第1話:原風景
息をする度に、肺が痛む。
込み上げる吐き気を、喉の奥で押し殺す。
全身が軋み、今すぐ叫び出したい気分だった。
それでも――耐えられる。
かつて勇者と呼ばれた男、セドリックの瞳から、生理的な涙が一粒こぼれ落ちる。
「……大丈夫。僕は、耐えられる」
それは誰に向けた言葉でもない。
なぜなら、この痛みが“誰かの役に立っている証だから。
終わりのない苦しみの中、セドリックはぼんやりと、子供の頃を思い出した。
‡ ‡ ‡
自分は必要とされている。
その感覚を得るためなら、セドリックは火の中にだって飛び込めるかもしれない、と思っていた。
‡ ‡ ‡
放課後の教室。
言い争う子供たちを、セドリックは教室の隅で見ていた――頬を紅潮させながら。
机の上に無残に転がった一冊の仕掛け絵本。
子供たちが我先にと引っ張り合った結果、飛び出すはずの城の仕掛けが、無惨に引き裂かれていた。
「お前のせいだ、強く引くから!」
「違うよ、お前が離さなかったからだろ!」
責任を押し付け合う子供たちに、軽い足取りでセドリックは歩み寄る。
「わぁ、二人とも強いんだね!」
突然覗き込んだセドリックに驚き、子供たちの動きが止まった。
セドリックの肩にかかる柔らかいブロンドの髪が光を受け、軽く揺れている。
輝くアイスブルーの瞳は、楽しそうに細められていた。
「このお城、伝説の勇者が攻め落とした後の姿みたいで、すごくかっこいいね!」
セドリックの言葉で、破れた城は「新しい物語の演出」へと変化する。
「先生には、僕が言っておくよ。みんなは気にせず、遊んできて」
子供たちは、魔法が解けたかのように顔を輝かせた。
「セドリック、ありがとう!」
「君たちが喜んでくれると、僕も嬉しいから!」
イライラしている人の気持ちを、穏やかに直す方法は簡単だ。
セドリックが、その原因をすべて引き受ければいい。
「さて、先生のところに、謝りに行かなくちゃ」
セドリックは、先生に深く頭を下げ、真摯な謝罪の言葉を紡いだ。
先生は少し困った顔をして、「いつも正直に言えて偉いね」と言って、セドリックは嬉しそうに笑った。
外で遊ぶ子どもの声が響く教室。
セドリックは満足げな微笑を浮かべ、罰として与えられた掃除をする。
一人で床を磨いていた時、ふと、白いシャツの袖が赤く染まっていることに気づいた。
「……あ。そういえば…指が痛いな…」
絵本のページで、いつのまにか深く切っていた。
「"人の役に立つ"僕は、最高だね」
セドリックが指を舐めた、その時。
「…何やってんの、お前……」
「あ、イグニス」
教室の入口に、引きつった表情のクラスメイトがいた。
「見ての通り、掃除だよ」
「…あいつらに謝らせたら良かったのに」
「僕がやったほうが上手くまとまるからね。それに」
セドリックは、窓の外の子供たちを眺める。
「それが僕の役割だと思ったから」
「あいつらから奪った役割だろう」
「…イグニス…?」
強い怒りや拒絶の感情を向けられるとき、セドリックは取るべき行動が分からない。
眉を下げて立ち尽くしたセドリックに、イグニスはひとつため息をついた。
「…そうかよ」
途端に、セドリックは息苦しさを感じた。
薄くなった空気を吸おうと、呼吸数が増える。
足元がなくなるような、とてつもない不安。
「僕、…っ、間違え、た…?」
一転して泣きそうなセドリックに、イグニスは「めんどくせぇな」と呟いた。
「結果を見ないと、正しいかどうかは分からない。でも、次のために考えて行動すればいい」
「次の、ため…?」
セドリックが意味を考えているうちに、イグニスの姿は消えていた。
‡ ‡ ‡
家に帰ったセドリックは、いつもと同じように玄関のドアを開けた。
「ただいま、お母さん!」
夕食の温かい湯気が立ち込める中、母親が笑顔で出迎える。
セドリックは母親にギュッと抱き着いた。
「おかえり、セドリック。今日は遅かったのね……あら! その指、どうしたの!?」
母親が慌てて駆け寄り、彼の小さな手を取る。
「ちょっと本でね、でも、もう全然痛くないよ!」
「そう……? でも、ちゃんと手当てしないと」
「お母さんが手当てしてくれるなら、すぐ治っちゃうね。じゃあ、救急箱を持ってくる!」
鼻歌まじりに歩き出す息子の背中を、母親は濡らした布巾を持ったまま見つめる。
「……セドリック?」
母親の呼びかけに、少年は満面の笑みで振り返る。
その目は、とても澄んでいた。
――その瞳が、いつか自分自身さえ「平和」という盤面の駒として捧げる、「勇者」のものであることを、まだ誰も知らない。




