』は考える暇を与えはしない、すぐに左から右下へと村正を振り下ろす。
兼定でそれを受け止めるがやはり力が強い。気を抜けば押し負けるかもしれない。
「くっ……うるあぁ!」
全力で兼定を振り払った。思い切り吹っ飛ばしたつもりだったのだが、大して吹っ飛ばなかった。以前ならばかなり吹っ飛んだはずなのに、今は違う。
「――――っ!」
『夜叉』は地面を蹴ってすぐさま間合いを詰めて、左から右へと真一文字の一閃を放つ。土方はそれを避けると、左側へと移動する。
雪の弱点、右眼の死角。いくら力が強くなっていても、失われた右眼の視力は戻らない。(そこだ!)
思い切り突きを放った。ここは彼女の死角、絶対に見えていないはずだ。
土方は渾身の突きを放つ――。
しかし、『夜叉』はそれを左に避ける事でかわした。
「んな――っ」
完全な死角、そこを突いたはずなのに、兼定の切っ先はかすりもしなかった。
偶然かあるいはまだ視野に入っていたのだろうか、いやそんなもので避けられる様な攻撃ではなかったはずだ。土方は一旦『夜叉』から間合いを取った。
(一体どうなってるんだ……たかが数カ月程度でこんなに変わるもんなのか……)
冷静な分析、適切な判断をする事が出来なかった。まる喉の奥に何か突っかかっている様な、そんな気がしてならない。
「あはっ!」
『夜叉』はそう狂気に満ちた笑みを浮かべると、体勢を低くして土方へと向かって走る。左下から右上にかけての斬撃、土方はそれを後ろに下がって避ける。
「うりゃああああああ!」
そして一気に間合いを詰めて、村正を振り下ろす暇を与えない。
本来ならば彼女の死角を狙うべきなのだが、右側を狙うと村正で防がれてしまう。
(だまし討ちならば!)
あえて左側を狙う。彼女の回避能力ならばこれ位たやすく避けるだろう、しかしそこで更に踏み込んで、今度は死角である右側を狙った追撃をかける。
だからこの一撃を本気の一撃と思わせる必要があった。
土方は、左肩へと向けて突きを放った。
「――っ!」
『夜叉』はその攻撃に気が付いて、すぐさま回避行動に移った――。
しかし、兼定の切っ先が『夜叉』の左肩をかすった。
(なっ――)
驚愕だった。
これは避けられる事を想定して放った攻撃だ、それが当たるなど、想定外の更に外だ。
回避しなかったので、これでは死角への攻撃が出来ない。
「――ああっ!」
『夜叉』は村正を振り下ろした。土方はそれを避けて再び間合いを取った。
(くそう、何なんだこの違和感は……)
まさか力と引き換えにあの驚異的な回避能力が激減したと言うのだろうか、そうなると視力が低下したと言う事になるのだが、彼女の視野は前よりも広がっている。
全く訳が分からない、なぜそんな事になったのか現象に説明がつかない。
『夜叉』は左肩の傷を右手で押さえていた。
「…………ふっ」
薄っすら笑みを浮かべると、土方に向けて村正を構えた。
そして体勢を出来るだけ低くしながら、『夜叉』は土方へと襲い掛って来た。
(――――まさか)
土方はある事を思いながらも、村正の切っ先を兼定で受け止めた。
双方の力はほぼ互角、二つの刃がギチギチと噛み合っている。
(――まさか、そんな事が)
土方は無理矢理振り払うと、そのまま右側に兼定を振り下ろした。
「――っ!」
切っ先が白髪を数本切り裂いた。
『夜叉』は距離を取ろうとしたのだが、その時にはもう、土方は左側に居た。
そして上から下へと兼定を振り下ろす。
『夜叉』はその攻撃を後ろに飛んで避けるのだが、動作が大きく飛びすぎてしまった。
「うおりゃあああっ!」
土方は即座に間合いを詰めて、今度は『夜叉』の死角である右側へと行く。
そしてその胴を切り裂く為に、兼定を振るう。
「――っ」
すぐさま兼定を村正で受け止めようとするが、その構えには何の力も入っておらず、兼定に押し負けて、左手ごと後方へ大きく弾き飛ばされる。
「あああああああああああああっ」
そして無防備になったその体に向けて、止めの一撃を入れる為に兼定を振り下ろした。
「――――っ!」
しかし、止めの一撃は『夜叉』をかすりもしなかった。
何もないただの空を斬っている。
殺される事を覚悟していたので、この行動に困惑し、本当の一撃に気付けなかった――。
「おめぇ、何者だ!」
土方は左の拳を握り、それを後ろに引いていた。
『夜叉』がそれに気が付いた頃には、なにかも遅かった。
「その面みせやがれぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
土方の拳が、『夜叉』の右頬に直撃した。
すさまじい衝撃で脳が揺れて、仮面が吹っ飛んだ。
それでも『夜叉』は吹っ飛ぶ様な事はなく、衝撃で何歩か後ろに下がる程度だった。
「…………」
大きく吹っ飛んだ仮面が、大地に落ちた。
乱れた白髪が隠していたその隙間から、ようやくその人物の顔が垣間見えた。
「…………っ!」
土方はそれを見て、歯をガチガチと鳴らして怒りを露わにした。
あらぬ限りの怒りを込めながら、睨みつけた。
「なんでてめぇがここに居やがる!」
そしてその名を叫んだ――。
「龍久ぁぁぁぁぁぁ!」




