第15話 残りの時間。
「……お帰りなさいませ。」
「うん。」
馬車に乗り込んだリーン。視線が合わせにくい。
普通に、いつものように笑って迎えたいのだが…リーンと並んで楽しそうに歩いていた赤毛のご令嬢…公爵家の御令嬢か…。
アルマ様にも聞いてはいたが、リーンはモテるのよって…聞くと見るとじゃ大違いだわね。本当にお似合いだった。
背の伸びた黒髪のリーンに寄り添うように歩く肩ぐらいまでしかない赤毛の可愛らしいお嬢さん。同じ年かしら?おじい様の希望されていることがようやく腑に落ちました。そう言うことなんだなあ、と。釣り合いの取れた嫁、かあ…。なるほど。
一緒に乗り込んだアルノルトとエルマーも黙り込んでいる。
…大丈夫よ、責めたりしないし。自然なことよね…。惹かれ合うなんてことは。誰のせいでもないし。私は仮の妻なんだもの、お仕事なんだもの。こんなことで…泣いたりしない。
そうよ、どちらかと言ったら、喜ぶべきことよね?
そう思おうとしても、どうしても笑えなかった。スカートをぎゅっと握る。せめてもう少し、身ぎれいな格好で来ればよかった。マルは自分がそんなことを考えるのがおかしなことだと思った。
私たちは向かい合って座って、黙ったまま屋敷に着いてしまった。
リーンに手を取られて、馬車を降りる。
***
学院の正門を出て、うちの馬車にマルが乗っているのがわかって、歩くのが少し早くなる。
帽子をかぶった男がうちの馬車から降り掛けに、マルの手を取って、その手にキスをしているのが見えた。耳元で何かささやく。
自分の心臓の音が、大きくなる。
こちらに向かってくるその男が顧問弁護士のロルフだと気が付いて…胸がざわざわする。こいつ…。手をぎゅっと握りこんで、殴りたくなる衝動に耐える。
「やあ、リーンハルト様、ご無沙汰しました。そちらの方は新しい恋人ですか?」
にやにや笑う男を、無視して通り過ぎる。
こいつはいつもそうだ。僕がいない時を狙って、マルにまとわりつく。昔からそうだ。
黙ったまま屋敷に着いて、マルを馬車から降ろして、そのまま手を離さずに自分たちの部屋まで連れて行く。それでもマルは何も言わない。
小走りに付いてきたアルノルトに、マルと話があるから誰も入れないように言って、鍵をかける。
「マル?これはなんだ?」
続き部屋の寝台にマルを押し倒して、マルの左手の薬指の指輪を、指ごと噛む。
「…結婚指輪…です」
「マルは…あの男が好きなのか?」
「え?」
伏せていた目をようやく僕に向けたマルの肩を抑え込む。
「ロルフのことだ。何を話していた?何でキスを許した?」
「…ロルフさんが…自分の事務所に帰ると言うので、乗せただけです」
「何で二人で一緒に乗っていた?マルは学院まで来たことがないだろう?」
「…それは…旦那様の恋人を見たから…私を責めているんですか?」
「は?」
マルが、自分の手で顔を覆って、ようやく聞き取れるぐらいの小さな声で言う。
「好きな人が出来たのは、仕方ないと思います…私は責めませんよ?」
「…は?」
覆っていた指の隙間から、涙がこぼれるのを見た。
「仕方ないと…思います。可愛らしい方でしたね。私は反対しませんから。」
「マル?何の話をしているんだ?」
「……」
「お前は…僕の妻だろう?マルがいれば僕はそれだけでいい。マルにもそう思ってほしい」
「リーン?」
顔を覆っていたマルの手を抑えて、泣いているマルに口づける。
僕たちはその日、本当の夫婦になった。
***
残された時間を愛しむように、私たちは愛し合った。
そんなこと、しない方がお互いのためだと頭のどこかで思いながら、マルガレーテは溺れるように…愛されるのが幸せで仕方なかった。
フリーデさんが言っていたように、身構えなくても良かった。
ただリーンのことを愛していた。
リーンに会えたことを、本当に喜びだと感じた。
離さないのよ、というわけにはいかないけれど。
こんな関係にさえならなかったら…侍女とかになってリーンを支えられたかしら?
そうしたら、リーンの新しいお嫁さんを見ても笑っていられたかしら?
…そんなことも考えなかったわけではない。
リーンはクリスマス休暇も帰ってきてくれたし、春休みも早々と帰ってきてくれた。
いつものように一緒に過ごした。なるべく、何も変わらないように過ごした。
春休みで帰省していたリーンが帰る時に最後のキスをした。もう4月になっていたから。
「少し早いけど、お誕生日おめでとう。あなたに会えてよかった。いつもあなたの幸せを祈ってるわ」
そう言って、少し泣いた。リーンは私の涙を拭きながら、
「マルは泣き虫になったね」
と笑った。
手を振って、リーンの乗った馬車を見送る。
さて。
春休みになる前に、仕事は引継ぎをした。忙しくて少し体調もすぐれなかったが、暖かくなってきてからは持ち直したようだ。自分の部屋を片付けて、ハンナに怪しまれないように荷造りをする。もとより、たいした荷物はない。
王都の屋敷は、事務長夫妻が残って下さった。
「うちのバカ息子が賭け事で作った借金ですから。息子は失踪して行方知れずですしね。守るべきものもありませんから。この屋敷を守っていきますよ?」
と笑って言ってくださった。
クリスマス休暇の前、リーンを王都に迎えに行った。
こちらに戻る前に、おじい様にも挨拶を済ませた。
「そうか、もう10年か」
とだけつぶやいた。あんなに威圧的だった方が、小さく見えた。10年たったんだなあ、と思った。
ロルフさんには会いたくなかったので、手紙を出した。
報酬の3000万ガルドの内、1000万は領内の教会に寄付し、1000万は実家に送ってもらうことにした。500万をアルノルトとエルマーとデニスの学費に残し、残りを新しく作った口座に送金するように頼んだ。
結局、この人だけは苦手なまま終わってしまった。
領地の屋敷の執事長に領主印と結婚指輪の入った箱を預ける。
箱を開けた執事長が、黙ったまま泣いてくれた。
私は深々と頭を下げて、リーンのことを頼む。
翌朝、いつもの履きなれた編み上げ靴を履いて、いつもの地味なワンピースを着て、いつものように領内の視察に出かけるように屋敷を出た。
こうして私は、侯爵夫人のお仕事を終えた。
4月。日差しが柔らかい。
振り返って、住み慣れたモーリッツ侯爵家の屋敷を見上げる。
私とリーンが結婚したのは、もう十年も前だ。
***
リーンの醜聞にならないように、なるべく遠くに行こうと思っていた。
金目当ての嫁に騙された可哀そうな若き侯爵家当主。
隣国に向かう大きな乗合馬車に揺られながら、小さな荷物に顔を埋めて泣きながら眠ってしまったようだ。
マルは…リーンを食べて、よく噛んで、飲み下して……もう一度自分でリーンを産む夢を見て……あきらめの悪い自分にあきれながら、また泣いた。




