第九幕:新天地
やあ、君。どんなに絶望に追いやられても、なんどか場所を変えたら自分にあった環境に辿り着くことがある。
でも、これは実力のある人間の場合だけだ。実力もついてない内に、その場から逃げ出しても救いなんてない。
苦しみの中で得たものは、きっと君を救ってくれるだろう。
安易な選択は、ボクが言わなくてもーー君は結末を知っているはずさ。
1592年の頃だ。8月の始めに、ガリレオは夜逃げ同然の逃亡を開始した。
場所はヴェネツィア共和国へ。
彼は研究資料をカバンに押し込んで、馬車に乗り込んだ。月のない夜だった。
リボルノ港の一件で、教師陣からは冷たい目、学生たちからもメディチ家に泥を塗ったという理由で敬遠されていた。
この港でのエピソードは、脚色されて広まりすぎたんだ。
ガリレオは貴族のグイドバルド・デル・モンテに、ピサ大学からパドヴァ大学へと雇ってもらうと話した。
研究成果などを後で送ることで納得した。
「成果が得られなきゃ、故郷には戻れないぞ。ボクはーーなんとしても生きなきゃならない。」
彼はカバンを大切そうに撫でた。
この中には教え子たちに実験させて検証させたレポートが詰め込められていた。
アリストテレスの理論が正しいのか、生徒たちにやらせた。タダでね。
重い球と軽い球は同時に落ちるのか、振り子の動き、レンズの形を湾曲させて物体を拡大させるにはーーなどね。
中には鍛冶屋の工房まで行かせて、作らせたりもした。金がかかっていた。そこまでやらせて、ガリレオがーーもし医学生になると言ったら、ペテン師と言われるのは間違いじゃなかった。
学びのためと言って、唆したんだ。
彼の生徒の一人であるジョヴァンニは、一緒に来てくれなかった。
「オレを信じて」
そんな彼の言葉だけが、ガリレオの胸の中に残っていた。
ピサ内で侮辱した貴公子と親しげにしたら、彼らの秘密を露呈させてしまうことになる。一人でやらなきゃいけない。
馬車での旅は長いものだった。
空腹とストレスで何度も吐きそうになっていた。特に語り部であるボクが。
ピサからフィレンツェの移動には馬車を使った。なるべく太陽に照らされたくなかったし、人目につきたくなかった。
そうさ。馬車の中はガリレオと二人っきり。
息苦しくなって、馬車の外に出たら、その場に置いてかれる。
金のないガリレオは安い宿屋で休み、また馬車に乗り込んでは作戦を立てていた。ボローニャの山越えが最も苦痛だ。
馬車が使えないし、雨が降って地面がぬかるんだら、もう立ち往生さ。
だから馬貸しを雇って山を越えるしかない。ガリレオは馬を三頭借りた。
馬貸しと荷物を乗せる用の馬、それとガリレオが乗る馬だ。
「二頭でいい。」とガリレオは言ったが、馬貸しは「水と食料が必要だ。山の天気は変わりやすい。大雨になったら、しばらくは様子を見なきゃいけないから。三頭だ。」と言われた。
ボクは荷物用の馬に腰掛けた。乗り心地は聞かないでほしい。
途中、ガリレオが体調を崩した。彼のお腹は笛のようになっていたし、それで余計に旅を遅らせた。その分、費用もかかった。
山を越えた後は、水路が待ち構えていた。船を何度も乗り換えて、新天地を想うんだ。生きて、新しい場所で活躍するんだと夢見ながらさ。
そんなこんなで、8月の後半頃にガリレオはヴェネツィアについた。
ガリレオは、ここにしばらく滞在した。数学教師としての仕事を得られるようにヴェネツィア共和国の元老院から許可をもらわなきゃいけなかった。
彼は推薦状やプレゼン用の資料も持っていた。元老院の許可は簡単にはおりなかった。宿屋で寝転がるだけで時間を潰したら、彼は飢え死にすることになる。
遠くまで離れたが、逃れられない。
トスカーナ地方には持参金と追手が手を伸ばせる範囲だった。
ガリレイ家の長男としての責務を放棄したら、彼には未来なんてない。
「家族にもーーいずれ、連絡しなきゃいけない。指名手配されて、賞金首にされるなんてゴメンだ。」
彼は宿の部屋の中で必死になって考えたんだ。この土地でのパトロンが必要だってね。
裕福な金持ちの集まるところに顔を出して、アピールする方がいい。
彼は空腹を忘れるために、近くのサロンに飛び込むことにした。
そこでピサ大学で考え出した数学を楽しむための方法を見せることにした。
しかしサロンでは、うす汚いガリレオは歓迎されなかった。
むしろ、入らせてもらえなかった。
夜な夜なサロンがある屋敷に行ったのに、門番に追い返された。
「ボクはピサからここまできた。今は旅人のなりをしているが、いずれは数学教師として君らに本当の知性を見せよう。」
そう言って、彼は宿に戻った。
身なりを整えることにした。
次の日、ピサ大学で使っていた権威あるガウンを着て、サロンの場所へと行った。今回は顔パスで通れた。
まったく。同じ人間なのに服一枚が明暗を分けるんだ。ガウン一枚で「泥棒」から「賢者」に化ける。滑稽だろ?
ここは貴族ドメニコ・モロジーニの邸宅だ。ガリレオは、サロンにある銀の皿に乗せられた料理をしばらく楽しめていた。コソ泥のようにね。
時折、サロンの出席者たちがガリレオを見て目を細めた。
『彼は誰だ?』と目が語っていた。
その視線に応えるようにして、ガリレオは部屋の中央へと移動した。
「お初にお目にかかります。
遠くトスカーナ地方のフィレンツェ公国のピサ大学で名誉数学教師をしているガリレオ・ガリレイと申します。
あなた方に、数学がいかに役立つモノなのか、この場を借りてプレゼンさせていただきたい。」と堂々と言い切った。
こうして第九幕は、サロンでの演説により幕を閉じる。




