第四幕:実利の真理
やあ、君。
ガリレオの父ヴィンチェンツォの瞳に灯った、かつての誇り。
ほとばしる情熱。
それこそが、父への憧れ。
ガリレオにとっての唯一の免罪符だったのかもしれない。
『家族』という重力に縛られながらも、彼はついに自分の翼を、論文を外の世界へと放つ決心をしたのさ。
家の北側の窓際に座っている父は、ジッとガリレオを見つめていた。
彼は思い出したかのように、口を開いた。
「これはスゴイよ。お前の才能に気づいてやれなかった。
息子よ。お前はやったんだ。
あの美しい世界から、これを持ち帰ったんだ。誇るべきだーー。
・・・・・・お前にーーもっと教えてやれば良かった。」
父は、しばらく沈黙を楽しんでいた。
ガリレオがいなければ、彼は子供のように泣いていたかもしれないね。
それは喜びというより、自分が捨ててきた夢の残骸を、息子の手の中に見つけてしまった……そんな喪失感のせいさ。
真理とは美しい。
だけど、それだけじゃパンは買えない。ガリレオが自分の数学を、金持ちを喜ばせる『魔法の秤』に仕立てあげなきゃならないことが悲しかったんだ。
「貴族の連中を教えよう。
こういうのが好きな方々だ。
彼らにこの論文を見せたら、誰かが応えてくださるだろう。」と父はポツリポツリと呟いた。
それから数日が過ぎた。家の手伝いをしていたガリレオのもとに、とある貴族の使用人の男が現れた。
「ガリレイ家のガリレオさまですね?」と彼はは尋ねた。ガリレオは敬称を付けられることに慣れてなかった。
一瞬の動揺を見せたが、彼は瞬時にそれを飲み込んだ。背筋を伸ばし、まるで最初から招待を予期していたかのような、傲慢なまでの静寂で応えたのさ。……いいかい、軍師の初陣は、この沈黙から始まったんだ。
使用人は礼儀正しく頭を下げた。
「ガリレオさま。わたくしの主人がお会いしたいと申しております。ぜひ一緒に、ついてきてもらえないでしょうかーー」とね。
そしてガリレオはとある屋敷へと連れてかれた。そこで彼が案内された応接間は、まるで大学のホールを縮小したようなものだった。ガリレオの住んでいる家が、ドールハウスのように思えるぐらいに初手から圧倒された。天井にも美術画が描かれていて、壁にも何点かの絵が高そうな木枠に収められていた。
足下を見た。幾何学模様が描かれた床が広がっていた。ガリレオは一瞬、その模様の対称性を計算しようとした。
が、すぐにやめた。この贅沢な静寂は、数式で解き明かすにはーーあまりに重すぎたからだ。
部屋の中の家具、中央に置かれたテーブル。
そこには、ガリレオが送った論文の冊子が広げられていた。向かい合うようにして革張りのソファがあった。
すぐそばに、ビロードの服を身にまとった気品ある中年の男性がいた。
黒髪を後ろにまとめていた。額は広くワシ鼻で顎は鋭く尖っていて、唇の上には切り揃えられたヒゲがあった。彼の指は白く、長く美しかった。ガリレオの職人のような太い指とは違ってね。
「ようこそ、我が屋敷へ。呼びつけて、すまない。気を悪くしてなければいいがーー」と男は言った。
「お気になさらずに。閣下。
私めはガリレオ・ガリレイ。かつて閣下と同じように貴族の栄誉にあずかった名門の一つガリレイの名に連なる者です。しかし時代の荒波には勝てず、このような見苦しい姿をお見せすることになりました。今回、私めに謁見の機会をお与えくださったことに感謝させてください。」
このようにガリレオは貴族と対した時のセリフをなんども練習していた。
低く見せ過ぎては良くないとも父からアドバイスをもらっていたからだ。
「なるほど。口も達者。なおさらーーいい。」と男は小さく呟いた。
それから柔和な微笑みを向けた。
「吾輩はグイドバルド・デル・モンテ。トスカーナ大公の縁者である。
さあ挨拶ごっこは、この辺にして本題に入ろうではないか、ガリレオくん。」
グイドバルドは優雅に腕を動かすと、テーブルに置いてあった冊子を手に取った。
「君の送った論文に目を通した。
画期的な見解だよ。まさか先人のやり口にケチをつける者が現れるとは思わなかった。」と言うと彼は意地悪く笑った。
「アルキメデスがこいつを目にしたら、お前は彼に嫌われるかもしれないぞ。」と言うと、彼は黙っているガリレオに再び目を向けた。
「死者は生者には勝てない。アルキメデスが私めを嫌う?
なら好き勝手に言わせておけばいいんですーー。
グイドバルド閣下。我々には頭があるのです。
自分で考え発展させられるものが。
先人の教えは、たしかに素晴らしいものです。しかし神聖に扱い過ぎたら、我々の頭は覚えるだけのモノに成り下がる。そうではございませんか?」
ガリレオの問いかけに一瞬だけ、グイドバルドの頬が引きつった。
それから彼の白い指は、震えた。
怒りなのか、喜びなのか分からない。
彼の笑みは静かにはがれ、真剣にガリレオと向かい合おうと言う気持ちになったようだった。
「ガリレオくん。君の論文は絵空事ではなかった。実に有益な結果を見せてくれた。ここに呼んだのは、君と言う人間を吾輩がちょくせつ見たかったからだ。」
そういうと彼は再び微笑んだ。
「君の言う通りだ。死者は死者だ。
吾輩は彼らを尊敬はしているが、言われたままの学び方をしていたら、同じ事の繰り返しだ。
戦場で使い古した策ほど、見破られて痛い目に遭うように。古いものを引き裂くーー君のやり方が今後の未来なのかもしれないなーー」
グイドバルドの台詞にガリレオは応えるかどうか考えていた。
下手に口を出すのは良くないと思ったからだ。
しかし言いたいことを言わないでおくのは、自分の生き方に反すると考え直した。
「閣下。私めは医学という煌びやかな将来を捨て、数学という真理を選んだーー世間でいうところの敗北者です。
泥水をすすって生きねばならぬ身に堕ちるしか先はありません。なにとぞ、閣下の白き手で私めを救ってはいただけないものでしょうか?」
グイドバルドは冊子をテーブルに置くと、ガリレオの方へ手を伸ばした。
「握手といこうか。吾輩の軍師よ。
戦場には君の知恵が必要だ。
勝って、勝って、勝ちまくっていこう。君が君である限りーー吾輩は君のパトロンとなろう。喜んで引き受けよう。」
差し出された白き手。
それを掴もうとしたガリレオの視界に、自分の無骨な指が入り込む。
学問に没頭し、生活に追われ、泥をこねるように真理を掘り出してきた、職人のような手だ。
触れ合った瞬間、ガリレオの脳裏には火花が散った。
「ああ、そうだ。ボクはこの手で、この美しい幾何学の世界を、閣下も知らない高みへと引きずり上げてやるんだ」
卑屈な「私め」という仮面の裏側で、この軍師の魂が、初めて本物の産声を上げた。
こうして第四幕は、白き手により幕を閉じる。




