四六話 友との再会
五月一五日 上野。
この日は、朝から冷たい雨が降っていた。
体の奥にまで染み込んできそうな、冷たい雨だった。
「はあっはあ……」
「うっ……ううっ」
こんな雨の中傘も差さず二人の男が歩いていた。より正確に言えば、泥と血で汚れた男が、同じ様に汚れた男に肩を貸して歩いていた。
「すまない……藤田君」
「なあに大丈夫ですよ、おじさん」
担がれているのは龍久の父、担いでいるのは藤田だった。
「いや、私が足を怪我しなければこんな……」
そう言って自分の左足を睨みつける。足が変な方向に曲がり、骨折しているのは見るだけでわかるほどだ、一応の手当てはしたが、到底一人で歩ける状態ではなかった。
「良いんです、それより……今は逃げる事だけに集中しましょう」
藤田はふと空を見上げた。雨粒が頬を伝って流れ落ちて行くのが、無性に腹立たしい。
(……あの男、大丈夫だろうか)
この日、上野寛永寺にて新政府軍と『彰義隊』による戦が起こった。
新政府軍を率いるは長州藩の大村益次郎。彼は武力殲滅を主張し、上野を完全に封鎖する為に、神田川、隅田川、中山道、日光街道を分断した。
更に自軍を三方に展開、更に佐賀藩のアームストロング砲などの火器も用いた。
新政府軍は一万、『彰義隊』は四〇〇〇とされたが、開戦時に集まったのは一〇〇〇人足らずと言う、圧倒的に新政府軍の有利だった。
一四日に新政府軍が、『彰義隊』に武装解除を布告。しかし『彰義隊』はこれに強く反発、同一四日大村の指揮により武力討伐に決した。翌一五日、新政府軍側の開戦布告により、上野寛永寺にて戦が始まった。
新政府軍の圧勝かと思いきや、新式の銃に戸惑うなどの予期せぬ事態が起こり、当初は『彰義隊』側が優勢だった。
しかし正午を過ぎた頃、新政府軍は佐賀藩のアームストロング砲による砲撃を始めた。砲弾は不忍池を超えて、藤田達へと降り注いだ。
「うわっ!」
すぐ横に着弾した弾丸に驚きながらも、藤田は辺りの様子を見渡した。
砲弾に恐れおののき、『彰義隊』の面々のほとんどが、我先にと逃げ出している。
所詮は旗本の次男三男、出世の道もなく、ただ何の気なしに生きていただけの者達が、この様な命の駆け引きの場で、己の身を賭けるような戦いをできるはずがなかった。
「この、意気地なしの馬鹿野郎どもが……」
この腹の底から湧き上がる苛立ち、なぜ命をかけて戦う事が出来ないのか、己が命を懸けて大義を彰かにする為に、ここに居るはずではなかったのかと怒鳴りたかったが、それが出来なかった。
苛立ちと一緒に虚しさまで湧き上がって来た。ここまでの戦力差を見せつけられては、藤田一人が戦ったとて、勝てる訳がなかった。
(俺は、俺は何の為に剣術を鍛え上げて来たのだ、今日この日の為ではなかったのか! 今日ここで勝つ為に、俺は強くなろうとしたのではないのか!)
戦は一人でやるものではない、藤田だって分かっている。
だから今、自分一人が立ち向かった所で敵を撃ち滅ぼす事など出来ない。だから、どうしようもない虚しさに襲われてしまった。
「龍久、お前もこんな……こんな気持ちになったのか……」
そうどこにいるとも知らぬ友を思い、降りしきる雨を見つめた。
「藤田君、無事か!」
「良かった、おじさんも無事だったんですね」
「奴らめぇ、大砲を使うなど……武士なら武士らしく、刀で戦え!」
拳を握り、怒りを露わにするが、藤田はそんな彼を見ても恐ろしく冷静で居られた。
「……もう、俺達の時代は終わったんですね」
「えっ、なんと言ったんだ藤た――――っ」
藤田のつぶやきを聞き取れなかった龍久の父が、そう聞き返したその時だった。
彼の言葉に被る様に、空を切り裂く音が聞こえた――。
その時、二人のすぐ横で大砲が炸裂した。
耐える事の出来ない衝撃が、二人を襲った。
藤田は、いともたやすく吹き飛ばされて、地面に数回叩き付けられた。
「くっ……いつっ」
全身をひどく打ち付けてしまった、痛みが体中を襲い、最早どこが痛いのか分からない。藤田はどうにか起き上がり、辺りの様子を見渡した。
だがその目に飛び込んできたのは、苦しそうに横たわる龍久の父の姿だった。
「おっおじさん! おじさん大丈夫ですか!」
「あっああ……、ふっ藤田君……うぐっ」
「おじさん、足が!」
足の骨が折れている、これでは到底戦う事など出来ない。
(どこか、どこか安全な場所におじさんを……)
だがこの寛永寺にそんな場所がある訳がない、何か方法がないかと模索するが、手負いの敵を新政府軍が放って置く訳はなく、背後から三人抜身の刀を振るって襲い掛かって来た。
「くそっ!」
急いで応戦しようと刀を抜くが、体の痛みのせいで反応が遅れた。
藤田が刀を引き抜く前に、敵の凶刃が振り下ろされた――。
しかし、政府兵が吹っ飛んだ。
何があったのか、瞬時に理解する事が出来なかった。
だが藤田の視界に、身の丈ほどの槍を持った男が立って居た。
「あっ、あんたは!」
「よっあんちゃん、生きてたな!」
数日前、龍久からの手紙を拾ってくれた、原田佐之助という男だった。ほとんどが我先にと逃げ出し、戦うどころではないこの状況で、彼は自分を助けてくれたのだ。この男は他の者とは違う、そう瞬時に認識した。
「ここは俺に任せな、その人連れてあんたは根岸の方に避難しろ」
「なっ、ふざけるな、この俺に逃げろと言うのか!」
「馬鹿野郎! こんな所で犬みてぇに死にてぇのか、そんなもん糞喰らえだ!」
原田は、唾を飛ばしながら怒鳴って来た。それほど怒っているのだろうが、何とも短気な奴だと藤田は思った。
「この戦こっちの負けは目に見えてる、そんなとこに命張るんじゃねぇ、もっと意味のある戦いに命を賭けな! あんちゃんの命は、こんな所で賭けるもんじゃねぇ!」
「しっしかし、俺だって――」
「ごたごた言ってねぇで、とっととそいつを連れて逃げろ! 手負いの野郎が居ても何も出来ねぇだろうがぁ!」
確かに彼の言っている事に違いはないのだが、彼一人に任せる訳にはいかない。
「あんたはどうするんだ、あんた一人でどうするんだ!」
「俺はおめぇらが逃げたら逃げるさ、殿は俺の専売特許! 誰にも譲らねぇっての!」
藤田はしばらく戸惑いながらも、今は彼の言うとおりにした方がいいと思えた。
「……すまない、この恩は何時か返す!」
「おうっ、美味い酒でも頼むぜ!」
藤田は龍久の父を担ぐと、この戦場を離れる為に走り出した。
そんな二人を穏やかな表情で見送りながら、原田は目の前の敵に向かい合う。
「俺の名は、原田佐之助! てめぇら全員かかってきやがれぇ!」
(あの男、大丈夫だろうか……)
かなりのやり手と思えるが、やはりあの場に彼一人残すのは、いけない事だったのかもしれない。
(根岸の方は随分と包囲が弱いな……やはりこれは逃げ道か?)
玉砕覚悟の特攻を警戒して、新政府軍はあえて根岸方面に包囲の穴を空けた。追い込まれた獣ほど恐ろしいものはない、彼らは戦いを理解していると藤田は思った。
(それに比べて、俺たちは……)
逃亡者は藤田以外にも居た。先ほどから数人、二人を追い抜いて逃げる『彰義隊』の面々が居た。皆どこかの旗本の次男三男、もしくは四男なのだろうと正直心のどこかであきれていた。
「……どうせ、俺たちはこんなもんか」
「藤田君?」
「いえ先を急ぎましょうおじさん、できるだけ遠くに逃げないと……、大丈夫此処は龍久達とよく『無い物買い』に来たので、道もよく知ってますから」
そう言って笑顔を作った。あの時は確か雪光が『人魚の干物』を買いに来たのだ。こんな状況だというのに、なぜかあの頃の事が、遠い日の情景となって浮かび上がって来た。
「……なんだ、あれは」
龍久の父がふと前を向いてそう言ったので、藤田もその方向に視線をやった。
家二軒ほど先に、人が立って居た。
染み一つない真っ白な髪と、同じぐらい真っ白な肌。そして異国の黒い服を身に纏い、同じく異国の物と思わしき仮面をつけていた。
それは、白髪白皙の剣士だった。
見るからに異人の様な風貌に、日本刀を手に持った剣士。何とも合わない組み合わせだが、藤田はその光景に目を奪われた。
雨に打たれて、その絹の様な白い髪が肌に張り付いているのに、それでも藤田はその剣士をただ純粋に美しいと思えた。
(小柄だ、まだ少年なのか?)
男にしては随分小柄でまだ少年の様に思えるが、佇まいは若くない、もっと修羅場を渡り歩いて来た様な、そんな覇気を感じた。
ただなんとなくどうするもなく、二人はその場に立って居た。いや、動けなかったのだ。よくわからないが、あの少年から発せられる物が普通ではないと、そう理解できたからだ。
「どっどけぇっ!」
どうやら戦いから逃げて来たと思える男が三人、藤田達を追い抜いて行った。
そして、少年の方へと駆けていく。左右が家の塀に囲まれて他に逃げ道がない、これでは目の前にいる少年を倒すしかない。
「そこをどけぇ!」
まず、一人目の男が抜身の刀を振るいながら少年目掛けて走っていく。
焦っているとはいえども、その太刀筋からそれなりのやり手だという事が、藤田には分かる。体格差から圧倒的に男が有利だと思われるこの状況だが、藤田にはなぜか、男が危険だと分かった。
「やめろ! 突っ込むなぁ」
藤田の言葉は男には聞こえない、男が振り上げた刀を振り下ろそうとしたその時であった――。
「……あはっ」
口の両端を持ち上げて、白髪の剣士は笑った。
それを藤田が認識したその時にはそれが起こっていた――。
少年は、男の斬撃を避けた。
半身を引くだけで、その太刀筋を避けた。
そして瞬きする暇もなく、刀を抜いたかと思えば次の瞬間には右肩から左の脇腹にかけてを切り裂かれていた。
「……ひっ左利き」
男が斬られたというのに、藤田はいたって冷静で少年が左利きだという事に驚いた。
「きゃはっ、あはははははっ!」
少年は何が楽しいのか、反り返るほどの大声で笑っていた。
その怪しさ気味悪さというのは、大の男でさえも恐れおののくほどだった。
「くすっあはっきゃははははっ…………はあ」
ひとしきり笑うと、突然笑う事を止めた。そして鋭い眼光をこちらに向けた。
「武士は、皆殺しだぁ」
殺気にまみれた鋭い視線、剣士は男の死体を飛び越えて走り出した。
「きっ貴様ぁ!」「うっうわあっ」
一人は刀を抜いて立ち向かい、もう一人は逃げようと背を向けた。
「きゃはっ、あはははっ!」
一人目の男の首を斬り落とすと、二人目の男の背中を真一文字に斬り裂いた。あまりに一瞬の事で、目で追うのがやっとだった。
「おじさん、すみません!」
「えっ、うおおっ」
藤田は龍久の父を突き飛ばすと、刀に手を掛ける。予想通り少年は止まらず、こちらに向かって疾走してくる。
「きゃはははっ、死ねぇ!」
(迅い――っ!)
思ったより足が速く、太刀筋に狂いがない。真っ直ぐに藤田の首を斬り落とそうとしている。刀を引き抜いて右から来たその斬撃を防いだ。
(だが、力は弱い!)
そのまま力任せに刀を振るって、吹っ飛ばした。だが少年は宙で一回転し体制を立て直して、地面に着地した。
「まるで猫だな……」
「あはっ……うふふふっ」
人を三人も殺したというのに、少年は楽しそうに嬉しそうに、笑っていた。
(……一体、何なんだこいつは!)
この少年が危険な事はすぐに分かった、長引けば長引くほどこちらが不利になるだろう、だとすれば、今ここで速攻に倒すしかない。
「きえええええいっ!」
踏み込みながら、小手調べに右から左にかけての真一文字の一撃を放つ、しかし予想した通り、少年はそれを後に下がる事で避けた。
(狙い通り! このまま一気に――っ)
少年はまだ体勢を立て直していない、今なら胴ががら空きだ。
藤田はこの五年、何もしてなかった訳ではない。得意な突き技をより強化するのと同時に、連続技の切り替えの速さをより磨いた。
例え敵が避けても、すぐに最速の突き技を繰り出せる様に鍛錬を積んだ。
この技を避けられる者など、もうこの世にはいない――。
藤田が勝利を確信した時だった。
少年の上半身が消えた。
突きの威力で上半身が消し飛んだ訳ではない、少年の体が大きく仰け反り、まるで大橋の様に綺麗な弧を描いていた。
藤田は知っている、この光景を見た事がある。
全く同じ様に自分の突き技を避けた人間を知っている。
この技を避けられるの人間は、彼が知る中でも一人しかいなかった――。
藤田は知っているはずだ、理解しているはずだ、その人が死んでしまった事を、それでもどうしても、この疑問をぶつけなければ気が済まなかった。
「お前……雪光か?」
***
この上野での戦、雪にとってはどうでもよいものであった。
鳥羽伏見の戦いに比べれば小規模な物、しかも一番の目的である土方は此処にはいない。
この戦、雪にとってはただの準備運動だった。
(怪我も治った、これならやれる)
雪は西郷や大村の眼をかいくぐり、一人江戸城から抜け出した。
雨が降っていたが、そんな事どうでも良かった。むしろ日の光の方が今の白い肌には毒だった。
「……上野か」
あの頃と何も変わっていなかった。自分はこの五年間で随分変わったと言うのに、ここは何一つ変わっていない。
「…………」
一歩また一歩と、あの頃歩いた道を進んで行く。
(――雪光さん、はよう)
ふとあの頃の大切な人が、自分を追い抜いて手招きをしている、もうこの世にはいない大切な友人。
「お時……」
あの頃の悲しみがふつふつと湧き上がって来た。
頭の奥の方で大きな鐘が鳴っていて、音が響いている。頭が割れるほど痛くて、その場で立って居るのがやっとだった。
「うっうう……うっううう、お時、お時ぃ」
いくら呼んでも友人が来る事はない、もっと先へと進んで行ってしまう、追いつけない、もっともっと先の方へと――。
「…………?」
頭の痛みをこらえながら、雪はふと前を向いた。
そこには男が二人、一人は若い男で自分と歳はさほど変わらないくらいだ、もう一人は初老の男で怪我をしているのか肩を借りていた。
(……あの男、強いな)
鳥羽伏見の時の雑魚兵とは明らかに違う、纏っている空気や物腰からかなりのやり手と見受けられる。
(新選組の奴らと同じかそれ以上に強いかもしれない……)
雪は特に仕掛ける事もせずに、考えていた。
幸運な事に若い男も仕掛ける様子はない。おそらく相手もこちらの実力を図りかねているのだろう。
ちょっとした運動のつもりで来たのだが、これは骨が折れるかもしれない。
「どっどけぇ!」
すると更に三人、男が逃げて来た。ものすごい慌てふためき様で見ただけでわかる、こいつらは雑魚だ。
(なんだ、いつもは男だとか武士だとか言っている癖に、こんな時にはこんなに見苦しく逃げるのか?)
その姿が五年前のあの日、お時斬り殺した浅葱裏と重なる――。
そして男は何ともおろそかな太刀筋で、斬りかかって来た。
(お時、今君を殺した奴らを――)
雪はこの時自然を笑みが毀れた、口の先っぽを吊り上げて笑った。
そして男の斬撃を避けながら、村正を引き抜き――振るった。
(――ぶち殺してやるからね)
脆く崩れ落ちる男。
お時を殺した『武士』が、また一人死んだ。世界が綺麗になった。そう思うと、自然と嬉しくなって来た――。
「きゃはっ、あはははははっ!」
ひとしきり笑うと、胸の中の空気を全て出した。そして目の前の男達を睨みつける。
「武士は、皆殺しだぁ」
地面を蹴り雑魚二匹に向けて振るう。一匹の首を落とし、もう一匹を斬り伏せた。
それを見た若い男の方が迎撃態勢をとった、手始めの一撃を放った。しかし男はそれを防ぐと、思い切り振り払った。
(こいつ、やっぱり強い!)
雪は宙で一回転して着地した。だが今ので分かったこの男は強い、少なくとも自分の速さについて来られるぐらいの実力を持っている。
「まるで猫だな……」
面白い事を言う男だ、思わず笑ってしまった。だが男の言葉だけではない、こんなに強い男は倒し甲斐があるというもの、土方を殺す前に、この男を殺して調子を整えておこう。
「きえええええいっ!」
今度は男が仕掛けて来た。左からの一撃。どうという事もないこれは簡単に避けられる。少し後方に下がった、とりあえず体制を整えて反撃をしようとその予備動作に入ろうとした時だった。
高速の突きが放たれた。
まだ男は刀を振り払っていたはずなのに、こんなに速く次の技を打てるなどありえない。
(はっ速い!)
体を大きく後ろに倒して両手を地面に着いた、刃が顔面すれすれを通り過ぎていく。
突きを目で追う事は出来た、見えていたし避ける事もできる。
だがこの突き技を、雪は知っていた。全く同じ様に避けた事がある――。
(そんな、そんな馬鹿な……)
雪は急いで男との距離を空けた。
そして男の顔を見つめる、よく見れば気が付くはずだった。あの頃はまだ少年だった彼が見事な青年になっている。
大切な友達で、突き技が得意で、まるで兄の様な人――。
「お前……雪光か?」
あの頃の名を呼ばれて、雪は体を稲妻で撃たれた様な衝撃に襲われた。
それと同時に確信を得た、彼は間違えない――。
(……藤田君!)
***
「雪光なんだろう……、左利きでそんな動きするのお前しかいないだろう……、お前やっぱり死んでなかったんだな! 生きてたんだな!」
藤田は必死に呼びかけた、つい先ほど刃を交えた事など忘れて間合いを詰める。
「雪光、俺だ藤田だ! 覚えてるだろう、龍久と三人でよく悪ふざけしただろう?」
「…………」
雪は藤田が詰めた距離を再び空ける、ただ今は恐ろしかったのだ。
(駄目だ、駄目だぁ……藤田君とは、戦えない……)
頭を巡るのは楽しかったあの頃の記憶、だがそれが頭の中に浮かぶごとに酷い頭痛が、雪を襲った。
「うっ……ううっ」
あまりの頭痛で膝をついてしまった。頭が割れる様な痛みが雪を襲い続ける。それを心配して藤田が雪の元へと駆け寄ろうとする。
「だっ大丈夫か、雪光」
「うっううあああああっ」
近寄って欲しくない一心で、雪は村正を振るった。思わず刀を振っただけなので、藤田には届きもしなかった。
「ゆっ雪光……」
「雪光君なのか……? そうなのか藤田君!」
彼が藤田ならば、隣に居る初老の男は龍久の父親という事になる。ならばより一層彼らと戦う訳にはいかなかった。
(どうする、どうすればいい、どうすれば二人は此処から去ってるんだ……)
二人とは戦いたくなかった。藤田は友達だし、龍久の父にはお世話になった。
だが頭痛が酷くて、考えがまとまらない。
(とにかく、正体がばれちゃ駄目だ!)
今の自分姿を二人に見て欲しくなかった、『雪光』はあの雪の日の夜に死んだのだ。ここに居るのは、他の誰でもない『夜叉』なのだ。
雪は藤田に向かって村正を振るった、だが相手が藤田なので殺意のこもっていない、迷いのある刃。
「雪光、頼む何とか言ってくれ! どうして答えてくれないんだ!」
藤田はそれを防ぎながら、そう呼びかけて来た。
殺意のないこんな攻撃では藤田を傷つける事どころか、自分が雪光だという事を言って居る様なものだった。
(少し……少し脅せば、きっとここから逃げてくれる、私を雪光じゃないって、思ってくれるはずだぁ)
焦るあまり雪は正常な判断が出来なくなっていた、軋む様な頭痛がそれに拍車をかけていた。
水たまりを思い切り蹴ると、水をまき散らしながら藤田に向かって突進する。
殺意は込めずとも、力を入れれば速さも出る、致命傷にならない程度に傷つければ、これ以上自分を雪光だとは思わないだろう。
「ゆっ、雪光!」
左からの斬撃を藤田は刀で弾く、雪はすぐに次の攻撃を繰り出す。再びそれを防ぐがやはり雪は絶対に攻撃を止めなかった。徐々に押されて藤田は後ろに下がっていく。
「やっやめろ、俺はお前とは戦いたくない!」
藤田が叫ぶが雪はそれでも攻め続ける、防御ばかりに徹していた彼の足元には隙があった、雪左から斬りかかると見せかけて、藤田の足を蹴り飛ばした。
「うわっ!」
「――っ!」
雪は村正を振るい追い打ちをかける。藤田はそれをどうにか避けるが、彼女ほどの回避能力は持っていないので、尻餅をついてしまった。
「ゆっゆき――っ」
藤田の言葉を遮ったのは、首筋に向けられた村正だった。一寸の狂いもなく鋭い刃があてがわれていた。
(死なない程度の怪我をさせるだけ……、そうすれば……そうすれば)
雪は右肩に狙いを定める、死なない程度で刀を振るえない怪我を負えば、そうすれば藤田だってここから立ち去って、自分が雪光ではないと、そう思ってくれるに違いない。
軋む様な頭痛の中、細い糸の様な意識をどうにか保たせながら、雪は村正を振り上げた。
「……めろ、ゆき……」
遠い、どこか遠い所から、誰からの叫ぶ声が聞こえる。だが今の雪にはそれを聞き取る事さえもできなかった。
(ごめんね、藤田君)
そして村正を振り下ろした――。
「やめろぉぉぉぉ、雪!」
その瞬間、軋む様な頭痛は雷鳴の様な激しい頭痛へと変わった。
今にも頭が二つに割れそうな、そんな痛みが雪を襲った。
「うっあっああ……」
雪は振り上げた腕を下げて頭を押さえる方を優先してしまった。
酷い頭痛の中、雪は声のした方を睨みつけた――。
「……龍久ぁ」




