第2話「正しい奇跡」
――三日後
男は、生きていた。
正しく言えば、生きている”状態”を保っていた。
高熱は引き、咳は止まり、血を吐かなくなった。
医者は何度も、胸に耳を当て、最後には首を傾げた。
「……異常は、ありません」
その言葉を聞いた瞬間、村人たちは地面に膝をついた。
誰かが泣き、誰かが叫ぶ。
「神様だ……」
「奇跡だ……!」
”神の名”が、何度も空に投げられた。
男はその光景を眺めていた。だが、何も言われなかった。
男は朝、起きる
水を飲み、食事を摂り、畑に出る。夕方になれば帰宅し、床につく。
一連の動作は正確だった。昨日も、一昨日も、誤差はない。
「大丈夫?」
妻がそう尋ねると、男は少しだけ間を置いた。
「問題はない」
穏やかな声だった。妻はそれ以上、何も言えなかった。
子供が庭先で転び、泣き声を上げたときも同じだった。
男はすぐ駆けつける。
抱き上げ、傷を確認して、布を当てる。
手つきは正確で、迷いはない。
泣き止まない子供を見て、男は言った。
「声が大きい。もう直っている」
その言葉に、子供は余計に泣いた。
男はもう一度、繰り返す。
「もう直っている」
村に、静かな不安が広がり始めた。
誰も理由を言葉にしない。ただ、”視線”だけが、少しずつ男を避けるようになる。
“何かが違う”。 だが、誰もそれを言葉にしなかった。
少女は屋根の上から、その様子を見ていた。
少女には、問題が見えなかった。
病は消えている。内臓の動きも、血の巡りも正常だ。
人間として、生きるための機能はすべて揃っている。
それなのに、村人は怯えていた。
まるで、壊れたものを見るような目で。
少女は、人間の視線を気にしない。
「もういいよね、ちゃんと直った」
誰に言うでもなく呟く。
「神様」
声をかけたのは、男の妻だった。
泣き腫らした目で、少女を睨む。
「助けてくれてありがとうございます。でも……」
「でも?」
「あの人、前と違うんです」
少女は少し黙る。
「前?知らない。言われたところは直したよ」
妻は、その言葉の意味を理解できなかった。 理解できなかったからこそ、膝が崩れた。
「……してください」
「なに?」
「返してください」
少女は、その言葉を理解できなかった。
「何を?」
「あの人の気持ちを」
少女は少し黙った。
「それは、直す場所じゃない」
妻は声を上げて泣いた。少女は、その様子を静かに観察する。
「理解できない」
ぽつりと、溢れる。
その夜、少女は封印場所に戻ってきていた。
空気の中に、切り離された感情の残滓が漂っている。
人には見えない。神には重い。
「……増えている」
直せば直すほど、感情は世界に溜まっていく。
少女は、それを問題だとは判断しなかった。
ただひとつ、記録された。
人間は、正しくされることを望まない。




