二〇話 一つの選択
「雪! 生きていたのか!」
龍久はあまりの嬉しさから眼頭が熱くなった。雪が、雪が生きていた。
何度彼女を思い哀しんだだろう。
何度彼女を不幸にした事を悔やんだ事だろう。
何度彼女を愛した事だろう。
雪が、生きていてくれた――。
今すぐにでも彼女を抱きしめて、あの時の謝罪と自分の気持ちを伝えたかった。でもそれを遮る様に、土方がどっしりと構えていた。
「おっおい、雪ってまさか、龍久お前の知り合いだったのかよ!」
平助がそう言うが、今の龍久に彼の言葉等聞こえなかった。ただ眼の前に居る雪だけに集中し過ぎて、此処がどこなのかも忘れてしまいそうだった。
「雪なんとか言ってくれ、頼む」
そう無様にも懇願した。だが龍久はどうしても彼女の口から聞きたかった。
彼女が生きている証明を――。
「……龍久」
三年ぶりに彼女の口から聞いた自分の名前は、あの時よりずっと色っぽく聞こえた。
それでも雪だと分かる、雪が帰って来たのだ。
「龍久こいつは敵だぞ! 知り合いでも慣れ合うんじゃねぇ!」
土方の渇によって、龍久はようやく現実に引き戻された。
そうだ、雪は攘夷志士。この国と幕府を脅かす国賊、犯罪者なのだ。
「坂本龍馬、てめぇは犯罪者なんだ、神妙にお縄について貰うぜ」
「龍馬に近づくな!」
雪が怒号を上げる、だいぶ薄くなった両の瞳で土方を睨みつける。
「お前達の様な変化を拒んで苔むした石の様に古びた人間とは思想が違うんだ、この人は今の日本に必要な人なんだ、指一本でも触れ見ろ一人ずつ斬り裂いてやる」
その気迫は鬼の副長にも引けを取らない物だった。だが龍久は、雪がそこまで坂本龍馬に入れ込んでいる事が無性に腹立たしかった。
「はっ仮面が取れた途端に随分お喋りになったじゃねぇか……なんだ正体でもばれたくなかったのか?」
「苔むした凡人どもに分かる様に口を開いているだけだ」
もはや完全に二人はやる気だった。
止めたかったが、龍久にはそんな力などない。どうすればいいのか迷っている間に、戦闘が始まった――。
「はああああっ」
真っ先に動いたのは雪だった。土方に向けて左からの一閃を食らわせる。しかしそれは兼定によって防がれ、男の力によって無理矢理振り払われた。
「うおおおおおおっ」
怒号と共に土方の一閃が轟く、しかし雪の眼はそれを捉え回避する、そして空きになった胴へと鋭い突きを放つ。だが土方はそれを右からなぎ払う様にして叩き落とした。
「やあああああああああっ」
叩き落とされても雪は一歩前に踏み込み、村正をまるで円を描く様に振り回す。遠心力によって破壊力と速さを得た村正が、土方の胴体に向けて放たれる。
だが土方はそれを兼定で無理矢理防いだ。そして鍔迫り合いに持ち込むと思い切り突き飛ばした。雪は吹っ飛びながらも、そのしなやかな肉体でどうにか体制を立て直し、再び土方に無かって斬りかかった。
まるで二人しかいない世界かの様に、誰一人としてその戦いに横やりを入れる事が出来なかった。沖田も永倉も斎藤も平助も葛葉も龍久も、だれもその戦いに手出しが出来ない。
(どうする、どうすればいいんだ、どうやったら止めさせられるんだ)
龍久は一生懸命考えたが、どう考えても止めさせる事は不可能だった。だから今にも雪に向かって振りかぶろうとしている土方に、思い切り叫んだ。
「止めてくれ土方さん!」
その言葉に反応して、一瞬動きが止まった。
その一瞬の隙を狙っていた様に、龍馬が言葉を発する。
「雪、下がるぜよ!」
瞬間、机が飛んで来た。
龍馬が投げた机は、土方と雪の間に落ちて大破した。
雪は土方に背を向けると、仮面を拾い上げると龍馬とアルの後を追う。
「くそっ、待てぇ!」
土方は急いで三人の後を追う。皆その後に続いて行くのだが、龍久を葛葉が止めた。
「待て龍久、逃げる獲物は追い掛けると余計に逃げるんだぜ、裏口に行って挟み撃ちだ」
冷静な葛葉の判断で、龍久は裏口から路地へと廻り込んだ。
するとちょうど三人が駆けて来た所だった。葛葉が路地に立てかけてあった角材を蹴り飛ばすと、雪と龍馬はそれをどうにか避けるが、アルは角材に押し倒された。
「アル!」
雪が駆け寄ろうとするが、龍久は雪の前に立ち塞がった。
「雪、逃げないでくれ! 逃げれば罪が重くなるんだぞ」
「捕まったら処刑だけどな、どぶうっ」
余計な事を言った葛葉に向けて思い切り肘鉄を食らわせた。
「退け! 退かないならば押し通る!」
アルと龍馬を何としてでも逃がす為に、雪は龍久の言葉を受け入れようとはしなかった。
「龍久、お前はそのまま異人を押さえておけ!」
土方はそう言うと雪にじわりと迫って行く。このままでは再び戦いが始まってしまう。
(なんでこうなるんだ、せっかく会えたのになんで……)
龍久は悔しさのあまり下唇を噛んだ。そして目の前のアルに視線を落とす、雪は龍馬と彼に絶大な信頼を寄せている、彼が言えば止めるかも知れない。
「おい、あんた雪を止めてくれよ、あんたの言う事なら聞くだろう!」
しかしアルは口を閉ざし、眼を逸らした。彼も分かっているのだろう雪がやっている事が犯罪である事を、
「頼む、なんとか言ってくれ!」
「アノ子ハ、モウ私ノ言ウ事ナンテ利キマセンヨ」
突然切り出した、それはあまりに予想していなかった言葉だった。
「ズットアノ子ヲ見テイレバ、アノ子ガドンナ人生ヲ歩ンダカワカリマス、ダカラ幸セニナッテ欲シイ、シテ上ゲタイト思イマシタ、デモアノ子ハドンドン進ンデシマウ」
アルは龍馬と共に新選組と戦う雪を見つめる。その表情はどこか悲しげだった。
「モット早ク止メルベキダッタ、止メテイレバアノ子ニ別ノ道ヲ進マセレタ」
新選組から龍馬を守る為に、村正を振るう。その姿は女からはかけ離れた物だった。
「デモ、止メテシマエバアノ子ガ消キエテシマウ気ガシテ、何モ出来ナカッタ」
それでもつなぎとめたくて、あんな事を言った。でもそれは、彼女にとっての障害にしかならなかった。
『ユキの肌の色が変わった時……僕の為だと思ったのになぁ……』
アルは哀しそうに微笑むと、懐に手を入れた。
「お前何を!」
龍久が止めようとしたが、既に遅くアルは懐の物を雪に向って放り投げた。
『ユキ! 受け取れ』
天高く上がったそれを、雪は掴んだ。
それは、島原に入る為アルに没収されていた短銃だった。雪は驚いてアルを見た。
『アル、なんで……』
『ユキ、君は自由な生き方が一番合ってると思う……だから君がしたい様にさせてあげべきなんだ……』
自分の気持ちを堪えてアルは雪を真っ直ぐに見つめる。
『ユキ! 君は坂本龍馬と一緒にこの国を変えて見せるんだ! こんな国一度海へ出てしまえばちっぽけで大した事なんてない! だからユキ、君が変えるんだよ!』
本当はプロポーズしても、自分が相手にされていない事ぐらい分かっていた。
それでも、男にはどうしても為さねばならない事があるものなのだ。
『僕はアメリカへ帰る! そこでずっと君を想うよ!』
今度こそアルの気持ちが十二分にわかった。雪は今まで彼の事を男として思った事がなかったが、これが今生の別れになるやもしれないと思うと、胸が苦しい。
でもアルは自分をこうして送り出そうとしてくれている、だからこそ雪もそれに答えなければならなかった。
「Thank you for Al」
精一杯の笑顔を浮かべて、そしてアルに背を向ける。
これからは龍馬と共にこの道の行く末を見つめなければならないのだ。
「龍馬、行こう!」
「『おけー』ぜよ!」
二人は銃口を新選組に向ける。
そしてこれからの未来に向けて、引き金を引いた。
ひるんだ隙をついて、二人は夜の京の街を疾走していく。
龍久はただ、そんな雪の後ろ姿を見ることしか出来なかった。
「くそっ、雪」
雪を追い掛けようとする龍久だったが、それを制したのは葛葉だった。
「どけ葛葉、このままじゃ雪が、雪が!」
「少し冷静になれって、銃相手でお前に何が出来るんだ」
確かにその通りだった。二人とも銃を持っていて、刀の自分ではどうしようも無い。
一体アルが何を言ったか分からないが、雪が彼の言葉で逃亡を決意した、せめてこの男だけでも捕まえる事にする。
「事情を詳しく教えて貰おうじゃねぇか」
鬼の様な形相の土方がアルに向けて刀を抜く。自分の立場が分かっているのか口を噤み視線を逸らす。
「この異人を屯所まで連行だ、そこで坂本龍馬について洗いざらい話して貰うからな」
土方がアルを捉えようと手を伸ばしたのだが、そんな彼の前に意外にも立ち塞がったのは葛葉だった。
「なんだお前、そこを退け」
「こいつを捕まえるのは止めた方が良いぜ、あんたの大事な新選組が無くなってもいいなら話は別だけどな」
その言葉に眉を吊り上げたのは、土方だけではないこの場に居る隊士全員がその言葉に嫌悪感をあらわにした。
「どこぞの藩と喧嘩して、お前の『ごっこ遊び』を潰したいってんなら話は別だぜ鬼の副長さんよぉ」
「なんだとてめぇ」
今にも葛葉と一戦揉めてしまいそうな土方、だが何時も土方を避けていた葛葉にしては珍しく、不必要に彼を煽っている気がする。
「俺はあんまりあんたには関わりたかねぇんだが……今回ばかりは話は別だ、新選組が無くなるのは俺としても芳しくない、親切心で言ってやってんだぜ」
「話を濁してる奴に言われたかねぇな、第一どこぞの藩ってのはどこの事を言ってんだええん? 俺達は泣く子も黙る新選組だ、なんなら此処でこの異人斬り殺したっていいぜ」
「言えないね、あんたは『この時代の人間』にしては頭がよすぎるんだ、だからこそ言えない事もある……」
なぜだか分からないが、この時の葛葉の顔がとても悲しげに思えた。
その時アルは隙をついて逃げ出した。
『あんたがしようとした事、俺は正しいと思うぜ』
葛葉そうアルに語りかけたが、その意味の真意は分からなかった。
だが一目散にアルは京の街を走る。
「くそっ、まちやがれ!」
土方が平助と龍久を連れて追い掛ける。アルは路地を右に曲った、急いで三人が追うのだが――。
突然、提灯の光が眼を突き刺した。
「なっなんだぁ」
明るさに眼が慣れると、数十人の男達が道を塞いでいてとても通れなかった。
「おいてめぇら、どきやがれこっちは今捕り物の真っ最中なんだ!」
「あたいどんも任務でこけいる、どくわけにはいかん」
平助が啖呵を切って見せるが男達も負けてはいない。一歩も退く事は無かった。
「なら今異人が来ただろう、そいつはどうしたんだ」
「誰も通っていない、任務の邪魔です早よ帰っくいやい」
そう平然と言って見せた。
そんなはずない、間違えなくアルはこの道を曲ったのだ。見ていないはずがない、なぜこいつらが邪魔をするのか全く見当もつかない。
「(龍久、こいつら薩摩の連中だ)」
「(薩摩! なんで薩摩が邪魔するんだよ)」
薩摩は幕府側の藩だ、それがなぜ同じく幕府側である新選組の邪魔をするのかが分からない。それに薩摩は西洋嫌いのはず、異人を庇うなどあり得ない。
(一体……どうなってんだよ)
この場はしぶしぶいったん引く事になった。
しかし間違えなくアルは薩摩藩に庇われた事になる。龍久の知らない所で、この国は何かが変わってきているのかも知れない。
水面下で何かが動き出そうとしているのかも知れなかった。
「あれ……葛葉は」
龍久が周囲を見渡すが、葛葉の姿は無かった。相変わらずの神出鬼没だった、色々と尋ねたい事があるのだが。
(……雪、俺はどうしたらいいんだ)
葛葉は少し離れた路地で龍久の事を見ていた。
龍馬と雪を取り逃がし、アルを薩摩によって隠された新選組は何の成果もあげる事も無く、この場から立ち去る事しか出来なかった。
「……あと一年か」
葛葉は京の街に眼を移す、それを目に焼き付ける様にじっと見つめていた。
そんな時足元を一匹の蛇がうごめいていた。真っ黒い模様のない蛇で、葛葉に気付くと逃げるように引き返して行った。
しかし、葛葉はその蛇の頭を思い切り高下駄で踏みつけた。
蛇の骨が折れ肉の潰れる音を立てながら絶命した。
「……激おこぷんぷん丸」
葛葉そう頭が潰れた蛇に吐き捨てると、路地の闇の中へと消えて行った。




