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雪華散りゆき夜叉となりて…  作者: フランスパン
第三部 維新編 
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四二話 雷鳴絶叫


 一体何が起こったのか、龍久にも分からなかった。

 ただ成り行きに任せて体が跳ね、その度に地面の感覚が背中を伝って全身を駆け巡る。

(なんだ……何が、あったんだ?)

 頭が一瞬で空っぽになった。何も考えられず、なぜ今自分が空を見上げているのかも、地面に倒れているのかも分からない。

 霧が晴れる様に、徐々に龍久の頭がこの状況を理解し始める、あの玉藻の虎に撥ね飛ばされて、今こうして倒れているのだ。

 どこか遠い所で、菊水や新八や土方の声が聞こえる。声が聞こえているのは分かるが、なんと言っているか分からない、ただ声が音としてのみ耳から入って来る。

(あっ……そうだ、逃げなきゃ、玉藻が、玉藻が来るんだ……)

 逃げなくてはいけない、頭がそう判断して立ち上がろうと足に力を込めるが立ち上がれない、更に思考が回復した事により、痛覚も伝わって来た。

 全身が軋む様に痛んで、逃げる事はおろか立ち上がる事が出来ない。

「たっ、龍久君、龍久君!」

 菊水が今にも泣きそうな顔で、必死に縋り付いて来る。そんな彼を見て龍久は泣いてほしくないと、強く思った。

 何とかして彼の涙を止めたいと思うのだが、手が動かなかった。

「龍久、しっかりしろ!」

 土方を担いでいる新八が、駆け寄ろうとしたのだが、それを阻むのは虎と共に玉藻と陽元が歩み寄って来た。

「全く、手間を掛けさせてくれる……」

 玉藻がそうぼやくと、城の外から大気を割る様な地鳴りが聞こえて来た。

「ああ、やっと来たか……随分待たせてくれる」

「てめぇ、何しやがったんだ!」

 新八が切っ先を向けながら怒鳴りつける、すると勝ち誇った顔で言葉を返す。

「結城にいた新政府軍を呼び寄せたまでの事、この宇都宮城を落とす為になぁ」

 岩井の戦いで結城にいた、新政府軍救援隊を玉藻は呼び寄せ、宇都宮城奪還を図っていたのだ。

「最早風が吹いただけで倒れる幕府軍だが、私としては倒れるのは早い事に越した事はない、我が野望を邪魔する南雲龍久と共に、死んでもらおうか土方歳三」

 玉藻が右手を向けると、虎が唸りながら鋭い牙を向ける。

「ちく……しょうが」

「くそっ、どうしろってんだ!」

 手負いの土方と瀕死の龍久、更には歩けない菊水の三人を、新八ひとりで抱えて逃げるなど不可能だった。

 虎は金属で攻撃が利かない、更に玉藻も『式神』で死にはしない。これでは打つ手がまるでなかった。

「死ねぇ、時代に取り残された者共め!」

 玉藻の命令で、虎が唸り声を上げながら襲い掛ろうと走り出す。

 巨大な体躯と鋭い爪が、まだ動けない龍久へ向かう。

「やめてよぉ……」

 あまりにも小さい菊水の声は、今にも虎の走る音でかき消されてしまいそうだった。

「やめろよぉ……」

 両手を握りしめふるふると肩を震わせて、彼は天に祈るような気持ちで叫んだ、その願いを――。


「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ」


 まるで魂の底から叫んでいる様な声で、体の奥の芯の様な部分を激しく揺らす様な叫びだった。

 菊水の声が、空へと拡散して消えていった時だ。


 すぐ横の松の木に、雷が落ちた。


 天を布の様に引き裂いた様な、そんな雷だった。

 すぐ横の松の木は背の高い木ではない、他にも何本もそれ以上に高い木があったのだが、雷は迷わずその木に落ちた。

「な、んで……雷が……」

 龍久はその疑問をどうにか口にしたが、深く考えている暇などなかった。

 直後松の木が発火した。

 松に含まれる油分に、雷が引火してあっという間に燃え上がった。

「しまったぁ!」

 玉藻がその光景に焦っていた、理由は分からないが意外にも取り乱している様に思える。

 皆が何もできず、ただ唖然としている事しか出来なかった――。


 その時、松の木が玉藻目掛けて倒れて来た。


 まるで狙った様に燃え盛る炎と共に、玉藻へと倒れた。

「ぐわあああああっ」

 玉藻の悲鳴が燃える松の木の下から聞こえて来た。するとそれに呼応する様に虎が苦しそうにもがきながら、ただの鉄と鋼へと溶けて行った。

 術が解けたのだろう、葛葉の亀と同じで維持する事が出来なくなったのだ。

「陰陽師殿、陰陽師殿ぉ!」

 陽元の慌てている声は聞こえるが、玉藻の声は聞こえない。

 今なら逃げられるかもしれない。

「……ぐっ、ああっ、うっ」

 体中の痛みに耐えながら、龍久は体を起こした。まだ完全に痛みが無くなった訳ではないが、それでも逃げるなら今しかない。

「たっ龍久君……」

 心配そうに顔を覗き込む菊水、龍久は体中の力を振り絞って左手で彼を担ぎ上げ、どこへともなく走り出した。

「たっ龍久君、大丈夫かい!」

 菊水が心配そうに聞いてくるが、龍久に応える余裕などなかった。とにかく今は走るしなかった。

「土方さん、荒っぽくなるけど、怒らねぇでくれよっと!」

 新八は土方を担ぎ上げると、龍久と共に走り出した。

 西の方から地響きの様な大砲の発砲音と破壊音が聞こえてくる、それが鳥羽伏見の時の敗走の事を思い出させた。



 戦いは夕刻まで続いたが、宇都宮城は新政府軍の手で奪還された。

 結城から急行した救援隊や、壬生城からの土佐藩の後発隊が合流。

 さらに砲兵隊が、延命寺(えんめいじ)桂林寺(けいりんじ)から山砲で砲撃、砲弾は宇都宮城だけではなく、その近隣の二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)まで届くほどだった。

 これにより幕軍は撤退を余儀なくされた。

 北へと逃走した幕軍は、そのまま日光山へと向かった。

 その最中、土方らは本隊よりも先に日光へ向かっていた。

 もう少しで鹿沼(かぬま)を抜けようかという時だった。

「たっ龍久君、大丈夫かい……」

 菊水をずっと担ぎ上げて逃走して来た龍久、あれから一言も言葉を発していなかったので、彼の事を心配していた時だ。


 龍久が倒れた。


 あまりに突然倒れたので、菊水は地面に尻餅を着いた。

「龍久!」

 新八が土方を座らせると、龍久へと駆けよった。菊水も龍久に這い寄って、意識の有無と呼吸を確認する。

「息はあるけど、熱がひどいよ……ずっと無理してたんだ……」

「あんた医者かなんかか?」

「違うけど、少しだけ薬草とか怪我した時の対処法を知っているくらいだよ……あっ!」

 龍久の右腕が、まるで丸太の様に腫れ上がっていた。

 見るからに骨が折れている事が分かる。

「こいつ、ずっとこれを我慢してやがったのか……」

 土方がそう呟くと、皆言葉を失った。

 泣き叫んでも可笑しくないほどの怪我で、人ひとり抱えてここまで来るなど、想像を絶す激痛が龍久を襲い続けていただろう。

「いくらなんでも龍久を担いでなんて無理だぜ土方さん、あんたも早く医者に診せねぇといけねぇのに……」

 足を布で縛り上げているだけの、簡単な処置だけだ。早く医者に見せなければならない。

「……あとどれくらいで、目的の場所に着くんだい?」

「そうだなぁ、このまま行けば一刻もすれば本隊に合流できるし、馬も手に入るけどよぉ」

 鹿沼を抜けて今市へ行けば、おそらくは日光へ向かっている本隊へと合流して、そこで馬を借りる事もできるだろう。

 だが手負いの土方と龍久、更にろくに歩けない菊水を新八ひとりで担ぐのは不可能だ。

 しばらくの無言が続いた。今に夜も更けて、身動きが取れなくなってしまうだろう。

 この静寂を破ったのは、意外にも菊水だった。

「じゃあ、僕が龍久君とここに残るよ」

 その言葉顔を見合わせて驚く、新八と土方。菊水はまだしも、龍久を置いてゆくのは賛成できなかった。

「どこの誰とも知らねぇお前はまだしも、仲間を置いていく判断をてめぇに決められてたまるもんか!」

 土方が強い口調と鋭い眼光で菊水を睨む。

「ちっ、違うよぉ……、君たち二人で先に行って、馬を連れて来て欲しいんだ、それまで僕が龍久君の事を診ているから」

 菊水は怖がりながらそう説明した。確かに効率はその方がいいのだが、それは龍久の事を、このどこの馬の骨とも知れぬ菊水に預けるという事になる。

「どうする土方さん、この人の言う事信じてみるか?」

 そう新八が聞いてみる、土方もおそらくはその方が良いと考えているのだろう。それほど間を空けずに菊水に向かって言う。

「龍久にもしもの事があったら、てめぇを斬り殺すから覚悟しておけ……」

「……うん、龍久君は絶対に死なせない」

 その瞳に迷いなどなく、強い意志を感じられた。

 土方はそれを見て、小さく笑った。なんとなくだが彼に任せておけば大丈夫だという確信が持てたのだろう。

「でもよぉ、もう日が暮れるぜ、こんな森の中あんた一人で大丈夫かよ?」

「大丈夫だよ……敵もいないって『みんな』が言っているし、ああ、この近くに沢があるから、せめてそこまで運んでくれないかなぁ?」

 菊水の言葉に首をかしげる新八。当たり前だが、辺りには自分達以外誰もいない。それに初めてくる場所なのに、沢があると言う彼が不思議でならなかった。

 龍久と菊水を担いだ新八が言われた通りの方向に行くと、澄んだ水が流れる小川があった。驚く新八などまるで見えていない様に、菊水はにっこりと微笑みながら言った。

「ありがとう、このままこの小川を上って行けば目的の場所に行ける『らしい』よ、僕たちは此処を動かないから、迎えに来る時はこの沢を下って来ておくれよ」



 新八は土方に肩を貸して、二人で小川を上って行った。

 早くても迎えは二刻以上かかるだろう。もう夜の闇が辺りを覆い、かろうじて辺りの輪郭が分かる程度だった。

 それでも菊水は特に取り乱す事はせず、龍久の頭を自分の膝の上に載せて、熱でうなされる彼の頭に、濡らした手ぬぐいをあてがえてやった。

 そして丸太の様に腫れ上がった龍久の腕を、ゆっくりと撫でた。

「大丈夫だよ、龍久君……君を絶対に死なせはしないよ」

 それから菊水は、何度も何度も右腕を撫で続けた。

 そんな二人の姿を、満点の星空だけが照らし出していた。



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