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最終話:搾りかすの隣で

魔王の城の夜は、静かだった。

優しい光の月と、星だけが夜空で輝いている。


セドリックは、そこに座っていた。

常に、誰かの感情が彼へ流れ込んでいる。


怒り。

嫉妬。

恐怖。

後悔。


受け止めるたび、吐き気がして、あちこちが軋んで、叫びそうになっては歯を食いしばる。

そのたび、セドリックは微笑む。


「……大丈夫」


声は、少し掠れていた。

は、と荒い息を整えたそのとき。


「嘘つくな」


背後から、低い声がした。


セドリックは、驚かない。

振り返らなくても、分かる声だった。


「イグニス……」


セドリックはゆっくりと、視線だけ巡らせた。

赤い髪の魔導士が立っている。

外套を羽織り、杖を地面に突き、ずっとそこにいたかのように。


イグニスは、玉座の隣にどさりと腰を下ろす。


「世界は平和か」

「…うん。誰も、困ってない」

「お前がここにいるからだな」


荷物から取り出した魔導書を読み始めた魔導士を、セドリックは不思議そうに見つめた。

セドリックのほうを見もせず、イグニスが口を開く。


「なあ、セドリック」

「…なに?」

「お前、断る気、一切なかっただろ」


イグニスは、魔導書のページを捲る。


「誰かがやらなきゃ、世界が壊れる。だったら自分がやる。そう考える奴は、必ず“正しい顔”をするんだ」


セドリックは、小さく笑った。


「…それ、勇者っぽい…?」

「いや」


イグニスは即答する。


「ただの生贄だ」


開いていた窓から、風が吹きぬけた。

セドリックの黒い髪が、わずかに揺れる。


「……でも、さ」


セドリックが言う。


「みんな…幸せそう、だよ」

「知ってる」

「それで、いいんじゃ…ない…?」


イグニスは、セドリックを見上げた。


「お前が壊れても?」


セドリックは、いつもの微笑を浮かべかける。

その前に、イグニスが顔をしかめた。


「気色悪い笑顔はいらん」


セドリックがきょとんとする。


「それ以上、“いい顔”するな」


目を瞬かせるセドリックに、イグニスは続ける。


「誰も来ない場所でまで、役割を演じる必要はない」

「……じゃあ、何を、すれば?」

「何もしなくていい」


イグニスは、魔導書に視線を落とした。


「お前は魔王だ。世界の仕組みだ。ただの壊れた部品だ」


残酷な言葉を紡ぐ声は、少し柔らかい。


「俺は、それでもここにいる」


セドリックは、ゆっくりと息を吐いた。


「……一緒に、…いて…くれる、の?」

「ああ」


理由は言わない。

ただ、伝えるべきことだけを口にする。


「お前がここにいる限り、俺もここにいる」


その時、はじめてセドリックは笑うことに失敗した。

表情がくしゃりと歪み、唇が震える。

目からあふれる水が、冷えた頬へ温かく流れた。



夜は、深くなる。

世界は、今日も平和だった。


その中心で、二人だけが何も解決しないまま座っている。

――そうして、世界の平和は続いていく。

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