第3話「神を疑う者」
数日後、村は異様なほど静かになっていた。
笑い声も、喧嘩も、泣き声さえも聞こえない。
司祭エルドは、村の入り口で立ち止まった。人の気配は、確かにある。
畑は耕され、家の戸は開き、煙突からは細い煙も上がっている。
それなのに――
“人がいる”という確信だけが、どこにもなかった。
村全体が、呼吸をやめているようだった。
人々は無言で作業を続けていた。
鍬を振り下ろす角度、歩幅、立ち止まる位置。
本来ばらつくはずの動きが、揃いすぎている。
そこに、偶然の余地はなかった。
荷車の車輪が、軋みながら傾く。
今にも外れそうな角度だ。
その下を、幼い子供が通り抜ける。
誰も、声を上げなかった。
エルドは、反射的に手を伸ばしていた。
祈りの言葉は浮かばない。
神の名も、教義も、頭にはなかった。
ただ、「危ない」と理解した身体が、勝手に動いただけだった。
一瞬、時間が引き延ばされたように感じられる。
だが、子供は何事もなかったかのように通り過ぎた。
無表情のまま、前だけを見て。
――生きている。
だが、生きていると言っていいのか。
エルドは息を呑み、隣で作業を続ける男に問いかけた。
「なぜ声を上げない。助けなかったのか」
男は鍬を止めることなく、淡々と答えた。
「危険度を計算していました。今助けると、作業効率が下がります」
「効率のために、子供を?」
声が、震えた。男は首を傾げる。
「作業は、優先順位で動くものです。感情で判断するものではありません」
正確で、合理的で、間違ってはいない。
だが、エルドの胸に、冷たいものが沈んでいく。
(これが、人として“正しい”状態なのか)
その視線の先に、少女がいた。
瓦礫の上に腰を下ろし、埃にまみれた白い衣のまま、村を眺めている。
幼い身体。焦点の合わない目。
自分が見られていることにも、無関心だった。
「……何をしている」
司祭エルドは声を潜めて問いかけた。少女は、ゆっくりと首を傾げる。
「修復をしている」
迷いのない、幼い声。そこに、温度も、色もなかった。
「あなたは、人を救っているつもりですか」
一歩、近づく。
祈りではない。非難でもない。
ただ、確認するための問いだった。
「修復をしている」
同じ言葉が、同じ調子で返ってくる。
胸の奥が、凍りつく。この神は、悪ではない。
誰かを苦しめようとしているわけでも、支配しようとしているわけでもない。
――だからこそ、危険だ。
その夜、村の外れで火事が起きた。
最初に気づいた男は、逃げなかった。
炎との距離を測り、熱を確かめ、その場に立ち尽くす。
「なぜ逃げない!」
エルドの叫びが、夜を裂く。
男は、静かに答えた。
「危険度を計算していました」
理解した瞬間、背筋が凍る。命が、数値に置き換えられている。
それでも、男は動かない。天井が軋み、次の瞬間、瓦礫が崩れ落ちた。
男の姿は、炎の中に消えた。
翌朝。
少女は焼け跡を見下ろし、淡々と記録を残していた。
「恐怖が欠如した場合、生存率は低下する」
それは、初めての修正ログだった。だが、感情を戻す判断は下されない。
戻せば、争いが起きる。怒りが生まれ、悲しみが生まれ、正しさが揺らぐ。
司祭エルドは、その背中を見つめる。
正しさだけで作られた世界は、人が生きるには、あまりにも脆い。
拳を握った。
信仰のためではない。神のためでもない。
生きるために。
その日、司祭エルドは、
初めて――神を疑う者になった。




