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第3.5話「祈らなかった日」

 昼過ぎ、村の広場で男が転んだ。

 石につまずき、前に投げ出される。鈍い音とともに膝を打ち、土に血が滲んだ。

 男は、しばらく動かなかった。

 痛みを測るように息を整え、それからゆっくりと立ち上がる。


 誰も、空を見上げなかった。

「大丈夫ですか?」

 通りかかった女が声をかけ、布を差し出す。

 男はそれを受け取り、黙って膝に巻いた。


 少女は屋根の上から、その一連を見下ろしていた。

 “直せる”と理解している。骨のずれも、痛覚の誤作動も、即座に修復可能だ。 


 ――呼ばれなかった。


 視線が一瞬、封印場所へと、向かう。

 扉は閉ざされていない。鐘も、壊れてはいない。

 祈ることは、可能だった。それでも、誰も向かわない。


 空が暗くなり、遠くで雷が鳴った。

 空が低く唸り、家々の壁がわずかに震える。

 かつてなら、人々は集まり、言葉を重ね、安心を求めた。


 今日は違う。

 灯りは消え、村は早く眠りについた。

 祈りの声は、ひとつも上がらない。


 少女は腰を下ろし、待ち続けた。

 祈り。願い。理由。

 それらを迎えるはずの夜は、静かなままだった。


 背後で、微かに気配を感じる。

 監視でも、指示でもない。

 ただ、そこに在る。

 村の静けさに、少女は違和感を覚えた。


 翌朝、畑の端で子供が泣いた。

 走って転び、泥にまみれている。


 母親は駆け寄り、抱き上げた。服で頬を拭い、背中を叩く。

「ほら、歩ける」

 子供は、鼻をすすり、もう一度地面に足をつけた。


 少女は、その様子を記録する。

 修復はしていない。異常値も検出されない。

 人間は、自分で立ち上がっている。


 記録の最後に、短い注釈を入れる。

 ――呼び出し、なし。


 少女は、その言葉を何度か思い返した。

 意味は理解できる。だが、胸の奥に残る違和感の正体がわからない。


 その日、少女の手は一度も動かなかった。


 日が傾く頃、少女はふと立ち上がった。

 足は、自然にかつて自分が封印されていた場所へと、向かっていた。

 封印は解かれている。だが、そこは静かで、誰も呼ばない場所だった。


 少女は腰を下ろし、目を閉じる。

 外にいる理由も、誰に期待されているわけでもないことも、理解している。

 ただ、身体が自然に選んだ道だった。


 微かな風が撫でた。

 かつての場所は、変わらずそこにあった。


 背後の気配がわずかに揺れる。

 そこで誰かが見ている。


 少女は、その静けさを記録に留めた。

 ――外にいる必要はあるのか。


 答えは返らない。

 それでも、胸の奥がざわつく。

 選ばれなかった日々の重みを、少女は初めて自分の体で感じた。

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