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雪華散りゆき夜叉となりて…  作者: フランスパン
第四部 決戦編
56/74

五三話 一番大切な物


 真っ暗な部屋に、一人の男が居た。

 紫の水干を着た陰陽師、玉藻である。

(うん……誰かが屋敷の仕掛けを使ったな)

 陽元は転送の術式を使う事はない、余計に迷うだけだ。そうなると何者かがこの屋敷に侵入したと考えるのが妥当だ。

「……となると、あの法師か……」

 奇襲を仕掛けて来たという事だ。だが、転送の術式は三つ使われている、複数で攻めて来たという事は、おそらく残りの面子は――。

「なるほど、愚か者をたぶらかしたか……ちょうどいい機会だ、土方を殺そう」

 そう言って気味の悪い笑顔を浮かべると、立ち上がった。

「…………うん?」

 しかし突然首を傾げて、門がある方向を見つめた。

「……誰だ、まだ侵入者が居る」

 葛葉らしき侵入者達は『呪』が掛っているのか居場所が分からないが、こちらは屋敷内のどこにいるか分かる。

 試しに屋敷中に施してある、監視用の術を発動させてみる。

「……ふふっ、これはこれは」

 玉藻の頭の中に侵入者の姿が鮮明に映し出される。その人物を確認してほくそ笑んだ。

「……どうやら、ようやく運が回って来た様だ」



***



 龍久は二四畳はあろうかという部屋で、一人立ち尽くしていた。

 確か、葛葉が前に居て隣には土方と斎藤が居たはずだ、それなのに今は一人で、先ほどとは違う場所に居る。

「……あれ? くっ葛葉あ~、土方さ~ん、斎藤さ~ん…………いない」

 名前を呼ぶが返事がない。誰もいないので当たり前なのだが、龍久にとってこの状況は当たり前ではない。一瞬の内に別の場所に行ってしまうなど、なんと面妖な事だろう。

(これは玉藻の罠なのか! くそう、どうする他の皆はどこに居るんだぁ……)

 ひとまず落ち着こうとした。ここで焦れば玉藻の思う壺だ、とにかく冷静になる。

 周囲は暗いが、あちこちに明かりがあって暗い訳ではない。部屋の四隅や天井の方に闇があり、どことなく薄気味が悪い。

「とにかく、葛葉に合流しないと……」

 玉藻を倒すには葛葉の力が必要になる、自分があいつに勝てる見込みは無いので、第一の目的は他の面子との合流だった。

 龍久が当てもなく歩き出すと、背後に生き物の気配を感じた。

「誰だ!」

 明かりの届かない暗闇から、よたよたと何かが近づいてくる。その恐ろしさから自然と右手が刀へと伸びる。

 生唾を飲み込んだ時、暗闇の中からそいつは現れた。

 大きさが龍久よりも二尺は大きい『鬼』。肌が紫で頭部には大きな一つ目と、耳まで裂け、鋭い牙が生えていて、龍久の肉など簡単に食いちぎれそうだった。

「くそっ、化物が!」

 龍久は腰の刀を引き抜くと、それを見た『鬼』はほとんど同時に襲い掛って来た。

 大きな手には長さが五寸はある鋭い爪、それで切り裂こうとしているのか腕を振り上げていた。

 龍久は体を低くしながら、右足を右に踏み切った。『鬼』の爪は龍久が居た床に突き刺さる。身動きが取れない『鬼』に向けて抱き込まれる様に鋭い突きを放った。


 刃が『鬼』の胸を突き破った。


 刃をそのまま右へ振り抜き、胸と脇腹を切り裂いた。

 そのまま『鬼』から距離を取った、今の一撃が本当に利いて居るのか不安だったからだ。

「あっ……」

 『鬼』は断末魔の様な悲鳴を上げると、そのまま崩れて、砂の様な灰の様な物になった。

 始めて『鬼』を殺した。あれほど倒せなかった『鬼』が、龍久の刀で斬り殺せた。葛葉の術は確かな物だった。

「やった……やったぞ」

 これで少しは玉藻に対抗する事が出来る。小さな希望が出て来た。

 これなら立ち向かえる、龍久に自信が出て来た。

(玉藻を倒すんだ……これなら俺にだって戦える)

 目的を果たすため、とにかくこの部屋から移動しようと足を踏み出した時だった。

 右側の通路から、何かがやって来た。全くの闇の中からまず見えたのは巨大な右足。次に見えたのは左足、足だけで龍久の身の丈ほどある。

 赤い肌と額に生えた二本の角、まるで巨木の様な両の腕――。


 それは大きさが三丈ほどある巨大な『鬼』だった。


 まるで大岩を相手にしている様な威圧感。

 龍久はつい先ほどまで抱いていた自信を再び失ってしまった。

「なっなっあああ」

 首が痛くなるほど見上げる。その太い足に踏みつぶされてしまえば、臓物という臓物が穴という穴から出て来るだろう。

「なんで、さっきの奴と全く違うだろうが!」

 いきなりの格の違いに戸惑いながらも、龍久は刀を構えた。しかし相手は三丈もある巨体、『鬼』が一歩踏み出しただけで、部屋全体が揺れる。

「うっうわああっ」

 地震の様な揺れを感じながら、龍久は左へと逃げた。間合いが足りないと判断したのだ。

 逃げ回るだけではどうしようもない。だが今この『鬼』に対する有効な戦闘方法が思いつかない、ここはとにかく間を取る事にした。

 しかしどんなに走っても、龍久と相手の一歩は違う。龍久がいくら走っても、たった一歩で『鬼』は追いついてきて、あっという間に壁際へと追いやられてしまった。

(どうする……どうすればいいんだ)

 こういう時に、ぽんと良い案が浮かばないのが龍久の悪い所である。

 『鬼』は、龍久をぺちゃんこに潰す為に、その大きな手を振り上げた。一向に考えても良い案が浮かばない龍久には、成す術がなかった。

 龍久は刀を向ける。彼からすれば刀だが、『鬼』にすればそれは包丁の様な物だろう。

 一か八かとびかかろうとした時だった――。


「龍久、足を狙え!」


 言葉は即座に脳へと伝わり、体が動いた。

 すぐさま右足目掛けて走り出した、そして刀を振るった。

 あまりの太さと堅さで、刀は足の三分の一程度しか切り裂けなかった。そのまま股を潜り抜け、鬼の背面へと逃げる事は出来た。

 それと同時に、先ほどの声の主が分かった。

「斎藤さん!」

 抜身の刀を持った斎藤が立って居た。すぐさま龍久の隣へとやって来て構えた。

「偶然お前の悲鳴が聞こえたのでな……、間に合ってよかった」

「でもあんな化物、どうするんですか!」

「だからこそお前の力が要る……二人であれを倒すぞ」

 新選組の中でも三本の指に当てはまる斎藤に、その様な事を言われるなど、むずがゆくて仕方がない。刀を握る手にも力が入ると言う物。

「足を狙って、身動きを取れなくする……体勢を崩したらそこで止めを刺すぞ」

「はい!」

 龍久は斎藤の後に続いて、『鬼』へ向かって走る。『鬼』も迫り来る二つの影に気が付き、その大きな腕を振り上げた。

「龍久、お前は右足をやれ!」

 斎藤は左へ、龍久は右足へと駆ける、同時に九〇度、直角に曲がった。

 そして巨大な手は、斎藤と龍久が居た場所に叩き付けられた。すさまじい振動が二人を襲うが、それでも足に向けて走り抜けた。

「はあああっ!」

 右足へとやって来た龍久は踵へと回り込んだ。

(足の腱を断つ!)

 どんな生物とて腱を斬ってしまえば立つ事は出来ない。『鬼』を生物と呼んでいいのかは分からないが、胸を刺して死ぬならば体の造りは変わらないはず。

「だああああ!」

 龍久は思い切り力を振り絞って、足の腱を切り裂いた。すると『鬼』は右側へと大きく崩れた。

 それを待って居たかの様に、斎藤はその巨大な膝に飛び上り、肘を伝って肩へと昇って行く。狙いは『鬼』の首である。

「はあああああああっ!」

 斎藤は刀を、首ただ一点に向けて狙いを定め、刀を振るった――。

 しかし『鬼』は斎藤が乗っている肩を突然下げた。元々肩と言う不安定な場所に居て、しかもそこを刀を振りかぶりながら走っていたので、斎藤は大きく体制を崩した。

「斎藤さん!」

「はっ――――」

 龍久が名前を呼んで、斎藤が声を上げたその時だった――。


 斎藤に向けて、『鬼』の平手打ちが激突した。


 『鬼』にとっては平手打ちだが、人間にとっては違う。

 部屋の端の壁にものすごい速さで打ち付けられた、目で追う事も出来ないほどで、龍久は一瞬見失った。

「あっあっあああ」

 木の壁の一部が崩壊している。埃が煙幕の様に飛散してその衝撃の酷さを物語っていた。

 その煙の合間から、血まみれの斎藤の腕が見えた。

「そっ……そんな……斎藤さんが……」

 斎藤の腕はピクリとも動かない。龍久の全身の血が、全て流れ出て背筋が凍り様だった。

 脳裏に平助と山崎の死んだ時の映像と、沖田と原田の顔が浮かぶ。

 それと同時に、龍久の奥底から煮えたぎる様な憎悪と後悔が湧き上がった。

 そして、目の前に居る『鬼』に向かって、刀を構えた。

「よくもおおおおおおおおおおおおっっ!」


***


 龍久達が出て行った頃に、時間は遡る。

 菊水は一人、縁側で庭を眺めていた。

「皆……大丈夫かなぁ」

 動けない自分に出来る事などないと分かっていても、彼らと共に行きたかった。

 もしかしたら誰か大怪我をしているかもしれない、あるいはもう死んでしまったかもしれないと思うと、居ても立っても居られない。

 そんな彼を心配して、もう真夜中だと言うのにシマリスと野鼠達がすり寄って来た。

「ありがとう、心配してくれるんだね」

 彼らを優しく撫でながら、菊水はふと空を見た。暗闇の空間にぽっかりと、青白い穴を空ける月の姿があった。

 周囲には月の光以外の色がない様に思えたが、森の中に白い点が見えた。

 始めは見間違いかと思ったが、目を凝らしてよく見てみると、それは点などではない。

 それは短い白髪と、まるで異人の様な白皙――。


 木に登り、こちらを覗く雪だった。

 

「あっ!」

 菊水は思わず立ち上がった。

 森の中、月明かりに照らされて雪の白髪が目立たなければ、絶対に気が付かなかった。それほど遠くから、雪はこちらの様子を伺っているのだ。

「……あっ、ああ……」

 声を掛けなければ、『呪』を解かなければ『手当て』をしなければ。菊水の頭を色々な物が駆け巡る。しかし言葉は出なかった。

 雪は木から飛び降りてしまい、見えなくなった。

 どうすればいいのか分からず、混乱する菊水の耳に、馬の嘶きが聞こえた。

 馬でどこかへと行こうとしている、ここではないどこかへ――。

雪の狙いはただ一つだ。

「まさか……土方君の所に」

 もしも雪が土方を殺してしまえば、彼女は『夜叉』となってしまう。そうなってしまえば菊水の『手当て』で『呪』を解くことは出来ない。

「だっ、誰かぁ! 誰か来て!」

 菊水は立ち上がった、たどたどしい足取りで庭へと降りて、必死に呼びかけた。

 すると、馬小屋から会津藩の馬が走って来る。

「駄目だよぉ、あんな風になっちゃ駄目だ……駄目なんだ!」

 菊水は馬を駆る。必死に雪を追いかけた。

 すでに屋敷から出てはいけないと言う葛葉の言葉など、頭にはなかった。今は実の娘の『呪』を解く事で頭がいっぱいだった。

 そして全ての決意して、凛とした表情で言い放った。

「あの子に絶対に言うんだ!」

 


 龍久は刀を構え、巨大な『鬼』を睨みつけていた。

 大きさはおよそ三丈、まるで巨木の様なそいつに一人立ち向かっていた。

「よくも、よくも斎藤さんをぉぉぉぉ!」

 湧き上がる憎悪で冷静さを失い、龍久は『鬼』に向かって斬りかかった。

 しかし『鬼』に比べれば龍久など、野鼠の様に小さい。片足を封じたと言えども、その巨大な体躯は健在で、大きな右手を振り下ろした。

「ちぃぃっ!」

 龍久はそれを掻い潜り、太い指に向けて刀を振るった。

 人差指の第一関節が切断されて、床に落ちた。指が切断されたと言うのに血が一滴も出ない。どうやらこの『鬼』には血液と言う物が存在しないらしい。

 しかし痛みはある様で、野太い悲鳴を上げて苦しんだ。

「殺してやる、殺してやるぅ!」

 それでも龍久の怒りは治まらない。再び『鬼』に向けて斬りかかろうとするのだが、『鬼』は拳を振り上げ、先ほどよりずっと速くそれを振り下ろした。

 龍久はそれを避けきれず、余波を喰らってしまった。

「うっうがああっ!」

 衝撃だけで体が吹き飛び、床に叩き付けられ、体が跳ねた。

 全身を激痛が襲う、意識が飛びそうなくらい痛いが、それでも立ち上がろうとする。

「負けてたまるもんかぁ……、これ以上俺の大切な物を壊させるもんかぁ……」

 目の前で誰かが傷ついたり死んだりするのは、もう嫌だった。

 新選組も雪もこれ以上壊れて欲しくない、どちらも救いたい。その為ならばこのままこの『鬼』と相打ちになっても構わない。

龍久はふらつく体でどうにか立ち上がった。

「うあああああああああっ!」

 怒りのあまり冷静さを欠いた龍久は、刀を振り上げながら、持てる力を全て振り絞って、『鬼』に向かって走り出した――。

「やめろ!」

 『鬼』でも龍久の物でもないその声は、部屋中に響き渡った。

 龍久は声がした方向、すなわち後方を見た。

「怒りに我を忘れるな……龍久」

 

 それは、斎藤だった。


 頭から血を流しているが、間違えなく生きてそこに存在している。

 壁の瓦礫から這い出てくると、抜身の刀を握りしめながらこちらに歩いて来た。

「さっ……斎藤さん、どうして」

 人間が生きていられる様な衝撃ではなかったはずだ。だが、斎藤は涼しげな顔で、龍久の隣まで歩いて来た。

「どうやら……この『護符』の効果は本当の様だ」

 そう言って斎藤は、葛葉がくれた『護符』を懐から取り出した。しかし木製の札にはひびが入り、今にも折れてしまいそうだった。

「気休め程度と言う割には、かなり効果があった……どうやら葛葉殿の術は強力なのだな」

「斎藤さぁん……良かった、生きててくれて本当に良かった」

 今にも泣きそうな表情をする龍久を見て、斎藤は小さく笑った。

「……龍久、お前は我を忘れてとんでもない事をしでかす悪い癖がある、そこは直した方がいいぞ」

「えっ……はっはい」

 今そんな事言わなくても、と心の中で思いながら龍久は頷いた。

 だがそんな二人の会話をただ黙って聞いて居る様な『鬼』ではなく、凄まじい音量の叫び声を上げた。

「斎藤さんどうします、どうやってあいつを倒しますか……」

 真剣に『鬼』に向き合う龍久、しかし斎藤はまるで『鬼』の存在など見えていないかの様に、酷く落ち着いていた。

「……龍久、お前は土方局長から言われた言葉を覚えているか?」

「さっ斎藤さん、今はそんな事言ってる場合じゃないですよ!」

 『鬼』が目の前に居るのに、のんきに話などしている場合ではない。

「お前は色々と背負いすぎだという事だ、俺の事を心配してくれたのは嬉しいが……お前はもっと守るべきものがあるんじゃないのか?」

「そんな、何言ってるんですか……」

「局長の言った通り、あまり背負いすぎると潰れてしまうぞ」

 そんな事言われても、龍久にとって新選組の事も仲間の事も雪の事も、全部大切な事だ。どんな重みでも背負ってこそが武士と言う物だ。

「……龍久、人には限界がある、どんなに守りたいと思っても出来る事と出来ない事があるんだ、このままでは、お前は出来るはずの事を自分で無下にしてしまう、だから龍久……お前は少し、その背中に背負っている物を降ろすんだ」

「そんなの……無理ですよ」

 龍久には、今この背中に背負っている物すべてが大切な物だ。それを降ろす事など出来るはずがなかった。

 視線を逸らす龍久を見つめながら、斎藤は静かに口を開いた。

「俺は決めたぞ、この背中に背負う一番大切な物を」

 そういう斎藤の表情はどこか力強く、清々しい物だった。

「天満屋の時に葛葉殿に言われた事……俺はずっと考えていた、俺の意思で行動すると言う事を……俺が何を背負うかを考えると言う事を……そして選んだ」

「……斎藤さん、一体何を選んだんですか」

 それを問うのは、正直怖かった。斎藤が何を選び、何を背負うのかを知るのが怖かった。それでも龍久は聞かずにはいられなかった。

 斎藤は不安そうに見つめる龍久に向かって、こう言い放った。


「俺は、新選組を離隊する」


 それは一番聞きたくない言葉だった。

 また一人仲間が居なくなってしまう、見知った人間が減っていくのはあまりにも寂しい。

「そんな、何でですか! 斎藤さんはずっと、土方さんといっしょに新選組を支えて来たじゃないですか! それなのに……それなのに今更……」

「そうだ……俺はずっと新選組の為になればと思っていた、だがこの新選組がこうして存在出来たのは、会津藩が俺達を庇護して、京都守護と言う大任の一角を任せてくれたからだ……だが土方局長は次の戦で負ければ会津を見捨てて、次の戦地へ行くだろう」

「それは、近藤さんから任されたこの新選組の為に……」

 土方が何より優先しているのは、近藤から託されたこの新選組だ。何にも代えがたい存在から託された物を、会津藩より優先してしまうのは仕方がない事だ。

 しかし、斎藤はそれを良しとは思えなかったのだ。

「分かっているさ、あの人にとってこの新選組と言う物が、ただの組織として斬り捨てる様な物ではない事は……、でも俺には会津への大恩を忘れ、見捨てる事は出来ない」

「…………斎藤さん」

 斎藤が生半可な覚悟でそのような事を口にする人ではない事は、龍久はよく知っている。自分よりもあらゆる事を考えて、その結論に落ち着いたのだろう。

 こんな何も選べずにいる自分とは違って――。

「それに、俺の背中よりも局長の背中の方がずっと広い……新選組に俺が背負う分の荷物なんてないさ」

 そう斎藤は小さく微笑んだ。しかしその笑みはほんの少しだけ悲しそうに見えた。

「だからお前も決めるんだ、その背中に背負う物を!」

 そして刀を振るいながら、斎藤は『鬼』に向かって行った。

 足を断たれて動けない『鬼』。だがその広大な間合いは変わらない、腕一本でも人間を潰すなど造作のない事だろう。

 『鬼』はその大きな手を斎藤に向かって振るう。

「――っ!」

 斎藤は左足に力を込めて、右に向かって跳んだ。巨大な『鬼』の手は誰もいない空間に叩き落とされた。

「ふんっ!」

 斎藤は手首に向かって刀を振るうが、分厚い筋肉が邪魔をして肉を少し斬っただけだった。『鬼』は斎藤を振り払う為に、空いている左手を振り下ろした。

「くっ!」

 後ろに飛び跳ねて斎藤はそれを避ける。圧倒的な巨体相手に苦戦を強いられていた。

 斎藤はひとまず間合いを取った。

「四肢を断てれば……急所を狙える……」

 ただ急所だけ狙えば平手打ちを喰らうだけだ、その為には四肢を断ち、動きを奪う。

 だが足を狙いたくとも、あの巨大な手を振り下ろされてしまうと近づき様がない。

 斎藤はあまりにも不利だった。

(こうなれば、『アレ』をやるか……)

 一か八か賭けてみようと、斎藤は刀を鞘に納めようとした時だった、龍久が隣へとやって来た。

「……斎藤さん」

「龍久……決まったのか?」

「……まだ、です」

 斎藤にそう尋ねられたが、龍久は首を横に振って答えた。

 選ばなければならない事は分かっているのだが、どれも大切すぎて選ぶ事が出来ない。

「俺はまだ納得なんて出来ない……新選組も雪も、どちらか一つを諦めなきゃいけないなんて……だからもっと考えます、俺は斎藤さんの様に頭が良い訳じゃないから、簡単には選べないんですよ」

「……俺だって、簡単じゃなかったさ」

 二人は目の前の『鬼』を見つめる。相変わらずの巨大なそれが二人を見下ろす。

「だから、この『鬼』をぶっ倒してから、ゆっくり考えますよ……」

「…………ああ、そうするとしよう」

 二人を威嚇する様に、『鬼』は咆哮する。ただの咆哮なのだが、空気が振動して部屋中が揺れる。

 しかし二人は臆する事無く、『鬼』に向かって走り出した。

「龍久! 動きを奪うぞ!」

「はいっ!」

 斎藤が先導してその後に龍久が続く。『鬼』はそんな二人に向けて右手を振り下ろす。

 二人は左右に分かれてそれを回避すると、斎藤がその腕に飛び乗って肩へと向かって駆け抜け、急所を狙う。『鬼』はそれを阻止する為に左手で叩き落とそうとする。

「どっりゃああああっ!」

 その間に左足へと回り込んだ龍久が、足の腱を斬った。

 両方の足の腱を断たれて、『鬼』は左側へと大きく傾いた。斎藤に向かって放たれた左手は空を掠めてかすりもしなかった。

 だが『鬼』とてそうやすやすと急所を狙わせてはくれない、斎藤の乗った右腕を振り回し、彼を振り落とそうとする。

「ちぃぃ!」

 斎藤は腕を数か所切り裂いて、そのまま床へ飛び降りた。

「こっちだうすのろぉ!」

 龍久は『鬼』の左側へと行くと、大声を出して注意を引く。

 『鬼』は龍久の存在を認識すると、右手を振るおうとする――しかし腕が動かない。斎藤が腕を筋肉を断ち、腕が動かないのだ。

 残るは左腕ただ一つ。ここを潰せば『鬼』の四肢は完全に潰す事が出来る。

「うっうわわっと!」

 しかし幾ら両足と片手を封じているとは言えども、そこは巨大な『鬼』。残った左手で拳を握り、龍久に向けて振り落として来た。

 龍久はかろうじてそれを避けるが、振動がすさまじくとても斬りかかれる状態ではない。

「こっちだ! 木偶の坊!」

 『鬼』の目の前に、斎藤が立って居た。なぜか刀を鞘に納めて構えている。

「いい加減お前の顔も見飽きた、これで終いにしよう」

 居合だと、龍久にも分かった。しかし、彼が今まで居合をするところを龍久は見ていないし、あの巨体相手に居合など、あまりにも無謀すぎる。

 『鬼』は斎藤を認識すると、彼の挑戦を受ける様に左手の拳を振う。

「斎藤さん!」

 龍久が叫んだその時、『鬼』の拳は斎藤の目の前へと迫っていた。後一秒もしない内に斎藤はその巨大な拳に吹き飛ばされるであろう、正にその時だった――。

「ふうっ」

 斎藤が、あまりにも自然に息を吐いた。

 今まさに自分が死ぬかもしれないそんな状態の時に――、斎藤は息を吐いた。

 そこからは龍久には何が起こっているのか分からなかった。

 斎藤がその拳を切断した。

 手首から斬り離された拳が床に落ちるその前に思い切り踏み、斎藤は『鬼』の首元目掛けて飛んでいた――。


 その次の瞬間には、斎藤の刀が『鬼』の首を斬り裂いた。


 ぱっくりと、一文字に斬られた首。

 何もかもが平然と行われて、龍久の頭はそれを受け止める事が出来なかった。

 決して目で追えないほどの速さで行われた訳ではない。龍久は斎藤がした事を、全て認識出来た。

 ただ斎藤が、当たり前の様に平然とそれをやってのけただけだった。



 斎藤の強さと言うのは、雪の様な素早さでも、新八の様な力でも、土方の様な頭脳でもない。

 強いて言うなれば、『極限の集中』だった。

 確かに斎藤は普通に戦っても、十二分に強い剣技を身に着けている。だが彼が何よりも他より優れているのは、ある一定の状況で繰り出される『集中力』。

 一時的に脳の処理能力が上がり、敵の動き、自分の動き、空間の把握、そして相手の呼吸さえも分かる。

 まるで自分以外の全ての時間が止まった様に、何もかもがゆっくりに見える。余計な事を何一つ考えず、戦いだけに集中したこの状態に、斎藤は移行できるのだ。

 思考も恐ろしいほど冴え渡り穏やかだ。とくに高ぶっている訳でもなく低い訳でもない、人はそういう時に恐ろしいほど身体を動かす事が出来る。

 『極限の集中』に移行すると、意識と体は完全に一つとなり、『最高の力』すなわち当人の持つ力を十二分に発揮できるのだ。

 しかしこの『極限の集中』を発揮するには、日々の鍛練と並々ならぬ努力、そして何よりも必要なのが、不安の要因である余計な事を考えず、余計な言葉を発しない事だ。

 まさに寡黙な斎藤にこそ宿った、能力である。



 斎藤が床に降り立って、龍久の方へと近づくと、『鬼』は崩れてゆき、砂の様な灰の様な物となった。そして波の様に斎藤の足元へと流れて、更に龍久の足元にまでやって来た。

「さっ斎藤さん……、いっ今のどうやったんですか……」

 龍久は、こちらに歩いてくる斎藤にそう尋ねたのだが――。

「くははっ、楽しいな龍久」

 斎藤がいつになく、楽しそうに微笑んでいた。瞬間龍久は鳥肌がたった。

 『極限の集中力』を発揮する時、斎藤の気分と言うのは絶好調になる。上がりすぎず下がりすぎず、ちょうどいい。それはワクワクとした高揚感となる。

 それ故にこの状態の前後の斎藤は、ものすごくいい気分になっているのだ。しかしそれを知らない龍久にとっては、これは恐怖以外の何物でもない。

「さあ行くぞ龍久! 急いで局長と葛葉殿に合流しなければな! あはははっ」

 何時に無くご機嫌な斎藤は次の部屋へ向かう、龍久はそれに引きながらもつい先ほど言われた事を思いだしていた。

「一番大切な物を……決める」

 龍久はそう寂しそうに呟いた。頭では理解できるが、納得は出来なかった。

 一つしか選べないなんて、納得できる訳がなかった。

「……一番、大切な物」



***



 土方は一人渡り廊下を歩いていた。

 壁はなく、月明かりに照らされた湖が良く見える。こんな建物を湖に建てるなど、本当に陰陽師の技術と言うのはすごいらしい。

「にしても龍久と斎藤は無事か……まぁ斎藤は大丈夫だろうが龍久はなぁ……あの葛はどうでもいいが……」

 仲間の身を案じながら、屋敷の中を歩いていた。当てがある訳ではない、ただ歩いているだけだ。こうも途方もなく広いと、他に探しようがなかった。

(だがここはあの陰陽師の屋敷だ、あいつに当たるとかなり不利になるな)

 玉藻に対抗できるのは、おそらく同じ陰陽師である葛葉だけだ。そうなると他の三人との合流が最も優先される。

 土方が適当に歩いて行くと、二四畳はあろうかという部屋に出た。全面床張りで、四方には隣の部屋へと続く通路がある。

「……まぁ迷ったら右と言うしな」

 とりあえず、右の通路に行く事に決めた。しかし土方が右の通路に進んだ時だった、部屋の真ん中辺りで壁にぶつかった。

 その時土方は自分の眼を疑った――。

「なっなんだこいつは……」

 土方の目の前には、もう一人土方が居た。急いで兼定を引き抜くと、その土方も腰の兼定を引き抜き、自分と全く同じ様に構える。

「……こいつはぁ」

 土方が兼定を降ろして、もう一人の自分に手を伸ばすと、そいつも同じ様に手を伸ばした。しかし、指と指が触れあう前に、壁に突き当たった。

「鏡……なのか?」

 こんなに鮮明でこんなに大きな鏡は初めて見た。ここは元々二四畳ではなく一二畳のほどの部屋なのだ。この鏡によってもっと広いと錯覚していたのだ。

「たく、何の為に壁に鏡なんて敷き詰めてんだ」

 こんな姿見の何一〇倍もある鏡を作るのはすごい事だが、その用途の意味が分からない。

(ああ道場にあれば、てめぇの姿を確認するのに便利だったなぁ)

 そう一瞬思ったが、もうその道場もない。そんな事を考える暇などない事を思い出して、今度は左の道へ進もうとするのだが、そこから何か動く影が出て来た。

 それは土方と同じぐらいの身の丈の『鬼』だった。青い皮膚に角が二本額から生えているが、今更奴らを見ても土方は特に驚いたり怖がったりはしなかった。

「ふん、『鬼』さんこちら……かぁ?」

 土方は兼定を『鬼』へと向けた――その時だった。


 『鬼』の首が床に落ちた。


 一瞬の事だった。

悲鳴を上げる事もなく、首は落ちて行った。

 そして体が砂の様な灰の様な物になって崩れる落ちた時、それは現れた。

 真っ白い絹糸の様な髪、何の穢れもない様な白い肌。

 そんな白さを覆い隠す様な、宵闇色の西洋の服。そして顔を覆う西洋の仮面。

 異質と言うしかないその存在が、現れた。


 それは白髪白皙の『夜叉』――雪である。


 雪は元『鬼』であった物を踏みつけて、一歩土方に向けて歩いた時だ。

 通路から一陣の風が吹いた。それは『鬼』であった物を巻き上げていった。

 その光景はまるで、雪の華が散華している様だった――。

「…………来たか」

 いつか来るであろうそう感じていたが、まさかそれがこんな所だとは思わなかった。

 鳥羽伏見からずっと、土方と言う『鬼』を追って来た『夜叉』。

 それが今、再びこうして現れた。

 なんとなく分かった、これが最後である。

ここで決着がつくと、土方はそう直感していた。 

雪は、土方を見ると至極楽しそうな笑みを浮かべた。

まるでずっと恋焦がれていた恋人に、ようやく会えた様な嬉しそうな笑みを――。



「みぃつけたぁ」


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