二話 秘密の友達
文久三年(一八六三年)、七月。
夜もだいぶ更け、ほとんどの者が眠りについている時。
薬屋の戸を叩く者達がいた、それが酷く大きな声でわめくので、薬屋の店主は眠い眼を擦りながら起きて、戸を挟んでそれらと話した。
「こんな真夜中に何の用だ」
「はいすいません、実は父が今夜にもヤマと医者に言われまして、是非とも薬を売って欲しいんです」
それは大変だと店主、薬を売るのは薬屋の本分、それならば仕方がないと一体どんな薬が欲しいのか尋ねてみた。
「はい、人魚の干物です」
「はあ!」
そんなもの置いてあるはずがなかった、店主は奇声を上げた後気が付いた、自分は今からかわれていると言う事に――。
「お前達、今そこら中の店に『無い物買い』をする若造どもだな! そこで待ってろすぐにとっちめてやる」
すぐに戸の鍵をあけてみるのだが、数人の若者の影は、もう遠くの方へと走って行ってしまっていた――。
「よしっ此処までくれば良いだろう」
そう一人が言うと皆止まった。提灯に火を付けながら、先ほど『無い物買い』をした仲間に尋ねた。
「それにしても、薬屋に人魚の干物を買いに行くなんてな、恐れ入ったよ雪光」
提灯を雪光に向けながら龍久はそう言った。上がった息を整えながら雪光は答えた。
「うんっ、人魚の肉は不老長寿の妙薬だからね、薬屋に尋ねるのが本分だろう」
「いやあ、魚屋かもしれないだろう、人魚は魚なんだから」
そう藤田が笑いながら言った、そうこの集団全て道場の門下生であった。
『無い物買い』と言うのは、この仲間内で流行っている遊びだ。
夜の店に行って、その店には到底置いていない様な物を要求して逃げるという発想は実に子供の考えそうな物なのだが、『無い物買い』の真骨頂は、その店に置いてあるか置いていないかの中間をいかに見極めるかだ。
「でも薬屋の店主には悪い事をしたね、こんな真夜中に起こしてしまって」
「ははっこの遊びは主人を叩き起こす所もまた一興なんだよ、今日の成績は雪光が勝ったから俺が二勝一敗の、藤田が二勝一敗、雪光が二勝中か……」
「雪光はなかなか面白い物を買うよな、この間の鯨の一夜干しは笑わせて貰ったよ」
「えへへっ、でもあったら食べてみたいだろう、鯨の一夜干し」
「ああそうだな、俺なんかこの間薬屋で虫の生えた草をくれって言ったら、本当にそれがあって、馬鹿高い良く分からんものを買わされたよ……」
三人はそう言って笑いあった。
この三カ月ほどで、ずいぶん藤田とも打ち解けた雪光は、こうやって悪戯までする様になっていた。
道場でも目を見張るほどの腕前になった雪光。そんな彼は仲間内でもなかなか面白い奴という評価を受けて、皆でつるむ様になり何をさせても大体器用にこなしていた。
「今日はもう遅いからこれで解散にしよう、また明日道場で」
そう藤田が言うと、皆解散した。
龍久と雪光は、皆に手を振るとともに帰宅の途に就いたのであった。
「それにしても今日はずいぶん蒸すな」
「本当だね、まだ夏はこれからだっていうのにね……」
手で首筋を仰ぐしぐさはなんとなく色っぽく、思わず目をそむける龍久だった。
「今日は星が綺麗だね……」
上空に浮かぶ星の川は、美しく吸い込まれてしまいそうだった。二人で歩くとこの何時もの道もなぜか華やかに思えて仕方がない。
「この間藤田君がねやっと突き技教えてくれたんだ、でもやっぱり上手く出来なかったんだ、僕にはどうも腕力が足りないみたいなんだ」
「雪光はほそっこいからな、もっと飯を食え」
「そりゃ龍久に比べれば僕はずいぶん肉付きが悪いけど……ご飯だってちゃんと食べてるよ、龍久が食べすぎなんじゃないのか?」
「そんなことないな、俺は飯二杯しか食ってないぞ」
「だってあ~んな山もりのご飯だよ、食べすぎだよ、きっと龍久は将来太るね」
「うるさい、俺が太るんだったら雪光は骸骨だな」
そんな冗談を言い合いながら、二人は川沿いを歩く。
しばらく無言の時が流れると、ふと雪光が口を開いた。
「ねぇ……龍久ってもしかして女嫌いなの?」
「えっ」
雪光はこの三カ月ずっと胸にしまいこんでいた事を話した。
なぜ今話したのかはわからないが、今日は月が無くて星がとても綺麗だったからかもしれない。
「藤田の奴にでも聞いたのか?」
「うん、まぁ……」
やはり話したく事だったのだろうか、だが自分だってこんな事本当は聞きたくはなかった。でも聞かずには居られなかった。
「別に嫌いって訳じゃないんだけどさ……ただなんかなぁ」
雪光はその続きを待った。
聞かずには居られなかったのだ、それによって自分の気持ちに整理を付けたかった。
真剣な面持ちで、龍久の言葉を持つ雪光に圧倒され、観念したのか気が重そうに続きを話した。
「……婚約を解消したのは、所帯持ちになるのがカッコ悪かったからだ」
呆気にとられた。
ずっと自分に非があったのではと心のどこかで思っていた分、こうも馬鹿馬鹿しい理由を述べられると拍子抜けしてしまう物だ。
なぜかそれを聞いたら腹立たしさよりも、清々しさを感じた。
男というのはなんて馬鹿な生き物なのだろうかと――。
「それに、あそこの家の父親は好きになれなかった、ものすごくお膳立てしてくるし、なんというか、ねちねちした奴だった」
それは同意出来る。あの人はそう言う人間だった。
あれほど人を悪く言った癖に非が自分にあると知ったら、どんな顔をするだろうか。
「じゃあ、何時かは誰かを好きになるかも知れないんだね」
「えっ……まあそうだな」
今龍久の顔が少しだけ赤かった事に気が付かずに、雪光は微笑んだ。
ただ彼は今安堵感に包まれていた。
(よかった……龍久恋人いないんだ)
「この馬鹿息子共!」
待っていたのは、般若の様な面構えの龍久の父親だった。
どうやら『無い物買い』の事がとうとうばれてしまった様だ。
「武士の子の癖に深夜に人様に迷惑を掛けるとは、この愚か者共!」
そう怒鳴ってから、岩石の様に固い拳骨を二人にかました。
もうこの時には、雪光は既に南雲家の一員となっていたので、皆家族の様に接している為お仕置きもほとんど龍久と変わりはないほどだった。
「全く、龍久はともかく雪光君はこういう暴走を止めてくれる子だと思ったのだが……」
「ごめんなさいおじさん……」
しゅんっと小さくなって謝る雪光。そんな彼を見ているとなんだか怒っているこちらが悪い事をした様にさえ思えて来た。
とりあえず、今日はこの位にして置こうと怒鳴るのを止める父を見て、二人は目配せで喜んだ。
「そうだった、お前達に紹介したい者がおるのだ」
こんな夜遅くだと言うのに紹介など、不思議に思いながらも勝手場から現れた人間に眼を向けた。
お世辞にも上等とは言えない着物に、少しばかり艶のある黒い髪。見るからに市井の娘と分かる少女だったが、何処か艶がある様に思える子だった。歳も雪光と同じぐらいに思え、ほんの少し嬉しかった。
「お前達が出かけている時に着いたんだ、明日から本格的に家で働いてもらう奉公の子だ」
「へぇ、お時と申します、どうかよろしゅうお願い致します」
身なりとは違って京都訛りのどことなく上品な子だった。
初めて都訛りと言う物を見て雪光は興味心身だった。
(……京都訛りか、年も近そうだし仲良くなれるかな?)
「はいはい、まぁ宜しく頼むよ……、雪光行こうぜ」
雪光と違い、龍久は全く彼女に興味が無く、欠伸をしながら自分の部屋へと向かってしまった。どうしようか迷ったが、とりあえず彼について行く事にした。
「……あっ」
すれ違い様眼が合ってしまったが、彼女は特に何も言わずにそのまま後を追った。
(……お時か、なんか不思議な子だな)
それから数日後。
満月が綺麗な夜の事だった。雪光はある事で目を覚ました――。
「あっ……あああっ」
布団の中を覗いてひどく落胆した。しばらく悶々と頭を悩ませると、しぶしぶと起きた。
雪光は、月に一度こうやって女だった事を思い出させられる日が来る。
人目を気にしながら着物を井戸水で洗っていた。鼻を突く血の匂いが憎たらしくて堪らない。
(思っていたより今月は早く来た、女は毎月毎月これだから面倒なんだ!)
コレが来る度に、自分は龍久とは違うと言う事を思い出し、切なくなった。
胸を締め付けられるこの苦しみは、自分がみんなを騙して身分を偽っているからだろうか、それとも別の何かだろうか、ただ月明かりの中着物を洗う事しか出来なかった。
「そこに誰かいるんどすか?」
そう流暢な京都訛りで話しかけられ、雪光は驚き洗い物をしていた桶をひっくり返した。
「なんや、雪光さんや有りませんか」
提灯を持ったお時だった。きっと物音を聞いてやって来てしまったのだろう、桶をひっくり返した事と提灯の明かりによって、彼の思考は吹き飛んでしまった。
「雪光さん……もしかして」
「あっいや、違うんだ、そのなんて言うか……」
言葉に詰まった。
ばれてしまった。よりによってただの奉公人にすぎないお時にこんな重大な秘密を知られて、こんな事でせっかく親密な関係になった南雲家と縁を切られるのは嫌だった。むしろ焦りから不安が込み上げて来た。
何か言わなければならないのに何も言えず、ただその辺の若木の様に、弱弱しく立っている事しか出来なかった。
「……だめどす、こんな洗い方じゃ染みになってしまいますよ」
「えっ」
お時はそう言うと、桶に水を汲み直してその着物を洗い始めた。予想できなかった事で今度は石の様に固まった。
「着物はこれでええと思います、ちょっとお部屋でまっとってください」
そう言い残して、洗ったばかりの着物を持って何処かへ行ってしまった。
雪光は何も出来ないまま、その場に呆然と立ち尽くしていた。
結局言われた通り、部屋で待っていた。
お時が何時龍久達に言うか気が気ではなかったが、部屋から出る勇気もなかった。
ただ布団を深く被ってびくびくと脅えていた。
「失礼します、雪光さん」
京都訛りに呼ばれ、飛び跳ねるほど驚いた。小さな声でどうぞと言うと、静かに戸を開けてお時が入って来た。
「着物は人目に付かないように干しときました、明日の洗濯物と一緒にもう一度洗いますんで、だれにもばれない思います」
「うっうん……」
「それとコレ、ウチの畚やけど使って下さい、あと綿を分けて来てもろうたんでコレも」
今の自分に必要な物を全て持って来てくれた。その手際のよさに呆気にとられた。まさか自分を庇ってくれるのだろうか。
「雪光さんは、ええとこ生まれやと思って、当て布よりは綿のほうがええと思ったんですけど、大丈夫でした?」
「うっうん……有り難う、お時」
そう言うとお時はにっこりと笑って、部屋を後にしようとしたので引き留めた。
どうしても聞かずには居られなかった。
「あのさ……、どうして何も聞かないの……?」
「なんや事情がある様に思えましたし、それに『お馬さん』はどんな女でも辛いですし」
『女』、と久しぶりに呼ばれた気がした。
長らく『男』として過ごしていたので、こんな形で自分の秘密を知ってしまう人が現れるなど思ってもみなかったし、望んでもいなかった。
「あの、出来れば言わないで欲しい……この家の人や他の人にも、僕はさる理由から身分を偽らなきゃいけないんだ、だから……そのぉ」
「ええですけど……、ウチからも一つ交換条件があります」
背に腹は代えられない状況だった為、どんな条件でも飲むつもりでいた。だが不安はどんどん湧き出て来て、到底平常を保つ事は出来なかった。
そんな雪光の事を見て、お時はくすりと笑みを浮かべると――。
「ウチとお友達になって下さい」
それは実に簡単な頼みだった。
「ウチ、国から来てまだこっちの勝手もようわかりまへんし、年が近そうな雪光さんなら話があうんやないかと思って……、いやどすか?」
「うっううん……そのもっとすごい要求をされるのかと思って……だから吃驚して」
それを聞くとお時は笑い出した、それにつられて自分も笑った。
お時はとても楽しそうに笑う、そんな彼女を見ているとなんだか穏やかな気分になれた。
●●用語説明●●
お馬さん――月経。
畚――女性用のふんどしで、形状は今のパンツに近い。
月経のときは、これに当て布(あるいは綿)などを挟んで居た。