第十一幕:優しき暗殺者
やあ、君。物事には建前と本音がある。
表には裏があるようにさ。
輝きの後ろには影がある。
華やかな成功には失敗がある。
幸運だけで認められることはない。
何がいいたいのかって?
君が成功者を羨み、妬まないように言い聞かせているだけさ。
さてサロンでのガリレオのプレゼンが成功した後、ドメニコと他の貴族は真鍮のソロバンに夢中になっていた。
サロンの入り口にいた軍装に身を包んだジョヴァンニは、ガリレオの方へと少しだけ近づいた。
「ガリレオ先生。お久しぶりです。
先ほどのプレゼン。お見事です。」と静かに話していた。
「ピサ大学のお偉方は、あなたの話を聞くべきでした。彼らがこの事を聞いたら、損をしたと感じるでしょうね。」と苦笑してみせた。
「ジョヴァンニ。どうしてここに?
ボクは、まだ君がピサにいると思っていた。」とガリレオは言った。ジョヴァンニは淡々と応えた。
「実は、例の船の失敗が大公閣下にわかりましてね。オレはピサ大学の連中から学ぶよりも、ヴェネツィア共和国に行く方が身のためだと言われました。」
「なぜだい?」
「ここ、ヴェネツィア共和国はオスマン帝国の海軍との争いが絶えないんです。戦って名誉を残してほしいんでしょう。オレにーー生きてても死んでてもーー」
「どうしてボクに連絡しなかったんだ?」
「そんな事をしたら、オレたちはーーこの場に立っていられなかったでしょう。」彼は剣の柄をギュッと握った。
「ガリレオ先生。ここは華やかな所です。運河が生活の中に組み込まれて、リボルノ港とは違う。だけど残酷なところは変わりがない。むしろ敵が明確な分、厄介かもしれませんね。」
彼は真鍮のソロバンを見た。
「あれは通貨同士を換金するだけに使われるとは限りません。きっと戦いーー殺しのためのものに使われるでしょう。
しかし先生は気になさらないで。
あらゆる開発は、いずれ誰かがしたものです。オレたちに責任なんてない。」
それから彼は目を細めて、ガリレオにこう言った。
「積もる話は山ほどあります。
パドヴァ大学の数学教師の件。
元老院は許可を下すでしょう。
“ポストが空いたんです。”
数学教師のポストが。
ちょうど良かったんだ。
オレらは悪くない。上手くいく。」
彼は繰り返し呟いた。誰かに言っているかのようだった。
入り口の前に彼らはいた。
そこはーーまだ薄暗くて軍装の男の様子を曖昧にしていた。
ガリレオは静かに頷いた。
推薦状も手に入るし、空いたポストにガリレオがおさまるだけだ。
運が良かった?
そうかもしれないね。こういう歴史の裏には必ず影があるんだ。
舞台は華やかな貴族の屋敷から、市民の雑多な酒場の前へと変わった。
ドメニコに真鍮のコンパスを預けて、ガリレオはジョヴァンニ・デ・メディチと話をすることにした。
「先生、ここには美味いワインと、もっと美味い『裏話』がある店があります」
ジョヴァンニは、ガリレオの返事を待たずに酒場の中へと歩き出した。かつての教え子が先を歩き、師であるガリレオがその後を追った。
メディチ家の貴公子は、歩き方すら他の血筋とは違って見えた。コソコソとはせずに、堂々とした身のこなしだった。
そこはヴェネツィアの路地裏。夜になれば街灯は少なかった。
湿り気、かすかな硝煙が混じったような酒場だった。
ジョヴァンニは慣れた手つきで金貨を放り投げ、一番強い酒を二つ注文した。その金貨は、トスカーナの物ではない。ヴェネツィア共和国からジョヴァンニが『軍事顧問』として支払われた。
血と知略の対価だ。
「今日は酔いましょう。オレの金で飲んでください。
先生の『幸運』への祝杯です。」
彼は皮肉たっぷりにガリレオに言った。
「ああ。君に出会えたことが、幸運だったなーー」とガリレオは呟いた。
若い女の給仕が彼らに酒ーワインを運んできた。血のように赤く、これから悪魔の契約でも求められる。そんな感じだ。
羊皮紙の代わりに、ガリレオとジョヴァンニに肉体に刻まれるんだ。
「パドヴァでは、オレがあなたの隣で『軍事』の講義を補佐することになる。皮肉なものですね、数学と暴力が同じ教壇に立つなんて」
ガリレオは、ジョヴァンニが差し出した杯を見つめた。
この酒を飲み干せば、自分もまた――彼が手を染めた「影」の一部になる。
だが、ガリレオは迷わなかった。
喉を焼く酒の熱さこそが、今、ヴェネツィアで生き残るための現実感だったからだ。
酒を飲むと気持ちが大きくなった。
特にタダ酒ともなればね。
彼は給仕の女性を呼んで、安い酒を持ってきてと頼んだ。
「ジョヴァンニ。君が軍事で補佐することが気にかかる。ここでは戦争が身近なのかい?」
「もちろん。ここヴェネツィアは外敵に晒されている。最大の敵はオスマン帝国だね。彼らはーーたびたびヴェネツィアへ戦を仕掛けてくる。海の上でね。」
彼は高い酒を給仕に頼んだ。
「この海での戦いが子どものお遊び。
砲弾をムダに打ちまくり、当たったら水夫の腕が良くて、外れたら運が悪いという現状。
水夫の腕と運だけが戦場を支配してる。情けない事とは思いませんか。
オスマン帝国のヤツらを魔法のように沈めちまう方法があればいい。
前にガリレオ先生が見せてくれた実験を、奴らの命で試しましょう。」
ガリレオはジョヴァンニの話をぼんやりと聞いていた。
彼の視線は若き貴公子が話すことよりも、若い女の給仕の後ろ姿を追っていた。木の枝に実った桃のように揺れる尻に惹かれていた。
ジョヴァンニは、その様子に気付き給仕の女を呼びつけた。
それから数枚の銀貨を渡した。
ジョヴァンニはガリレオを見て、微笑んだ。
「ガリレオ先生。オレは用事ができました。この女に後は任せてます。好きに飲んでください。」
そう言うと彼は酒場から出て行った。
ボクも一緒に外へ出た。
ガリレオにとっての夜は長いから。
こうして第十一幕は優しき暗殺者で幕を閉じる。




