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雪華散りゆき夜叉となりて…  作者: フランスパン
第二部 京都編 鳥羽伏見
31/74

二九話 鳥羽伏見~逆転~

 一月五日。

 鳥羽街道での戦闘も三日目に入った。幕軍は、淀まで撤退していた。

 先日の後退は非常に痛い物だったが、何時までもそれを引きずるほどやわではない。

 新選組は淀の手前、千両松付近に群がる葦の茂みに身を隠していた。

 葦の葉が肌に当たって非常に痛いのだが、それでも皆は我慢して息を殺して身を潜めた。

「来たぞ、かかれぇ!」

 新八の号令と共に、新選組は一気に葦の茂みから飛び出した。

 目の前にいるのは政府兵、予期せぬ茂みからの襲撃に何の構えも出来ずに斬られてゆく。

「斬れ、斬れ!」

 新八がそう言いながら、抜刀したままの刀を振り回す。

龍久もそれに加わり、敵と斬り結んだ。

(やはり、数ではこちらが圧倒的だ、これなら昨日の遅れを取り戻せるぞ!)

 徐々にだが確実に、敵を倒していく。抜き身の刀を振るいながら龍久は敵を倒し続けた。

「龍久他所見をするな!」

 原田が叱咤しながら敵を切り捨てる。だがそんな彼よりも後方で大砲を打っている土方の方が、恐ろしい形相をしていた。

 だから今は、ただ眼の前の敵に向けて刀を振るった。

「だあああっ」

 



 下鳥羽付近。

 新政府軍は千両松に徐々に迫っていた。ただ眼前にいるのは槍を手に持つ会津の兵。

 会津の槍隊の中でも名が知れた方である。槍を一番の武器として、槍で戦う事に誇りさえ持っていた彼らは、味方の銃撃と共に隙をついては政府軍に突撃した。

「殺せ、殺せぇ!」

 槍隊は次々に狙撃手を突き崩していった。ひとたび銃口から火が噴くと、それに応じた数の仲間が倒れるが、それでも彼らは突き進んでいた。

 足元には敵の屍や銃、味方の屍や槍が落ちている。

もはやここは現世ではない――地獄である。

「……あれは?」

 会津兵がその存在に気がついたのは、ようやく敵の防御も崩れ始めた時だった。

 染み一つ無い白髪に肌、西洋の仮面を付けた『夜叉』――雪である。

「あはっ」

 槍隊に狙いを定めると、雪は地面を蹴った。足が速く間合いはあっという間に詰まる。

 槍を握り手始めに振り降ろした。

 しかしこれはまるですり抜けるかの様に身を捻って避けられた。一度振り降ろし地面に叩きつけてしまった以上なかなかこれを戻す事は出来ない。

 雪はそのまま一気に村正を振るおうとしたのだが――別の兵が素早く突いて来た。

「――っ」

 すぐ様地面を蹴っ飛ばして後方へと下がった。槍は空を裂きかすりもしなかったが、雪には分かる、確かにこいつらは他の者とは違うと言う事が。

「ならばっ」

 雪は腰に下げていた短銃に手を伸ばした。右手で引き抜くと、そのまま眼の前の会津兵に向けて引き金を引いた。

「ぎゃああっ」

 弾丸は男の胸に当たった。崩れ落ちながら自分の傷が致命傷だと悟ると、自ら短刀を取り出し、その喉を貫き絶命した。

 銃弾では死にたくないと言う武士の誇りによる物だった。特に彼らは会津武士としての誇りがあった。故にその様な行動をしたのだが、それは雪の逆鱗に触れた。

 これからは銃の時代だと言うのに、それでも刀にこだわる彼らに対して雪は苛立ちを感じた。何と言う愚かな事であろうか、それは正に時代を受け入れる事の出来ない古き駄目なこの国の象徴であった。

「そうか、そんなに刃で死にたいか」

 雪は低い声でそう言うと、村正を鞘におさめた。

 なぜ武器をしまうのかと驚く会津兵共に、雪は短銃を向ける。


「ならばお前ら全員、銃で殺してやる」


 口の両端は大きく吊りあがり笑っている。その微笑みは会津兵を震撼させた。

 狙いを定めて雪は引き金を引いた。それと同時に会津兵の一人が崩れ落ちる――その眉間には小さな穴が空いている。

 ピクリとも動かない仲間を見て、それが即死であった事を悟った。

 短刀で喉を裂く暇も無い、正に一瞬の事であった。

「あはっあははっ」

 狂った様に笑い出した雪に、会津兵は驚き戸惑う。だが雪はそんな彼らに対して容赦なく銃口を向けた――。

 銃弾は、眉間を貫き、眼を抉り、こめかみを突き抜け、額に着弾する。

 なす術なく倒れる仲間達を見て雪に対する怒りを積み重ね、一人が無謀にも駆けだした槍で突き殺そうと、その細い胴に一撃を叩きこもうとする。

 雪はそれを迎え撃とうと引き金を引いたが――弾切れである。

「討ち取ったり」

 男が高らかにそう叫びながら勝利を確信した時――雪は思い切り地面に踏んだ。

 男が気づいた時には既に、雪は引き金を引いていた。

 乾いた銃声が轟く中で、男は見た、いや見てしまった。

 地面に横たわる屍の銃を、足で飛ばしてを手にした所を――。

「あっあああ、うっううっ」

 腹を抉った弾丸に苦しみながら膝をついた。男は懐の短刀を抜く、まだ意識はある今なら刃で死ぬ事が出来る。

「がっ」

 しかし何か固い筒を口に含まされた。口中に広がる鉄の味と共に男は見てしまった。

 雪が自分の口に小銃を突っ込んでいる所を――。

「あはっ」

 そしてまた、酷く嬉しそうに笑いながら、雪はその人差し指に力を込めた。

 脅える男の瞳を見ながら至極楽しそうに微笑んで――――引き金を引いた。


「くふっあはははっふふふふっ」

 顎から上が無くなった男を見下ろしながら、雪は次の敵を求めて歩き始めた。

 ふと、本陣の方を見ると『ソレ』はあった。

 雪は『ソレ』を見るのは初めての事だったが、どう言う物だかは知っていた。

「……なるほど、昨日のは『コレ』か」

 翻るそれを見ながら、雪はうっすらと微笑んだ。

 そして『ソレ』を背にしながら、千両松へと向けて歩き始めた。

 たった一人の『鬼』を殺す為に、『夜叉』は歩み始めた――。




 日は頭上を通り過ぎ、傾き始めても龍久達の状況は変わらなかった。

 葦の茂みに隠れながら、隙を見て斬りかかると言う戦法を何度もやった。もうどれくらい経ったか時間の感覚も無くなって来た。

「大丈夫か龍久」

 葦をかき分けて葛葉が現われた。竹の水筒を持って水を手渡してくれた。酷く乾いた喉に染みわたって行った。

 龍久は隣で同じ様に疲労困憊している新八に水を手渡した。

「やっぱり昨日追い詰めなかったのは痛いぜ」

「ああ、お陰さまで土方さんもお怒りだ」

 水を原田に手渡し、皆で分け合った。状況は決していいものではないが、少なくとも今押されている訳ではない、どうにか同等にはなっている。このままこれを維持して、数で再び推し倒す事も出来るはずだ。

「葛葉、雪がどこにいるか分かるか?」

 龍久は雪の安否が気になって葛葉に尋ねた。彼なら分かるだろうと思ったからだ。

「さあな……それより龍久ここは一旦引いた方が良いぞ」

「何言ってるんだよ葛葉、今俺達が引いたら誰が『天子様』を守るんだ」

 薩長の敵に落ちた京都にいる『天皇』を守る事が、この戦の目的なのだ。もしもここで引く様な事をしたら、京の『天皇』も大阪の『上様』も守れなくなってしまう。

「…………そうか」

 葛葉が残念そうにそう言った。それが何時になく悲しそうな表情だったので龍久もなんだか悲しくなって来た。だからその訳を尋ねた。

「葛葉どうした――」

「アレはなんだ!」

 原田の声で、皆の視線は鳥羽へと向いた。

 するとどうだろうか、政府軍ではない会津の装束を身に付けた兵士達が一目散にこちらに駆けてくるではないか――その表情は酷く怯えていた。

 茂みに身を潜めていた新選組を追いぬいて、会津兵や桑名兵達はどんどん淀の方へと向かって走って行く。これではまるで逃げている様だ――。

「おい、おめぇらどこに行くつもりだ!」

 原田がそう呼びかけても、誰一人立ち止まらずただ逃げているだけだった。天下の幕府軍がなぜこうもみじめに撤退しているか、龍久は困惑した。

「なんで……」

 その理由が知りたくて、葦の茂みから顔を出して周囲の様子を見渡した。

 銃弾が飛んでくるかも知れないと言う恐怖よりも、理由を知りたい好奇心が勝った。

 一体どんな兵器を薩長は持って来たのだろうか、あの会津や桑名の兵が逃げ出すほどだ、かなりの物なのだろう。

「あっ――」

 龍久がそれを目にした時、そんな間が抜けた言葉がふいと出て来た。

 他にもっと言うべき事があったのかもしれないが、とっさに口をついて出た。そして眼に写るそれが意味する事を悟って、龍久は眼がこぼれ落ちる位瞼を持ち上げて驚いた。

「あっあああ……そんな」

 体中の力が抜け落ちて行くのを感じた。手にも足にもどこにも力が入らずただ愕然と立ち尽くす事しか出来なかった。

 そして、『ソレ』を口にした――。

「『錦旗(きんき)』だ……」



 『錦の御旗』。

錦旗(きんき)』とも呼ばれ、別名『菊章旗(きくしょうき)』、『日月旗(じつがつき)』とも呼ばれる物だ。

 紅地の錦に金の日・銀の月を刺繍した二つ一組の旗である。

 たった一つの旗なのだが、この旗には大きな意味があった。

 古くは鎌倉時代に使われだした物と伝えられているこの旗には、朝敵討伐という意味があった――朝敵、『天皇の敵』を倒す軍隊のみがこれを翻す事が出来る。

 逆に、これを向けられた者は『天皇』に仇なす『逆賊』と言う事になる――。

 

 つまり、幕府軍は『天皇』の敵となったのである。


「……なんで、なんであいつら『錦旗』なんて掲げてるんだよ、なんでだよ」

 うろたえたのは龍久だけではない、原田も新八も他の隊士も皆困惑していた。

 ただただ立ち尽くすしかない龍久の腕を掴んだのは葛葉だった。

「このバカ久! 死にたいのか」

 銃弾が飛び交う中突っ立っているのは危険な為、葛葉は無理矢理手を引いて龍久を屈ませた。だが当の龍久は虚ろになっていた。

「そんな、そんな」

 『錦旗』にはそれほどの影響力があった。龍久は『天皇』と『幕府』の為に戦っていたのだ、それなのに朝敵などあんまりだ。

「葛葉……俺はこの戦ずっと『天子様』の為に戦って来たつもりだった……でも、でも『天子様』はあいつらを選んだのか、あいつらが正しいのか?」

 龍久の問いに葛葉はすぐには答えられなかった。泥と汗と返り血で汚れている龍久、この様な格好になっているのは全て『天皇』の為なのに――。

「退こう龍久、この様子だと前線は総崩れだ、今に政府軍の本隊がここまでやってくる」

 葛葉はそう優しい声で言うと、龍久の手を引いた。もう龍久には自分で歩くだけの力さえ無くなってしまった。

「原田に永倉、お前達も退け、今に敵の本隊が来るぞ!」

 そう言って葛葉は龍久の手を引きながら後退していく。原田と新八も少し考えた後それに続く事にした。

 だがその行く手を塞いだのは意外にも土方だった。

「おめぇら逃げるんじゃねぇ!」

 正に鬼の形相という所で、それに睨まれた会津兵も隊士も怯んで立ち止まってしまうほどだった。

「土方さん、『錦旗』が見えてねぇのかよ」

「アレが本物だって証拠はどこにあるんだ、此処で退いたらあいつらが本物だって認めている様なもんじゃねぇか!」

 確かにその通りだった。あの『錦旗』が薩摩の策略で造られた偽物だとすればここで引くのは彼らが『官軍』だと言う事を認めている様な物だ。

「分かったらおめぇら逃げるんじゃねぇ、俺達は新選組だぞ!」

 土方の言葉で我に返った。力が抜けた龍久の体に力が蘇って来た。

 もう一度刀を振るおうと右手を上げた時、その手を押さえたのは葛葉だった。

「いい加減にしろぅ……、お前の『ごっこ遊び』に付き合ってる暇なんてねぇんだ、お前は目の前のこの状況が見えてねぇのか!」

 葛葉がそう土方に向かって怒鳴った。

 怒っている、何時だってふざけて場を濁したり盛り上げたりしていた彼が怒っている。

「餓鬼は黙ってろ! これは俺達新選組の問題だ!」

「餓鬼に餓鬼なんざ言われたかねぇな! お前は単にこの戦に『勝ちたい』だけだろうが、もっと状況を見やがれ、新選組が残って戦ったって、全滅するのは目に見えてるだろうが!」

 ここまで本気で怒っている葛葉を見るのは初めてだった。こうやって言い争っている途中でも幾重にも重なった銃声が聞こえる。

 もう前線の兵達は『錦旗』に恐れ、雪崩の様に退却してしまったのだろう。

 この場に残っているほとんどの兵は新選組だけだった。

「黙れこの野郎が!」

 土方が葛葉を斬り殺そうとした時――彼の眼にも見えた。


「あはっ」

 ――それは『錦旗』を背にした『夜叉』だった。

 全身を血に濡らして、抜き身の村正をそのか細い手に握りしめて、まるでこれから何処かに遊びに行く様な気軽さで、こちらに向かって歩いていた。

 そして――。

「みぃつけたぁ」

 楽しそうに微笑むと走り出した、狙いはただ一つ――。


「鬼ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」


 土方目がけて、雪は葦の茂みを走る。

 それはまるで一匹の獣が疾走する様な物で到底人間の物には思えない。

「きゃはっ、あはははっ」

 笑いながら雪は立ちはだかる隊士を切り捨てる、血飛沫が体に着くがそんな事どうでもいいと言わんばかしに、ただ一直線にこちらを目指して走る。

「ゆっ雪ぃ!」

 悲鳴にも似た声を上げたのは龍久だった。

 変わり果てた雪の姿を見て、もはや意識を保つことさえ出来なくなりそうだった。

「副長、もう千両松は堕ちます!」

 斎藤の言葉通りだ、雪だけではない既に新式の銃を手にした薩長の兵が、すぐそこまで迫っている。その数は既に新選組だけで止められる物ではなかった。

「ふざけんじゃねぇ……誰が撤退なんて」

 土方には譲れない誇りがあった。ここで退くなど武士として出来ない事なのだろう。

 だがそんな中でも雪の猛進は続いていた。

大砲を撃ち、味方の撤退を援護している隊士達がいたのだが――。

「邪魔だぁ!」

 だがそんな隊士に向けて、雪は切り捨てて銃を向ける。無残にも打ち崩されて倒れて行く隊士達の姿が龍久の眼にも映る。彼の眼にも映るのだから、土方の眼にも映っている。

「お前が退かねぇと誰も退かないぞ……皆ここで死んじまうぞ、近藤からの預かりもんなんだろう?」

 葛葉が先ほどまでとは違い、優しく声を掛けると土方の心に響いた様で、悔しそうに歯ぎしりをして、何時もよりずっと小さく覇気のないその言葉を捻り出した。

「…………撤退だ」




 たった一対の旗によって完全に形勢は逆転した。

 新選組はその隊士の三分の一を戦死させてしまう大敗退をしてしまった。

 しかし彼らの働きがなければ、土方や龍久は雪から逃れる事は出来なかっただろう。

 最後まで大砲を討ち続けていた六番隊組長の井上源三郎も、腹に銃弾を受けて死んでしまった。土方の良き理解者だった彼を失ったのはあまりにも痛手だった。

 こうなれば淀城を拠点にして防衛線をするしかないと考えていた新選組だったのだが――淀城は城門を開けなかった。

「くそっ、なんなんだ一体」

 悔しさのあまり新八は木を思い切り叩いた。幕府軍は淀城下で為す術も無く立ち尽くしている事しか出来なかった。

「『錦旗』に参ってすっかり怖気づいた様だ……」

「あんなもん、どうせ偽物だろう!」

 斎藤の言葉に原田がそう返したが、その表情は暗かった。

 土方は松平容保の元へと淀城に開門要求を掛け合ってくれと直談判へと行った。正直彼の気持ちは分からなくも無かった。

 龍久は元々旗本だ、『幕府』の為ならば死んでもいいと思っていたが、『天皇』の敵になろうとは思ってもみなかった。

 むしろ双方を守りたいと思っていたのに、この仕打ちはあんまりだ。

「お前ら、橋本へ行くぞ」

 土方がそう言って直談判から戻って来た。少し怒っている様で失敗したらしい。

「時期に薩長の奴らが来やがる、とっとと行くぞ」

 橋本には何の防御策も無い、あんな所では狙い撃ちにされるに決まっているが他に行く宛などないし、きっと土方よりもずっと偉い奴がそう言ったのだろう。

 土方は木に凭れて立っている葛葉とすれ違ったが、ひと睨みするだけで特段手を上げる様な事はしなかった。

「…………橋本か」




 幕軍が退いた後、政府軍が淀へとやって来た。

 あれほど開かなかった城門は、『錦旗』がやってくるといともたやすく開いた。

 こうして幕府軍の拠点であった淀城は、政府軍の手に落ちたのだった。

 流石に日も暮れるので雪は淀にとどまる事にした。夜襲をかけるには危険すぎるのでしぶしぶ明日に備える事にした。

 敵の返り血で汚れた体を洗おうと、雪は川へやって来た。冬の川は冷たく到底入れた物ではないので手拭いを濡らして顔や腕を拭った。

 その時人の気配がした気がしたので、辺りを見渡す。

「敵っ!」

 雪は気配がした方に向けて銃を向け、そのまま何のためらいも無く撃った。

 森に銃声が響く、しかし人間の悲鳴も何も聞こえない。

「気のせいか……」

 無駄玉を撃ってしまった事を後悔しながら、雪は淀城へと戻って行った。


「……これは酷い物だ」

 茂みの中から『錦旗』の使者がやって来た。

そして足元に転がっているそれを見下ろした。

「せっかくの式神が駄目になった」

 人型に斬られた紙を拾い上げる、それの頭には銃弾で開いた穴があった。

「ここにおられたのか陰陽師殿」

 同じく水干を着た使者の男が茂みから出て来た。

「淀城へは戻られないのか? 我々の仕事は終わったであろう?」

「戻らぬ、今はそれよりも山崎へ向かわなければなるまいよ」

 山崎というのは、橋本の川向の土地の名である。そこも当然敵陣であるので使者の男は首を傾げた。

「あそこは津藩の物でしょう、それなのにどうして?」

「いえね、私の恐ろしい姉が近くに来ているもので、事を急ぐ必要があるのさ」

 そう言いながら陰陽師は使者を置いて進んで行ってしまう。

「楽しい裏切りの時間だ」

使者は状況が呑み込めないが、彼がする事に反論などせずにそれに続いた。



 橋本は、淀川の下流にある東西を天王山と男山に囲まれた守りやすい場所だ。

 淀川を挟んで左側が山崎という場所で、そこには津藩の砲台があった。

 山崎側を津藩は藤堂家に任せ、新選組は橋本側の宿場に陣を張った。

 陣とは言っても所詮はただの宿場、土俵で阻塞し鉄砲から身を守る程度の防御を造り、板で柵を造り侵入を拒む程度の物である。

 到底十分とは言えないが、今やれる事はこれだけだった。

 全ての作業が終わる事にはもう夜はだいぶ更けていた。葛葉は月を見上げながら明日の事を考えていた。

「ごめんなぁ……龍久」

 悲しそうな葛葉の言葉が橋本に小さく響いた。



●●用語解説●●

 『錦の御旗』――錦旗(きんき)とも呼ばれる旗。

        天皇の敵を倒す軍隊のみが、これを掲げる事が出来る。

    山崎 ――大阪と京都の境辺りにある地名。

        明智光秀が豊臣秀吉に敗れたのもこのあたりで、今はウイスキーの工場があったりする。

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