第1話「祈られなかった神」
少女は、”声”に応えることをやめた。
正確に、いつやめたかは覚えていない。
数百年、数千年か。その区別も、もう意味を持たない。
封印の中で、彼女はそこに在った。
寒くも、暑くもない空間。
時間は均等に削れていき、少女の意識の奥に静かに流れ込む。
人の着物が、建物が変わり、言葉の響きが少しずつ時代に沿って変わる。
変化の速度だけが均一で、退屈に近い静けさが世界を重く覆っていた。
外から声がした。
「か……さま、ど……しか……」
誰かが泣いている。男の声だった。
少女は、少しだけ首を傾げる。
それが人の声だと理解するまでに、一拍かかった。
「神様、どうか……」
声は、祈りの言葉ではなかった。縋りつく独白であり、必死の願いでもあった。
家に残してきた子の名前を呼び、声が震える。
その祈りには、重さと緊張が混じっていた。
少女は、封印の向こうから、その感情の重みを感じ取る。
ただ、反応する気はない。
興味を持ったのは、”声”という音そのものだけだった。
少女がいた世界が、わずかに歪む。声に、興味を持ったからだ。
封印された世界では、拒んでも、全ては少女の視界にある。
人間は、いつも同じ言葉を使う。
「これが最後」
「唯一」
「どうか」
「助けて」
少女は、応えない。
応えない理由を、考えもしない。代わりに、ただ見守る。
声の主の姿が、封印越しに映る。
痩せこけた体。ひび割れた手。胸の奥にある、黒い塊。
それは、病だと少女は理解している。
男は声を振るわせながら祈り続けた。目に浮かぶのは、家族の顔だった。
子供の無垢な笑顔。妻の涙。
どれも、二度と交わらないかもしれない未来の影。
男は、そんな影に怯えていた。
「まだ、家族が……」
男の祈りは、声にならない言葉になり、空気に溶けて行った。
少女は、指先ひとつでその黒い塊を消せることを理解、していた。
それは”奇跡”と呼ばれる行為であり、かつて少女が経験していたことでもあった。
だが、少女は動かない。
助けない理由もないし、助ける理由もない。
男は、祈りを終える。
何度も例を言い、何度も頭を下げ、やがて去っていった。
人間はいつも、そうだ。
応えてもいないし、見ているかどうかもわからない存在に縋る。
それでも、心のどこかで”救われる”と信じたくなる。
少女は、興味をなくした。声そのものにしか、関心はなかった。
祈りの重さも、絶望も、煩わしい存在だった。
少女は、男の未来を見た。ほんの、わずかだ。
三日後、彼は死ぬ。苦しみながら。家族は泣き、村は神を呪う。
少女には、何も届かない。束をしたわけでも、叶えると繋げたわけでもないのに。
「そう」
人間は、いつもそうだ。
都合のいい解釈だけを残し、勝手に期待し、勝手に裏切られたと思い込む。
少女はそう呟いた。声はとても、幼い。
人間なら、まだ母親の近くで眠っているだろう年頃の声だった。
昔は、祈られると力が満ちた。
今は、違う。祈りは重い。
受け取るも拒むも、同じだけ重かった。
“叶えない”選択をしたという事実だけが、静かに積み重なっていく。
少女は、封印に触れた。
少女がいた世界に、ヒビが入る。音を立てて世界が崩れ始めた。
外に出る必要がある。理由はない。指名でも、希望でもない。
ただ、祈られ続けることが、煩わしかっただけだ。
(こんなこと、思いもしなかった……)
久しぶりに見る空は、やけに眩しかった。
少女は目を細めない。
光を拒まない代わりに、受け取らない。その瞳には、何も映らなかった。
「かみ……さま?」
気づけば、少女は何もない空間から男の家族の目の前に立っていた。
恐怖と期待が入り混じった声。震える手。縋るような視線。
少女の視線は、焦点が合わない。
「あなた……救って、くれますか?」
少女は、少し考え、首を横に振った。
「わからない」
それは、嘘ではなかった。
少女はまだ、”救う”という行為の意味を、知らなかった。
だが、その問いだけは、初めて――彼女の中で、消えなかった。




