四三話 星の輝き
深淵の闇が広がっていた。
どこを見ても一欠けらの光もなく、気が狂いそうな闇だけが広がっている。
「……ここは、どこだ?」
一寸先も見えないほどの暗闇だというのに、不思議と自分の手や足などははっきりとよく見る事が出来る。
もしかすると此処には、他の何も存在しないから闇しかないのかもしれない。
「あれ……俺、なんでここに居るんだ……いや待てよ」
なぜこんな所に居るのか思い出せない。それだけではない、ここに至るまでの過程も、自分の名前も分からない。
必死に思い出そうとしても、この闇のせいなのか頭に何も浮かんでこない。
一体自分はどこの誰で、何をしていたのだろう。しばらくすると、どこからともなく人の泣き声が聞こえて来た。
そしてふと後ろを振り返ってみると、人がいた。
先ほどまで誰もいなかったはずのその場所で、齢二〇ほどの女が泣いている。
色白にまるで雪の様な真っ白な髪、更に薄い目の色。着ている物は男の服だが、女だと分かった、いや、彼女が女である事を知っている。
「……ゆっ、雪!」
頭に人の名が浮かんだ。それを口にすると、今まで思い出せなかった事が嘘の様に、何もかも思い出した。
「そうだ、俺は南雲龍久……宇都宮城から逃げて来たんだ」
なぜこんな大切な事を忘れていたのだろうか、理由は分からない。だが今は目の前にいる雪の方が大事だ。
「雪、雪ぃ! 無事だったんだな!」
あの嵐の中よく無事だったと安堵した、だが雪は一言も応えずに、ただ泣いていた。
「どうしたんだ雪、どこか痛いのか? 苦しいのか?」
「うっうえっ、頭が痛いよぉ……胸が苦しぃよぉ」
子供の様に泣いている雪に対して、龍久は何も出来ない。ただそっと頭を撫でてやった。
「うっ……、貴方誰ぇ?」
「なっ何言ってるんだよ、俺だ、龍久だよ、雪」
雪もこの闇にやられて忘れてしまったのだろうか、龍久は必死に訴えた。
「なっ、昔一緒に遊んだり悪戯したりしただろう? 俺だよ南雲龍久だ」
「…………たつ、ひさ」
何か思い出したのか、雪は真っ直ぐにこちらを見つめた。
「龍久、龍久! 龍久ぁ!」
「うわあっ」
そしていきなり童の様に明るい声で、龍久の胸の中に飛び込んで来た。あまりに突然であるものだから、嬉しいやら、恥ずかしいやら、照れるやらで龍久の感情は忙しかった。
「ゆっ雪……」
まるで昔の、まだ彼女が雪光となって男のふりとしていた頃の様で、嬉しかった。
「龍久ぁ」
ただあの頃とは違って、雪はすっかりと女となっている。艶のある唇から、すんだ美しい声が発せられている。
雪は龍久の両頬にそっと手をあてがう、その手の温もりを少しでも感じていたいと、龍久が手を握ろうと手を伸ばした――。
雪が、龍久の喉に噛みついた。
(えっ?)
何が起こったのか分からなかった。ただ喉に異常な違和感があるし、声が出ない。
そして雪は、龍久の喉を食い千切った。
成す術もなく龍久はその場に仰向けで倒れた。喉を食いちぎられて声が出ない。かろうじて息は出来るが、穴の開いた気管から空気が漏れて、ぴゅーぴゅーと笛の様な音が鳴る。
「くふっ、あははっ」
雪は食い千切った龍久の肉を、美味そうに飲み込むと、舌鼓をする。小さな舌が、血だらけの唇を舐める。
「龍久ぁ、どこへも行っちゃ駄目だよぉ、同じ方向を向いてなきゃ駄目だよぉ」
龍久の両のこめかみを掴むと、雪は無理矢理目を合わせる。
見えた表情は喜びだった、とても嬉しそうにうっとりとしていた。
「龍久ぁ、これでもう違くないよぉ、同じだよぉ」
雪が満面の笑みで微笑んでいると、両眼の上辺りの額の肉が盛り上がった。小さなおでこが二か所突起して、その白くて柔らかい肌が、まるで果実の皮の様につるんと剥けたかと思うと、黒々とした骨の様なものが出て来た。
それはまるで角の様に見えた。
本物など見た事はないが知識として知っている。
それはまるで、『鬼』の様だった――。
どうすればいいのかも分からず、ただされるがままの状態だった時だ。
『……さ君、……つ久君、龍久君』
どこか遠い所から、自分を呼ぶ声が聞こえた。一体誰なのか分からないが、その声は徐々に大きくなって、まるで大きな鐘の音の様に響いた。
(なんだ、誰だ、俺を呼ぶのは誰なんだぁ!)
「龍久君!」
龍久は眼を覚ました。
先ほどまで闇の中だったが、今度の闇は宵の闇である。
「……龍久君、大丈夫かい? 酷く魘されていたけど」
「……雪?」
「……? どうしたんだい龍久君」
一瞬、頭が混乱して目の前にまだ雪が居るのかと思ってしまった。そうではない、ここに居るのは菊水だ。
「……ここは?」
「鹿沼辺りだと思うんだ、君が倒れてしまったから、さっきの眼が怖い人と筋肉のすごい人は、馬をもらいに行く為に先に進んだよ……あっでも大丈夫だよ、もうすぐ迎えに来ると思うから……」
徐々にこの宵の闇に目が慣れて、辺りの景色が見えるようになって来た。
自分が寝かされているのは草むらで、そのすぐ横を川が流れている。辺りの木々の間から星空が見えた。やはりまだ森の中なのだろう。
「……大丈夫? 少し水をお飲みよ」
そう言うと菊水は膝枕を解いて、龍久の頭を丁寧に地面に降ろして、小川へと這い寄る。小川のすぐ横に這えていたフキの葉を一枚取ると、円錐状して器を作った。
「はい、ゆっくり飲むんだよ」
冷たい沢の水を突き付けられて、龍久は喉がカラカラに乾いていた事に気が付いた。
その水を右手でもぎ取る様に自分の口へとやり、大口で一気に飲んだ。
水に夢中で、今自分が右手を動かしている事に気が付いたのは、飲み干した後だった。
「あれ……えっ、あれぇ?」
ひどく痛かったはずの右腕が動く、小指一つ動かせなかったはずの右腕が動く。
開いて閉じる事もできるし、腕を持ち上げる事もできるし、肘も曲がる。
「えっ、何で……絶対に折れてたはずなのに」
驚く龍久を見て菊水は小さく微笑んだ。
「そりゃそうだよ、ほら、『手当て』をしたんだから」
そう言って手を見せてくる。その行為に何の意味があるのか分からないが、どうやら菊水が処置をしてくれたのは本当の様で、腕に植物をすりつぶしたものが塗ってある。
「運が良かったよ、すぐ近くに必要な薬草があって、『みんな』に感謝しないとね、君の為に運んで来てくれたんだ」
「……はっはあ」
みんなというが、側には誰もいない。何を言ってるのか分からないが、どこか不思議なな人であるので、きっと妄言か何かなのだと思い、追及はしなかった。
「もう少し横になってると良いよ、腕もまだ完全に治った訳じゃないんだから」
そう言って、菊水はまた膝枕をした。その感覚はまるで母親にして貰っている様だった。
(ちっ、違う、この人は男なんだ!)
男なのだが、どうにも言葉や仕種が色っぽくて、時折可愛さを持っている物だから、龍久の頬は自然と熱を帯びてくる。
「龍久君、熱っぽいけど大丈夫かい? 解熱の薬を煎じようか?」
「ちっちがっ、これっその……別に……なんでも……」
まさか男の菊水で頬が赤くなっているなど言えるはずもなく、龍久は口を噤んだ。
(それに……俺、菊水さんの事どこかで見た事ある様な気がするんだけどなぁ……)
菊水の顔立ちも、この雰囲気も、どこかで見た事がある様な気がするのだが、所詮は気がするだけで、この感覚が何なのか分からなかった。
「そういえば菊水……さん」
「なんだい? 龍久君」
「菊水さんは、なんとなく俺達とこんな事に着ちゃいましたけど、いいんですか?」
しばらく間を開けて、菊水はどこか悲しげな表情で答えてくれた
「良いんだ……、僕は出来るだけ遠い所へ逃げないといけないんだ」
「……あの玉藻からですか?」
「玉藻……それがあの陰陽師の名前なのかい?」
そう言えばこの名前は、葛葉に合わせて玉藻が付けたものだから本当の名前ではないのだろう、どうやら菊水も名前を知らなかった様だ。
「君はあの陰陽師、玉藻……と知り合いだったみたいだけど、どういう関係なんだい?」
「……俺は、あいつに親友を殺されたんです…………だからその仇を打ちたいんです……てっ言ってもこの様ですけど」
表情が暗くなってしまった菊水。そんな顔して欲しくないので、何とか話を変えようとするのだが、こういう時良い話を知らないのが、龍久なのである。
「……そっか、辛かったねぇ」
そう言って、菊水が龍久の頭を優しく撫でた。それがとても暖かくて優しくて、心地よいものだから、ほろりと、目から涙が零れた。
「あっ、あれ……なんで俺泣いてるんだ?」
まるで眼だけ別の生き物になった様に、涙が止まらない。
これではまるで童の様だ。涙を止めようと、何度も拭うがそれでも止まらない。
「すいません菊水さん、見苦しい所見せちゃって……」
「良いんだよ、良いんだ……今は夜だから、何も見えないよ」
そう言って菊水は上を向いた。涙を見られたくない龍久への配慮だった。
空には、満天の星が浮かんでいた、小さな光もあれば大きな光もあり、その全てが爛漫と輝いていた。
ただ星だけが、空の上の方で煌めいていた。
***
格子の間から、美しい星空を見上げる男がいた。
新選組局長、近藤勇である。
流山で捕らえられ座敷牢に入れられて、最早幾日が過ぎたであろうか、もはや日付の感覚さえもなかった。
逃げた新選組の面々は無事だろうか、そればかりが気になって仕方がない。
仲間の無事が心配で、ふと彼らしくないため息をついた時だった。
「…………」
牢の向こうに、『夜叉』が立って居た。
一体何時から居たのか分からないが、気配が全くない。ただ黙って近藤を見ていた。
「君は……龍久君の」
「…………無様だな、武士にもなれずに結局牢の中か」
どうやら幻ではないらしい、なぜこんな所に現れたのか分からないが皮肉を言っている事から、慰めに来たわけではないらしい。
「君は……武士が嫌いかい?」
「……嫌いだ」
自分が一生をかけて目指していた物を、こうも簡単に嫌いと言われると少し傷ついた。
「なんでこんな所に来たんだ? ここにはトシも龍久君もいないだろう」
「……酷い夢を見た、内容は覚えていないが酷い夢だった……少し外へ出てきたらお前の牢があったから寄っただけだ」
どんな悪夢を彼女が見たのか分からないが、寝付けなくなって散歩していたのだろう。
「君、もう怪我はいいのか? 確か大砲の直撃を喰らったんだろう?」
「……お前、敵の心配なんてしてる場合なのか?」
つい彼女の心配をしてしまったが、今はこうして捕らわれて、いつ殺されるか分からない身なのだ、他人の心配などしている場合ではない。
「そうだったなぁ……、でも俺はもう死を待つだけなんだ、自分の心配なんてしてもしょうがないさ」
強がって笑って見せるが、返って来たは何一つ変わらない無表情だった。
「…………一つ教えてやる、お前の大切な『新選組』は、会津へ無事に着いたそうだ」
近藤の暗い顔に、一筋の光が宿った。ずっと土方達の安否が気になっていたのだ。
「そうか、そうか、無事に着いたかぁ」
「でも……いずれ私が皆殺しにする」
「……いくら君が強くとも、トシは俺なんかよりずっと頭が切れるし、強い……そう簡単に殺されやしないさ」
そう言う近藤の眼は、本当に土方を信じている眼だった。
彼なら本当に、新政府軍を倒せると思っているのだろうか。
「ふん……」
雪は面白くなさそうに、近藤に背を向けて帰ろうとしたのだが、なぜか歩みを止めて、もう一度近藤の方を見た。
「……私は武士が嫌いだ」
「藪から棒にどうしたんだ……この後に及んで皮肉かい?」
雪は近藤の問いには答えずに、その言葉の続きを紡いだ。
「私は、武士は嫌いだし、身を挺して仲間を救う所も非常に気に食わない…………、でも一人の『男』としては……嫌いではない」
それは雪からの賛美の言葉だった。
あまりにも唐突で、意外すぎるその言葉は、近藤の胸の奥深くまで染み渡った。
「そうか……ありがとう、冥土の土産に良い言葉を聞いたよ……本当に、ありがとう」
今までで一番の微笑みを浮かべて、そう礼を言った。
雪はそれを見ても、眉ひとつ動かしはしなかったが、特に何も言わずに近藤の元から立ち去った。
(なんであんな事、言ったのだろう)
いつもなら言わない様な事を言ってしまった。きっとあの夢のせいだと決めつけた。
内容は何一つ覚えていないが、ただとても酷い夢だったのは覚えている。
もう少し歩けばきっと眠る事が出来るだろう、雪は再び歩き出した。
夜の闇の中、雪は一人真っ暗な道を歩いていた。
そんな彼女の姿を、空の上の方で煌めいている星達が見下ろしている。
だが雪は下の宵闇ばかり見ていて、星々の輝きは目に入らないのだった――。




