二八話 鳥羽伏見~前夜~
今回は短めです。
一月四日。
新政府軍本陣。
雪は激昂していた。自分の何倍も大きな体の西郷に果敢に突っかかっていた。
「私が本部待機とはどういう事だ! 西郷!」
今すぐにでも幕府軍を根絶やしにしたい雪にとっては、待機というのは苦痛以外の何物でもない、目の前にあれほどの敵がいるのに、殺すべき者達がいると言うのに――。
「おはんのやい様は酷か、あげな戦い方許せん」
「お前に許しを請うつもりなんてない、もう良い一人で行く!」
雪は西郷に背を向けて、一人戦場へ行こうとした。先の戦いを見ていた兵達は、彼女の姿を見ると恐怖し数歩下がった。
それほど今の雪は恐ろしい存在だったのだ。
「ひといで戦がでくっのか?」
西郷の言葉に雪は足をとめた。
「おはんは、武士を全部根絶やしにするのが目的じゃろ、ならばあたいの言う事を聞け、おはんの主は、今はあたいだ」
雪には力はあるが、幕軍を追い掛ける為の術がなかった。武士を皆殺しにする為にはどうしても新政府軍の力を借りるしかなかったのだ。
「……分かった従う…………でもな西郷」
雪は村正をひき抜くと、その切っ先の離れた所にいる西郷に向けた。慌てる兵達など眼もくれず、言い放った。
「私の主は龍馬一人だ、私はお前を利用しているだけだ」
そう言い残すと、雪は一人何処かへと歩き出していった。
新政府軍の総大将である西郷に向かって、とんだ無礼であるが雪はそれが許されていた。西郷も分かっているのだ、その実力がどれ程のものか――。
「……『化物』め」
一晩走り抜けて、ようやく新選組は淀を経由して、本隊が戦う下鳥羽付近へとやって来た。既に先日の戦闘で、新政府軍に押され本隊は鳥羽街道を少しずつ後退していたのだ。
龍久達がやって来た頃にはそれなりの被害が確認できるほどだったが、数ではやはりこちらが有利。
数で押し倒して新政府軍を蹴散らしていく。
「はあああっ」
龍久も敵を斬り倒していく。確かに武装こそ西洋式で優れているとはいえども、三倍の数の兵には勝ち目などあるはずがなかった。
新政府軍が徐々に後退している事は龍久もなんとなく分かっていたが、そんな事よりも最も気になるのは、雪だった。
(雪、どこにいるんだ……鳥羽にいるんじゃないのか?)
戦闘が始まって随分経ったのだが雪の姿が見当たらない。もしかしたら戦場には出て来てないのかも知れない。
龍久はそんな希望を抱きながら、今は目の前の敵を倒す事に集中する。
このまま一気に京まで進撃して、『天子様』を守らなければならない。
「進めぇ、切り崩すぞぉ!」
部下にそう命令して、共に京へと進撃を開始した。
『夜叉』が現われなかったせいなのか、幕軍の快進撃はかなりの物だった。
日が傾いた頃には、薩摩兵達は京へと撤退を始めていたのだ。
「推し崩せぇ! このまま一気に攻め込むぞぉ」
土方の号令の元新選組は、会津兵と共に刀と槍で進撃を続ける。これならば京へと入る事が出来るだろう、幕軍に希望の光が見えて来た。
「やったぞ葛葉、これで京に戻れるかも知れない」
龍久は嬉しそうに隣を歩いている葛葉に語りかけた、今は京へと向けて皆で列をなして進撃している真っ最中である。西日がまぶしく、東の空もだいぶ暗くなっていたが、関係など無い、あと一息で敵の本陣を討つ事が出来るのだ。
「…………そう簡単にいくかねぇ」
葛葉はそう淡々と答えるがそれは誰にも聞こえておらず、皆淡い希望を胸に歩いていた。
しかしそんな中、軍勢の後方――つまり淀の方から一匹の馬が駆けてくるのが見える。良く見ると、淀城からの使者が馬を駆っている様で、城で何か有ったのだろうか。
使者は龍久達を追いぬいて、先頭にいる土方の方へと一直線で向かって行った。
「何かあったのか?」
「行ってみればいいんじゃねぇのか」
自棄のやる気のない葛葉の言葉に促されて、龍久は人をかき分けながら土方の元へと向かった。
「撤退だとぉ! そいつはどういう事だ」
土方の大きな声が響いた。撤退、その言葉に新選組も会津兵達も戸惑いを隠せなかった、無論龍久もうろたえたのだが、葛葉だけは何時も通りの表情だった。
「聞いた通りだ、上様の命だ。日没が近づいたので撤退せよ!」
何と言う事だろうか、今これから京へと打って出ると言うのに、総大将からの撤退命令。これに土方は怒った。
「ふざけんじゃねぇ今これから援軍をもらえりゃあ、俺達は京に戻れるんだぞ! それなのに撤退だとぉ、馬鹿言うんじゃねぇ」
本当だ、上様は何を勘違いなさってこのような命令を出されているのか龍久には理解できなかった。あと少しで『天子様』を救い出す事が出来るのに――。
「無駄だろうな、将軍は大阪にいるんだぞ、此処の状態なんて知るはずもねぇよ」
葛葉がそう冷静に言っているのだが、正にその通りだった。なぜ慶喜が前線ではなく大阪などという遠くにおられるのだろうか、もっとお近くにくればこのような突拍子もない事を御命令せずに済むのに――。
「上様の命令ぞ、はよう淀に帰還せぬか!」
偉そうに使者は馬上から唾飛ばしながら命令した。
その唾を不快に思いながらも、土方達に選択肢などあるはずも無かった。
「何が、上様だ糞がぁ」
土方がそう使者に聞こえぬ様に呟いていたのを、龍久は聞き逃しはしなかった。
こうして幕府軍は新政府軍をあと一歩の所で追い詰める事叶わず、淀へと引き上げたのであった。
この日新政府軍は事実上引き分けたと言ってもいいだろう。
いや、もしも援軍を出されていたら負けていたかもしれない。なぜ敵が兵を引いたのかは分からないが、そのおかげでこうして体制を立て直す事が出来ている。
西郷は己の下唇をかみしめた。そんな彼を雪は良い気味だと思っていた。自分が戦場に出ていれば、此処までの追い詰められる事など無く、今日の内に大阪へと進撃出来たろう。
「明日は行くぞ、良いな」
そう言って椅子に座る西郷を見下ろしていた。仮にも総大将の前で何と言う態度であろうか、だがそれを咎める者などいなかった。
西郷さえも何も言わずにただ顔をそむけるばかりだった。
雪はそんな彼に背を向けて、明日の準備の為に本陣を後にする。
「…………?」
そんな時、幕をくぐって誰かがやって来た。
長い黒髪を垂らし片方の目を隠して、見えている方の眼には蛇の様な刺青をしていた。性別はなんとも分かりにくいが、かろうじて男で有ろうと言う事は分かった。
濃い紫の水干を身に纏っており、同じく水干を身に纏った高貴な男と共にやって来た。
「…………ふふっ」
その奇妙な男は、眼が合うと微笑んで来た。なんだか不気味な笑みだった。仮面を付けている自分に微笑むなど、それだけでも十分常人ではないだろう。
男二人は西郷の元へと行くと、深々と礼をした。
「お初にお目にかかります西郷様、私は『天子様』に使える者で御座ります」
唐突な挨拶で始まった物で西郷も驚いていた。だが雪からすれば『天子』すなわち天皇等どうでもいい事だったので、聞き耳を立てる様な事はせずにそのまま外へと出た。
雪が出て行くとちょうど話が本題へと移った。
「此度の戦、『天子様』をお守りして頂く為にこの様な戦力に差がある中出兵して頂き、誠に痛み入りまする……」
西郷からすればこの男の言い分はどうでもいいことだった。だが朝廷の使者を無碍にする事も出来ず、しっかりと向き合って話す事にした。
「西郷様、『天子様』は貴方様の働きに誠関心なされ、この様に戦力の差がある中でもこの鳥羽で持ちこたえてくれている貴方方薩摩の兵の身を大変案じておられました」
そう言って美しい菊の蒔絵がなされた高価な箱を取り出した。菊は天皇家の紋である。
「これは?」
「こちらは『天子様』よりの労いの品でござりまする、どうぞお納め下さい」
少し疑いながらも西郷は箱を受け取った。そして恐る恐る中を開けてみた。
「――っ!」
驚きのあまり声が出なかった。そんな西郷を見ながら、男は大層気味の悪い笑みを浮かべて言う。
「これをどう使うかは、貴方次第ですよ……西郷様?」
そう言う男の笑みは本当に気味が悪いが、今の西郷にとってはこの笑みさえも嬉しく思える物だった。




