第8話:完成される勇者
聖痕の黒はゆっくりと広がり続けている。
じわじわと、しかし確実に。
ルチアが気づき、聖痕へと手を伸ばす。
「……セドリック、それ」
「大丈夫。まだ、動けるよ」
“まだ”。
それは、終わりがある前提の言葉だった。
イグニスは、何も言わない。
止めもしない。
肯定もしない。
魔法の制御を続け、戦闘では一歩後ろを守り、必要な時だけ、詠唱する。
勇者が倒れないように。
世界が、壊れないように。
遠くて近い場所。
そこで、何かが、ゆっくりと形を持ち始めていた。
怒り。
嫉妬。
恐怖。
怠慢。
それらは、声を持たない。
代わりに、鼓動を持つ。
——まだ、足りない。
——もっと、寄越せ。
その鼓動と、セドリックの聖痕は、同じリズムで鳴っている。
魔王は、遠くにいると、学校では教えられる。
誰も行かない土地。
地図の端。
世界の、余白。
だから、人々は安心している。
だが、セドリックは知っている。
魔王は、いつも近くにいる。
たとえば、戦いの後、感謝の言葉の中。
「助かりました」という声の奥。
ある町で、子どもが言った。
「勇者さま、なんで戦うの?」
「……みんなが困らないように、かな」
子どもは、納得した顔で笑った。
「じゃあ、勇者さまがいれば平和だね!」
切り裂かれたような痛みが走ったが、セドリックは笑った。
この世界で、魔王は便利な存在だ。
怒りの理由で、不満の受け皿。
それを嫌悪することで、人間は団結できる。
「魔王が悪だから、私たちは正しい」
その言葉は、剣よりも鋭い。
夜になると、セドリックは夢を見る。
沢山の声が聞こえる。
「助かります」
「期待してます」
「君ならできる」
顔は、見えない。
荒い呼吸とともに目を覚ますと、ルチアが心配そうに覗き込んでいた。
「また、うなされてたわ」
「……ごめん、迷惑かけたね」
「謝らなくていいの。迷惑なんて思わないわ…」
そう言うルチアの声は、震えていた。
テントを出たセドリックは、イグニスのもとへ向かった。
イグニスは、焚き火を見ていた。
炎は揺れる。
しかし一定の強さに制御されている。
「イグニス」
「ん?」
「魔王ってさ……」
言葉が続かないセドリックに、イグニスは「反転」させた水を差し出す。
「お前が考える前に、世界は決める」
イグニスが薪を足し、炎が少し強くなる。
聖痕が、疼く。
痛みではない。
呼応だ。
遠くから、何かが呼んでいる。
——お前だ。
——お前が、受け取れ。
——もう、十分だろう?
セドリックは聖痕を押さえ、夜空を見上げた。
翌朝。
魔物討伐の新しい依頼が来た。
「魔王の影響が強くなっているせいだ」
「勇者様なら」
その言葉に、誰も疑問を持たない。
セドリックは、笑顔で頷いた。
「行こう」
それしか、選択肢はなかった。
断らない理由は、山ほどある。
断る理由は――存在しない。
魔王が強くなっている。
同時に、勇者も完成しつつある。
二つは、よく似ていた。
役割を与えられ、期待を背負い、拒否を許されない。
違いは、ただ一つ。
魔王は憎まれ、勇者は愛される。
それだけだった。
その夜。
セドリックは、剣の手入れをしながら、ふと呟いた。
「もし……魔王がいなくなったら、さ」
「世界は、次を探す」
イグニスの言葉に、セドリックは笑った。
ずっと背負っていた、肩の荷を下ろしたように。
「そっか」
満月に近づく月が、あたりを明るく照らしていた。




