表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/6

第1話:原風景

息をする度に、肺が痛む。

込み上げる吐き気を、喉の奥で押し殺す。

全身が軋み、今すぐ叫び出したい気分だった。

それでも――耐えられる。


かつて勇者と呼ばれた男、セドリックの瞳から、生理的な涙が一粒こぼれ落ちる。

「……大丈夫。僕は、耐えられる」

それは誰に向けた言葉でもない。

なぜなら、この痛みが“誰かの役に立っている証だから。


終わりのない苦しみの中、セドリックはぼんやりと、子供の頃を思い出した。


‡ ‡ ‡


自分は必要とされている。

その感覚を得るためなら、セドリックは火の中にだって飛び込めるかもしれない、と思っていた。


‡ ‡ ‡


放課後の教室。

言い争う子供たちを、セドリックは教室の隅で見ていた――頬を紅潮させながら。


机の上に無残に転がった一冊の仕掛け絵本。

子供たちが我先にと引っ張り合った結果、飛び出すはずの城の仕掛けが、無惨に引き裂かれていた。


「お前のせいだ、強く引くから!」

「違うよ、お前が離さなかったからだろ!」


責任を押し付け合う子供たちに、軽い足取りでセドリックは歩み寄る。


「わぁ、二人とも強いんだね!」


突然覗き込んだセドリックに驚き、子供たちの動きが止まった。

セドリックの肩にかかる柔らかいブロンドの髪が光を受け、軽く揺れている。

輝くアイスブルーの瞳は、楽しそうに細められていた。


「このお城、伝説の勇者が攻め落とした後の姿みたいで、すごくかっこいいね!」


セドリックの言葉で、破れた城は「新しい物語の演出」へと変化する。


「先生には、僕が言っておくよ。みんなは気にせず、遊んできて」


子供たちは、魔法が解けたかのように顔を輝かせた。


「セドリック、ありがとう!」

「君たちが喜んでくれると、僕も嬉しいから!」


イライラしている人の気持ちを、穏やかに直す方法は簡単だ。

セドリックが、その原因をすべて引き受ければいい。


「さて、先生のところに、謝りに行かなくちゃ」


セドリックは、先生に深く頭を下げ、真摯な謝罪の言葉を紡いだ。

先生は少し困った顔をして、「いつも正直に言えて偉いね」と言って、セドリックは嬉しそうに笑った。


外で遊ぶ子どもの声が響く教室。

セドリックは満足げな微笑を浮かべ、罰として与えられた掃除をする。


一人で床を磨いていた時、ふと、白いシャツの袖が赤く染まっていることに気づいた。


「……あ。そういえば…指が痛いな…」


絵本のページで、いつのまにか深く切っていた。


「"人の役に立つ"僕は、最高だね」


セドリックが指を舐めた、その時。


「…何やってんの、お前……」

「あ、イグニス」


教室の入口に、引きつった表情のクラスメイトがいた。


「見ての通り、掃除だよ」

「…あいつらに謝らせたら良かったのに」

「僕がやったほうが上手くまとまるからね。それに」


セドリックは、窓の外の子供たちを眺める。


「それが僕の役割だと思ったから」

「あいつらから奪った役割だろう」

「…イグニス…?」


強い怒りや拒絶の感情を向けられるとき、セドリックは取るべき行動が分からない。

眉を下げて立ち尽くしたセドリックに、イグニスはひとつため息をついた。


「…そうかよ」


途端に、セドリックは息苦しさを感じた。

薄くなった空気を吸おうと、呼吸数が増える。

足元がなくなるような、とてつもない不安。


「僕、…っ、間違え、た…?」


一転して泣きそうなセドリックに、イグニスは「めんどくせぇな」と呟いた。


「結果を見ないと、正しいかどうかは分からない。でも、次のために考えて行動すればいい」

「次の、ため…?」


セドリックが意味を考えているうちに、イグニスの姿は消えていた。


‡ ‡ ‡


家に帰ったセドリックは、いつもと同じように玄関のドアを開けた。


「ただいま、お母さん!」


夕食の温かい湯気が立ち込める中、母親が笑顔で出迎える。

セドリックは母親にギュッと抱き着いた。


「おかえり、セドリック。今日は遅かったのね……あら! その指、どうしたの!?」


母親が慌てて駆け寄り、彼の小さな手を取る。


「ちょっと本でね、でも、もう全然痛くないよ!」

「そう……? でも、ちゃんと手当てしないと」

「お母さんが手当てしてくれるなら、すぐ治っちゃうね。じゃあ、救急箱を持ってくる!」


鼻歌まじりに歩き出す息子の背中を、母親は濡らした布巾を持ったまま見つめる。


「……セドリック?」


母親の呼びかけに、少年は満面の笑みで振り返る。

その目は、とても澄んでいた。


――その瞳が、いつか自分自身さえ「平和」という盤面の駒として捧げる、「勇者」のものであることを、まだ誰も知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ