一五話 アルバート・ハルトマン
文久三年(一八六三年) 一二月二四日 江戸。
アルバート・ハルトマンは、この日横浜への帰路へと付いていた。
突然降って来た雪、月明かりに照らされた雪はたいそう美しくて、馬を駆りながらその光景に眼を奪われていた。
だがそんな事を気にさせなくするほどの光景が、彼の眼に飛び込んで来た。
川辺に人が倒れているのを見つけたのだ、その状況から何か合ったのは明白だ、すぐ様川へと降りて行った。
『しっかりしてくれ、大丈夫か!』
母国の言葉で幾度か話しかけると、ピクリと手が動いた。どうやら息はある、アルバートは下人を呼ぶと、その倒れている人物に手を差し伸べた。
「貴方、名前ハ?」
この国の言葉で話すと、その人物は精一杯の力を振り絞って、すっかり冷え切った手を弱弱しく置いた。
「…………ユキ」
下人が持って来た提灯で照らすと、それはまだ幼い子供であった。
だがその右目から血を流し、良く見ると背中には裁ち鋏が突き刺さっているではないか、これはただ事では無かったし、何よりこのままではこの子の命が危うい事を悟った。
『医者に早く、このままではこの子が死んでしまう! しっかりしろユキ』
アルバートはその子を抱きしめると、急いで馬へと向かった。水で冷やされた体は芯まで冷え切って、まるで氷か雪の様だった。
とっさに呼んだ名前だったが、雪は小さく頷いて再び意識を失ってしまった。
雪はすぐ様アルバートの知人の医者に診察された。
幸い、裁ち鋏が突き刺さっていた事と川の冷水によって冷やされた事により、出血がどうにか致死量には達していなかった為、九死に一生を得た。
だがそれからしばらくは熱にうなされて、予断を許さない状況が続いた。
意識が回復したのは年が明けて数日が経過した頃だった。
「目覚メマシタネ、私貴方ノ味方、安心シテ下サイ」
可笑しな日本語を話す異人が目の前に居た。海の向こうの人間を見るのはコレが 初めての事で驚きはしたが、このうつろな意識の中でこの男に助けられた記憶があった。
雪は何か話さなければと思ったのだが、声が出なかった。酷い喉の渇きで、まるで喉が干物の様だった。
水を欲していると分かると、アルバートは雪の補助しながら茶碗の水を飲ませた。
その水が体の隅々まで染みわたるのを感じた、よほどの間自分は眠っていたのだろう。
「私ノ名ハ、アルバート言イマス、体治ルマデ此処ニ居レバ良イデス、ユキ」
そう言えば名前を言った気もする、再び彼の手によって西洋風の寝具に寝かされた。
アルバートは雪の頭を数回撫でると、そのまま部屋を後にした。
(……雪、雪光、雪、雪光……、私は一体)
思い浮かんだのは、自分を斬った父と刺して来た少女。
『雪』と呼ばれたあの少女、あれは一体誰だったのか幾ら考えても答えは出ない。それどころか、考えれば考えるほど、胸の中がもやもやして次第に恐怖が溢れて来た。
居場所どころか、名前も存在も失った気がした。
いっそあのまま死んでしまえば、どれほど楽だったろうか、そうすればきっと――。
「お……とき」
また会えただろうに、なぜ彼女はあんな風に死んでしまったのに、自分はこうして虫けらの様に生きているのだろうか、どうして自分は生きてしまったのだろうか。
「あいたいよぉ……お時」
もうどうやって生きて行けばいいのか分からなかった。
ただ此処でこうやって生きている事が酷く恐ろしかった。
「うっうえっ……お時ぃ、お時ぃ」
左目から涙が流れて来た、包帯が巻かれていなかったら今頃右目も川の様に涙を流しただろう。
ただ生きているのが怖くて、恐ろしくて、どうすればいいのか分からなかった。
ただ、涙ばかり零れて行った。
もうこの涙を拭ってくれる友人はいないのに――。
それから一月も経つと雪の病状は回復して、床から出られるほどにはなった。
だが同時に雪の体に異常が出て来た。
肌の色が抜け始めたのだ、始めは手の甲に出来た小石程度の斑点が、徐々に大きくなりその数は増え、一月もすると目立つ所にもそれが現われはじめた。
どんどん色が抜け落ちて行くその様に、周囲の人間は気味悪がって、下女でさえ彼女に近づかなくなってしまった。
斑はついに頭部にも表れて、髪の色までも抜け始めてすっかり茶色になっていた。
アルバートはそんな彼女が怖かった。
気味が悪かった訳ではない、このままでは彼女の色は全て無くなって何時か消えてしまうのではないかと。言葉は分からないが、彼女が生に対して無関心な事は気が付いていた。何時も庭で何をするでもなく外を眺めている彼女が何時消えるか、気が気ではなかった。
「ユキ、ソンナ恰好デハ冷エル、コレ着ルトイイ」
自分のコートを掛けてやると、雪の隣で同じ所を見る。
なにも無いただの庭で、面白くもなんともない。こんな事では生きようと言う意思は出てきやしない。アルバートは考えると雪を自分の書斎に連れて行った。
「ユキハ本好キデスカ? コレハプロイセンノ本デス」
「…………なんて読むの?」
見た事の無い本だった、異国の本など初めて手に取った。雪の顔に初めて生気が灯ったのを、アルバートは見逃さなかった。
「スノーホワイトト言イマス、日本語ハ……白雪姫……」
「雪……」
自分と同じ名前に興味を示したのか、雪は絵本をめくり始めた。
「言葉ハ私教エマス、ダカラ全部読ミマショウ」
それから季節は移り変わり、季節は秋となった。
この頃になると、雪の髪の色は灰色に近い色になっていた。肌も白人と見紛うほどで目の色までも薄くなり始めていた。
ただ、その症状の進行はだいぶ抑えられており、初期に比べれば圧倒的に良い。
『アル、ここは何?』
そして劇的に変わったのは、容姿だけではない。雪はこの数カ月の間に英語を完全に覚えて、何不自由なく話させるようになった。
『ここには僕のコレクションが保管してあるんだ』
雪がアルバートの部屋に興味を持ったので、初めて部屋に入れた。
そこには日本中、アジア中から集めた貴重な物であふれていた。
アルバートの趣味は骨董品や美術品の収集で、この部屋はそれを保管しておくものだ。
『今は日本中から集めた物が多いかな、ヨーロッパでは日本の美術品はとても人気なんだ』
有馬焼の皿や有名な画家の水墨画、浮世絵、甲冑など様々な物があった。日本に住んでいる雪でさえ、こんなにも様々な骨董や美術品を見た事は無かった。
『ユキは何に興味があるんだい?』
そう聞いてみると、雪は周囲を物色し始めた。
このごろ雪はだいぶ明るくなって来た。初めの頃は今にも死んでしまいそうな感じだったが、近頃は異国の文化や言葉など積極的に覚えようとしていた。
雪は知識欲が深い。それに理解も良くできる子で呑み込みも良い。本当に女で無かったら政治家や思想家になって良かもしれない。
それにこの国に生まれてこなければ、この才能を無駄にする事も無かっただろう。
(彼女には、もっとふさわしい場所があるはずなんだ……)
『アル……アルってば!』
『なっ、何だいユキ』
つい考え込んでいたので、雪が何かを持っているのに気がつくのに遅れた。
『これは何?』
『えっとそれは……「ムラマサブレード」、妖刀という曰く付きのものでね』
まさかあまたあるコレクションの中から、こんな日本刀を選ぶなんて、正直アルは驚きというよりは呆れてしまった。
『綺麗……とても良い刀』
確かに良く出来た刀だとはアルも思って買ったのだが、雪がこうして持っているとなんだか異様な光景だった。
それからしばらくと言う物、雪は『村正』を手にとっては眺めていた。
もっと女らしい事に興味を示せば良いのにと、アルは思っていた。
だが残念な事に『村正』を見ている彼女の表情はとても愛らしく、アルはそれに惹かれていった。
そんな折アルの元に仕事の話が舞い込んで来た。
『ユキ、実はこれから長崎に行かなければいけないんだ』
『長崎?』
相変わらず村正を抱きしめているが、雪は不思議そうに首を傾げた。
『僕の仕事の都合でね、新しい取引先が見つかったんだ……それで実はね雪、これから軍艦に乗って長崎に行こうと思うんだけど、知っての通り女は軍艦には乗れないんだ』
それをきいて雪はとても不機嫌な顔をしていた。雪はこの様な男女差別が大嫌いなのだ。
『だからユキには男装をして貰いたいんだ、横浜に一人残すのも心配だから……君がもし良いなら長崎に行かないかい?』
それは雪にとっては思いがけない事だった。しばらく悩むと腕の中の村正を見つめて、とても可愛らしく小首を傾げた。
『……コレも持って行って良い?』
それから数日後、一隻の軍艦に雪とアルの姿が有った。
潮風を浴びる黒い洋服に身を包んだ雪。アルが用立てたもので素晴らしくいい物に仕上がっているのだが、それがドレスで無いのが残念だった。
残念の繋がりで行くと、アルはとても残念な事が有った。
『ユキ、どうして髪を切ってしまったんだい、女の子が髪を切るなんて』
長かった髪を何のためらいも無く肩口よりもずっと短く切ってしまったのだ。これでは本当に男にしか見えなかった。
『別に洋服には短い方がいいと思っただけ』
雪はそう言いながら腰に下げた村正を大切そうに撫でた。本当にアルが嫉妬するほど村正を大事にしていた。それが何だか不公平な気がしてならなかった。
(ユキは絶対にドレスの方が似合うのに……)
アルは言葉には出さずにはいたが、何時もそう思っていた。
長崎について、アルは真っ先に雪をとある場所に連れて行った。
『はじめまして、ボードウィン医師』
やって来たのは精得館という医療施設である。ここには有名なオランダ人医師アントニウス・ボードウィンがいた。
アルはこの人物にどうしても会いたかったのだ。
『貴方の噂はグラマー氏から聞いておりますよ、それで私に診て欲しいと言うのは?』
アルはボードウィンの前に雪を来させた。白い肌にだいぶ色の薄い灰色の髪、そして右目には包帯を巻いていた。
『この子の目を診て欲しいんです』
有名な眼科医である彼に、どうしても雪の眼を診せたかったのだ。だから無理をしてまで雪をこの長崎まで連れて来たのだ。
『うむ、視力はやはり左目に比べて落ちているし、視野も少し狭くなっているが、それでも日常生活には問題ないだろう……正し、このままずっと包帯をするのは進めないな、これではいずれ本当に失明してしまうぞ』
それを聞いて苦い顔をしたのはアルだった。
雪の右目に包帯をまかせていたのは彼だ、彼女の顔の傷は跡となって残ってしまった。だからそれを隠すためにずっと巻かせていたのだが、それは間違っていたのだ。
『出来るだけ光を見た方が良いだろう、良いかね坊や』
そう言って雪の頭を撫でるボードウィン医師だった。雪は特に嫌がる事も否定もしていないので、アルが否定する訳にはいかなかった。
『先生、この子は元々日本人なんですが、こうやってどんどん色が抜けて行くんです、これは一体何なのか知りませんか?』
『日本人! 馬鹿などこをどう見ても彼は我々と同じ白人だろう』
驚く彼に雪はまだ日本人としての肌の色が残っている二の腕を見せた。面積はだんだんと少なくなっていて、いずれコレも消えてしまうだろう。
『信じられない……彼はとても珍しい病にかかっている事になるな……しばらく長崎には居るのだろう? 是非研究させてくれ』
この病気について聞きたかっただけなのだが飛んでも無い事になってしまった。
ただ、雪が嫌がる様子はないのでアルが一方的に断る事は出来なかった。
『ユキ、これを』
アルが手渡したのは、西洋の仮面だった。黒を基調としたものであまり装飾の無い造りの物だった。
『なにコレ?』
『西洋ではこうやって顔を隠して踊ったり劇をしたりする文化があります、コレも僕のコレクションなんだけど、あんまり可愛いのが無くてね、傷を隠すのにどうだろう?』
雪は右目の傷をあまり気にしてはいなかったのだが、アルがこうやって言うのだから、きっと他人には見苦しい物なのだと思い、それをあてがえた。
『これはヴェネツィアンマスクと言う物で、これを造った街には水路が張り巡らせてあって船で移動するんだ』
『船で移動するの?』
『そう、ゴンドラという船で移動するんだ、他にも有名な教会や広場なんかがあって……ああ、語りつくせないなぁ』
アルはこうやって色々な国の話をしてくれる。こうやって話を聞いていると今の日本がどれ程遅れているかが分かる。
(海の向こうの国か……)
ふと長崎の海が目に入る。この海の向こうには一体何があるのか雪は知りたかった。
そんな雪の思いは、漣の中へと紛れて行くのだった。
●●用語解説●●
プロイセン――現在のドイツ。




