三〇話 鳥羽伏見~対決~
一月六日。
三日目となった幕府と新政府との戦いは、新政府軍が優勢であった。
やはり先日の戦闘で幾人も戦死したのが痛手であり、突貫工事の陣地では守りも不完全。なんとか食い下がるが、それでも危うい状態だった。
そして何より、まずいのは先陣を切って出て来た一匹の『夜叉』の存在である。
「きゃはっ、あははっ」
楽しそうに微笑んでいる化物に、新選組とて戦慄を覚えた。
おおよそ三〇丈ほど距離が開いていると言うのに、恐怖で足がすくみそうだった。
「くたばれ!」
隊士の幾人かが銃を構えて狙いを定めた。土俵で組まれた即席の防御陣に隠れながら、仲間の仇に向けて引き金を引く。
しかし普段から射的の練習などしてこなかった新選組には、三〇丈先の敵を射殺する事さえできず、弾は見当はずれな方向へと飛んで行った。
「あははっどこを狙ってるんだ」
楽しそうにひとしきり笑うと、ピタリと笑うのを止めて眼の前の敵に向けて、鋭い眼光を向けた。
「もういいや、死ねぇ」
そう言い放つと大地を思い切り蹴り、陣地目がけて疾走して来た。
千両松とは違い、此処は葦の原ではない。その速さは先の戦とは比べられぬほどだ。
「この化物がぁ!」
疾走する雪に向けて、隊士が再び銃口を向けた。
今度は距離も近いし三人で狙った、そして勝利を確信しながらその引き金を引いた。
放たれた弾丸は空を切り裂き、獲物を貫かんと一直線で飛んで来く――。
「きゃはっ」
そんな笑い声がした。一体何が可笑しいのか、隊士達が反応する前に雪は大地を蹴る。
まず頭を狙って来た弾丸を、顔を左に動かして避けた。
次に腹を狙って来た弾丸を、身を横にして避けた。
そして左胸を狙って来た弾丸を、右に跳ぶ事で避けた。
雪は全ての弾丸を避けた――。
「うっうそだろう、なんで避けられるんだよ!」
再び撃っても、それはたやすく避けられた。
「あはっ、無駄だぁ無駄ぁ!」
雪の眼は、銃口の向き、狙撃手の指の動きで弾丸がどの様に飛んでくるかが分かる。
更に幕府軍が使う旧式の銃は、精度も低く雪にとっては玩具の様にしか思えなかった。
だからこんな弾幕など、無いのと同じだった――。
「あはっ」
隊士が気づくと、もう雪は目の前にいて村正を振り上げていた。
「ぎゃああっ」
右肩から左脇腹にかけて切り裂くと、雪は土俵を乗り越えて左隣にいた隊士の喉に向けて村正を突きたてた。
喉から血を噴き出しながら倒れて行く隊士が地面に落ちる前に、雪は短銃を抜いて奥に居た隊士に向けて発砲した。
眉間を撃たれた隊士が、喉を裂かれた隊士とほとんど同時に崩れ落ちた。
「きゃはっ」
嬉しそうに微笑む雪、しかし彼女に向けて力強い一撃が放たれた――。
「うおりゃああああっ」
新八の渾身の一撃、雪は右から来たその攻撃を村正で受け止めたが、衝撃を流す事は出来ずに、村正ごと吹っ飛ばされた。
「くっ」
宙を一回転して、猫の様に身軽に体制を立て直すと新八に向かい合った。
「化物がいるって言うから来てみりゃあ、まさかお前だとはなぁ」
「油断するんじゃねぇぞ新八、こいつは一筋縄じゃいかねぇ」
原田が援護する様に槍を構える、一度彼女と戦った原田だから分かる事だった。
だがその通りだった、今の彼女はあの時とは全く違う――。
「お前等も武士かぁ、ふふっ武士ねぇ沢山殺したよ」
楽しそうに白い歯を見せながら笑う彼女だが、その狂った風貌に新八と原田の武器を握る手に力が入る。
「だからぁ、お前らも死ねぇ!」
村正を振るいながら、新八目がけて突進する。その太刀筋を力で無理矢理捻じ曲げて、雪に向けて力強い一撃を振るうが、それは彼女の眼によって避けられてしまう。
「あはっあははははっ」
狂い笑うその姿に新八と原田は戦慄を覚えた。こんな姿を龍久に見せられない、そう思いさえした。
「きゃはっ、あはははっ、死ねぇぇ!」
ただ一匹の『夜叉』の声が、戦場に響き渡るばかりだった。
橋本の陣地から少し外れた男山の麓で土方は空を見上げていた。
もう日は真上まで登ってきている。戦闘が始まってどれぐらい経っただろうか、土方は前線に行く前に少し考えていた。
この戦争の事、幕府の事、新政府軍の事、『天皇』の事、この国の事、死んだ仲間の事、生きている仲間の事、近藤の事、新選組の事――。
ふと眼を閉じて、胸の空気を全て吐き出すと、ゆっくりと眼を開けた。
「……もう、刀や槍の時代じゃねぇんだなぁ」
そう呟いた。自分の愛刀に視線を向けてその柄をなぞった。
もうこいつの時代ではなくなってしまう、それが何だか空しくなった――。
「ゆくか」
土方が戦場に向かおうと、歩き出した時、それは現われた。
それは『夜叉』であった。
「みぃつけたぁ」
目的の物を見つけて、嬉しそうに笑った。抜き身の村正を左手に握りしめ、右手には銃を持ち雪は其処に立っていた。
「……本当に来やがったな」
土方は驚いたが、いずれ来るだろうと思っていたので比較的冷静でいられた。
「鬼ぃ、お前は逃げ足が速いんだもん、沢山殺しちゃったよ」
挑発ではない、本気でそう思っているんだろう。
坂本龍馬が生きていた時とは到底比べ物にならないほど狂い、恐ろしくなっている。
もはや日本を変えるなどという目的は、龍馬が死んで何処かへ行ってしまったのだろう。ここにいるのは武士を殺して楽しんでいる『夜叉』である。
「新八と原田はどうした、死んじゃいねぇだろう」
「えへっ、鬼がここにいるから無視して来た、でも後で殺すよぉ」
明るく微笑む雪。ここで土方が逃げれば恐らく他の隊士達を虐殺するだろう。
そんな事させる訳にはいかない、なぜなら新選組は近藤からの預かり物なのだ。
「あはっ!」
真っ先に動いたのは雪だった。大小様々な砂利で構成された足場をもろともせずに、地面を蹴っ飛ばした。
土方に向けて村正を振るうが、土方はそれを兼定で受け止めた。
「うるらぁ!」
力任せにそれを振り払おうとするが、雪はあえて力を抜く事で村正で攻撃を受け流した。兼定は火花を散らしながら村正の鎬を滑って行く。
「死ねぇ!」
雪は短銃を土方に向けて引き金を引く。土方はとっさに左足で雪の右脇腹を蹴り飛ばした――、とっさの事で力が入らなかったのだが、それでも銃口の方向を変える事は出来た。
弾丸は土方の頬をかすめて山の中へと消えって行った。もしも蹴り飛ばさなかったら、土方の頭に命中していた事だろう。
「くすっ、あははっ」
再び雪は村正を振るった、左から右へと鋭い一閃だった。
土方はそれを兼定で振り払うと、すぐ様振りかぶり、思い切り兼定を振り降ろした。
だが雪はそれを後ろに跳んで避けると、村正を突きたてて突撃してくる。
その攻撃を兼定で受け止める。兼定の刀身に村正の切っ先が当たり、ギチギチと音を立てていた。
「ふんっ」
力任せに雪を振り払うが、雪は身軽に体勢を立て直すと村正を振るった。
もはやそこには、何人も邪魔出来ぬ、『鬼』と『夜叉』の戦いがあった――。




