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雪華散りゆき夜叉となりて…  作者: フランスパン
第一部 江戸編
2/74

一話 神が造った天才

 南雲家は、大身旗本としてかなり名が知れている方だった。

 上野に居を構えている時点で、天原家は比べるに値しない存在と言う事になる。

 その門構えも、正直圧倒的に南雲家が勝っている。

(私はこんな所に嫁入りをしようとしていたのか……)

 今更ながら飛んでもなく玉の輿な婚約だった事を理解した。これならば父が怒るのも無理はないと思えた。

「龍久! お前丸一日どこに行っていたのだ!」

 少し年老いた男性が、どたどたと廊下を慌てて走って来た。とても怒っている様子で龍久目がけて怒鳴った。

「あっ……これはこれは御客人か?」

「そうなんだ父上、彼は雪光、崖の上から川に落ちた俺を助けてくれた命の恩人なんだ」

 川に落ちたという話を聞いて少なくとも動揺した様で、怪我の心配をして来た。

「酷く打ち身をなさっていたので、とりあえず薬を煎じてみましたが出来ればちゃんとした医者に見せるべきだと思います」

「ああ、すぐに医者を呼ばせよう……龍久話は後でゆっくりと聞かせて貰うからな」

 その言葉を聞いて苦い顔をする龍久。だがそれを追求する事よりも、一刻も早くこの家から出る事の方が大事、無事に送りと届けたので逃げる事にする。

「それじゃあ僕はこれで――」

「待ってくれ、息子の恩人をただで返すとは、南雲家の恥だ!」

 この父親息子よりもずっと強情で、腕を掴まれるとそのまま客間へと引っ張られた。

 こうして茶と菓子を出されても、どうする事も出来ずにいた。

(まずい……もしも身元を確認される様な事になれば、私は父上の元に返されてしまう……それは嫌だ、せっかく自由に生きれると思ったのに)

 今まで我慢して生きて来たのだ、こんな所で諦めたくはなかった。

 しばらくすると、父親と母親らしき人がやって来た。

「雪光君だったかな? 私の息子を助けて頂いて本当にありがとう、あんな馬鹿息子でも親としては心配でな」

「いえ、人として当然の事をしたまでです」

 とりあえず笑って誤魔化した。もしかしたら自分の義父と義母になっていたかも知れない人達を見る。

 父親はいかにも肉体派という感じの男性で、年こそ取っているがやり手である事は、その肉付きで察しがつく。

 母親の方はお淑やかそうだが、とても頭が良さそうで笑顔が穏やかな優しそうな人で、とても恵まれた家族だと言うのが想像できた。

(あの男は、こんなよさそうな家族を持っていたのか)

 ほんの少しだけうらやましく思ってしまった。

「雪光さん、貴方はまだお年も若そうですが、おいくつなの?」

「はい一五になります」

「そう、お住まいはどこなの? 上野まで一人来たの?」

 流石は女性、こういう所を気にするのが母親として当然なのだろう。

 どうこたえるべきか悩んでいると、龍久が戸を開けて入って来た。

「母上、雪光は家出をして一人上野まで出て来た立派な武士なんだ、そんな風に子供扱いしないで下さい」

「あらあら、龍久もう良いのですか?」

「雪光の手当てがとても良かったと医者が言っていました」

「そうなのか、君は医学生を目指しているのかい?」

「いっいえそう言う訳ではありませんが……薬草に詳しいだけなんです」

 またまた南雲家の一同は感心して目を輝かせているが、田舎者の知識というものなので感心されても困る。

「それで君はこの辺りにあてでもあるのかい? 今はこの辺りでも職を探すのは難しいぞ」

「はあ……まあ読み書きは出来ますし、多少なら金銭もありますのでしばらくは食い繋げますから……あははっ」

 また笑って誤魔化そうとしたのだが、今度は無理だった。三人とも深刻そうな顔をしてしまった。こちらは何時正体がばれるか不安で仕方がないのに――。

「貴方、息子の命の恩人がこんなにも困っていらっしゃるのに、私達は何もしないのですか?」

 困っているのは貴方方のせいです。などと言えるはずもなく、話はどんどん進んで行く。

「そうだなぁ、よし雪光君」

 嫌な予感しかしなかったが、とりあえずとぼけて明るく会釈した。


「君の職が見つかるまで我が家を使うと良い、もちろん飯の心配もしなくて良い」


 断らなくてはと思ったのだが、実際自分には行く宛などなかった。

 だからこの誘いを直ぐに断る事が出来ずにいると、三人の話はどんどん進んで行ってしまっていた。

 部屋の片づけとか、布団を干すとか、既に断るに断れない状況になってしまっていた。

「えっあっあのぉ……」

「雪光、安心しろこの南雲家受けた恩は必ず返す、お前の衣食住はこの南雲家に任せろ!」

 龍久のその言葉によって、もう雪には何も言えなくなってしまった。

 ただ引きつった笑顔を顔に張り付けておく事しかできなかった。

 こうして、雪は、雪光としてこの南雲家に御厄介になる事になったのであった――。



 南雲家には、本当に色々な物があった。

 書物もそうだが、豪華な調度品や度々目につく着物も、全て高価な物だった。

「……龍久の部屋にも本が沢山あるんだね」

「ああ父上がな、お前は頭も切れる武士になれって、そう言ってこういう本を何冊も買ってくるんだ……俺はどちらかっていうと剣の方が好きなんだけどな」

 埃をかぶった本の山を物色していると、とても有名な政治の書や思想の本などがある。更に西洋の事を記した貴重な書物さえもあった。

「すごい……どれも本当にすごい本だね」

 読まずにはいられない、それに眼を通す。あまりにも雪光が一生懸命読んでいるものだから、龍久は思わず苦笑した。

「雪光は勉強が好きなのか?」

「えっ……いや、したくても出来なかったんだ……僕には必要ないと何時も父が言っていて、でも母上は時々本を読ませてくれた……それが楽しかったんだ」

「君の母上は、一体どんな人だったんだ?」

 何気なく聞いたことだった。だが、雪光の表情は少し暗くなってしまった。

「すごく……明るい人だった、僕とは違いどんな時でも楽しみを見つけてしまう人……、それに父に何時も叱られていた僕にも優しかった……でも三年前に亡くなったよ」

「……すまん、嫌な事を聞いたな」

「いいよ、母上は流行り病で死んでしまった……僕を残して……」

 母親の事を思い出して、哀しくなってしまったのか、その表情は重い。悪い事をしてしまったと、どうにか元気づけようとする。

「雪光、その本読みたいならやるよ、だから南雲家では好きなだけ勉強するといい」

 とりあえずそう言ってみたのだが、こんな事で彼が喜ぶ訳が――。

「ほっ本当かい! 龍久この本本当に貰っても良いのかい!」

 とても喜んでいた。本を大切そうに握り締めている。

 自分が嫌いな勉強をこんなにも嬉しそうにやる事が信じられなかったが、どうやら明るくなってくれたので、一安心だった。

「龍久、本当に何と言ってお礼をすれば良いのかわからないよ……」

「礼など気にするなよ、それに礼をしなければいけないのはこっち――」

 雪光は、龍久の裾を引っ張って眼をしっかりと合わせる。

 彼の眼は本当に綺麗な黒曜石の様な漆黒で、髪も艶のある宵闇の様だった。肌だって張りがあるし、か細い頸など触れれば折れてしまいそうだった。

 その小さな唇だって、艶があって綺麗な赤で、そんな口から一言――。


「龍久……ありがとう、うれしい」


 たった一言なのだがなぜか龍久は猛烈にむず痒くなった。

 言葉では言い表せない感情、顔が熱くなり彼を見る事ができなくなった。

(なっ……なんだ、今俺……照れてる?)

 男友達にお礼を言われても、こんなに恥ずかしくなった事はなかった。だが、雪光だけは違う、顔が熱くなって赤くなって、眼を合わせる事が出来ない。

 こんな風に赤くなっている所を見られたら、女々しい奴と思われるかも知れない。

 龍久は必死に顔を隠した。

「どうしたんだ龍久?」

「いっいやっ何でもないぞ! そっそれよりも雪光お前は剣術は出来るのか?」

 無理矢理に話題を変えてみた、これ以上この話をしているとどうにかなってしまいそうだった。

「剣術は、ほとんど我流でやっていたから……あんまり得意じゃないなぁ」

「そうか実は、俺の通っている剣道場の師範にお前の話をしたら、一度来てくれと仰っていたんだ、だから明日一緒に行ってみないか?」

「本当かい! でも僕の様な田舎者が行って大丈夫かなぁ……」

「大丈夫だ、お前を悪く言う様な奴がいたら、俺がそいつをぶん殴ってやるさ」

 そう拳を握って見せると、楽しそうに笑ってくれた。

 そのはにかんだ笑顔と言うのは、なんというか幼さによる可愛さという物を持っていて、また龍久の顔は熱を帯び始めた。

(なんで雪光が笑ってくれると、こんなに顔が熱くなるんだ!)

 他の者ではこうはならないのに、なぜか彼だけにはこうも赤くなってしまう。

 話題を変える為に言ったのだが飛んでもない誤算で、不思議に思った雪光は頸を傾げていた。

それを弁論する事など出来ず、龍久はしばらく顔を隠す事しか出来なかった――。


***

 

 それから龍久の口利きで、雪光も共に剣術の道場に通う事になった。

 今まで我流でやって来た雪光は、師範が一対一で教え、癖や悪い型を取る作業をしている。だが彼には一つ問題があった。

「雪光、お前左利きなのか」

 彼は刀を左手で扱っていた。この道場の大半が右利きである為酷く目立つ。

「うん……どうしても剣は左じゃないと扱えないんだ、他は父に直させられたんだけど」

「何を言う、刀と言ったら右で扱う物だ、新入り良いからとっとと直せ!」

 そう言って数人が雪光を責め立てる。確かに刀は右で扱う物だと自分も思う。だが、雪光を責め立てたくはなかったので、何も言えなくなってしまった。

「右差しなど、武士を名乗る資格など無いな、左差しに直さないのならば此処から出てけ」

「おい言いすぎだぞ藤田、何もそこまで言う事無いだろう」

 弁論こそしてみるが、相手は態度を改めるつもりはなく、鋭い眼光を雪光に向ける。

「……武士というのは、右利きでなければいけないのかい? だとすれば不便だね」

「貴様、武士を愚弄する気か!」

「形に捕われるなんて可笑しいだろう、僕は確かに左利きだ、でもだからと言って剣を扱うだけの覚悟が無い訳じゃない……本当に大切なのはどちらの手でそれを扱うかじゃなくて、眼には見えない部分なんじゃないのかい?」

 雪光があまりにも堂々とそう言って見せたので、野次を付けに来た者はみなあんぐりと口を開けた。

 正直龍久もそうだった。確かにその通りだと感心したほどだった。

「武の道を志す者なら、まず形ではなく中身から目をやってみたらどうなんだい?」

「なんだと貴様、この俺に盾突くのか、新人の右差しの癖に!」

 完全に切れてしまった藤田を止める事は出来そうになかった。すぐにでも手を出してしまいそうな彼を抑えようとするが、先に師範が動いた。

「私は彼の言っている事は間違っていないと思う」

「しっしかし師範」

「まあ藤田、お前の言う事もまたしかりだ、形も中身も表裏一体、まず形から入るものもまた道理であろう……どちらが一重に正しいかは私にはわからん」

 師範はそう言うと、竹刀を雪光に手渡す。何が何だかわからないままに受け取ると、皆に聞こえる様に大きな声を出した。

「ならば今から藤田対雪光の試合を行う、藤田が勝った場合は雪光君の出入りは認められない、だが雪光君が勝った場合は出入りを認め、藤田は厠掃除だ」

 突然の試合に生徒達は戸惑いを隠せない様子だった。だが何やらおもしろい事が始まるという事を理解すると、みな楽しそうにざわめきはじめた。

「ちょっと師範、雪光は我流でずっとやって来たのですよ! それなのにいきなり藤田となんてあんまりです」

 藤田はあんな奴だが、確かに強い。この道場の中でも自分を含め五本の指には入る強さで、何時も試合で勝つ所ばかり見ている。

「降参するなら今のうちだぜ右差し」

 あからさまな挑発をする藤田。そんな彼を見て雪光は目くじらを立てている。これでは今すぐに試合が始まってしまいそうだった。

「おい藤田止めろ、いくらなんでも酷すぎるぞ、お前の実力でこんな――」

「なんだ南雲、お前ずいぶんこの右差しの肩をもつじゃねぇか、どういう関係なんだよ?」

「かっ、関係って別にただの友達で……」

 関係と聞かれて、つい言葉を失い赤面してしまった。

「師範、やらせて下さい」

 その間に、雪光が自ら名乗りを上げてしまった。なんとか説得を試みる。

「雪光頼むから止めてくれ、あいつは勝つ為にはなんだってやるんだ……それにあいつとお前の身長差では……」

「龍久、心配してくれてありがとう……でも僕は証明したいんだ、形に捕われずとも良い事を、だから止めないでくれ」

彼の真剣な目を見ていると、他に何も言えなくなってしまった。

此処はぐっと言葉を呑み込む事にした。

「よし始めるぞ、両名位置に付けぇ!」



 対戦となり皆楽しそうに脇へと退けた。

 雪光の応援というのは藤田側に比べるとか細い物で、龍久と数人の物好きが見つめるだけだった。

 藤田は余裕の表情で竹刀を構えるのだが、雪光は別に構えようとはせず、ただ左手で竹刀を持っているだけだった。

「おい右差し! 貴様なぜ構えない、俺と戦うのが怖くなったのか」

 そう挑発するが藤田、それに龍久は怒りさえ覚えたが、雪光は全く動じていない。それどころか首を傾げた。

「どうして構えなきゃいけないんだい? 僕は今『構えないという構え』をしてるんだ」

 それはもはや滑稽の域だった。まるで落語の頓知の様だった。

 これから剣の試合をするというのに、構えをせずにただ剣先を床へと向けている、これでは到底構えとは呼べなかった。

「貴様まさか構えないつもりか! 右差しだけではなく構えまでしないとは、貴様はやはり武士とは呼べぬな」

 大笑いをする藤田。続いてその取り巻き達も笑う。その光景を見て一番腹を立てたのは龍久だった。何か文句を言ってやろうと思ったのだが、その前に口が開いた。

「構えると言う事は、次どんな行動をするかを相手に予測させてしまう、僕にはその行為はあまりにも愚かに思える、だから『構えない構え』をしているんだ」

 言葉には言い表せないほどの呆れが正直龍久の中に生まれた。

 当然武道で構えるのは当たり前の事で、これが出来て初めて武術が成り立つと言っても良いだろう、それなのに雪光はそれさえも拒む。もう弁論のしようがなかった。

「師範! 構えないのは剣術への侮辱ではありませんか!」

 藤田がそう訴えたが、師範は首を横に振った。

「私は見てみたい、果たして雪光君の『構えない構え』と言う物が一体今の剣術とどれぐらいやりあえるかを」

 基本的に何でも受け入れてしまう師範だったが、今日の師範は何時も以上に受け入れている気がする。それほど雪光には何かがあると言う事なのだろうか。

 文句ばかり言っていた藤田も、ようやく観念して中段に構えた。どんな構えにもすぐ様に移行できるこの構えは最も一般的な構えといえるだろう。

「これより、藤田対雪光の試合を始める」

 皆唾を飲む。このあまりにも特異すぎる試合を眼に焼きつけようと、しっかりと眼を開いた。

「はじめぇ!」

「きええええいっ」

 先に動いたのは藤田の方だった。中段から繰り出される強力な突き技。これは藤田が最も得意とする技で、相手の喉への一撃は稲妻を彷彿とさせるほど早く、力強い。

「雪光!」

 思わず叫ぶ龍久。だが叫ぶだけで他に何も出来なかった。

 突き技が出た瞬間に、皆藤田の勝利を確信した――のだが――、


 雪光はそれをかわして見せた。


 ただ体を捻るという単純すぎる動きで、大技をかわして見せたので皆驚愕のあまり声を失った。

 歓声が響いていた道場内で、一瞬の静寂が生まれた。

「うわー、びっくりした」

 雪光はそう言うと、後ろに飛ぶように下がって間合いを開けた。

 放心状態の藤田はそれを許してしまった。

「そっか突き技というのもあるのか、今まで鍛錬で突き技を想定していなかったから勉強になったよ、ありがとう」

 そうにこにこと礼を言う雪光。だがそんな風に笑える状況ではない。 

 藤田の一撃必殺の技を、やすやすと避けてしまったのだから――。

「貴様ぁぁぁっ」

 藤田はもう一度突きを放った。先ほどよりも強く速い突きを、だがやはり雪光はそれを避けて、左足を踏み込み藤田の懐へと潜り込む。

 このままでは雪光の攻撃の前で藤田は無防備になる――、藤田は突きをそのまま力任せに左に向けて振り払う。

「おっと――っ」

 そんな軽快な声と共に、雪光は後ろへと倒れる。二本の脚は地面に着いたまま、上半身を大きく逸らせる。

 藤田の竹刀は雪光の顔のすぐ上を通過していった。

「あっああっ」

 綺麗な弧を描く雪光の体の柔らかさに、龍久や他の者が驚愕したのは言うまでもない。だが何よりも驚いたのは彼の回避能力だった。

 藤田の突きがこの道場で最も早いのは皆知っていた。だがそれを軽々と避ける雪光はあまりにも人間離れしていた。

「なんで……」

「雪光君は眼が人よりもずっと良い様だ」

 疑問に思った龍久に師範が答えてくれた。

「雪光君は『動くものを捉える視力』がとても良いんだ、だからああやって藤田の体の動きで次どんな攻撃が出るのか予測できてしまう、だから始めから攻撃や防御を繰り出す為の準備の『構え』をする必要などないんだ、相手がどういう事をするのか見えるんだから」

 雪光が他人より最も優れているのはその『動体視力』だった。

 動くものを認識するその眼の力によって、相手の攻撃を避ける事が出来る。

 この常人離れした能力があるから、雪光には構えという概念が根本的に存在しなかった。相手が動けば、それが当たる前に行動出来る故に必要が無いのだ。

「師範は知っていたんですか、雪光の眼が良いって事……」

「ああ、何度か稽古をつける内にな……、彼は神が造った天才だ、ああいう天才は大体型にはまろうとしないものだ、他人が造った型や構えを覚えずとも、恐らく十分強いだろう。藤田も十分天才だ、だがそれはあくまでも『常人の天才』と言うだけで、ああいう『飛び抜けた天才』ではない……どっちの天才が勝つか、見物だろう?」

 どうやら師範は、雪光の能力を見たいが故に藤田を炊き付けた様だ。

 確かに何かも武士の常識とはかけ離れていた。右差しの刀に構えない剣術。

 それは雪光が、剣客としての才能がある事を示していた。

 彼が天才だと言う事を示していた――。

「きええっ」

 藤田の突きは、幾度も避け続けられていた。もはや雪光は藤田の突きを完全に理解していた。

「くそっ……なんでっ攻撃があたんねぇんだよ!」

 何度も全力の突きを出した事によって、藤田の息は上がっていた。

 一方最低限の動きだけで避け続けていた雪光は、何一つ変わっておらず余裕そうだった。

「君はずっと同じ攻撃ばかりだ、流石にこう何度も同じ技ばかり出されたら、僕じゃなくても覚えてしまうよ」

 そうつまらなそうに言って、藤田を挑発する。

「糞がっ、武士の成りそこないがだまれぇぇ!」

 右足を大きく前へ出す、雪光もそれに反応して素早く間合いを空け様としたのだが――藤田は更に大きく踏み込み、袴の裾を踏んだ。

「あっ――」

 身動きが取れなくなった雪光に向けて、藤田は渾身の面を放つ。

 大柄な彼らしい、強力な面が迫る――。

「雪光!」

 龍久の声が道場に響き、それが消える前に雪光は動いた。

「はあああっ」

 

 雪光の渾身の突きが放たれた。


 胸へと当たった突きは、藤田の全身を衝撃となって駆け巡った。

 大きくのけぞった彼に面を打つ事は出来ず、雪光の一本がこの試合での一本となった。

 つまり、雪光は藤田に勝ったのだ。

「突きあり、勝者雪光!」

 師範の判定により、周囲に動揺が走った。あの藤田が負けたのだ、それも武士と呼んでいいのかさえ不明な雪光に――。

「やったな雪光! お前すごいよ」

 駆け寄る龍久だったが、雪光はただ眼の前で悔しそうに下唇を噛んでいる藤田を見下ろしているだけだった。

 歓声に答える事無く、彼は敗者に手を差し伸べた。それを見て苦い顔をするのは敗者だ。

「なんの真似だ……俺に情けでも掛けてるつもりか」

「そうじゃないつもりだよ、僕はさっき君の突きを覚えたって言ったけれど、アレは間違いだったよ、僕がやるとどうも上手く的に当たらないんだ、さっきも本当はのどにあてるつもりだったけど胸に当たったし……、君の突き技はとてもカッコ良いんだ、だから教えてくれないかな?」

 その言葉に驚いたのは当の藤田だけではない、龍久だって驚いた。

 今さっき、雪光はあまりにも常人離れした試合をしたと言うのに、所詮常人の天才でしかない自分に教えを請うているのだ。

 全く偉ぶるそぶりをせず、ただ笑顔で手を差し伸べる彼に、すがすがしさを感じたのは龍久だけではなかったはずだ。

「……ふんっ」

 藤田はさしのばされた手を振り払い、自分で立ち上がった。

 拒絶された事を悟り、哀しそうな顔をする雪光だったが、そんな彼に藤田の方から言葉を掛けた。

「俺の突き技は、竹刀が振れる様になった頃から鍛えているんだ、お前の様な訳のわからん奴に簡単に真似されてたまるものか」

「ごっ……ごめん」

「でもな、お前がそんなに覚えたいっていうんだったら、教えてやっても良いぞ……」

 素直じゃないなと、龍久は思った。

 だが雪光は素直に喜んで、藤田の手を両の手で握った。彼の細い指が藤田の手を懸命に包み込むその光景に、龍久は妬いた。

「有難う藤田君、これからは友達だね!」

「友達ぃ! ふざけんな今度試合をした時負けるのはお前だからな!」

 怒鳴り散らす藤田だが、彼が珍しく恥ずかしそうな顔をしていた事を見逃しはしなかった。それを見て、また笑う雪光。

 雪光はこうして、道場に溶け込んで行ったのだった。




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