Vermilion
「風邪引くなよ」
「そんなへまはしないさ」
「だろうな」
そう言って笑うと、佐木は柘榴色のマフラーを僕の肩にふわりと巻いた。
さすがに材質のいい布で織ってあるようで、首筋にさらりとふれる感触がたまらない。
試験前の大事な時期だ。
次の試験の結果でたいていの生徒は進学先を決める。
体調管理に手を抜くほど僕も佐木も間抜けではなかった。
「佐木」
「なんだ」
「佐木は帝大だろ。学部はどこ」
「まだ決めてねえよ。夏目は」
「僕は文学部だ。それしか能がないから」
「よく言うぜ。特進クラスの万年トップが」
「前回の数学は佐木に負けたよ」
廊下を歩きつつ、少し高い位置で佐木の口元が笑った。
佐木の鋭くとがった顎のラインをこの角度から見たいと願う女子が山ほどいることを知っている。
「負けたって半年ぶりにだろ。まったくお前が転校してきてから俺はいいとこなしだぜ」
「そんなことはない。特進の女子はみんな佐木狙いじゃないか」
「お前が誰も寄せつけねーからみんな俺の所に来るんだろ。少しは愛想を覚えろよ」
「興味ないね」
「言うと思った」
呆れて告げる佐木の目に、どこか満足気な色を見た。
僕もそのことにまた満足を覚え、心もち足が軽くなる。
佐木の巻いてくれた朱色のマフラーが肩先で気持ちよくゆれる。
廊下の端、誰かが開け放しにしていった窓から冷たい風が吹き込んだ。
「寒くなってきたね」
「ああ、晩秋ってやつだな」
「唐紅に水くくるとは、か」
「何だ、それ」
「和歌だよ。さっき古文の参考書で読んだ」
「へえ、何の歌」
「ものすごくひらたく言うと、紅葉が綺麗ですね、って歌。在原業平、古今集巻五秋下の294番」
「まさか全部覚えてんの」
「まさか。でも試験に出そうなものは覚えてるよ。佐木だってそうだろ。自分が元素記号いくつ覚えてるか知ってんのか」
「確かに知らないな」
「だろ」
通りすがりに、開け放しの窓を閉め、鍵をかけた。
警備員は夜にしか来ない。
夕方のこの時間帯はまだ生徒の管轄だ。
特進クラス生が窓を開けたまま見過ごして帰っては後々うるさく言われる。
ガラス窓の向こうは夕闇の街だった。
日はかげり、家々の輪郭がうすく溶けていく中に、ぽつぽつと灯りがともる。
少し霧めいている。
昼と夜が入れかわるその刹那の世界。
ひどく叙情的だった。
つい見惚れていると、佐木が近寄ってきて、僕の手に手を重ねた。
「手、冷えるぜ」
「ああ」
「行こう。電車逃したくないだろ」
「うん」
そのまま手を握られ、僕は佐木に引っぱられた。
何気ない顔で、ともすると汗ばみそうな手を意識しないようにつとめた。
佐木はいつも強引だ。
全然気にしていないような顔をして、僕が動揺するのを楽しんでいる。
テストでいくら佐木を負かしたところであまり勝った気にならないのはそのせいだと思う。
「なあ、夏目」
「なに」
「今度またうちに来いよ。兄貴がお前のこと呼べってうるせえんだよ」
「ああ、お兄さん、帝大の院生だよね」
「そう、医学部のね」
「医者になるの。家は」
「華道は俺が継ぐ。ガキの頃からそれは約束なんだ。その条件で、高校も好きな所を選ばせてもらってる」
「へえ、僕なんか適当に引っ越し先の近所の学校選んだだけだよ」
「適当に選んで全国レベルの進学校に来るやつもそういねーよ」
「だって本当に一番近くだったから」
「お前が言うと嫌味に聞こえないのが不思議だな」
「そうかな」
そう呟くと、佐木はとなりで笑った。
「俺は、俺の意志で選んだ環境で、お前みたいなやつと出会えて幸運だったと思ってる。巡り合わせってやつだけは自分の力じゃどうにもならないからな」
「他のことは思い通りにできるってことか」
「まあな」
ちらっと投げられた不敵な微笑みに、鼓動が速くなる。
握られた手が熱い。
ひと気のない廊下の角を曲がり、職員室を過ぎて、アーチ状の渡り廊下を抜けた。
ゴム靴が足元できゅっきゅっと音を立てる。
いつも歩いているはずの昇降口までの道のりが、ひどく長く感じられた。
半歩先を行く佐木が、少しだけ手に力をこめた。
「俺はさ、家を継ぐけど、それは誰かの決めたことに従うわけじゃない。華だって、先代の築いてきた流れに乗っかって胡坐かいてりゃいいってもんでもない。俺が俺の意志で勝ち取ってものにしなきゃ意味がない。そうだろ」
「うん」
「俺の人生は俺が決める。どんなことでも俺の意志でつかみ取る。つかみ取れないのは人との縁ってやつだけだ。言ってる意味、わかるか」
言葉を切って、佐木は歩をゆるめた。
「つまり、お前と出会えた時点で俺は無敵だってことだ」
ゆっくりとそのセリフを反芻し、理解したとたん、頬がかっとなった。
動揺を見せまいとする努力もとたんに無駄になる。
見ると、佐木は笑っている。
小憎たらしいくらいの不遜なまなざしで、僕を魅了する。
「そんなセリフは女に言えよ」
「誰かさんがそっけないからよりどりみどりすぎて選べねーんだよ」
「だからって僕に言うことないだろ」
「迷惑か」
「……そういうわけじゃないけど」
「顔が赤いぜ」
「佐木のせいだろ」
「俺のせいか」
「そうだよ」
「そうか」
満足気に喉の奥で笑って、佐木は手を離した。
昇降口はすでに暗くなっていた。
靴をはきかえ、外の空気を吸っていると、佐木が僕のマフラーの先をつかんだ。
「いい色だ。俺の見立ては完璧だな」
「自分で言うか」
「お前には絶対朱が似合うと思ってたんだ。大事に使えよ」
「言われなくてもありがたいと思ってるよ」
「ふん」
どこまでも自信過剰な言い方にくすくすと笑っていると、ふとマフラーを引き寄せられた。
気がついた時には唇が重ねられている。
初めてではなかった。
けれど、佐木はいつも強引だ。
それなのに、押しつけられた感触は、冷たいけれどあたたかい。
離れぎわ、口の端をちろりと舐められた。
キスをしたことよりもなぜかそちらの方に顔が赤らんだ。
「……夏目」
「ん?」
「お前、帝大、受かれよ」
見上げると至近距離で瞳が合った。
校舎のほのかな灯りをうけてゆらめいている。
その奥に、ほんのわずかだけ、子供のように不安そうな影がよぎった。
「……僕を誰だと思ってるのさ」
真似をして偉そうに顎を上げてみせると、一瞬虚を突かれ、佐木はすぐに笑いだした。
「そうだった。悪かった」
「全国レベルの、特進クラスの、万年トップだぜ」
「わかったわかった」
笑い合って、僕の肩を叩きながら、佐木が背を向けた。
「じゃあ、またな」
「また明日」
正門の向こうにすらりとした後ろ姿が見えなくなってから、僕はそっと口の端に手をあてた。
感触が残っている。
よみがえる。
強引なくせに、ここち好い。
(………)
僕は柘榴色のマフラーをそっと巻きなおすと、駅の方へと歩き出した。