第十二幕:悪趣味な特等席
【第十二幕】
やあ、君。人生は良い時と悪い時がある。
良い時は、家に帰ると誰かがそばにいる。
悪い時は、その誰かから蔑まれて生きなきゃならないことさ。
あんまり親しくなりすぎると、人は互いに遠慮がなくなる。
1592年12月7日の頃だ。パドヴァ大学でガリレオは最初の講義を行なった。
そこで数字が商売だけに限らずに有効的だとアピールした。数学が、物理が、世界を変えられると言ってね。
普段なら嘲笑されるはずだったが、ガリレオは高貴で裕福な連中に根回しをした。
真鍮のコンパスによる為替作業の短縮。ツール制作販売により、パトロンを拡大していた。その金で、工房付きの屋敷を借りた。職人を借りてガリレオの望むようなものを形にできるようにした。
「人体を切り開くだけでは、
到達できない真理がある。
我々は己が中身ばかりを見つめるだけでなく、外の事象をも解剖すべきではないか。その為には、観察と測定が必要だーー!」
パドヴァ大学のホールに響き渡った。
講義ホールに響き渡った拍手とどよめき。
それは真理への感動というよりは、新しい「金と力」の匂いへの期待だったかもしれない。ガリレオは汗を拭い、教壇から降りた。
近くに控えていたパドヴァ大学の軍顧問のジョヴァンニ・デ・メディチはガリレオに微笑みかけた。
「お見事です。先生。我々に必要なものは、まさにそれでしょう。神に任せていたことを、今こそ人の手でーー楽しみでたまらないです。また飲みに行きますか?」とガリレオを酒場に誘おうとした。
「ジョヴァンニ。ボクにはやらなきゃいけない事があるんだ。パドヴァ大学に来たことが妹の結婚相手にバレた。
あいつが手紙を送りつけてきてね。
もしかしたら、ここまで乗り込んでくるかもしれない。」それを聞くとジョヴァンニは肩をすくめた。
「先生の代わりにオレが払ってやりたい。でも、そんな事をしたら、活動資金がなくなるーー。」
「気にするなよ。世の中、何が起こるか分からないもんだ。なんとかやるよ。」
屋敷に帰れば、そこには工房の火の匂いと、マリーナ・ガンバがいた。
ヴェネツィアの酒場で出会った時とは違い、彼女は今やガリレオの生活という、巨大な、そして時に扱いづらい車輪を回す主となっていた。
「先生、また大層な演説をしてきたみたいね。」ガリレオは応えない。ただ微笑んだ。そんな彼を彼女は小憎らしそうに見てた。
「でも、真理を解剖する前に、職人たちへの給料と、今夜のパンの代金を計算してちょうだい。あなたの真鍮の定規は、そういう細かい数字も出してくれるんでしょう?」と冗談混じりに彼女は言ってきた。
マリーナの言葉には、サロンの貴族たちがガリレオに向けるような敬意はない。しかし、彼が手に入れた『外の事象』を解き明かすための自由は、彼女が守るこの泥臭い日常の上に成り立っていた。
彼女の給仕としての経験は、いずれ役に立たせたかった。それに彼女とは結婚をしていない。彼女は持参金をまともに払えなかった。それにガリレオは貧乏でも貴族だし、庶民の彼女では釣り合わなかった。
ガリレオは苦笑しながら、工房の奥へと向かった。
そこには、職人たちが磨き上げた真鍮の部品や、試作段階の計量器が並んでいた。
「寸分違わずにつくってくれたまえ。
君らが作ったものは、これからのパドヴァを、いや世界すら変えるだろうよ。」
彼の呟きは虚空へと飛んだ。
皮肉にも、戦争によって彼の技術は革新的なものとなっていくんだ。
しかも、悲しみを増やしていると気づかない。真鍮のコンパスは、軍用羅針盤と名前を変えて軍船に必需品となった。
神頼みであった大砲の球の軌跡は、測量計算によって再現が可能になったからね。火薬の量も角度も何もかもーー。
人の意思により、オスマン帝国の水軍は蹴散らされていった。甲板を打ち砕き、マストをへしおり、水夫の身体をメチャクチャにした。それを可能にした。
世界は、より残酷で容赦なくなった。
それでもガリレオには、金が必要だった。倫理的なものは、ガリレオの現状を良くしてくれない。
環境を良くしよう、倫理を守ろうなんて言葉は裕福な連中が見る夢幻。
甘い幻想は、必要性に押し除けられるしかない。
誰もが、こんなふざけた世界で生き延びようと足掻いた。特にガリレオの生に対する執着は他よりも強かった。
「ボクは誰よりも優れている。」という強い自尊心が彼を突き動かしていた。
パドヴァ大学では数学と軍事の講義を繰り返し行われた。
パンの計算ではなく、軍に関連するやり方が重要視された。
そこで要望が上がったのは、大砲の着弾により沈んでいく船を、間近でみたいと言うものだった。
紙面を拡大して見る拡大鏡は既にあった。しかし、もっと遠くまで見られる道具がなかった。
自分たちの成果を見たい。
沈む船に悲鳴をあげて海面をバタつかせる水夫たちの様子を見たい。
残酷な願いが満ちていた。
彼らの血にあった死を娯楽とする性質が、新たな形を求めた。
パドヴァ大学の講義室には、硝煙の匂いを知らぬ貴族たちが集まっていた。
彼らにとって、ガリレオの計算式で沈むオスマンの船は、あの劇場で演じられる悲劇よりも刺激的な『出し物』だった。
「先生、あなたの計算が正しいのは分かった。だが、肝心の『果実』が見えない。海の彼方で、敵がどのように絶望し、マストに縋り付いているのか……それをこの目で見届けたいのだ。」
その残酷な要望に、ガリレオは内心で嘲笑した。彼らが求めているのは科学ではなく、神の視点という名の「特等席」だ。
だが、その歪んだ欲望こそが、次なる黄金を生む。飢えなくて済むんだ。
拡大鏡なら工房にあった。しかし、水平線の向こうにある『死の瞬間』を手の届くところへ引き寄せるには、レンズを重ね、光を飼い慣らす未知の技術が必要だ。
「……遠くを近くに。死を間近に、ですか。承知いたしました。光もまた、測定の対象ですからーー」
ガリレオは自尊心を燃料に、新たな『解剖』の準備を始めた。
それは軍船を沈めるための道具から、人間の限界を超えて『見てはならないもの』を見るための道具への進化。
屋敷の工房で、彼は職人たちに命じた。
「レンズを磨け。屈折を数えろ。
我々は、神の目を盗むのだ。
その火と同じようにーー
真理を人の手に!」
こうして第十二幕は、特等席により幕を閉じる。




