四四話 悪意の罠
宇都宮城から敗走した幕府軍は、一旦日光へと退いた。
徳川家康を祀る日光東照宮があるこの地を、幕軍が戦いの地に選ぶのは当然の事だった。
一方新政府軍は宇都宮城を拠点として、反政府勢力である会津を攻め様としていた。
しかし日光の山僧が戦役回避を受け、板垣退助は幕軍に使者をやり日光山を下る様に説得した。
幕府軍は食料や弾丸の不足により日光での戦闘は不可能と察し、その要求を受け入れ日光山を降り、会津での再度決戦を望んだ。
一方、宇都宮城で負傷した土方と龍久は会津にて療養生活を送っていた。
「はあ……することがない」
龍久は縁側で一人空を眺めていた。療養と言われても暇で仕方がなかった。
今すぐにでも戦闘に参加したいのだが、土方に止められた。
「……大体可笑しいだろう、なんで俺より重体だったお前がピンピンしてんだ」
布団で横になっていた土方が体を起こして、そう皮肉気に言っていた。
土方はあれから二週間もたったというのに、今だ布団から出る事が出来なかった。
「あっあはは……それは俺にも分からなくて……」
あからさまに折れていた右腕は、まだしびれこそ残っているがしっかりと動くし、こうやって歩き回る事もできる。
(そういえば怪我なんて、雪に会ったあの日以来だなぁ……あの時も直ぐに治ったっけ)
雪に会った時は、崖から落ちて川に浮かんでいた。その時も彼女が薬草を煎じてくれて、それがとてもよく利いた気がする。
(もしかして、医者って結構ヤブが多いんじゃ……)
「龍久君、今日の薬を煎じたよ~って、あっ」
菊水が壁を手すり代わりにして、よたよたと歩いてきたのだが、土方の顔を見るやいやな、障子の裏に隠れて、まるで怒られた子供の様に顔をのぞかせた。
「あっ……大丈夫ですよ菊水さん、流石の土方さんでも、取って食ったりしませんって」
「どういう意味だ、龍久」
菊水は先日の土方の脅しのせいで、すっかり彼を怖がっていた。
「そっ、そうかい……はい龍久君お薬だよ」
「ありがとうございます菊水さん、言ってくれれば俺が取りに行ったのに」
「良いんだよ、それより怪我人は大人しくしてなきゃ駄目だよ」
菊水は全く歩けないという訳ではなかった、非常に遅くまるで亀の様な速度だが、歩く事が出来た。ただ一度転んだり座ったりしてしまうと、自力で立つ事が出来なくなる。
「ささっ、ぐぐっと飲んでね龍久君」
龍久はしぶしぶと、土方の部屋にあった水を頂いて、それを飲む事にした。
「そう言えば、俺と土方さんの違いって、菊水さんに診てもらっているかの違いですよね」
土方には会津藩の奥医者が付いている。龍久は菊水が自ら名乗りを上げてからずっと彼が処方した薬を飲んでいた。
「なんでそんなに薬に詳しいんだ、龍久の話じゃ折れた腕が治ったらしいじゃねぇか」
「小さい頃に父さんに教わったんだ、父さんは祖父から、祖父は曽祖父からって、うちの家系が代々受け継いできたものなんだ」
「やっぱり、医者の家系かなんかですか?」
医者になるには、別に何らかの特別な免許が要るという訳ではないので、菊水は優秀な医者か何かかと思っていた。
「まさかぁ僕はただの農民だよぉ、龍久君は面白い事を言うなぁ、あははっ」
そう言って、何が面白いのか笑う菊水。だが正直龍久は彼が農民とは到底思えない、農民のどこか日に焼けた泥まみれの風貌というのが、どうしてもこの菊水では想像できない。
容姿だってとても整っていて、どこぞのやんごとなき身の上の人の様に思える。
「それに腕だって『手当て』が利いたんだよ、薬で骨折は治らないもの」
「……そりゃあ、手当てしてくれたんでしょうけど……うえっ、苦い」
良薬は口に苦いというが、本当に苦い。特にこれは舌がしびれるほど苦かった。
「でも君の怪我も心配だねぇ、ずっと熱が続いてるんだろう?」
「これくらい、たいしたことはねぇ」
しかし土方はずっと微熱が続いていて、床から起きられないのもそのせいだ。
菊水は土方の横に這い寄って、当たり前の様に額に手を当てる。
「う~~んやっぱり少し熱っぽいねぇ、でも薬を飲まなくても大丈夫そうだ、それより足の怪我の方が心配だなぁ」
「おっおい……」
菊水は足を引っ張ると包帯を取り始めた。土方が止める暇もなく傷口が顔を出した。
膿が出ていて、鼻を突く異臭がする。医学の知識のない龍久でもこれはひどいという事が分かった。
「化膿してる……かなりひどいなぁ、このままだとこの足使い物にならなくなるよ」
「えっ! 大変じゃないですか土方さん!」
軽く押すと赤黒い膿が出て来た、菊水が出来るだけ指に力を入れて膿を掻き出すと、土方は痛みから顔をしかめた。
「いっ……くっ」
「後で、化膿に利く薬を煎じるよ……だから今はこれで」
菊水はそういうと土方の足を、右手で撫で始めた。
「ちちんぷいぷいのぷいっ、いたいのいたいのとんでけ~~」
それはまるで子供をあやす様な口調と動作だった、しかしそれをされているのは、子供ではなく、あの『鬼』の副長である。
「きっ菊水さん……なんですその子供だまし」
「ええっ何って、怪我とか病気にはこれが利くんだよぉ!」
ものすごく利く薬を作るかと思えば、こんな子供だましをするなど、やはり菊水はどこか不思議なところがあるというか、抜けている人だった。
「ああ、こちらに居ましたか」
庭から斎藤がやって来た、話し声が聞こえたので玄関からではなく、こちらに来た様だ。彼と再会するのは、本当に久しぶりの事だ。
「斎藤さん、お元気でしたか、怪我とかしてませんか?」
「……俺は特に怪我はしていないが、お前は重体だったと永倉さんから聞いていたが」
「いやぁなんか俺だけすごく早く治っちゃって……というか新八さんに会ったんですね!」
新八は菊水と龍久を迎えに来て、今市まで運んだ後、すぐに戦いに出てしまったので、その後どうなったのか、龍久は知らなかった。
「いや、文が届いたんだ、お前が死にそうになっていると……、でもこれは永倉さんの誤りだったんだな」
「それで斎藤、まさか見舞いに来ただけって事はねぇだろう」
「はい、先の白河での戦などについて話があって来たのですが……失礼、まさか土方さんが女子と一緒にいるとは、また日を改めて……」
菊水と斎藤が会うのは初めての事で、どうやら彼を女性と勘違いしているらしい。龍久は思わず土方と顔を見合わせた。
「えっ女の人ってどこ……えっまさか君、女だったのぉ!」
当の菊水は自分の事だと全く思っておらず、土方に向かってそんな訳の分からない事を言っている。
「そんなことあるか、馬鹿野郎が!」
「ひいいいっ、えっじゃあまさか龍久君がぁ!」
「違います! どこをどう見てもあなたの事ですからね、菊水さん!」
全く自覚のない菊水は、その意味が分からないのか首を傾げていた。女と言われた方が納得できる華奢な体に、整った顔立ちの癖に、全く自覚がない。
「こいつの事は気にするんじゃねぇ……、それで斎藤白河はどうなった」
「はい、四月二〇日に二本松藩兵から白河城を奪取に成功、その後敵の拠点である宇都宮城から進撃して、奇襲して来た薩摩兵達はどうにか蹴散らしました、しかし敵の疲労が大きかった事と、地の利がこちらにあったので迎撃しました」
「運が良かったってのと、敵の準備不足で勝ったって事か……斎藤ぬかるんじゃねぇぞ、今回の勝利はお零れみてぇなもんだ、隙を見せれば一瞬で全滅するぞ」
鳥羽伏見、宇都宮城と新政府軍との戦いを積み重ねて来た土方の的確な助言であった。
だが、斎藤だってそれぐらいわかっているだろう。新選組の中でも彼は優秀な男だ、戦闘はもちろん、皆を率いていく才もある。
「俺もこの怪我が治ったらすぐに戦闘に参加するつもりだ、それまでお前があいつらを率いてやってくれ」
「この分だと、鬼の副長も直ぐに回復しそうですね」
龍久がそう言って笑うと、なぜか斎藤が苦い顔をして、酷く言いにくそうに話し始めた。
「……実は副長にご報告があるのです」
夕刻、龍久は縁側で一人座っていた。
今は何も考えられず、ただ縁側に腰を掛けて座っているだけだった。
まるで魂のない抜け殻の様に、ただ呆けている事しか出来ない。
それは、斎藤の報告のせいだった――。
四月二四日に、近藤勇が斬首されていたのだ。
板橋の処刑場にて、大久保大和という名で投降した近藤は、正体がばれた後、斬首という極刑に処されたのだ。
斬首は切腹とは違い、極刑だ。
切腹は腹を開いて申し開きをする、つまり弁論の場を設けるのと同じ事になる。誇り高き武士の行為といえるであろう。
しかし斬首は何の弁論もなくただ殺されるだけの、もっとも重い刑罰だった。
近藤は誰よりも武士であったはずだ、あれほど武士であろうとした人を他に知らない。そんな武士であった彼が斬首など、龍久は受け入れられなかった。
「近藤さん……」
自分があの時、近藤を無理してでも止めていれば、斬首などされなかったかもしれない。そんなありもしない可能性が、今更になって龍久の胸を締め付けていた。
「……ん?」
どこからともなく、人の話し声が聞こえて来た。
ふと気になって龍久がそちらの方に向かってみると、菊水が立って居た。
「……へぇ、もうすぐ巣立ちの時なんだねぇ、良いお父さんになるんだよ」
ただその場には数一〇羽の鳥、雀や燕、鳩に烏、まだ夕方だというのに、鵂や梟まで居た。更に足元にも鼠や猫や犬が行儀よく座っていた。
本来ならありえないその光景に、龍久は驚きのあまりなにも言えなかった。
「あっ龍久君、どうしたんだい?」
「いや……どうしたって、こっちの台詞ですよ……なんですかこの鳥やらなんやらは」
「みんな薬草を届けに来てくれたんだぁ、そのついでにお話をしてたんだ」
「えっ……薬草って、俺が飲んでる薬の?」
「そうだよ、森の中でも『みんな』が届けてくれたんだ、ほら、龍久君お礼を言わなきゃ駄目だよ」
そう言われても、鳥や犬猫にお礼など言えるはずがない。だが、足が悪い菊水がいつもどうやって薬草を集めているのかは気になっていた。
藩医が大切な薬草を渡すはずもないし、問屋に買いに行くにも彼には金がない。だとしたら、こうやって動物達が運んで来てくれたと考える方が、龍久には納得できた。
「へぇ、君は猪苗代湖の方に住んでるんだ、わざわざ遠くからありがとうね」
「きっ菊水さん……、まさか動物と話せるんですか?」
「ううん、なんとなく何を言ってるか分かるんだ、僕だけじゃないよ、僕のお父さんは植物の言葉が分かったし、お爺さんは人の考えてる事が分かるって言ってた」
不思議な人だというのは分かっていたが、まさか動物と話せるとは思わなかった。
「菊水さん……貴方一体何者なんですか? 俺には貴方がただの農民だとは思えないんだ、それにあの陰陽師の玉藻に狙われてるんだから、普通の人じゃないんだと思う……、菊水さん教えてくれ……貴方は一体何者で、どうして玉藻に狙われているんですか?」
その問いに菊水は顔を逸らした、そしてしばらく口を噤んだ。それほど言えない事なのか、龍久は緊張した面持ちで、菊水が自分から話してくれるのを待った。
菊水が何かを決意して、言葉を発しようとした時だった。
「土方局長、やめて下さい!」
斎藤の叫び声が聞こえた。
それとほどんど同時に、縁側へと出てくる二人分の足音がした。
「はなせっつてんだろうが斎藤!」
兼定持った土方が、寝間着姿のまま外へと出ようとしていた。それを斎藤が羽交い絞めにして止めている真っ最中だった。
「どうしたんですか土方さん、まだ布団から出ちゃ駄目ですって!」
「うるせぇ! 黙りやがれ!」
土方の怒号で、菊水の元に集まっていた鳥や動物達が一斉に逃げ出した。それほど今の彼には威圧感があった。
「局長、そんな体では白河城に行っても、容体が悪くなるだけです!」
「そんな呼び方するんじゃねぇ、斎藤!」
土方は斎藤を突き飛ばして、庭へと出てくる。立てているとはいえどもまだ足元はおぼつかない、何時倒れても不思議ではなかった。
「ですが……近藤局長が亡くなった今、その後を継げるのは貴方しかいない……近藤さんを失った悲しみを、戦場に出る事で忘れようとしているのではありませんか!」
「うるせぇ、黙りやがれぇ!」
今の土方が正常でない事はよく分かる。近藤の死はそれほどの影響力があるのだ。
怒鳴り声に驚いて、菊水の周りに集まっていた鳥や獣達が逃げていった。
「土方さん……」
龍久も斎藤も、彼の気持ちは痛いほどよく分かる。なんという言葉を掛ければいいのか、なんと言えば納得してくれるのか悩んでいると、菊水が足を引きずりながら土方の前へ来た。
「そんな風に怒鳴っちゃ駄目だよ、みんな怖がってるよ……」
「うるせぇ、てめぇには関係ねぇだろう!」
「……駄目だよ」
怒鳴り散らす土方を怖がらず、菊水は土方の頭にそっと手をあてがえた。
ふざけている訳でもなく、真剣な面持ちで彼の頭をそっと撫でる。
「君は皆を導く人なんだろう? そんな人が皆を怖がらせちゃ駄目だ、そんな事をしたら、皆君の元を離れてしまうよ」
「…………お前」
頭を撫でられているせいなのか、正論を言われたせいなのか、土方の表情は徐々に冷静さを取り戻していった。
「局長……、今は傷を癒す事に集中して下さい、貴方まで死んでしまったら、新選組はどうするのですか」
「……ああ、分った」
先ほどとはうって変って大人しくなった土方、もう外へ行こうとはしなかった。
あれほど怒っていた土方が、こんな簡単に納得してしまうなんて、龍久には考えられない事だった。
(菊水さんって、やっぱりすごい人なんじゃ……)
龍久がそんな風に思っていると、塀の上に一匹の鳥がやって来た。怒鳴り声に驚いて逃げたと思っていたのだが、帰って来た様だ。
「菊水さん、アレも薬草を届けに来たんですか?」
模様一つなく、鶏冠も嘴も足も真っ白な鳥。大きさは雀ほどの小鳥なのだが、見た事のない鳥だった。
『……たつ、さ……たつひさ……』
「菊水さん呼びました?」
「えっ、僕何も言ってないよぉ」
てっきり菊水だと思ったのだが、土方と斎藤の方に視線を向けるが、二人とも首を横に振ってそれを否定した。
『龍久、龍久』
気のせいではない、間違えなく自分を呼ぶ声が聞こえる。
まさかと思い、塀の上に居る鳥に視線を向けてみると――。
『龍久、龍久!』
「とっ鳥がしゃべったぁ!」
龍久は驚いて、腰を抜かした。
なぜ鳥がしゃべって、ましてや自分の名前を呼んでいる。一体自分の身に何が起こってしまったのだろうか――。
「きっ、菊水さん、これも菊水さんの力ですかぁ?」
『龍久、俺だ、葛葉だ!』
小鳥がそういった、確かによく聞けば葛葉の声だ。龍久は急いで立ち上がって、鳥の元へといった。
「葛葉どうしたんだよぉ、ずっと何の連絡もないから心配してたんだぞぉ!」
『それはこっちの台詞だ! 江戸に居ねぇからまさかと思って旧幕府軍を追ったら、会津まで着てやがって!』
「着てやがってって……俺はお前に言われたから、江戸で待つのを止めて先に進んだんだ」
流山に行く前に、葛葉から手紙が来たから龍久は先に進む決心をしたのだ。それなのになぜかこうして怒られている。
「お前が手紙を送ったんだろう、怪我して合流できないから、先に行けって……」
『怪我……手紙……、なるほどそういう事か』
鳥から発せられる葛葉の声は、何か確信を得たようにそう呟いた。
『それは、玉藻の罠だ』
「えっ……どういう事だよ葛葉!」
『俺は怪我なんてしてないし、手紙など送っていない、それはお前を激戦地へ送る為に玉藻が仕掛けた罠だ』
確かにあの手紙は、葛葉が書いたにしては畏まっていて変だとは思っていた。どちらかといえば玉藻が書いたと言われた方が納得いく。
『玉藻に「式神」を全部破壊され、何とか龍久と接触しようとしても、「封印結界」を施されて、拠点から出られなかったんだ! くそう……まさかお前が会津にいるなんて……』
「なんでそんな事になってるんだよ……いや、なんで俺がここに居ると不味いんだよ!」
確かに激戦地で玉藻にも襲われたし、死にそうな怪我もした。
だが、自分は幕軍の一員として戦ったのだ、それに対しての悔いは何一つない。
葛葉は非常に真剣な様子で、その答えを言った。
『雪殿下が、江戸にいる』
雪が、江戸にいる。
甲州にも宇都宮にも現れなかった雪が、江戸にいる。てっきり土方を追って会津に来ると思っていたのだが、まだ江戸にいるなど思いもしなかった。
「そんな、なんで雪が江戸に……」
『それは後で話す、殿下は今江戸にいる、これは俺が実際に見かけた訳じゃねぇが、確かな情報だ、信用に足りる』
「でっ、でも雪は土方さんを殺しに来るんだろう? だったらここで待ってればいずれ会津に来るんじゃないのか?」
土方と共にいればいつか必ず雪は現れる。会津から江戸へと戻るには時間が掛りすぎる。それまでに雪がどこかに移動してしまえば、江戸まで戻る意味がない。
『それじゃ駄目だ、殿下が江戸にいるのは非常に不味い……今から八日後に上野で、「彰義隊」と新政府軍との戦いが起こる、殿下はそれに参戦するつもりだ』
上野で戦いが起こる、葛葉からすればその説明をしたまでにすぎない。
だが、龍久にはその説明は別の意味を持っていた。『彰義隊』それはほんの数か月前に出会った親友が口にした言葉――。
「藤田と雪が……戦う」
江戸城が無血開城されて、江戸では戦いは起こらないと思っていた。
だがまさかこんな形で戦いが起こってしまうなど、最悪としか言い様がない。
「駄目だ……『彰義隊』と雪を戦わせちゃ駄目だ! このままじゃ藤田が! 藤田が!」
龍久の頭の中に、最悪の結末が思い描かれる。絶対にあってはならない結末が――。
『ああ、これ以上殿下に人を殺させるな、このままじゃより「夜叉」になってしまう』
「でも葛葉、此処から八日で江戸に戻るなんて無理だ、なんとかならないのか!」
馬を駆っても一〇日かそれ以上はかかってしまうだろうし、関所を抜けられるかさえ分からない、これでは到底間に合うはずがなかった。
『すまん龍久、今の俺にはお前を会津から江戸に運ぶ手段がないんだ……でも、俺も必ず上野に行く! だから龍久、なんとしても殿下にこれ以上人を殺めさせるな!』
「分かった、何とかしてみる」
『……龍久、その人は』
鳥が菊水を見てそういうのだが、それ以上は何も聞かずに、鳥の視線は龍久に戻った。
『龍久とにかく上野だ、上野の寛永寺を目指せ! 俺も必ず向かうからな!』
「ああ、頼むぞ葛葉!」
龍久の言葉を聞くと、鳥はひらひらと地面に落ちて、ただの白い紙で折られた鳥になった。
「土方さんすいません、俺っ」
「どうせ止めても行くんだろうが、行くんだったら『彰義隊』の旗本連中に、新選組の根性を見せつけてこい」
「江戸にもそれなりの敵がいるだろう、十分用心しろ龍久」
「ありがとうございます、土方さん、斎藤さん」
深々と礼をした。本当ならこんなわがまま受け入れてもらえるはずないだろう。
これだけ世話になっているのだ、必ず上野へ向かわなければならない。
「龍久君、僕も上野へ連れて行ってくれ」
菊水の突然の申し入れに驚いたが、彼は遠くへ逃げたいと言っていたのでその為だろう。だが二人乗りでは馬はより遅くなり間に合わない。
「頼むよ龍久君! 約束する、必ず君を八日で江戸へ連れていく」
「菊水さん……」
真っ直ぐな彼の瞳が龍久を見つめる、何の確証もなかったがそのようにした方が良いと思えた。
「分かりました、すぐに向かいますよ菊水さん」
「あっ……ありがとう龍久君!」
嬉しそうに微笑む菊水はどこか愛くるしくて可愛く、自然と頬が赤くなってしまう。
(だから、なんで照れてるんだよぉ俺はぁ!)
「斎藤、馬を手配してやってくれ」
「分かりました、龍久早く準備を済ませておけ、すぐに馬を連れてくる」
龍久は深々と礼をすると、急いで準備をする。と言っても、元々大した荷物など会津に持って来てなどいないし、玉藻によって刀も一本失ってしまったので、大切な物を入れている風呂敷包みを一つ手に取って身支度は整った。
「菊水さんは、荷物は何もないんですか?」
「僕はお金も刀も何にも持ってないから、身一つで十分だよ……あっでも、君の薬を少し煎じておくよ、待っててすぐに済ませるからぁ」
そう言うと菊水は、土方の為の薬を煎じに行ってしまった。
土方と二人っきりになってしまった。
「……おめぇ、やっぱりあの女が心配なんだな」
土方がそう切り出して来た。起こっている訳ではなく、純粋な質問だった。
「……そうですね、変ですよね敵なのに……でも俺心のどこかでは、雪がまた昔みたいに戻ってくれる事があるんじゃないかって、期待してるんです……馬鹿ですね、俺が雪にかなうはずないのに……」
「……龍久」
「……土方さん、俺も一つ土方さんに聞いていいですか?」
龍久は言いにくそうに、しばらく間を開けてからようやくその問いを投げかけた
「土方さん、雪みたいになろうとしてませんでしたか?」
その問いに、土方は龍久から視線を逸らして小さくうなずいた。
「ああ……、あいつみたいに人を捨てようとしていた」
鳥羽伏見の時、雪の人の域を超えた強さ目撃して、あれぐらい強くなりたいと、この力が欲しいと、そう思った。いや、思ってしまった。
人を捨てれば、あれだけの強さが手に入るならば、自分は『鬼』でもなんでもなってやろうと、そう思っていた。
「……俺があれぐらい強ければ、あの人も、新選組も守れるんじゃないかってな、後悔先に立たずって奴だ……」
「でも……、雪の強さは間違ってますよ」
龍久の意外な言葉に、土方は不意打ちを喰らった。まさか彼からこの様な言葉が出るなど夢にも思わなかった。
「雪はすごく強い、俺なんかが足元に及ばないぐらいの才能を持ってます……もしかしたら歴史に名が刻めるぐらい強い剣豪になってたかもしれない、でも雪は今一人なんです、鳥羽伏見で戦った時、誰も一緒に戦ってなかったし、助けにさえ来なかった…………そんなの、空しいだけじゃないですか、俺は仲間がいるから戦ってこれました、そうでなかったら俺なんて今頃斬り殺されてます……勝利を分かち合って、敗走しても手助けしてくれる仲間がいるから俺はこんなことやってられるんです、それなのに後ろを振り返っても、誰もいないなんて……そんなの空しいだけじゃないですか」
ずっと思っていた。坂本龍馬が死んでから、雪と共に戦っている者は誰一人としていなかった。いつも一人で土方の首を求めて追いかけて来た。
そんな彼女の事を思うと、どこか胸が締め付けられる様に苦しかった。
「土方さん、土方さんは雪みたいになっちゃ駄目ですよ、雪みたいになっちまったら菊水さんの言う通り皆離れちまいますよ……、俺は今の土方さんだから、一緒に戦いたいって思えるんです、だから……本当の『鬼』じゃなくて、あくまでも『鬼の副長』で居てください……あっ今は局長ですね」
「龍久……」
その言葉は、土方の胸に染み入る様に溶けて行った。
素直で嘘のない、心からの言葉だと言うのが分かる、優しい言葉だった。
「お前は本当に、良い奴だなぁ龍久」
「えっそうですか……?」
意味をよく分かっていない龍久は首を傾げる。そんな彼を見て土方は小さく笑った。
「土方局長、馬の用意が出来ました」
斎藤が馬を一頭引いてやって来た。毛並みが中々良く、美しい鬣を持っていた。旗本の龍久さえ乗った事のない上等な馬で驚いた。
「どっどうしたんですか、この馬」
「会津藩の駿馬だ、拝借して来た」
「いっいいんですか、こんな立派な馬……まさかだいみょ――」
「龍久君、ごめんごめん待たせたねぇ」
菊水が小さな包みを持ってやって来た、そしてそれを土方に押し付ける様に手渡すと、念を押す様にこう言った。
「良いかい、さっきみたいに怖い顔しちゃ駄目だよ! あとこれは傷が化膿したら塗って綺麗な布で巻くんだよ、いいね」
「あっああ……」
菊水は彼が頷くのを見ると、今度は馬の頭を撫でた。
「君が僕らを乗せてくれるのかい? ははっありがとう、よろしくね」
「菊水さん行きますよ」
龍久は菊水を馬に載せると、菊水の前にまたがり手綱をしっかりと握りしめた。
二人を斎藤と土方が見送る。
「土方さん、斎藤さん、会津をお願いします」
「ああ、お前も気を付けるんだぞ」
「無理をするんじゃねぇぞ」
二人の言葉に深く頷くと、龍久は馬を走らせた。東の空がぼんやりと青紫色に変わり、もうすぐ夜がやって来る。夜が追いかけて、時間が迫って来る様に感じた。
(雪、藤田、頼むから戦わないでくれ!)
心の中で必死に願いながら、龍久は夜から逃げるように馬を駆った。
日暮れ時に、馬の駆ける音だけが響き渡った。




